貞觀16年頃より太子承乾と魏王泰との暗闘が激しくなり、太宗は魏王を贔屓にし臣下は
争って太子を讒言し、房玄禮・魏徴などの重臣はこれの関わりを避けた。
16.10 宇文士及が死んだ。太宗は士及が佞人であり、隋の叛臣であることを知りなが
ら最後まで近づけていた。
16.12 隋將黨仁弘は唐に歸附し、忠誠を尽くし大きな功績をあげていた。ところが廣
州都督をしていたときに収賄をしていたことを弾劾され死罪にあてられることになった。
太宗はこれを赦そうとし、臣下はこれを諫めて、結局配流にするという猿芝居を演じた。
ようは使い捨てである。
17.2 齊州都督齊王祐が反した。太宗が監視のためにつけていた長史權萬紀に追い込ま
れたためである。萬紀は極めて狷介で細事を糾弾した。齊王は殺害した齊王元吉の妻を
奪って産ました子であり特に圧迫を受けていた。反乱の成算があるわけではなく、17.3
部下に殺害された。
太子承乾は殿舎を厭い、テント暮らしや騎射を好み、叔父漢王と飲酒や狩猟を楽しんで
いた。これは突厥の亜流である鮮卑人としては当然の行動である。しかし漢人に偽装し
た太宗からみれば当てこすりに等しい不愉快な行動で、学問を好む漢人化した魏王を贔
屓にし、待遇を太子同然にした。
17.4 密告により太子を廃し、漢王を殺した。大逆を企てたということだが、実際は追
い込まれた太子が、魏王の襲撃を怖れて自衛した程度のものであったのだろう。太宗は
自ら演じた玄武門之変を想起したことだろう。子育ての失敗で有り太子は殺される事無
く子孫は存続した。
武力がなければ大逆は成立しないので、不平派の将軍侯君集が巻き込まれ誅された。
当然でっちあげに等しいので諸臣への波及はすくなかった。
調べが進むと魏王泰の陰謀が明らかになり、太宗は慚愧することになった。承乾・泰の
叔父である長孫無忌は、有能な呉王恪などが太子立てられることを怖れ、もう一人の甥
である無能な治(高宗)を薦めた。気弱になった太宗はそれを拒めなかった。
争って太子を讒言し、房玄禮・魏徴などの重臣はこれの関わりを避けた。
16.10 宇文士及が死んだ。太宗は士及が佞人であり、隋の叛臣であることを知りなが
ら最後まで近づけていた。
16.12 隋將黨仁弘は唐に歸附し、忠誠を尽くし大きな功績をあげていた。ところが廣
州都督をしていたときに収賄をしていたことを弾劾され死罪にあてられることになった。
太宗はこれを赦そうとし、臣下はこれを諫めて、結局配流にするという猿芝居を演じた。
ようは使い捨てである。
17.2 齊州都督齊王祐が反した。太宗が監視のためにつけていた長史權萬紀に追い込ま
れたためである。萬紀は極めて狷介で細事を糾弾した。齊王は殺害した齊王元吉の妻を
奪って産ました子であり特に圧迫を受けていた。反乱の成算があるわけではなく、17.3
部下に殺害された。
太子承乾は殿舎を厭い、テント暮らしや騎射を好み、叔父漢王と飲酒や狩猟を楽しんで
いた。これは突厥の亜流である鮮卑人としては当然の行動である。しかし漢人に偽装し
た太宗からみれば当てこすりに等しい不愉快な行動で、学問を好む漢人化した魏王を贔
屓にし、待遇を太子同然にした。
17.4 密告により太子を廃し、漢王を殺した。大逆を企てたということだが、実際は追
い込まれた太子が、魏王の襲撃を怖れて自衛した程度のものであったのだろう。太宗は
自ら演じた玄武門之変を想起したことだろう。子育ての失敗で有り太子は殺される事無
く子孫は存続した。
武力がなければ大逆は成立しないので、不平派の将軍侯君集が巻き込まれ誅された。
当然でっちあげに等しいので諸臣への波及はすくなかった。
調べが進むと魏王泰の陰謀が明らかになり、太宗は慚愧することになった。承乾・泰の
叔父である長孫無忌は、有能な呉王恪などが太子立てられることを怖れ、もう一人の甥
である無能な治(高宗)を薦めた。気弱になった太宗はそれを拒めなかった。