不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宰相一覧[除皇族]51.陸敦信

2015-01-31 10:01:18 | Weblog
陸敦信。字は?。
儒学者明の子。
[新・旧唐書ともに伝がない]
儒学者として出仕していたと思われる。
麟二年左侍極(散騎常侍)より検校右相(中書令)として宰相。
(旧傳では龍朔中に同東西台三品として相と記載があるが)
嘉興縣子に封ぜられる。
乾封元年老齢のため相を罷め大司成(国子祭酒)兼左侍極となる。
以降不明。
[宰相履歴]
麟2年4月検校右相~乾封1年4月罷
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相一覧[除皇族]50.姜恪

2015-01-30 10:10:26 | Weblog
姜恪。字は?。
右武衛大將軍寶誼(唐初に劉武周將宋金剛と戦い敗死)の子。
[新・旧唐書ともに伝がない]
武官出身のようであるがおどろくほどデータがない。
龍朔2年左衛将軍として契苾何力に従い鐵勒を伐つ。
總章二年司戎太常伯(兵部尚書)から検校左相(侍中)として宰相に。
軍事には長けていたが、同僚の画家で有名な右相閻立本
と並び宰相としては評価されなかった。
主に対吐谷渾・吐蕃対策にあたった。
咸亨元年涼州道行軍大總管として吐蕃を防ぐ。
咸亨3年2月卒する。永安郡公であった。
[宰相履歴]
麟2年3月司戎太常伯同東西臺三品~總章元年12月検校左相
~咸亨元年閏9月涼州道行軍大總管~2年侍中~3年2月薨
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相一覧[除皇族]49.孫處約

2015-01-29 10:10:28 | Weblog
孫處約。字は?。初名道茂。
汝州郟城人也。
若年、來濟・高智周・郝處俊・孫處約等は友人であった。
貞觀中,齊王祐の過失を諫めたことを太宗に賞される。
その後濟の推薦もあり通事舎人・中書舎人へと進む。
知制誥として非常に有能であった。
「太宗實錄」を編纂。
麟元年中書侍郎に進み同東西臺三品として相となる。
武后の諱を避けて,改名茂道。
麟二年免ぜられて司禮少常伯(禮部侍郎)となる。
顯慶中に少司成(国子司業)として致仕しついで卒する。
子の佺は睿宗時に左羽林大將軍として契丹と戦い敗死。
[宰相履歴]
麟元年12月西臺侍郎同知軍國政事~同東西臺三品~2年4月罷

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相一覧[除皇族]48.樂彥瑋

2015-01-28 10:01:50 | Weblog
樂彥瑋。字は?。雍州長安人。
顯慶中に給事中になる。
唐州刺史に出されるが、拝辭の時に高宗に気に入られ東台舎人(給事中)。
その後太子右中護検校西台侍郎(中書侍郎)より同東西台三品
として相となる。
乾封元年相を罷め大司憲(御史大夫)。
咸亨元年8月薛仁貴の対吐蕃敗戦の責任を審査。
上元三年に卒する。贈秦/齊州都督
子の思晦も宰相となる。
[宰相履歴]
麟元年12月西臺侍郎同知軍國政事~同東西臺三品~2年4月罷

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相一覧[除皇族]47.竇玄

2015-01-27 10:29:27 | Weblog
竇玄。字は?。
[旧唐書には伝がない]
高祖に仕えて丞相府千牛
太宗時は用いられなかった。
高宗になり殿中少監から御史大夫。
そして司元太常伯(戸部尚書)。
麟初,檢校左相に進み宰相となる。
特段の才能はないが謹厳で実直であった
ので高宗に好まれた。
封鉅鹿縣男
乾封元年69才で卒する。
贈光祿大夫,幽州都督,諡曰恭。
[宰相履歴]
麟元年8月司元太常伯検校左相~乾封元年8月薨
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相一覧[除皇族]46.劉道

2015-01-26 10:19:55 | Weblog
劉祥道。字同壽。魏州觀城人也。
父林甫は中書侍郎・樂平男。
祥道は父の爵位を嗣ぎ、
永徽初に中書舎人・御史中丞・吏部侍郎を歴任する。
顯慶二年黃門侍郎仍知吏部選事となるが、濫用する傾向があった。
修禮の功で陽城縣侯。
四年刑部尚書となり姑息。
龍朔元年權檢校蒲州刺史。
三年兼檢校雍州長史
にわかに右相として宰相になった。
小心であり、宰相の地位を懼れて解任を請い、
司禮太常伯に転じた。
儀礼には通じており封禪の功績にて廣平郡公。
乾封元年金紫光祿大夫致仕。其年に71才で卒する。
贈幽州都督,謚曰宣。子の齊賢が襲爵し、宰相に至った。
[宰相履歴]
麟元年8月司列太常伯兼右相~12月罷

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相一覧[除皇族]45.上官儀

2015-01-25 10:17:51 | Weblog
上官儀。字は遊韶。
父弘は隋江都宮副監
大業末父が乱殺され隠れて僧となる。
貞觀初楊恭仁にその文辭の才を見いだされ進士。
弘文館直學士。秘書郎。
太宗にも好まれ、起居郎。
高宗嗣位秘書少監に転じる。
龍朔二年銀青光祿大夫西台侍郎同東西台三品兼弘文館學士
として宰相に連なる。
詞や五言詩にすぐれる,
高宗が専権を振るう武后を厭い、廃后の文を起案させたこと
がばれて誅殺。軟弱な高宗は責任を彼に押しつけて頬被りし
たわけで、以降皇帝は飾り物になり、官僚は武后に従うようになった。
中宗時に孫娘が昭容として寵遇され復官・贈中書令秦州都督楚國公。
[宰相履歴]
龍朔2年10月西臺侍郎同東西臺三品~麟元年12月殺
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相一覧[除皇族]44.盧承慶

2015-01-24 10:15:35 | Weblog
盧承慶。字は子餘。
幽州范陽人。
隋武陽太守思道孫。
父の赤松は起義時に活躍し范陽郡公。
承慶は風采が良く博學であり父爵を嗣ぐ。
貞觀初に秦州都督府戶曹參軍。
考功員外郎より累遷し民部侍郎。
兼檢校兵部侍郎仍知五品選事。
雍州別駕、尚書左丞を歴任。
吏才が有り有能であった。
永徽初褚遂良に讒言され益州大都督府長史。
さらに簡州司馬に左遷。
洪州長史に転じる。
遂良失脚後、起用されて汝州刺史
光祿卿となる。
顯慶四年度支尚書仍同中書門下三品として相に連なる。
しかし不正があり貶潤州刺史
雍州長史に戻り銀青光祿大夫を加えられる。
總章二年刑部尚書となるが致仕する。
金紫光祿大夫を加。
三年76才で病卒。
贈幽州都督,謚曰定。
[宰相履歴]
顯慶4年5月度支尚書参知政事~11月同中書門下三品~5年7月免
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相一覧[除皇族]43.任雅相

2015-01-23 10:13:03 | Weblog
任雅相。字は不明。
[新旧唐書ともに伝がない]
渭南人。
武官であったはず。
顯慶二年燕然都護として西突厥討伐に従う。
四年兵部尚書として參知政事として宰相につらなる。
安樂縣公。
龍朔元年浿江道行軍總管として高麗を伐つ。
二年正月軍中で卒する。
人事に公正で賞罰も公平であり、將士はよく服していた。。
[宰相履歴]
顯慶4年5月兵部尚書同中書門下三品~龍朔元年4月浿江
道行軍大總管~2年2月薨
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相一覧[除皇族]42.許圉師

2015-01-22 10:11:47 | Weblog
許圉師。字は?。
安陸郡公紹の子。
進士に合格し、給事中に至り。
顯慶二年黃門侍郎同中書門下三品兼修國史として宰相に連なる。
三年實錄編集の功籍で平恩縣男[のち縣公に至る]。
やがて左相に昇進する。
子が狩猟で田畑を荒らし、抗議した民を射つという事件を起こした。
圉師はこれを隠蔽しようとし、
李義府に弾劾され高宗の怒りをかい免官となった。
やがて赦されて虔州刺史、相州刺史として善政をしいた。
廉潔で寛厚であった。
戶部尚書に進み卒する。
贈幽州都督,諡曰簡
[宰相履歴]
顯慶4年4月黄門侍郎兼検校左庶子同中書門下三品~5月中書侍郎同中書門下三品
~10月兼右庶子~11月左散騎常侍検校侍中~龍朔2年正月改称左侍極検校左相
~11月貶
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相一覧[除皇族]41.辛茂將

2015-01-22 10:10:28 | Weblog
辛茂將。字は?。
隴西狄道人。
[新旧唐書ともに伝がない]
司法を専門としていたらしく、中書侍郎・大理卿となる。
顯慶三年兼侍中として宰相になる。
四年左庶子を兼ねる。
七月長孫無忌の朋党事件[もちろん讒言である]を取り調べる。
十一月に卒する。
[宰相履歴]
顯慶3年11月大理卿兼侍中~4年9月兼左庶子~11月薨
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相一覧[除皇族]40.杜正倫

2015-01-21 10:09:25 | Weblog
杜正倫。字は?。
相州洹水人也。
隋仁壽中,優秀な家系に生まれ、本人も秀才に合格。
武中,齊州總管府錄事參軍。
秦王に秦府文學館に招聘される。
貞觀元年魏徵の推薦により兵部員外郎。
二年給事中兼知起居注。
太宗が起居注(公的な日記)を見たがるのを諫言。
四年中書侍郎となる。
ついで散騎常侍・行太子右庶子兼崇賢館學士。
十年復中書侍郎・南陽縣侯・兼太子左庶子。
太子承乾に太宗の言を洩らしたとして貶谷州刺史
さらに貶交州都督。
承乾が廃されると配流驩州。
顯慶元年高宗に起用され黃門侍郎兼崇賢館學士
ついで同中書門下三品として宰相に連なる。
二年兼度支尚書
中書令兼太子賓客・弘文館學士・進封襄陽縣公に昇進。
三年李義府の不正を帝前で弾劾して争い、貶州刺史,削邑。
ついで卒した。
[宰相履歴]
顯慶元年3月黄門侍郎同中書門下三品~2年3月兼度支尚書
~9月兼中書令~3年11月貶
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相一覧[除皇族]39.李義府

2015-01-20 10:03:12 | Weblog
李義府。字は?。
瀛州饒陽人也。
祖は梓州射洪縣丞と言うが家門は低い。
貞觀八年李大亮に推薦され對策に合格し門下省典儀。
ついで監察御史。
晉王に仕えもその立太子とともに太子舎人崇賢館直學士
文辭や修史にすぐれていた。
高宗が即位すると中書舎人。
永徽二年兼修國史・弘文館學士。
しかし寒門出身のため長孫無忌等の貴族集団からは冷遇されていた。
反感からか高宗が武氏を立后しようとするのを強く支持する。
その功績により中書侍郎同中書門下三品・監修國史・廣平縣男。
有力な武后支持派となり、武后より寵遇される。
表面的には人となり融和であるが、内心は冷酷であり「李貓」と言われる。
顯慶元年に本官兼太子右庶子・進爵為侯。
罪人の美女を私して弾劾されるなど品位は賤しいものがあった。
兼太子左庶子。
二年中書令兼檢校御史大夫監修國史學士に昇進。
ついで加太子賓客,進封河間郡公。
私欲を追い、収賄に励む。
杜正倫に告発され帝前で争い両人とも地方へ出され普州刺史。
しかし則天の支援により
四年復召義府兼吏部尚書同中書門下三品と宰相に返り咲く。
龍朔二年司列太常伯同東西台三品。
あいからわず収賄・売官・専権が目立ち、高宗に嫌われるようになる。
殷王府兼王府長史。
三年右相・殷王府長史仍知選事に移る。
さすがに則天も庇いきれなくなり
龍朔三年除名され流される。
それでも則天の力で赦されると期待していたが、
乾封元年の大赦に預かれず、50才で憤死。
如意元年則天時代となり贈揚州大都督。
子の湛は右散騎常侍・襲河間郡公となった。
[宰相履歴]
①永徽6年7月守中書侍郎参知政事~顯慶2年3月兼中書令
兼檢校御史大夫仍太子賓客~3年11月貶
②顯慶4年8月吏部尙書同中書門下三品~龍朔3年正月右相~4月流
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相一覧[除皇族]38.崔敦禮

2015-01-19 10:15:19 | Weblog
崔敦禮。字安上。本名元禮。雍州咸陽人
隋禮部尚書仲方孫。
文史に通じて節義がある。
武中,通事舎人となり、
九年太宗に認められ左衛郎將。
貞觀元年中書舎人、兵部侍郎に進み突厥への使節となる。
靈州都督を経て二十年,征為兵部尚書。
また回紇・鐵勒を招慰する。
永徽四年侍中仍修國史・固安縣公として相となる。
六年光祿大夫,中書令となり、ついで檢校太子事を兼ねる。
老疾を以って致仕を願い、顯慶元年太子少師同中書門下三品。
ついで66才で卒した。
子の餘慶は兵部尚書にいたる。
[宰相履歴]
永徽4年11月侍中~6年7月中書令~10月検校太子事
~顯慶元年7月太子少師同中書門下三品~8月薨
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相一覧[除皇族]37.來濟

2015-01-18 10:13:38 | Weblog
來濟。字は不明。揚州江都人
隋左翊衛大將軍榮國公護の子。
宇文化及の乱により一家離散。
学を好み文詞に通じている。
進士となり貞觀中通事舎人。
考功員外郎より十八年太子司議郎兼崇賢館直學士。
ついで中書舎人となり「晉書」を撰する。
永徽二年中書侍郎兼弘文館學士監修國史。
四年同中書門下三品として宰相に連なる。
五年加銀青光祿大夫・南陽縣男
六年中書令檢校吏部尚書に移る。
長孫無忌の貴族派閥に属し、高宗が王皇后を廃する事
に反対する。
武皇后立ち辭職を申し出るが認められず。
顯慶元年兼太子賓客・南陽縣侯に進む,中書令如故。
二年兼太子事。
ついで台州刺史に貶せられる。
五年さらに僻地の庭州刺史へ貶せられる。
龍朔二年突厥入寇時に自殺的攻撃をして戦死。53才。
贈楚州刺史
兄の恒もまた宰相となる。
[宰相履歴]
永徽3年3月守黄門侍郎同中書門下三品~6年5月侍中
~顯慶元年正月兼太子賓客~2年8月貶
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする