唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

舒盧じょ滁和都団練使

2012-07-31 09:54:40 | Weblog
・淮南節度使の舒盧滁和の四州の領域に貞元16年[年]に設置された。
・楊州の西部に位置し淮西呉元濟からの攻撃を防ぐ第二防禦線(第一は壽州観察)であろう。
・観察使ではないので淮南節度使の麾下であるが、使府は不明。
・有名無実であったが新書方鎭表では天祐元年に廃止された。
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利州節度使 利てん閬節度使

2012-07-30 10:40:08 | Weblog
・天復2年[902年]2月西川王建は鳳翔李茂貞麾下の昭武節度使李繼忠を逐い利州を陥した。
建は劍州刺史王宗偉を利州制置使とした。
・11月茂貞麾下閬州防御使李繼雍等は所部兵を率いて王建に附いた。
・天復3年新書方鎭表では利州節度使が置かれた。王建支配下である。
・天祐3年[906年]利・閬・榮・果・蓬・通六州をもって利閬節度使となった。王建支配下の組換えである。
前蜀ではこれを昭武軍節度使と号したようである。
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鳳州 興鳳都団練守捉使 感義軍節度使 昭武軍節度使

2012-07-29 10:31:05 | Weblog
・乾元2年[759年]鳳州に興鳳都団練守捉使が置かれた。新書方鎭表では上元元年[760年]に鳳翔府に興鳳隴節度使が置か
れているのでその下部に属し、成都への街道防禦と吐蕃対策の目的で設置されたのであろう。
・独立した方鎭ではないのでわかる使名は建中年間の嚴震程度である。
・廣徳元年[763年]より山西管轄となり唐末の光啓元年[885年]防禦使となった。
・光啓2年[886年]宦官田令孜に奉ぜられて僖宗皇帝は興元府に奔り、邠寧朱玫はこれを攻撃した。正月興鳳に感義軍を置き、
楊晟を節度使として散關を守らせた。
・5月楊晟は敗北し、興鳳二州は朱玫が占領した。
・9月金吾將軍滿存等は興州、12月鳳州を回復し存は鳳州防禦使となった。
・文徳元年[891年]7月鳳州を節度府とし,鳳興利三州を領し、存を使相とした。
・景福元年[892年]7月鳳翔李茂貞は存を逐い興鳳を占拠した。
・乾寧4年[897年]3月感義節度は昭武軍節度となり、前静難節度使蘇文建が移った。これは茂貞が静難(邠寧)を占有するための移鎭とみられる。
・天復2年[902年]西川王建は利州を陥し,昭武節度使李繼忠は鳳翔へ奔った。劍州刺史王宗偉が利州制置使となり利州は分離された。
・その後、昭武は茂貞麾下であったか、王建麾下であったかは判然としない。
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豫許汝節度使 蔡汝節度使

2012-07-28 09:44:33 | Weblog
・乾元元年[758年]淮西節度より分離して豫許汝節度使が置かれた。安慶緒が放棄した後の治安維持が目的かもしれない。
・乾元2年4月興平節度使李奐が兼任した。
・寶應元年[762年]豫州は代宗皇帝の名を避けて蔡州と改名し、蔡汝節度使となる。許州は淮西管轄に戻った。
・その後蔡汝節度使の任命はみられない。淮西李忠臣が兼任していたのではないかと推定する。
・大暦8年[773年]忠臣が蔡州に移治して正式に蔡汝節度は廃止される。
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商州 興平節度使 武關内外防禦観察使

2012-07-27 09:05:57 | Weblog
・至徳元年[756年]に京師への南の進入路の武關を防禦するために金商均房の四州を領州として設置された。
・李奐が初代節度使であるが、奐の来歴は不明(安禄山の乱で起義した河間の李奐は捕らえられ死んだはず)
・乾元2年[759年]諸将と共に鄴城に安慶緒を包囲するが、史思明の来寇に大敗して奔る。
・4月史思明防禦のために豫許汝節度使を兼任した。
・上元2年[761年]奐は東川節度使へ移り興平節度使は廃止され武關内外防禦観察使となったが観察使は不明。
・翌寶應元年[762年]廃止されて、金商は京畿節度、均房は山東節度へ移管された。
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変な記事が紛れ込んでいました

2012-07-25 10:00:57 | Weblog

ブログを見てびっくりしました。

他の人の記事が紛れ込んだみたいで、なんということか?

早速削除しましたが・・・・・

こんなことがあるのですね。

 

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廬州 勝軍節度使

2012-07-24 13:48:34 | Weblog
・新書方鎭表には記載されていない。
・廬州は中和3年[年]淮南楊行密が自立した土地であり、
景福2年[年]に蔡儔より奪回した後も拠点としていた。
・天復3年ここに勝軍節度を私設し、盧・滁州を管轄させた。
・最初の節度使は不明であるが、天祐2年には劉威であり、
4年に鎭南軍節度へ移った。
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晉州 晉慈都団練観察使 保義軍節度使

2012-07-23 10:09:48 | Weblog
・長慶2年[822年]無能な穆宗皇帝・宰相の失政により幽州朱克融・成徳王廷湊が反し、河北が再び失われた時、
成徳將李寰は博野城を守り廷湊の攻撃に屈しなかった。廷湊を征討できない唐朝は寰を忻州刺史に任
じて脱出させることしかできなかった。
・9月寰を晉州刺史晉慈都団練観察使とした。
・長慶3年5月晉慈観察使を保義軍節度とした。
・太和元年[827年]11月寰は横海節度使として李同捷征討にあたり、晉慈節度使は廃止されて河中に統合された。
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晉州 晉慈隰都防禦観察使

2012-07-22 10:57:27 | Weblog
・兵部尚書崔漢衡は吐蕃との外交に従事していたが、貞元3年[年]閏5月水の會盟において吐蕃の背信に
会い捕らえら、8月にやっと還る人が出来た。
・貞元4年7月康日知のあと、晉慈隰観察使となり、その後防禦使を加えられた。河中は南部蒲絳を渾瑊、
北部晉慈隰を漢衡に分割されたことになる。
・貞元11年漢衡は卒し、文官の姚齊梧-崔穆・韋武・韋丹と嗣ぎ、元和2年廃止されて河中に統合された。
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晉州 晉慈隰節度使 同州奉誠軍節度使

2012-07-21 10:40:01 | Weblog
・新書方鎭表では興元元年晉慈隰節度使を晉州に置く
・成徳李惟岳の乱においてその將趙州刺史康日知はいち早く帰順し深趙都団練観察使となった。
・しかし深州を求める幽州朱滔が反し、日知は敵中孤立し趙州に籠城した。
・興元元年[784年]正月王武俊が帰国し恒冀深趙四州を与えることになり、日知は同州刺史
奉誠軍節度使が与えられた。しかし同州は李懷光の支配下にあり、日知も趙州に籠城したままであった。
・8月河東馬燧に晉慈隰三州[李懷光下]が与えられたが、燧は日知にこれを譲り、晉慈隰節度使が成立した。
・貞元2年[786年]頃日知は卒し、節度使は廃された。
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れい澧じょ漵都団練使

2012-07-20 10:09:53 | Weblog
・乾元2年[759年]山東で軍乱が起き、乱將張嘉延は荊南を襲った。
文官の節度使杜鴻漸は鎭を棄てて逃げ、配下の官員も逃散した。
・そのため荊南節度使は崩壊し、江北の蘷峽節度と江南の澧漵三州に分割して
管理されることになった。治所は澧州である。
・観察を伴わない方鎭のため独立したものではなく、誰が任命されたのかは判然としない
・上元元年[760年]乱の鎮定後廃止され荊南節度の管轄に戻った。
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朗州 武貞軍節度使

2012-07-19 12:09:17 | Weblog
・西川高駢が一時荊南節度使となった時[すぐ鎭海→淮南に移鎭]武陵蠻雷滿を牙將とし蠻軍を統率させた。
・滿は駢に従い淮南に移ったが逃亡し、中和元年[881年]荊南の州を陥し自立した。
・しばしば江陵や荊南湖南各地を掠奪したが制圧できない唐朝は州留後として慰撫した。
その後もしばしば近隣を掠した。
・光化元年[898年]7月州に武貞軍節度を置き、満を使相として遇した。
・天復元年[901年]12月満は卒し、子彥威が自立した。
・天復3年5月彥威は荊南成汭が淮南楊行密を攻撃した留守を急襲し江陵を焚掠し、そのため汭は敗死した。
・天祐元年[904年]彥威は弟彥恭に逐われた。五代に入り湖南馬殷によって征討されるまで、
荊南・湖南を荒らした。
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洋州 武定軍節度使

2012-07-18 10:11:17 | Weblog
・山西節度使の一州の洋州に置かれた方鎭。
・光啓元年[885年]新書方鎭表では設置されたとされるが不明。
・光啓2年宦官田令孜の失政から、僖宗皇帝は再び京師を棄てて興元に奔った。
邠寧朱玫は新帝を擁立してこれを攻め攻防が続いた。
・光啓3年邠寧將王行瑜が裏切り朱玫が誅せられたことにより、僖宗皇帝は鳳翔まで戻ることが出来た。
・正月皇帝軍の功將李茂貞が領武定軍節度使[赴任しなかったもよう]となった。
・8月茂貞は叛した鳳翔節度使李昌符を隴州に誅して鳳翔節度使に昇進した。
・その後宦官楊復恭の仮子守忠が武帝節度使となった。
・景福元年[892年]8月茂貞に攻められ守忠は敗走した。茂貞領となりその子繼密が占有した。
・天復2年[902年]節度使李思敬が王建に降りその領有するところとなった。
・建配下の王宗綰が節度使となったもよう。
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丹延都団練観察使

2012-07-17 12:52:33 | Weblog
・永泰元年[765年]鄜坊節度使より分離して丹延都団練使となり、大暦元年[766年]には観察使を加えられる。
・朔方留後辛謙が観察使となる。起鎭理由は不明である。
・大暦4年[769年]宦官魚朝恩將周皓が任じられるが、朝恩誅殺のあと、大暦6年[771年]廃止して鄜坊観察へ統合
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韶連りん郴都団練守捉使

2012-07-16 12:16:46 | Weblog
・新書方鎭表では乾元元年[758年]~上元元年[760年]に韶州に韶連郴三州を管轄して置かれた方鎭である。
・実際は廣徳元年[763年]11月宦官廣州市舶司呂太一が節度使張休を逐って自立したことを追討するために
作られたものである。
・山東の軍乱を平定した経験がある饒州刺史韋倫が韶州刺史兼御史中丞韶連郴三州都團練使として起用されたが、
太一の反間に陥れられて解任されたとの記載が旧書・新書にはあるが合わない。
・太一の反乱は比較的短期に鎮定されたようで新たな方鎭が必要であったとは思われない。
・乾元元年9月大食・波斯國兵が廣州を焼き、刺史韋利見を逐った後処理の可能性が高い。
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