唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

會昌四~六年 西暦843~45年

2020-04-30 10:00:13 | Weblog
會昌四年 西暦843年
-------------------------------------------
正月乙酉,河東將楊弁逐節度使李石。
有能な河東節度使劉沔が、幽州節度使張仲武と回鶻討伐の功績をめぐって対立し、仲武の非協力を懼れた唐朝は沔を義成節度に移した。後任として荊南から文官の元宰相李石を移した。しかし文官では軍人への統制がきかず、待遇に不満な将楊弁が反し石を逐った。唐朝は劉稹征討軍の崩壊を懼れて動揺したが、前線の河東派遣軍は同調せず、二月乱軍を鎮圧した。

閏七月,昭義管轄の邢州、洺州、磁州以城降。
昭義軍節度は山西の澤潞二州と河北の邢洺磁三州に別れる。河北部分が魏博・成德軍の攻撃を受け降った。

八月乙未,昭義軍將郭誼殺劉稹以降。
河北三州が降り、王宰や石雄が争って澤州を攻撃し、昭義将達は動揺し、郭誼等は稹を殺す事で歸順したが唐朝は赦さず残らず誅殺した。また宦官達の恨みを晴らすために亡命していた甘露の乱の親族をも殺した。

八月戊申,李德裕為太尉。
德裕は回鶻・昭義征討の功績により最高位の太尉となり専権を振るった。

會昌五年 西暦844年
-------------------------------------------
正月己酉,群臣上尊號曰仁聖文武章天成功神德明道大孝皇帝。
唐朝の皇帝の悪癖として道教に凝り、長寿を願って金丹[水銀等が入って有害]を服用する。憲宗・武宗・宣宗などが健康を害している。

八月壬午,大毀佛寺,復僧尼為民。
円仁の旅行記『入唐求法巡礼行記』でも有名な「會昌の廃仏」である。道教を信仰した武宗により仏教だけでなく景教・マニ教・ゾロアスター教も弾圧された。完全な廃仏ではなく、政府による大規模な整理という政策で、宰相李徳裕としては教団の持つ財産・農民を政府に回収し、僧尼を還俗させて労働力とするなど財政再建を図った。宦官の有力者仇士良は崇仏派であったので対立したが失脚した。当時の仏教は富裕で腐敗し、脱税の温床となり宗教としては堕落していた。
武宗が早世したので廃仏は不徹底であったが、腐敗した仏教は衰え、景教やゾロアスター教は姿を消した。

會昌六年 西暦845年
-------------------------------------------
三月甲子,皇帝崩于大明宮,年三十三。
武宗は薬物中毒[仏教信者の宦官の毒殺かもしれない]で急逝した。宦官中尉馬元贄等は武宗の子を立てず、愚鈍と思われていた憲宗の子[叔父にあたる]光王怡を擁立した。

武宗は有能果断であり、李徳裕に腕を振るわせ回鶻・昭義を征討し、廃仏による財政再建等唐朝の再興を図っていたが中途で終わった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

會昌二~三年 西暦841~42年

2020-04-29 10:00:18 | Weblog
會昌二年 西暦841年
-------------------------------------------
正月,回鶻寇橫水柵,略天德、振武軍。
三月,回鶻寇雲、朔。
五月丙申,回鶻沒斯降。
来寇のようにみえるが、実体は回鶻帝国が崩壊して残党が北邊になだれ込んできたわけである。唐朝はこれを支援せず降嫁させていた大和公主を回収した。回鶻の将達は相継いで来附してきた。

二月、李石.六月,陳夷行が罷。
李徳裕の独裁体制が強まっていった。

七月,回鶻可汗寇大同川。
九月,河東節度劉沔,幽州節度張仲武討回鶻。
黠戛斯[トルコ系.キルギス]の攻撃もあって回鶻帝国は完全に崩壊し、可汗[皇帝]も北邊に逃亡してきた。唐朝はこれを討った。

吐蕃で論恐熱が内乱を起こし、唐朝への圧力は減少したが。回鶻・吐蕃の混乱により西域の貿易は停滞してしまった。


會昌三年 西暦842年
-------------------------------------------
四月乙丑,昭義軍節度使劉從諫卒,子稹自稱留後。
本来昭義節度使は唐朝領域であり世襲を許さない鎮であった。しかし前任の悟の卒時、当時の姑息な宰相[牛派]・宦官が収賄して従諫の継承を認めてしまった。
その後従諫が甘露の変後に文宗を支援したため宦官達の強い反感を買っていた。このたびの稹への継承も牛派宰相時代なら平和策になったであろうが、強硬積極策の李徳裕が首班であり、本来征討には消極的な宦官達も恨みを晴らす機会だと考えた。回鶻を潰して意気上がる武宗も討伐方向に動いた。

五月辛丑,成德節度使王元逵,魏博節度何弘敬,河中・河陽・河東軍討劉稹。
唐朝は河北三鎭が昭義を支援することを懼れて、隣接する成德・魏博を慰撫[自立は既に既成事実として認めている]し征討に参加させるようにした。既に野性を失っていた二鎮も同意した。

九月辛卯,忠武軍節度使王宰兼河陽行營攻討使。
十月己巳,晉絳行營節度使石雄及劉稹戰于烏嶺,敗之。
相変わらず進攻せず、ぐずぐす逗留する唐朝軍をみて、李徳裕は石雄を登用した。雄は徐州武寧軍出身で、周囲に信望があったため節度使王智興に逐われ、殺害されそうになった。唐朝に亡命し、その後対回鶻戦に起用されて活躍したため抜擢されたのである。しかも王宰[智興の子]と競争して進軍するわけで、雄が必死になるのは当然であった。

十月、黨項羌寇鹽州。十一月,寇邠、寧。
回鶻が滅び、吐蕃も混乱すると朔方地域に盤踞していた黨項[後の西夏]が蠢動することになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開成五年~會昌元年 西暦839~840年

2020-04-28 10:00:39 | Weblog
開成五年 西暦839年
-------------------------------------------
正月辛巳,文宗崩御。弟穎王瀍[武宗]即位。
武宗は穆宗の五男である。宦官魚弘志、仇士良が擁立した。

正月辛卯,殺陳王成美及安王溶。
文宗・敬宗系の一掃である。

五月乙卯,牛派楊嗣復が罷。李派崔珙が宰相に。

八月壬戌,葬文宗于章陵。樞密使劉弘逸、薛季棱以兵殺仇士良等,不克,伏誅。李玨罷。
新紀・旧紀では文宗派?宦官の弘逸、季棱が葬儀に動員した兵を使って士良等を除こうとしたと言われる。ところが通鑑ではこれは會昌元年三月のことになり、兵乱などは記述されていない。
単なる宦官内部の権力闘争とみられる。

九月丁丑,淮南節度李德裕が宰相に。
武宗は文宗末期の牛派宰相を排除し、李派の頭目が登場させる、宦官とも結託し李派全盛時代を築く。

十一月,魏博節度使何進滔卒,其子重霸自稱留後。
河北三鎮も反唐朝派が姿を消し、唐朝と共存を図る傾向が強くなった。


會昌元年 西暦840年
-------------------------------------------
三月、仇士良達は武宗即位時に関して前宰相の楊嗣復.李珏等を誅殺しようと誣告した。さすがに德裕も同調できず流罪に留めた。

八月、回鶻烏介可汗遣使告難,言本國為黠戛斯所攻,故可汗死,今部人推為可汗。
同盟国の回鶻が破綻し崩壊しかけているようである。

九月癸巳,幽州盧龍軍將陳行泰殺其節度使史元忠,自稱知留務。
閏月,幽州盧龍軍將張絳殺行泰,自稱主軍務。
十月,幽州盧龍軍逐絳,雄武軍使張仲武入於幽州。
唐史は開成末~會昌年間に入って極めて混乱し矛盾したデータが多くなる。
これが一例で、殺元忠→殺行泰→逐絳→仲武と三回乱が連続している記載である。
ところが旧紀では「會昌二年正月雄武軍使張絳、幽州留後,仍賜名仲武」
つまり絳=仲武で、乱は二回であり、帥すら取り違えているのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まとめと宰相官歴表[366名分]の公開 

