唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

高霞寓伝

2019-05-19 10:23:03 | Weblog
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高霞寓伝
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霞寓は幽州范陽人。

祖仙、父棲鶴は孝をもって有名。

霞寓は春秋や兵法を学び、権謀術数に通じていると大言していた。

長武城使高崇文に仕え猶子になり将となる。

西川劉闢の反に従軍し、兼御史大夫。
元和元年六月.鹿頭城を降し、闢将李文悅、仇良輔を捕らえた。

九月.また闢を羊灌に捕らえ、彭州刺史。

崇文に代わり長武城使.封感義郡王。

元和中.左威衛將軍として宦官吐突承璀に従い王承宗を討つ,諸軍の敗北の中で健闘。
加左散騎常侍。昭義盧從史の罷免時の軍乱を抑える。

豐州刺史三城都團練防禦使。
加檢校工部尚書。

右羽林大將軍/将軍。
  
元和十年十月.淮西吳元濟征討時、唐州刺史唐鄧隋節度使として先鋒となる。

しかし霞寓は勇敢であったが知謀乏しく、十一年六月.猪突猛進して鐵城に大敗。

山東李遜に責任転嫁したが、七月.貶歸州刺史。

宦官に贈賄して右衛大將軍/左衛将軍に戻る。

十三年九月.振武節度使。
吐蕃の鹽豐来寇を防ぐ。

左武衛/右衛大將軍。

長慶元年三月.檢校工部尚書邠寧節度使
諌官達は任命に反対した。

檢校司徒に至る。

三年.加檢校右僕射。

四年.加検校司空、また検校司徒。

寶曆二年四月.疾により辞し、検校司徒右金吾衛大將軍となるが、途次に卒した。年五十。贈太保。
兵士より昇進、下品で教養無く自尊。宦官と結び言辞不遜であった。
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薛嵩伝

2019-05-18 09:28:30 | Weblog
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薛嵩伝
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嵩は絳州萬泉の人。

祖仁貴、父楚玉[平盧軍節度使]とも将軍として有功。

嵩は武官の名門であり蔭位で任官したが、放蕩し無学であり、騎射に通じた。

安史の賊党に属し活躍し

乾元元年.安慶緒の使いとして史思明の蹶起を促す。

史朝義下では相州[鄴郡節度使]を守る。

寶應元年十一月.朝義が敗走すると、副元帥僕固懷恩に降り相州を安堵される。

二年正月.檢校刑部尚書相州刺史充相衛邢洺貝磁六州節度觀察使となる。

治政に勤め復興の実をあげ稱される。

大曆初、封高平郡王實封二百戶。相衛を昭義軍と賜號される。

三年閏六月.檢校右僕射。改封平陽郡王。

大歷八年正月/七年年正月卒。贈太保。
蹴踘を好んだ。
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劉沔伝

2019-05-17 10:09:06 | Weblog
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劉沔伝
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沔、徐州彭城人で字は子汪。

父廷珍は左驍衛大將軍東陽郡王。

沔は父を早く失い振武軍に入る。

節度使范希朝は牙將とし、将来自分の後を継ぐ人材と評価した。

忠武李光顏の先鋒將となる。驍銳で騎射を善くする。

元和末,淮西吳元濟の強兵と接戦し勇名を轟かす。

淮蔡が平定すると、光顏に従い入朝し神策将となり、歷三將軍。

宝暦.鹽州刺史

天德軍防御使、邊防に功績があったという。

太和末に右神策大將軍。

太和九年六月.涇原節度使に進む。

九月.檢校右散騎常侍單于大都護御史大夫振武麟勝節度使に転じる。

開成三年/二年七月.突厥の侵攻を大破し、都護府の西北四壘を築く。
檢校戶部尚書.彭城郡開國公食邑二千戸。

武宗立,檢校尚書左/右僕射。

五年十月.回鶻帝国が崩壊し残党の天德軍侵攻を撃退。

八月/三月.又回鶻が侵攻し太原、振武を寇掠。
李拭が北邊を巡視し沔を推薦し、檢校尚書左/右僕射太原尹北京留守河東節度兼招撫回鶻使/回紇南面招討使となった。

會昌二年七月.嵐州人田滿川が據郡叛,沔が誅する。
回鶻の一部が歸附し太原に撫す。

九月.兼招換回鶻使

三年二月.雁門關に屯して雲州に回鶻を大破し、太和公主を奪回した。
檢校司空。進金紫光祿大夫,賜一子官。
また残党を逐い、滹沱河に殲滅した。

昭義劉稹が自立すると南討し榆社に屯した。

十月.しかし回鶻の戦功で幽州節度張仲武と対立していたため、
憂慮した唐朝は檢校司空兼滑州刺史御史大夫充義成軍節度鄭滑濮觀察等使に移した。

四年三月.征討使忠武王宰がはかばかしく進軍しなかったので、
宰相李德裕は沔に義成軍を率いて河陽節度使とし、萬善に進ませた。
[河東節度充潞府北面招討使になったという説もある]

稹が平定され、檢校司徒忠武節度使。

六年二月/五年.病により辞して太子少保/太保、太子太傅/太保致仕。

卒時、年六十五,贈司徒。
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田神功伝

2019-05-16 19:05:51 | Weblog
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田神功伝
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神功は冀州南宮の人。

家は貧しく、天寶末に縣吏となる。

安禄山の反軍に属し平盧兵馬使に進むが、麾下とともに歸朝し平盧兵馬使。

至德二年正月.兵馬使董秦に従い平原.樂安郡を陥し、相州を攻める。

乾元二年九月.陳留を守備するが、許叔冀、董秦とともに史思明に降る。

思明は南德信や劉從諫と共に江淮に侵攻させるが裏切ってまた唐朝につく。

上元元年六月.鴻臚卿平盧節度都知兵馬使。
鄭州に賊を破る。

賊将敬釭を鄆州に攻めるが勝てず。

上元元年十二月.劉展が淮南浙江を荒らすと、淮南節度使鄧景山の求援を受けた。
喜んで富裕な淮南に南下し、二年正月.展を討った。
功績は上げたが揚州を大掠し、虐殺を引き起こした。

六月.開府儀同三司徙徐州刺史

淄青節度使。

元年建丙月.節度使侯希逸が衆を率いて平盧を脱出し青州に至り、神功は青州を譲り
兗鄆節度使となる。

元年建卯月.宋州の包囲を解き、史朝義将敬釭を降す。
進封信都郡王。

廣徳二年.檢校工部尚書兼御史大夫河南節度汴宋八州觀察使へ移る。

十一月.諸軍とともに史朝義を攻めた。

大曆二年三月.來朝.四月.加檢校尚書右僕射。

三年三月.左僕射知省事.加太子太師/少師。

母に孝であった。
兵卒あがりでまったく礼節を知らなかったが、李光弼に習って少しはできるようになった。

五年九月.来朝。

病となったが、八年冬.おして入朝し、九年正月.京師に卒した。
贈司徒。
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劉玄佐/劉洽伝

2019-05-15 10:12:28 | Weblog
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劉玄佐/劉洽伝
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洽は滑州匡城の人。

放蕩をし、捕吏となるも罪を犯し鞭打たれる。

逃亡して永平軍の兵士となり、牙將に至る。

大曆中.李靈耀が汴州で反し、洽はその隙に乗じて宋州を陥し、永平軍の領とした。
十二年十月.永平節度使李勉は洽を宋州刺史とした。

建中二年正月.兼御史中丞充宣武軍宋亳潁節度使に昇進。
十月.兼御史大夫。
自立した淄青李納より、その叔父李洧が徐州を以って唐朝に歸した。
十一月.納は徐州を急攻したが、洽は洧を救い、納兵を大破し濮州を取り、貢輸路を通じさせた。

四年五月.功により檢校兵部尚書兼曹濮觀察淄青兗鄆招討使.累封四百戸。

淮西李希烈が反し、洽は永平李勉、淮南陳少游、東都哥舒曜と共に防いだ。

興元元年正月.敗北した李勉に代わり汴滑都統副使知都統事。

三月.檢校尚書左僕射、同中書門下平章事。

十一月.希烈が陳州を攻めたが、洽はこれを破り汴州を回復した。
加汴宋節度使陳州諸軍行營都統。

貞元元年三月.入朝し檢校司空.八百戶。。
四月/五月.賜名されて玄佐となった。
六月.汴州刺史となる。

二年九月.義成節度李澄が卒し、其子克寧が自立しようとしたことを抑える。

十一月.鎭海節度韓滉に従い始めて入朝。
滉は玄佐を対吐蕃防衛の主将に薦め、本人もその気であったが滉の死により辞した。

四年正月.検校司徒兼涇原四鎮北庭兵馬副元帥。

性は豪縱、財を軽んじて兵に厚賞を与えることを好み、百姓に重税を賦課した。
汴州の兵は李忠臣の統治以来、横暴であったが玄によりより甚だしくなった。

しかし玄佐の母は臣節を尊び、訓戒を忘れなかったので唐朝には忠実であった。
また隣藩の淄青の内情を深く探り、李納は怖れて侵犯することがなかった。

貞元八年二月/三月.鎭に卒する。年五十八,贈太傅,諡曰壯武。
妾と私通とた部下に殺されたという説もある。
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王景崇伝

2019-05-14 10:10:20 | Weblog
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王景崇伝
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景崇、字は孟安。

成德節度使紹鼎の子。壽安/章惠長公主の嫡孫。

父紹鼎は成德節度使となるが無法であったので牙軍が放逐しようとした時に死んだ。
大中十一年八月.弟紹懿が継承し十年間無事に治めてきたが疾となり、

咸通七年三月.鎮州大都督府左司馬知府事都知兵馬使で兄の子景崇に継承させた。
その折り「兄の不行跡により王氏が鎭を失うところだった。お前は唐朝とも融和し、麾下や璘藩とも友好を築きしっかり継承するように」と遺言した。

四月.祖母の壽安公主が唐朝にまだ若い孫の景崇の継承を認めるよう要求した。

六月/八月.起復忠武將軍守左金吾衛將軍同正檢校右散騎常侍充成德軍節度觀察留後上柱國紫金魚袋。
十二月.正授節度使檢校工部尚書。

成德節度も曾祖父庭湊が反唐朝を旗印としていたが、祖父元逵より唐朝との融和路線に転じていた。

十一年九月.魏博節度使何全皞が逐われた後、韓君雄の継承に助力。

龐勳の乱には派兵し鎮圧に協力。加檢校尚書右僕射。太原縣男,食邑三百戶。

祖母、母の喪にも禮を守った。起復左金吾衛上將軍同正,進位檢校司空。

政治は有能幕僚に任せ、近親に介入させなかった。
公主嫡孫であるためどんどんと進階し、十一年十二月.同中書門下平章事、檢校太尉。

十四年九月.兼中書令[乾符三年九月説もある],封趙國公食邑三千戶,食實封二百戶。

乾符二年三月.侍中を兼ねる。

四月.加開府儀同三司。

五年.常山郡王。

黃巢の乱にも義武王處存と協調し派兵し、貢輸を続けた。

中和二年三月.蔚州刺史蘇祐が濫りに起兵した時はこれを殺した。

節度使たること十四年、檢校太傅に至る[正任の太尉となったともいう]。

三年正月/二年十二月卒、年三十七,贈太傅,諡曰忠穆。
回紇の末裔である成德王氏も完全に貴族化していた。
成德節度では魏博や幽州と違い王氏の継承が定着し、武力的には弱体化していった。
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于頔伝

2019-05-13 10:12:36 | Weblog
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于頔伝
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頔、字は允元。河南の人。

曾祖顯武縣令元範、祖汪,父敻。

蔭位により千牛、華陰尉。

黜陟使判官[劉灣闢]。

建中四年.櫟陽主簿攝監察御史充入蕃使判官

司門員外郎兼侍御史吐蕃計會使として功績。

長安令に昇進し、駕部郎中に転じる。

湖州刺史、水利に勤め良政。
  
蘇州刺史となり、淫祠を廃し、ここでも水利に励む。
しかし横暴であり部下を虐待することもあった。
浙西觀察使王緯は奏請したが、德宗皇帝は罰しなかった。

大理卿。

貞元十三年四月.陝州長史陝虢觀察使に移る。ますます専横となる。

十四年七月.襄州刺史山南東道節度使。

十五年十一月.淮西吳少誠が反するが、頔はこれを破り唐州吳房朗山縣を取る。

襄州を大都督府とし、聚斂し兵備を強化し勢威を張り、部下に対して専横を極めた。
德宗皇帝は姑息でこれを黙認していた。
遷檢校尚書左僕射。

永貞元年十二月.加平章事。

元和二年八月.封燕國公。

憲宗皇帝が方鎭を抑える成果を上げていくと、頔はさすがに警戒し、二年十二月.子に公主の降嫁を許されたため。

三年九月.入朝し司空同中書門下平章事太微宮使と優遇された。

五年三月.杜祐の例にならい一月三朝を許される。

八年二月.ところが宦官梁守謙に取り入り、新方鎭を求めようとしたが、奸人梁正言[守謙の同族と称していた]の詐欺にあい多額の資財をだまし取られた。子の敏が怒りにまかせて正言の奴を殺し、それを奴隷に密告されたため事件となり、頔は恩王傅に貶され、敏は賜死。他の子も免官流罪となった。

九月/十月.太子賓客/戸部尚書。

十年.淮西討伐に家財を献じると上奏するが許されず。

子季友の不行跡により、金紫光祿大夫を削られる。

十二年七月.致仕を許されず。

十三年.太子賓客致仕。宰相は太子少保致仕としたが、皇帝は賓客に格下げした。

八月.鬱々として卒する。贈太保,諡曰厲。
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嚴礪伝

2019-05-12 10:10:03 | Weblog
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嚴礪伝
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礪、字は元明。

山西節度使震の從祖弟。
僧侶であったが、仕官して玄武尉。

震に仕えて節度都虞候。性格は輕躁で画策が多かった。

興元元年.德宗皇帝が山西に避難していた時に供給に功績があり、興州刺史兼監察御史.興元都虞候に至る。

貞元十五年四月.震が卒した後留後となり、後任に推薦され、諌官達は反対だったが皇帝は押し切り、
七月.興元尹兼御史大夫山西節度支度營田觀察使。
礪は収斂に勤め、鳳州刺史馬勳を陥れた。

加檢校禮部尚書。

十六年十月.誣告し流人崔河圖を殺す。

元和元年二月.西川劉闢に際して、礪は劍州を復し、刺史文德昭を斬る。
三月.梓州を復す。
六月.闢兵を綿州石碑谷に破る。

十月.劍南東川節度副大使知節度事管內支度營田觀察處置靜戎軍等使光祿大夫檢校左僕射使持節梓州諸軍事兼梓州刺史禦史大夫鄭國公。
民の田宅を収奪し、規定の税額をはるかに超える徴税を行った。

元和四年三月.鎭に卒した、贈司空。
死後その乱政が暴かれたが追罰はされなかった。
皇帝には気に入られていたが官界の評判は極めて悪かった。
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張伯儀伝

2019-05-11 10:10:20 | Weblog
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張伯儀伝
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旧伝はなし。

伯儀は魏州の人。

李光弼に従い戦功があった。

寶應二年四月/元年.浙東賊袁晁の反を平定。
睦州刺史。

永泰元年.杭州刺史.太常卿員外。

大暦二年七月.安南都護。

十二年五月/六月.廣州刺史兼御史大夫充嶺南節度使。

建中三年三月.檢校兵部尚書兼江陵尹御史大夫荊南節度等使。
文盲であったが誠実で民に人気があった。

四年三月.淮西李希烈が反し、賈耽と張獻甫と共に安州に戦って敗れ負傷し江陵に敗走。
妻が家帛を出して慰撫。
四月.淮西應援招討使に。

貞元元年.右龍武統軍。

四年正月.卒して贈揚州大都督。諡曰恭。
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趙昌伝

2019-05-10 10:23:34 | Weblog
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趙昌伝
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昌、字は洪祚。天水の人。祖不器,父居貞。

昭義節度[李承昭]に仕え、虔州刺史に至る。

貞元七年七月.安南で地元の豪族杜英翰が叛乱し、都護高正平が死んだ後を継ぎ、安南都護経略招討使。
十三年間ですっかり蠻族を慰撫した。

加御史大夫。

貞元十八年五月.七十二歳を超え足疾により辞して國子祭酒となるが、後任の裴泰が軍乱で逐われ、

二十年三月.復帰。彼がくると軍乱はただちに治まった。

憲宗初,加檢校工部尚書。

元和元年三月/四月.檢校戶部尚書廣州刺史嶺南節度使。良政。

三年四月.檢校吏部尙書荊南節度使。荊門を修築。

四年.太子賓客。

工部尚書兼大理卿。

大理卿はまもなく辞す。

六年十一月.檢校兵部尚書華州刺史潼関防禦使。
八十余歳.憲宗皇帝はその壮健に驚き健康術を聞いた。

九年.太子少保。

九年.卒、年八十五、贈揚州大都督,諡曰成。
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王潜伝

2019-05-09 10:05:13 | Weblog
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王潜伝
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潛は字は弘志。

神龍時に大功があった贈太子少保琅邪郡公同皎の孫。

幼時の時に緋衣を賜り、大人びていた。

皇帝の外孫として千牛。

元和中に將作監に至る。

神策軍の不法を厳しく取り締まった。

左散騎常侍。

元和十年七月.涇州刺史四鎭北庭涇原節度使。
歸化、潘原三壘など城郭を修築、軍糧を蓄え。原州を回復したが、維持はできなかった。

穆宗即位、封琅邪郡公,

長慶元年正月.檢校兵部尚書江陵尹荊南節度使。
訓練を強化し無能な兵を除き冗軍した。

宝暦二年十二月.進奉絹一万匹。七十万錢。
大和初、加檢校左僕射。

三年二月.鎭に卒した。贈司空。
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韋丹伝

2019-05-08 10:17:07 | Weblog
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韋丹伝
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丹、字は文明、京兆萬年の人。
高祖太子詹事琨。
丹は外祖顏真卿の教えを受け、明經に合格し峽州遠安令となるが不拝。

また五經に合格し校書郎、咸陽尉。

邠寧[張獻甫]幕僚.監察御史から殿中侍御史

太子舎人。

起居郎。

吳少誠の侵攻時、檢校吏部員外郎侍御史河陽行軍司馬,未行。

駕部員外郎。

貞元十六年.司封郎中.御史中丞として新羅に弔祭。清廉。

十七年.容州刺史容管經略招討使。開田教民し大いに治績があった。
加大中大夫。

永貞元年五月.河南少尹,未至,徙檢校秘書監兼御史中丞義成軍司馬。

右諫議大夫

十二月.劍南劉闢の乱に、李康に代わり劍南東川節度使.御史大夫となるが、
征討していた高崇文の根拠地として譲り、
元和元年三月/正月.晉慈隰等州觀察防禦使.封咸陽/武陽郡公。

晉慈隰三州は河中節度に属した方が経費節減できると提案して認められた。

元和二年正月.洪州刺史.江南西道觀察使。ここでも開田等で大いに治績をあげ民に慕われる。

五年八月.鎭に卒,年五十八。

清廉にして、私利を逐わず、産業を振興し大いに民生に貢献した。
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杜濟伝

2019-05-07 10:02:15 | Weblog
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杜濟伝
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新旧伝無し

濟、字は應物、京兆杜陵の人。

主客郎中續の曾孫、明堂令/丞知讓の孫、高陵令惠之の子。

書判、彭州南鄭主簿から許州長社尉、隴西法曹参軍[楊光翽]。

江西采訪推官[皇甫侁]大理司直攝殿中侍禦史賜緋魚袋

殿中侍御史

郿令、渭南令、成都令を経て、綿州刺史となる。

徐知道の乱平定に功。

朝散大夫戶部郎中。

廣德中.檢校駕部郎中劍南行軍司馬[嚴武]。

武の死後知軍府事となる。崔寧の乱には同ぜず静観。

杜鴻漸が劍南道を東西に分割したとき、副元帥判官知東川節度となり、
大中大夫綿劍梓遂都防禦使梓州刺史兼中丞に移る。

遂州刺史?

大暦元年/二年七月.東川節度使となり、やがて遂州都督に移治。

三年.給事中

京兆少尹、五年九月.京兆尹兼館驛使御史中丞。

八年三月.宰相元載の人事不正に連座して貶杭州刺史

大曆十二年七月.卒する、五十八歳。
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裴冑伝

2019-05-06 10:19:23 | Weblog
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裴冑伝
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戸部尚書寬の弟子。字は胤叔。河東聞喜の人だが河南に移る。

明經に合格し太僕寺主簿。

安史の乱に避けて放浪、秘書省正字から秘書郎。

陳鄭節度留後[陳少游]幕僚.試大理司直。

鳳翔幕僚[李抱玉].監察御史となるが不満で宣歙觀察使陳少游に附く。

抱玉は怒って弾劾し桐廬尉に貶される。

浙西觀察李栖筠に救われて大理評事.觀察支度使となる。
  
栖筠が御史大夫となると、殿中侍御史となり、宰相元載に憎まれる。
栖筠が卒した後、載の圧迫を受けながら喪を守って洛陽へ行く。

陳少游が再び任用し檢校主客員外兼侍御史.淮南觀察判官、行軍司馬に進む。

載が誅された後、刑部員外郎。

大暦十四年.宣州刺史。

元載と親しかった宰相楊炎に家人の贓を糾弾され汀州司馬に貶。

少府少監。

京兆少尹となるが不拜。
國子司業。

貞元二年閏月.潭州刺史湖南觀察使。

七年正月.洪州刺史江西觀察使。兵を減らし德宗皇帝に進奉を増やした。

八年二月.樊澤の後、江陵尹荊南節度使.御史大夫。

十二年二月.加檢校工部尚書。
  
貞元十九年十月.鎭に卒,年七十五,贈尚書右僕射,諡曰成。

荊南統治十五年。簡儉で、諸道が争って収奪し皇帝に進奉したときも、節度を守り倹約した中から行った。
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李抱玉/安抱玉伝

2019-05-05 10:08:32 | Weblog
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李抱玉/安抱玉伝
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抱玉、姓は安、始名は重璋,唐初に涼州李軌を裏切り唐朝についた興貴の曾孫。

代々河西に住まい馬を飼っていた。

騎射にすぐれて從軍。李光弼に仕え河西で吐蕃と戦い有功、改名。

安祿山の乱に南陽を守る。

至德二載、祿山と同姓であることを恥じて賜姓を求め、舉族籍京兆。

特進より右羽林大將軍知軍事に至り、
乾元二年四月/九月.鴻臚卿員外置同正員持節鄭州諸軍事兼鄭州刺史攝御史中丞鄭陳穎亳四州節度使となる。

十月.史思明と河陽に戦い守り、懷州を回復したがその後敗走した。

元年建辰月.澤州刺史兼御史中丞[陳鄭澤潞節度使]、欒城縣公。

寶應元年建巳月.史朝義兵を澤州に撃退。

十一月.賊鄴郡節度使薛嵩を帰降させる。

辛雲京等と副元帥僕固懷恩を讒言し反させる。

寶應二年六月/八月.正任司空/検校司空,封武威郡王。

代宗立.澤潞節度使潞州大都督府長史兼御史大夫加領陳、鄭二州.兵部尚書となり相衛儀邢十一州兵を率いる。
  
二年九月.対吐蕃防衛のため、澤潞は従弟抱眞に任せて正任司徒充南道通和吐蕃使鳳翔秦隴臨洮已東觀察使となる。

十一月.吐蕃の侵攻により崩壊した軍兵による京師南方の南山群盜を平定。

永泰元年正月.兼鳳翔隴右節度使、從弟殿中少監抱真が澤潞節度副使

永泰元年三月.司徒を辞し、檢校左僕射[正任説もある]同中書門下平章事河西隴右副元帥判梁州事兼山南西道節度使となる。

九月.対吐蕃防衛のため鳳翔に屯する。

大暦二年八月.左僕射を辞し兵部尚書。

三年九月.吐蕃を臨洮に破る。

五年正月.來朝。加山南西道副元帥兼節度使
二月.鳳翔節度使を魚朝恩麾下の陝虢節度使皇甫温に譲り盩厔に移治した。
これは絶大な兵権を握り専権を振るっていた宦官朝恩を陥れる代宗皇帝と宰相元載の陰謀の一環だった。溫は既に皇帝側に裏切っていたが、朝恩派であった。
朝恩の率いる神策軍に京師付近の領土を与え、溫の赴任で立場を強くしたようにみせかけ、宮廷内に引き入れて暗殺したのだ。
しかし意図をしらない抱玉牙軍は移治に不満で軍乱を起こした。
朝恩の誅殺後、溫は陝虢に戻り、抱玉も鳳翔に戻った。

四月.統治区域の貧を訴える涇原節度使馬璘に鄭穎二州の統治権を譲った。

六年二月.山南西道副元帥兼節度使を辞する。

九年九月.郭子儀・朱泚とともに対吐蕃軍を分領した。

十年九月.吐蕃の侵攻を隴州に破った。

敵を大破する功績は少ないが、よく兵を鎭撫し、皇帝の親任が篤かった。

十二年三月.卒,年七十四,贈太保,諡曰昭武。

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