唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

名君という偽装メニュ 太宗の履歴から その6 

2014-04-19 09:48:02 | Weblog
貞觀16年頃より太子承乾と魏王泰との暗闘が激しくなり、太宗は魏王を贔屓にし臣下は
争って太子を讒言し、房玄禮・魏徴などの重臣はこれの関わりを避けた。

16.10 宇文士及が死んだ。太宗は士及が佞人であり、隋の叛臣であることを知りなが
ら最後まで近づけていた。

16.12 隋將黨仁弘は唐に歸附し、忠誠を尽くし大きな功績をあげていた。ところが廣
州都督をしていたときに収賄をしていたことを弾劾され死罪にあてられることになった。
太宗はこれを赦そうとし、臣下はこれを諫めて、結局配流にするという猿芝居を演じた。
ようは使い捨てである。

17.2 齊州都督齊王祐が反した。太宗が監視のためにつけていた長史權萬紀に追い込ま
れたためである。萬紀は極めて狷介で細事を糾弾した。齊王は殺害した齊王元吉の妻を
奪って産ました子であり特に圧迫を受けていた。反乱の成算があるわけではなく、17.3
部下に殺害された。

太子承乾は殿舎を厭い、テント暮らしや騎射を好み、叔父漢王と飲酒や狩猟を楽しんで
いた。これは突厥の亜流である鮮卑人としては当然の行動である。しかし漢人に偽装し
た太宗からみれば当てこすりに等しい不愉快な行動で、学問を好む漢人化した魏王を贔
屓にし、待遇を太子同然にした。

17.4 密告により太子を廃し、漢王を殺した。大逆を企てたということだが、実際は追
い込まれた太子が、魏王の襲撃を怖れて自衛した程度のものであったのだろう。太宗は
自ら演じた玄武門之変を想起したことだろう。子育ての失敗で有り太子は殺される事無
く子孫は存続した。
武力がなければ大逆は成立しないので、不平派の将軍侯君集が巻き込まれ誅された。
当然でっちあげに等しいので諸臣への波及はすくなかった。

調べが進むと魏王泰の陰謀が明らかになり、太宗は慚愧することになった。承乾・泰の
叔父である長孫無忌は、有能な呉王恪などが太子立てられることを怖れ、もう一人の甥
である無能な治(高宗)を薦めた。気弱になった太宗はそれを拒めなかった。
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名君という偽装メニュ 太宗の履歴から その5 

2014-04-16 17:16:34 | Weblog
その後、貞觀十年頃までは安定していたが、太宗は父の高祖の死後、父と同じ過ちを
繰り返すことになった。皇太子に承乾をつけながら、弟の魏王泰の才を喜び特別扱い
を行うことである。兄建成と自分との闘争を忘れたようである。
正史では承乾にいろいろ不法があったことが記録されるが、これは後の理由付けと思
える。太宗の代理として太子に聴政させたところ、見事に処理したとの記述もあり、
それなりに有能な人物であったことは間違いない。

10.6 母である長孫皇后崩御  これにより承乾を庇える人がいなくなった。

11.6「詔荊州都督荊王元景等二十一王所任刺史,鹹令子孫世襲。」
「以功臣長孫無忌等十四人為刺史,亦令世襲,非有大故,無得黜免。」
なにを思い惑ったのか、封建制への復帰を図った。35人の子孫・功臣に各州を世襲統
治するという馬鹿げた治策を思いついたようである。統治者としては無能な幼児や武
臣に分与しても御機嫌取りにしかならない。
13.2 うまくいかないため廃止する。

12.1「《氏族志》成,分為九等。士廉等以黄門侍郎崔民幹為第一。太宗于是以皇族為首,
外戚次之。」
氏族を公正に分類すると、蕃族である鮮卑の末裔である「李氏」は低い地位でしかなか
った。太宗は皇族をトップとして、同じく蕃族出身の長孫氏や竇氏を上位とした。
これはもちろん不当なものだが、関東に跋扈する豪族対策としてはしかたがないものか
もしれない。この後も婚姻制限など抑圧策を強めていく。

14.12 侯君集が高昌國を滅ぼした。太宗はいつもの癖を出し、私的な掠奪を弾劾させ
その功績を腐した。君集はこれにより不満を持ち太子につくようになった。


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