2020-04-27 10:00:37 | Weblog
今までの 代宗、德宗、順宗・憲宗、文宗、宣宗史を
PDF形式でデータをアップロードしました。
代宗史
德宗史
順宗憲宗史
文宗史
宣宗史
リンクをクリックするとPDFが開きます。

また以前に掲載していた 宰相官歴表[366名分]を エクセル形式でアップロード
宰相一覧
クリックすると表が開き、各宰相名をクリックするとPDFが開きます。
[武官宰相と李輔國はありません]

次回からは 武宗史 をと考えています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開成三~五年 西暦837~39年

2020-04-26 10:00:44 | Weblog
開成三年 西暦837年
-------------------------------------------
正月甲子,宰相李石入朝,有盜射之,微傷。
宰相鄭覃・李石は宦官仇士良等の専権を認めず、政策を巡って対立した。それでも覃は学者であるため穏健だが、石は財政を掌る関係もあり士良等と衝突することが多く、怒った士良は配下に襲撃させたわけである。武元衡暗殺以後は護衛兵がついていたが、甘露の変以降はなくなっていた。文宗は驚愕したが、士良の仕業とわかっていてもどうしようもなかった。

正月戊申,楊嗣復,李玨が宰相となった。李石は中書侍郎.荊南節度使に出た。
いずれも牛党である。石を守れない文宗は荊南節度に避難させた、現役の宰相格である中書侍郎を付帯させるのがせいぜいであった。

十月乙酉,義武軍節度使張璠卒,其子元益自稱留後。
璠は10年以上も在鎮し牙軍を掌握していた。牙軍は継承を求めて、交代の李仲遷を受け入れなかった。
本来は討伐しなければいけない状況だが、姑息な牛党の宰相は財政的な手段[義武軍は財政的に自立できず、中央からの供給に頼っていた]にたより、元益と仲遷の両方をはずし、乱を起こした牙軍は処罰しないという策で収めた。

十月庚子,皇太子薨。
文宗の子である皇太子の行跡は悪く、学業も劣っていた[宦官達がそのように仕向けた傾向があるが]。そのため文宗は廃位しようとしたが、周囲に止められ、太子の側近を処罰するに留めていた。しかし太子は憤死/自殺したようである。

開成四年 西暦838年
-------------------------------------------
三月丙戌,裴度薨。
淮西征討の先頭にたったという以外はたいした功績もなく、牛李の党争も収められない度であったが、なぜか元老扱いになっていた。官僚の象徴的なボスだが、その死は政局に与える影響はなかった。

十月丙寅,敬宗の少子陳王成美為皇太子。
文宗には太子とする子がいなかったので、まだ幼い甥の成美を太子とした。

開成五年 西暦839年
-------------------------------------------
正月辛巳,文宗崩御。弟穎王瀍[武宗]即位。
文宗を憎悪していた武官系宦官中尉仇士良、魚弘志は、文宗の定めた皇太子の即位を認めず、弟穎王瀍を擁立した。士良達は昭義劉従諫等の存在もあり、弑逆はためらっていたであろうが文宗排除の意志は堅かった。太子成美や穆宗の子安王は殺された。文官系の宦官知樞密劉弘逸、薛季陵や宰相達は太子擁立をしようとしたが及ばなかった。

◎.史書では甘露の変以降は、唐朝は宦官が全権力をにぎつたような記載はあるが、それは間違いである。少なくとも懿宗皇帝[宣宗皇帝までは確実に]までは皇帝はある程度の実権をもっていた。魯鈍の僖宗皇帝以降は宦官の傀儡であるが。そして衰亡の責任を宦官に押しつけるのも問題である。科挙を世襲化し腐敗した文官官僚族もまた唐朝を食い潰したわけである。その両者を潰滅させたのが五代後梁の朱全忠であろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開成元~二年 西暦835~36年

2020-04-25 10:04:05 | Weblog
開成元年 西暦835年
---------------------------------------------
宦官達は無頼な神策軍を使い文宗・文官を圧迫し専制しようとした。宰相李石・鄭覃はそれを制することができなかった。ところが、

二月、昭義節度使劉從諫上表請王涯等罪名。
巻き添えで殺害された涯と親しかった從諫が「涯になんの罪があったのか、説明して欲しい」と上奏、さらに「説明を聞くために入朝したい」と、宦官達を脅してきた。当然単身で入朝するわけはなく軍を率いてくるわけであるし、他の藩鎭も同行するかもしれない。正当性もなく、雑軍である神策軍では対抗できない中尉仇士良や魚弘志は狼狽した。涯に文宗に対する罪状があるわけはなく、説明などは出来ない。圧迫していた文宗や宰相連に対処を頼むしかなく、専権を引っ込めるしかなくなった。しかし宦官連は深く從諫を恨んだ。
文宗は從諫を昇進させ、その使臣をわざわざ召見して慰撫した。宦官への牽制であり、宰相達も政策がうてるようになってきた。

四月甲午,李固言が復相。
李訓等に排斥されていた牛李党の官僚達が続々と復帰してきた。

八月鄜坊節度使蕭洪詐稱太后弟,事覺。流驩州。
文宗の母蕭氏は福建の貧家の出身で、実家は残っていなかった。弟がいるとのことで捜索し洪を見つけて登用したのだが密告により偽りであることが判明した。その後、数人弟と称する者が現れたがいずれも偽りであった。

開成二年 西暦836年
-------------------------------------------
六月河陽軍亂,逐節度使李泳。
泳は長安の商人で宦官に贈賄して神策軍に入り、節度使となり、聚斂でその投資を回収するという連中であった。京師の神策軍のほとんどはそういう類でパレードには使えても戦力はなかった。また唐朝麾下の節度使達のほとんどは宦官系であろうとなかろうと金儲けだけに熱心な腐敗官僚たちであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和九年 西暦834年

2020-04-24 10:00:34 | Weblog
大和九年 西暦834年
---------------------------------------------
四月丙申,宰相路隋罷。戊戌,賈餗か゛宰相に。
李派が排除された。文宗は牛李の党争を嫌い、第三勢力を登用しようとしていた。

六月壬寅,貶李宗閔為明州刺史。七月辛亥,李固言を登用。
牛派も逐われた。李訓や鄭注などが文宗側近に登用され、宦官排除の陰謀が画策されていた。

八月丙申,幹部宦官楊承和、韋元素、王踐言達を殺した。

九月癸亥,殺宦官陳弘志。
憲宗皇帝を暗殺した弘志をやっと誅殺することができた。

九月丁卯,李固言罷。
鄭注の登用に反対した固言が排除された。

九月己巳,舒元輿,李訓が宰相に。

九月戊辰,右神策中尉王守澄為左右神策觀軍容使兼十二衛統軍。
十月辛巳,殺觀軍容使王守澄。
昇進のようにみせかけて実権を奪い、殺した。
文宗の宦官排除策もここまではうまくいっていた。宦官内部にも古い世代を排除して自分達が立身したいという流れがあり、あくまで世代交代ととらえていた。しかし文宗・李訓・鄭注等の考えは、宦官から軍權を含めて全権力を奪う[唐末のような誅滅ではない]という方針であった。

十一月壬戌,甘露の変
文宗・李訓・王璠・郭行餘等が幹部宦官[仇士良.魚朝恩等]を誅殺しようとして失敗。文宗は宦官に拉致され、宦官指揮下の神策軍が宰相四人[李訓.舒元輿.王涯.賈餗]を殺害した。王涯と賈餗は巻き添えである。多くの文官が加担していたとして殺された。これにより朝政での宦官優位[完全な支配は僖宗時の田令孜をまたねばならない]が確立したわけである。
補充宰相は李石と鄭覃であるが、宦官に圧されて実権はなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和七~八年 西暦832~33年

2020-04-23 10:06:51 | Weblog
大和七年 西暦832年
------------------------------
正月甲寅,新除嶺南節度使崔珙為武寧節度使。
前任の高瑀が武寧節度を統治できず交代した。瑀に責任があるというより驕慢な牙軍に問題があった。「新除」とは任命されたがすぐ転任するという意味で、珙は本来大府卿であった。

二月丙戌,李德裕が宰相となる。

三月、幽州節度楊志誠、抑留勅使。
粗暴な軍人志誠は唐朝の礼式に通ぜず、同じ三位格の檢校工部尚書より檢校吏部尚書への形式的な栄進が理解できず[本人は二位格の檢校僕射に昇進することを期待、どちらも実質的意味はないが]、憤激してやったことである。唐朝はその無教養さに呆れたが、慰撫するだけであった。

六月乙巳,以山南西道節度使李載義為河東節度使。
元幽州節度載義を河東節度使とし、横暴な回紇使節と幽州楊志誠への牽制を図ったものである。


六月乙亥,宰相李宗閔が山西節度へ出される。
牛党が逐われ、李党が中心となった。しかし文宗は党争に飽き飽きしていた。

大和八年 西暦833年
---------------------------------------------
十月辛巳,幽州軍乱、逐節度使楊志誠,史元忠自立。
また軍乱である。志誠は京師へ亡命したが、その反唐朝姿勢が祟って流され、途次殺された。

十月庚寅,李宗閔が復任し、李德裕が解任された。
宦官王守澄は牛党を支援し、李訓・鄭注などが文宗の親任を受けていった。

十一月癸丑,成德軍節度使王廷湊卒,子元逵が自立。
反唐朝姿勢が強かった廷湊が卒し、元逵は協調路線に転じた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和五~六年 西暦831~832年

2020-04-22 10:01:56 | Weblog
大和五年 西暦831年
------------------------------
正月庚申,幽州盧龍軍亂,逐節度使李載義,楊志誠が自立。
親唐朝派の載義が逐われ、野卑な軍人志誠が自立。乱の原因はよくわからない。載義は功績が評価され京師で宰相格で山西節度使に起用された。

三月庚子,宰相宋申錫が解任。癸卯,降封漳王湊為巢縣公。
文宗は申錫と共謀して宦官達を殺害する[実情としては、専権が目に余る王守澄とその徒党対象であっただろうが]計画をねっていた。
ところが計画がばれ、守澄は先手を打ち、「申錫が文宗を廃して漳王を擁立しようとしている」と密告させた。漳王は弟にあたる。
小心な文宗は陰謀がばれたことに狼狽し、申錫を犠牲にして事をごまかそうとした。守澄等は申錫を誅殺し大規模な捜査を行うつもりであったが、漳王を申錫が擁立することなどありえないずさんな筋書きの誣告であったため、諌官をはじめ官僚達や身内の宦官からも厳しい批判を受けたため、申錫を配流する程度で事態を収拾した。

九月、吐蕃維州副使悉怛謀請降,盡帥其衆奔成都。
西川に赴任した李徳裕は鋭意軍備の整備に努めていた。ところが停戦中であった吐蕃から要衝維州を守る悉怛謀が内応し城を引き渡した。徳裕は喜び上奏したが、宰相牛僧孺は対吐蕃の停戦が崩れるのを懼れ、徳裕の反対を押し切り悉怛謀を送還することを命じた。送還後悉怛謀達は虐殺され、以降帰順するものはいなくなった。德裕は僧孺を激しく憎んだ。
積極行動派の李派と、安寧維持派の牛派の路線の争いから、派閥単位の人的憎悪に移行していった。

大和六年 西暦832年
------------------------------
三月辛丑,邠寧節度使李聽為武寧節度使。
聽は以前に武寧節度であった時、部下を牙將に任用していた。再度の赴任に際して旧部下は聽が来ることを望まず、牙軍仲間と乱を計画し、前乗りの聽の近臣を殺害した。聽は懼れて赴任を辞退した。このように武寧の牙軍は好みで帥を選ぶようになっていった。

十月甲子,魯王永為太子。
敬宗の長子晉王普が太子格であったが、大和二年に薨した。そこで自分の子の永を太子とした。

十二月乙丑,宰相牛僧孺、出淮南節度使。
李德裕と親しかった宦官西川監軍王踐言が知樞密として入朝してきた。彼は悉怛謀を吐蕃に引き渡した事を大失策と弾劾し、文宗もそれに傾いた。德裕も入朝し、残る牛派の宰相李宗閔は憂慮していた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和三~四年 西暦829~830年

2020-04-21 10:02:00 | Weblog
大和三年 西暦829年 2
---------------------------------
十一月、雲南蠻陷巂、邛二州。
十二月庚戌,雲南蠻寇成都,己未,雲南蠻寇梓州。壬戌,寇蜀州。
元宰相の西川節度使杜元穎は、再度の宰相任用だけが頭にある無能な官僚であり、対南詔の外交を忘れ、ひたすら進貢につとめた。そのため不満を抱いた南詔の侵攻を受けると、対処の方法を知らず大きな損害を受けることになった。
元淮西の降将董重質が派遣され防禦にあたることになった。唐朝の堕落した神策軍出身にはろくな将がいなかったためである。

十二月、武寧節度王智興、忠武軍節度使へ。
李同捷の平定では功績があった智興だが、牙軍横暴の武寧軍の統治[自分も乱を起こし自立した]に苦しみ武寧を返納して移転を求めた。後任の節度使は牙軍の対処に苦しんだ。


大和四年 西暦830年
---------------------------------
正月、財務官僚の宰相王播が卒し、牛僧孺が復任。
あまりに無頼無能な敬宗から避退した僧孺が、李宗閔や宦官勢力から推薦されて再び宰相となった。やる気満々だった李徳裕は義成節度に出された。牛李の党争[官僚派閥の勢力争い]の始まりである。

二月乙卯,山西節度使軍亂,殺節度使李絳。
西川への雲南蠻侵攻に対処するため急遽募兵した新軍を解散することになった。失業する兵士達に対して、監軍楊叔元は冷遇し、その原因が節度使絳にあるようにしたため軍乱がおこった。絳は憲宗時代の宰相である。

七月癸未,翰林院出身の宋申錫が宰相となった。
宦官に擁立されたのにもかかわらず、文宗皇帝も政務に慣れてくると、宦官[王守澄等]の専横が気に入らなくなってきた。そこで宦官と通ぜず、信頼できる申錫を登用した。

十月戊申,義成節度使李德裕為西川節度使。
前任の郭釗は杜元潁の失態時に、隣藩の東川節度使であったため急遽転任したが、もともと外戚[郭子儀の族]で誠実という以外は取り柄のない人物であり、病身でもあったのでひたすら交代を求めた。そこで宰相レースから外されたが有能な德裕が赴任し、要地である西川再建を務めることになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和三年 西暦829年 1

2020-04-20 10:07:41 | Weblog
正月、李聽、史唐合兵擊亓志紹,破之。志紹將其衆五千奔鎮州。
反乱した魏博軍を唐朝軍が破り、成德へ敗走させた。

正月、幽州李載義奏攻滄州長蘆,拔之。
幽州軍も本格的に南下し、同捷は追いつめられた。

二月、橫海節度使李祐帥諸道行營兵擊李同捷,破之,進攻德州。
祐はまともに攻撃し、德州を攻め、同捷は本拠滄州に追いつめられた。

四月戊辰,李載義奏攻滄州,破其羅城。李祐拔德州,誅李同捷。
祐は同捷を誘降し、大將萬洪を送って滄州を引き渡させたが、宣慰使柏耆は功を焦って洪を争って殺し、同捷も勝手に誅した。

五月辛卯,貶柏耆為循州司戸。李祐尋薨。
柏耆の専横な行為に驚愕して祐は疾となり卒した。責任を問われ耆は左遷された。

六月、成德王廷湊は占領していた景州を引き渡し、叛将亓志紹を殺したと謝罪してきた。

六月甲戌,魏博軍亂,殺史憲誠。
憲誠は魏博牙軍の専横に悩み、河中節度に転任する予定であった。唐朝はそれに乗じて魏博を魏博貝三州[義成李聽を転任]と、相衛澶三州[憲誠の息子唐を任命]に分割しようとしていた。
ところが聴の赴任が手間取っている間に、状況を知った牙軍が憤激し、憲誠を殺し、将何進滔を擁立して、聴を入れなかった。

八月壬子,以何進滔為魏博節度使,復以相、衛、澶三州歸之。
魏博回収は失敗であるが、財政困難の唐朝は滄景徳棣の回収だけで諦めるしかなかった。

・以降唐末まで河北三鎮回復の機会は来ず、領域は固定された。
・三鎭側も唐朝を実力で脅かす力は既に無かった。
・魏博では牙軍が主体で、節度使は傀儡で実権がなかった。
・幽州では実力主義が中心となり、世襲は困難であった。
・成德では王氏[廷湊の末]が世襲し唐末・後梁に至った。
・滄景徳棣は新任節度殷侑の努力によって再建され、以降唐朝の領域として安定した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和二年 西暦828年

2020-04-19 10:02:36 | Weblog
三月己卯,武寧王智興攻棣州,焚其三門。
いつものように動きが遅く弱い唐朝軍と違い智興は率先して同捷を攻めた。

七月辛丑,魏博節度使史憲誠及同捷戰于平原,敗之。
魏博は牙軍が強く、自分も自立したようなものである憲誠もその上に乗っているだけの立場であり、本来戦意はなかった。しかし子の孝章は唐朝かぶれで盛んに父親に催促し、出兵することになった。

八月己巳,成德王廷湊反。

八月壬申,義武柳公濟、昭義劉從諫、魏博史憲誠が破廷湊・同捷を破った。
いつもの褒美催促の戦勝報告である。戦いましたという程度のこと。

九月丁亥,王智興奏拔棣州。
まともに戦っているのは智興だけである。

九月、征討使李寰が解任、夏綏節度傳良弼に交代した。
ぐずぐずと進まない寰が解任され、同じく大言壮語する旧成徳将良弼に代わった。

十月庚申,史憲誠及李同捷戰于平原,敗之。
本気の息子が率いる魏博軍もやっと平原を陥した。

十一月、だらだらと赴任途中の傅良弼が死亡。乙酉,左金吾大將軍李祐が征討使に。
唐朝の神策出身の将軍達は皇帝や宦官に迎合するのは上手だが、軍才は乏しい。さすがに今回の祐は勇猛な淮西軍より降り、名将李愬[晟の子]に見いだされた将であり、実戦経験に富んでいた。

十二月乙丑,魏博行營兵馬使丌志沼反。
王智興が北上し、幽州李載義も南下。征討使李祐も本気に攻撃を始めたため、同捷軍は苦しくなってきた。心配した王廷湊は魏博軍の実力者志沼を裏切らせて包囲網を破ろうとした。史憲誠は求援を求め、義成軍節度李聽[晟の子]が支援にあたった。

十二月壬申,宰相韋處厚薨、路隋が継ぐ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文宗前史+寶暦二年~大和元年

2020-04-18 10:00:55 | Weblog
文宗即位前史
----------------------------
文宗の前代敬宗皇帝は頓死した無能な穆宗の長子であったので即位したが。低能粗暴な不良少年であった。皇帝としての自覚もなく、日夜徘徊し、仲間の不良宦官や力士と遊び狂っていたが、気に入らないことがあると仲間に対しても凶暴な態度をとり無茶な処罰をした。

寶暦二年十二月辛丑,宴会し仲間と揉め事を起こし殺された。狼狽した仲間の宦官劉克明等は絳王悟[憲宗の子]を擁立しようとしたが、主流派宦官王守澄、楊承和、魏從簡、梁守謙等はそれを認めず、江王涵[穆宗次男]を擁立し、克明や絳王を殺した。
唐朝の正常な統治を考える宦官達からみても敬宗のような不良皇帝では統治不能であり、小心で真面目そうな江王が好ましいと思われたのだろう。

宝暦二年 西暦826年
---------------------------------
十二月乙已,文宗即位,更名昂。
憲宗以来の宰相裴度が塚宰[葬儀の責任者]である。度は高名ではあるがたいした能力はない。

十二月庚戌,翰林學士韋處厚が宰相になる。
宦官と並び実質的政策を処理する翰林院の代表である。


大和元年 西暦827年
---------------------------------
五月丙子,以天平節度使烏重胤為橫海節度使,以前橫海節度副使李同捷為兗海節度使。
横海軍節度李全略の卒後、成德節度王廷湊の支援のもと、子の同捷が自立していた。唐朝としては横海の自立は認められず、かといって文宗が即位して間もないのに征討軍を出すのもためらわれたため。同捷を別の節度に任命するという融和策を講じたわけである。しかし増長した同捷は従わなかった。

六月癸巳,淮南節度使王播が宰相となる。
鹽鐵業務で莫大な蓄財をした播が贈賄により宰相に復帰した。当然鹽鐵も兼務である。

八月,庚子,削同捷官爵,命天平烏重胤、武寧王智興、淄青康志睦、魏博史憲誠、幽州李載義、義成李聽、義武張璠に征討を下命。
同捷と成德王廷湊が対象である。興味深いのは自分も自立した武寧王智興が征討に積極的なことで、魏博史憲誠は消極的である。討伐の主将は烏重胤であるが病身であった。

十一月丙寅,烏重胤薨。庚辰,以保義節度使李寰為橫海節度使。
寰は旧成徳将、王廷湊の自立時に対立した仲であり唐朝に帰属していた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まとめと予告

2020-04-17 10:00:43 | Weblog
今までの 代宗、德宗、順宗・憲宗、宣宗史を
PDF形式でデータをアップロードしました。
代宗史
德宗史
順宗憲宗史
宣宗史

リンクをクリックするとPDFが開きます。

次回からは 文宗史 をと考えています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大暦十二~十四年  西暦777~79年

2020-04-16 10:01:47 | Weblog
三月庚午,赦田承嗣。
承嗣も相続く敗戦に疲弊し、唐朝もまた財政破綻し継戦能力が乏しくなってきたための妥協である。実質なんの処罰もなく奪った領土はそのままである。この戦役の最大利得者は淄青平盧李正己である、徐鄆曹濮兗五州を取り最大藩鎭となった。他に成德は滄州を取り、淮西李忠臣は豊かな汴州へ移鎭した。承嗣は相衛洺州を得たとは言え、瀛滄德州を失い、軍には大きな損害を受け、以降は意気消沈していった。

三月辛巳,元載有罪伏誅。貶王縉為括州刺史。
代宗は専横する元載に不満を持ち誅殺した。当然与党も弾圧し、無能な縉も左遷された。代宗はふだんは優柔不断で寵臣を盲信し、限界が来ると豹変して徹底排除するという傾向がある。來瑱・李輔國・魚朝恩・元載とつながる。

四月壬午,楊綰・常衮を宰相とする。
本来綰が主役であったが、病身で七月に卒する。そのため衮が専権するが、元載ほどはアクが強くなかった。

五月~十二月、吐蕃が劍南・山西・坊州に来寇する。
大事には至らない。

大暦十三年(丙辰,西暦778年)
------------------------------------------------------------
正月戊辰,回紇寇太原,留後鮑防敗績。
二月代州都督張光晟擊破回紇。
回紇との関係が悪化[回紇が唐朝を軽視して横暴になったため]、

二月己亥,吐蕃寇靈州。四月甲辰,吐蕃寇靈州。七月辛未,吐蕃寇鹽、慶二州。八月吐蕃二萬衆寇銀、麟州。九月庚午,吐蕃涇州。
唐朝と回紇の関係悪化を知り、吐蕃が頻繁に侵攻してくるようになった。崔寧が防備を固めている劍南は避けている。

大暦十四年(丙辰,西暦779年)
------------------------------------------------------------
二月癸未,魏博節度使田承嗣薨。
子は幼く、甥の悅が自立し唐朝はあきらめて追認。

三月丁未,淮西節度使李忠臣は傲慢となり、軍士の怒りをかって族子の希烈逐われた。
忠臣は京師に亡命したが、いままでの功績を評価され宰相格にされた。
希烈は継承を認められたが蔡州刺史とされ、要地の汴穎二州は永平軍李勉の下に移された。

五月辛酉,代宗崩御。
衰退期に優柔不断で失策を重ねた皇帝であるが、郭子儀に野心が無かったことで王朝を維持することができた。各地に有力藩鎭ができ、關内と江淮以外はまともに支配していなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする