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長慶元年[西暦819年]
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◎.3月 薛平は新羅人を拉致して奴隷化している海賊の鎮圧すべきと上奏。
◎.11月 幽州朱克融・成德王廷湊が反し、その軍が棣州を攻めた。節度使薛平は大將李叔佐を送り支援させた。刺史王稷[鍔の子]は吝嗇であったので、傲慢な淄青兵達は突將馬廷崟を擁して反し、青州へ迫った。平は留守軍が少ないので、府庫家財をさらえて精兵を召募しこれを破った。
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寶暦元年[西暦823年]
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◎.5月 薛平は檢校尚書右僕射,封魏國公に至り、兵備を完備し、租税も公平であっため、民の支持も高かった。入朝し検校右僕射兼戸部尚書となった。6月すぐ河中節度使へ任用された。
◎.4月 後任、右神策大将軍康志睦[字得衆]は旧成徳将康日知[同州奉誠軍節度使]の子。神策軍に勤務し大将軍に進み。張韶の変に功績があり、平盧軍節度使淄青登來棣等州観察處置等使兼押新羅渤海両蕃等使銀青光禄大夫検校工部尚書御史大夫上柱國會稽縣開國公食邑一千戸となる。
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太和元年[西暦825年]
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◎.正月 康志睦、加檢校右/左僕射。討横海李同捷のため。滄州蒲台縣を陥す功績があった。
◎.方鎭表では太和元年に齊州が横海節度使に移っているが、宝暦元年赴任の康志睦の所管には入っておらず、正確な移管年は不明。天平烏重胤の横海兼任に関連するかも。
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太和五年[西暦829年]
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◎.11月頃 康志睦は檢校左僕射右龍武統軍へ移った。
◎.11月 検校右僕射鳳翔隴右節度使襲岐國公王承元が検校司空兼御史大夫青州刺史充平盧軍節度使となった。
承元は成德節度使士真の次男、承宗の弟であり、承宗の没後成德節度使を唐朝に返上して義成節度使に移った。その後鄜坊・鳳翔と移動していた。旧淄青領域では均輸鹽法が実できていなかったが、これを施行した。
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太和六年
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◎.9月 淄青初定兩稅額,五州一十九萬三千九百八十九貫,淄青から始めて上供があった。
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太和七年
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◎.12月 節度使王承元が卒した。33歳、贈司徒。寬惠有制,所理稱治と称された。
◎.12月 河南尹嚴休復が檢校禮部尚書充平盧軍節度淄青登萊棣觀察等使となった。
初の文官出身の淄青節度使である。太和8年までは在任。
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太和九年[西暦833年]
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◎.2月 司農卿王彥威兼御史大夫充平盧軍節度使。文官である。平和となり淄青の重要度が下がってきている。
◎.10月 彥威は管内縣丞一十九員を停止した。
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開成元年[西暦834年]
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◎.7月 甘露の変で功績があった金吾衛大將軍陳君賞を平盧軍節度使とし、王彥威は戸部侍郎判度支となる。
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開成四年[西暦837年]
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◎.7月 河南尹韋長が平盧軍節度使となり、陳君賞は11月右金吾大将軍知軍事に戻る。
韋長は開成5年まで?。文官です。
◎.7月 管内が大水。
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會昌元年[西暦839年]
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◎.會昌1~2 節度使烏漢眞/漢貞[重胤の子]、左金吾将軍へ。武官です。
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會昌三年[西暦841年]
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◎.會昌3~4 節度使李玭[晟の子]。鳳翔節度から?。武官です。
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會昌五年[西暦843年]
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◎.會昌5~6 節度使崔蠡。天平節度へ?。文官です。
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大中元年[西暦845年]
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◎.9月~3年 節度使鄭光[宣宗の母鄭太后の弟]。金吾大將軍より。無能です。河中節度へ。
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大中三年[西暦847年]
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◎.大中3~4 検校左常侍.節度使鄭涓[宰相餘慶の族子.字道一]。
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大中四年
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◎.大中4~6 節度使孫範[簡の弟]。文官です。大府卿へ。
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大中六年[西暦850年]
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◎.大中6~9 檢校禮部尚書節度使韋博[黃裳孫.字大業]。京兆尹から左遷された衛尉卿より。昭義節度へ。文官です。
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大中九年[西暦853年]
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◎.大中9~12 節度使李琢[晟の孫.聴の子]。武官です。金吾将軍より。
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大中十二年[西暦856年]
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◎.大中12~13 節度使令狐緒[宰相令狐綯の兄/弟]。汝州刺史より?。文官です。
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大中十三年
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◎.大中13~咸通2 検校戸部尚書青州刺史平盧軍節度使韋澳[宰相貫之の子.字子斐]。河陽節度使より。戸部侍郎へ。文官です。
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咸通二年[西暦861年]
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◎.咸通2~3 節度使封敖。檢校吏部尚書太常卿より?。戸部尚書へ?。文官です。
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咸通三年
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◎.咸通3~4 通議大夫上柱國襲岐國公食邑三千戸實封三百七十戸賜紫金魚袋検校刑部尚書兼青州刺史御史大夫充平盧軍節度使登來棣州観察處置等使李璲[晟の孫。愿の子]。武官です。
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咸通四年
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◎.咸通4~6.7 節度使崔執柔。文官です。6年7月卒。
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咸通五年
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◎.方鎭表では、このころ一時、齊棣二州が天平節度使に移管され、また復領されたとあるが、理由も不明であり、実際にあったのかも不明。
●.咸通7年~11年の期間の節度使は不明
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咸通十一年[西暦870年]
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◎.咸通11~13 節度使于涓/琄[宰相琮の兄弟]。文官です。
13年5月 前青州刺史平盧軍節度使于涓が于琮に坐し涼王府長史分司東都に貶される。
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咸通十四年[西暦873年]
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◎.咸通14~乾符5 節度使宋威。武官です。
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乾符二年[西暦年875]
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◎.通鑑12月 王仙芝寇沂州,平盧節度使宋威表請以步騎五千別為一使,兼帥本道兵所在討賊。乃以威為諸道行營招討草賊使,仍給禁兵三千、甲騎五百。因詔河南方鎮所遣討賊都頭並取威處分
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乾符四年[西暦877年]
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◎.旧紀3月 節度使宋威、諸道招討草賊使仍給禁兵三千甲馬五百匹として討王仙芝。
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乾符五年
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◎.通鑑9月 平盧軍奏節度使宋威薨。諸道行營招討使曾元裕領平盧節度使。
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乾符六年
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◎.乾符5~6 青州刺史淄青節度使楊損。陝虢観察使より。檢校刑部尚書天平節度使へ転任するが、未就任で青州で卒する。文官です。
◎.乾符6~中和2.9 節度使安師順。
長慶元年[西暦819年]
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◎.3月 薛平は新羅人を拉致して奴隷化している海賊の鎮圧すべきと上奏。
◎.11月 幽州朱克融・成德王廷湊が反し、その軍が棣州を攻めた。節度使薛平は大將李叔佐を送り支援させた。刺史王稷[鍔の子]は吝嗇であったので、傲慢な淄青兵達は突將馬廷崟を擁して反し、青州へ迫った。平は留守軍が少ないので、府庫家財をさらえて精兵を召募しこれを破った。
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寶暦元年[西暦823年]
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◎.5月 薛平は檢校尚書右僕射,封魏國公に至り、兵備を完備し、租税も公平であっため、民の支持も高かった。入朝し検校右僕射兼戸部尚書となった。6月すぐ河中節度使へ任用された。
◎.4月 後任、右神策大将軍康志睦[字得衆]は旧成徳将康日知[同州奉誠軍節度使]の子。神策軍に勤務し大将軍に進み。張韶の変に功績があり、平盧軍節度使淄青登來棣等州観察處置等使兼押新羅渤海両蕃等使銀青光禄大夫検校工部尚書御史大夫上柱國會稽縣開國公食邑一千戸となる。
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太和元年[西暦825年]
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◎.正月 康志睦、加檢校右/左僕射。討横海李同捷のため。滄州蒲台縣を陥す功績があった。
◎.方鎭表では太和元年に齊州が横海節度使に移っているが、宝暦元年赴任の康志睦の所管には入っておらず、正確な移管年は不明。天平烏重胤の横海兼任に関連するかも。
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太和五年[西暦829年]
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◎.11月頃 康志睦は檢校左僕射右龍武統軍へ移った。
◎.11月 検校右僕射鳳翔隴右節度使襲岐國公王承元が検校司空兼御史大夫青州刺史充平盧軍節度使となった。
承元は成德節度使士真の次男、承宗の弟であり、承宗の没後成德節度使を唐朝に返上して義成節度使に移った。その後鄜坊・鳳翔と移動していた。旧淄青領域では均輸鹽法が実できていなかったが、これを施行した。
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太和六年
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◎.9月 淄青初定兩稅額,五州一十九萬三千九百八十九貫,淄青から始めて上供があった。
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太和七年
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◎.12月 節度使王承元が卒した。33歳、贈司徒。寬惠有制,所理稱治と称された。
◎.12月 河南尹嚴休復が檢校禮部尚書充平盧軍節度淄青登萊棣觀察等使となった。
初の文官出身の淄青節度使である。太和8年までは在任。
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太和九年[西暦833年]
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◎.2月 司農卿王彥威兼御史大夫充平盧軍節度使。文官である。平和となり淄青の重要度が下がってきている。
◎.10月 彥威は管内縣丞一十九員を停止した。
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開成元年[西暦834年]
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◎.7月 甘露の変で功績があった金吾衛大將軍陳君賞を平盧軍節度使とし、王彥威は戸部侍郎判度支となる。
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開成四年[西暦837年]
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◎.7月 河南尹韋長が平盧軍節度使となり、陳君賞は11月右金吾大将軍知軍事に戻る。
韋長は開成5年まで?。文官です。
◎.7月 管内が大水。
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會昌元年[西暦839年]
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◎.會昌1~2 節度使烏漢眞/漢貞[重胤の子]、左金吾将軍へ。武官です。
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會昌三年[西暦841年]
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◎.會昌3~4 節度使李玭[晟の子]。鳳翔節度から?。武官です。
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會昌五年[西暦843年]
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◎.會昌5~6 節度使崔蠡。天平節度へ?。文官です。
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大中元年[西暦845年]
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◎.9月~3年 節度使鄭光[宣宗の母鄭太后の弟]。金吾大將軍より。無能です。河中節度へ。
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大中三年[西暦847年]
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◎.大中3~4 検校左常侍.節度使鄭涓[宰相餘慶の族子.字道一]。
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大中四年
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◎.大中4~6 節度使孫範[簡の弟]。文官です。大府卿へ。
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大中六年[西暦850年]
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◎.大中6~9 檢校禮部尚書節度使韋博[黃裳孫.字大業]。京兆尹から左遷された衛尉卿より。昭義節度へ。文官です。
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大中九年[西暦853年]
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◎.大中9~12 節度使李琢[晟の孫.聴の子]。武官です。金吾将軍より。
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大中十二年[西暦856年]
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◎.大中12~13 節度使令狐緒[宰相令狐綯の兄/弟]。汝州刺史より?。文官です。
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大中十三年
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◎.大中13~咸通2 検校戸部尚書青州刺史平盧軍節度使韋澳[宰相貫之の子.字子斐]。河陽節度使より。戸部侍郎へ。文官です。
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咸通二年[西暦861年]
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◎.咸通2~3 節度使封敖。檢校吏部尚書太常卿より?。戸部尚書へ?。文官です。
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咸通三年
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◎.咸通3~4 通議大夫上柱國襲岐國公食邑三千戸實封三百七十戸賜紫金魚袋検校刑部尚書兼青州刺史御史大夫充平盧軍節度使登來棣州観察處置等使李璲[晟の孫。愿の子]。武官です。
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咸通四年
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◎.咸通4~6.7 節度使崔執柔。文官です。6年7月卒。
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咸通五年
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◎.方鎭表では、このころ一時、齊棣二州が天平節度使に移管され、また復領されたとあるが、理由も不明であり、実際にあったのかも不明。
●.咸通7年~11年の期間の節度使は不明
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咸通十一年[西暦870年]
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◎.咸通11~13 節度使于涓/琄[宰相琮の兄弟]。文官です。
13年5月 前青州刺史平盧軍節度使于涓が于琮に坐し涼王府長史分司東都に貶される。
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咸通十四年[西暦873年]
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◎.咸通14~乾符5 節度使宋威。武官です。
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乾符二年[西暦年875]
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◎.通鑑12月 王仙芝寇沂州,平盧節度使宋威表請以步騎五千別為一使,兼帥本道兵所在討賊。乃以威為諸道行營招討草賊使,仍給禁兵三千、甲騎五百。因詔河南方鎮所遣討賊都頭並取威處分
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乾符四年[西暦877年]
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◎.旧紀3月 節度使宋威、諸道招討草賊使仍給禁兵三千甲馬五百匹として討王仙芝。
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乾符五年
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◎.通鑑9月 平盧軍奏節度使宋威薨。諸道行營招討使曾元裕領平盧節度使。
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乾符六年
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◎.乾符5~6 青州刺史淄青節度使楊損。陝虢観察使より。檢校刑部尚書天平節度使へ転任するが、未就任で青州で卒する。文官です。
◎.乾符6~中和2.9 節度使安師順。