唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淄青平盧軍節度使史4

2020-09-30 10:00:27 | Weblog
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長慶元年[西暦819年]
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◎.3月 薛平は新羅人を拉致して奴隷化している海賊の鎮圧すべきと上奏。
◎.11月 幽州朱克融・成德王廷湊が反し、その軍が棣州を攻めた。節度使薛平は大將李叔佐を送り支援させた。刺史王稷[鍔の子]は吝嗇であったので、傲慢な淄青兵達は突將馬廷崟を擁して反し、青州へ迫った。平は留守軍が少ないので、府庫家財をさらえて精兵を召募しこれを破った。
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寶暦元年[西暦823年]
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◎.5月 薛平は檢校尚書右僕射,封魏國公に至り、兵備を完備し、租税も公平であっため、民の支持も高かった。入朝し検校右僕射兼戸部尚書となった。6月すぐ河中節度使へ任用された。
◎.4月 後任、右神策大将軍康志睦[字得衆]は旧成徳将康日知[同州奉誠軍節度使]の子。神策軍に勤務し大将軍に進み。張韶の変に功績があり、平盧軍節度使淄青登來棣等州観察處置等使兼押新羅渤海両蕃等使銀青光禄大夫検校工部尚書御史大夫上柱國會稽縣開國公食邑一千戸となる。
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太和元年[西暦825年]
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◎.正月 康志睦、加檢校右/左僕射。討横海李同捷のため。滄州蒲台縣を陥す功績があった。
◎.方鎭表では太和元年に齊州が横海節度使に移っているが、宝暦元年赴任の康志睦の所管には入っておらず、正確な移管年は不明。天平烏重胤の横海兼任に関連するかも。
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太和五年[西暦829年]
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◎.11月頃 康志睦は檢校左僕射右龍武統軍へ移った。
◎.11月 検校右僕射鳳翔隴右節度使襲岐國公王承元が検校司空兼御史大夫青州刺史充平盧軍節度使となった。
承元は成德節度使士真の次男、承宗の弟であり、承宗の没後成德節度使を唐朝に返上して義成節度使に移った。その後鄜坊・鳳翔と移動していた。旧淄青領域では均輸鹽法が実できていなかったが、これを施行した。
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太和六年
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◎.9月 淄青初定兩稅額,五州一十九萬三千九百八十九貫,淄青から始めて上供があった。
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太和七年
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◎.12月 節度使王承元が卒した。33歳、贈司徒。寬惠有制,所理稱治と称された。
◎.12月 河南尹嚴休復が檢校禮部尚書充平盧軍節度淄青登萊棣觀察等使となった。
初の文官出身の淄青節度使である。太和8年までは在任。
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太和九年[西暦833年]
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◎.2月 司農卿王彥威兼御史大夫充平盧軍節度使。文官である。平和となり淄青の重要度が下がってきている。
◎.10月 彥威は管内縣丞一十九員を停止した。
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開成元年[西暦834年]
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◎.7月 甘露の変で功績があった金吾衛大將軍陳君賞を平盧軍節度使とし、王彥威は戸部侍郎判度支となる。
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開成四年[西暦837年]
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◎.7月 河南尹韋長が平盧軍節度使となり、陳君賞は11月右金吾大将軍知軍事に戻る。
韋長は開成5年まで?。文官です。
◎.7月 管内が大水。
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會昌元年[西暦839年]
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◎.會昌1~2 節度使烏漢眞/漢貞[重胤の子]、左金吾将軍へ。武官です。
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會昌三年[西暦841年]
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◎.會昌3~4 節度使李玭[晟の子]。鳳翔節度から?。武官です。
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會昌五年[西暦843年]
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◎.會昌5~6 節度使崔蠡。天平節度へ?。文官です。
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大中元年[西暦845年]
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◎.9月~3年 節度使鄭光[宣宗の母鄭太后の弟]。金吾大將軍より。無能です。河中節度へ。
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大中三年[西暦847年]
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◎.大中3~4 検校左常侍.節度使鄭涓[宰相餘慶の族子.字道一]。
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大中四年
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◎.大中4~6 節度使孫範[簡の弟]。文官です。大府卿へ。
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大中六年[西暦850年]
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◎.大中6~9 檢校禮部尚書節度使韋博[黃裳孫.字大業]。京兆尹から左遷された衛尉卿より。昭義節度へ。文官です。
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大中九年[西暦853年]
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◎.大中9~12 節度使李琢[晟の孫.聴の子]。武官です。金吾将軍より。
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大中十二年[西暦856年]
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◎.大中12~13 節度使令狐緒[宰相令狐綯の兄/弟]。汝州刺史より?。文官です。
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大中十三年
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◎.大中13~咸通2 検校戸部尚書青州刺史平盧軍節度使韋澳[宰相貫之の子.字子斐]。河陽節度使より。戸部侍郎へ。文官です。
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咸通二年[西暦861年]
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◎.咸通2~3 節度使封敖。檢校吏部尚書太常卿より?。戸部尚書へ?。文官です。
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咸通三年
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◎.咸通3~4 通議大夫上柱國襲岐國公食邑三千戸實封三百七十戸賜紫金魚袋検校刑部尚書兼青州刺史御史大夫充平盧軍節度使登來棣州観察處置等使李璲[晟の孫。愿の子]。武官です。
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咸通四年
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◎.咸通4~6.7 節度使崔執柔。文官です。6年7月卒。
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咸通五年
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◎.方鎭表では、このころ一時、齊棣二州が天平節度使に移管され、また復領されたとあるが、理由も不明であり、実際にあったのかも不明。
●.咸通7年~11年の期間の節度使は不明
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咸通十一年[西暦870年]
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◎.咸通11~13 節度使于涓/琄[宰相琮の兄弟]。文官です。
13年5月 前青州刺史平盧軍節度使于涓が于琮に坐し涼王府長史分司東都に貶される。
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咸通十四年[西暦873年]
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◎.咸通14~乾符5 節度使宋威。武官です。
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乾符二年[西暦年875]
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◎.通鑑12月 王仙芝寇沂州,平盧節度使宋威表請以步騎五千別為一使,兼帥本道兵所在討賊。乃以威為諸道行營招討草賊使,仍給禁兵三千、甲騎五百。因詔河南方鎮所遣討賊都頭並取威處分
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乾符四年[西暦877年]
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◎.旧紀3月 節度使宋威、諸道招討草賊使仍給禁兵三千甲馬五百匹として討王仙芝。
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乾符五年
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◎.通鑑9月 平盧軍奏節度使宋威薨。諸道行營招討使曾元裕領平盧節度使。
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乾符六年
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◎.乾符5~6 青州刺史淄青節度使楊損。陝虢観察使より。檢校刑部尚書天平節度使へ転任するが、未就任で青州で卒する。文官です。
◎.乾符6~中和2.9 節度使安師順。 
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淄青平盧軍節度使史3

2020-09-29 10:00:35 | Weblog
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貞元六年[西暦789年]
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◎.3月 成德王武俊領となっていた棣州刺史趙鎬が、魏博田悦の指嗾をうけて、淄青納に附いた。武俊は怒って子士真に攻撃させたが勝てなかった。
◎.5月 武俊は自ら棣州を攻撃し、鎬は淄青に奔り、納は軍を派遣して防衛させた。
また武俊は田緒が納を助けたことを怒り、子士清に魏博を攻撃させ經城等四県を陥した。
◎.12月 納は棣州を武俊に戻し、武俊も經城等四県を緒に返した。しかし全ての地を戻したわけではなく、一部海浜の城郭は確保していた。
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貞元八年[西暦791年]
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◎.5月 檢校司徒同平章事淄青平盧節度使李納薨、34歳、贈太傅。
子の師古が自立する。
◎.8月 弱体な唐朝は追認するしかなく、青州刺史師古を起復右金吾大將軍員外同正鄆州大都督府長史平盧及青淄齊節度營田觀察海運陸運押新羅渤海兩蕃使とする。
◎.11月 納の時代、鹽利を得るため棣州に蛤蟲朵城,魏博田緒と通交するため德州三汊城を築城し、成德王武俊の領域を侵食していた。武俊は納の没後、師古が年少であるので両城を取ろうとした。師古は將趙鎬を派遣して守らせ,武俊は諦めた。
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貞元九年
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◎.4月 唐朝は争いの元である三汊城を廃棄させた。師古は不満ではあるが従ったが、他事では逆らうことが多かった。
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貞元十年
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◎.5月 師古、服闋,加檢校禮部尚書。
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貞元十二年[西暦795年]
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◎.正月 師古、加檢校尚書右僕射。
◎.11月 師古、丁母憂,起復左金吾上將軍同正。
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貞元十五年[西暦798年]
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◎.師古の妻を國夫人とする。
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貞元十六年
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◎.5月 師古、加加中書門下平章事。
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貞元二十一年/永貞元年[西暦803年]
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◎.2月 德宗崩御時、喪に乗じて隣地の義成軍の滑州攻撃を図るが、宣武韓弘が同ぜず中止。また淮西吳元濟と密かに軍事物資の交易を行っていた。
◎.7月 師古、加検校侍中。
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元和元年[西暦804年]
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◎.6月 師古、檢校司徒兼侍中。
◎.閏6月 師古薨。贈太傅。
師古と、その異母弟知密州事師道[作画と觱篥(ひちりき)演奏など芸術が趣味で、師古からは亡国の徒と罵られていた]とは極めて不仲であり、その継承を望んでいなかったが高沐や李公度など幕僚達は節度副使として擁立した。
◎.7/8月 憲宗皇帝は継承を許したくなかったが、師道は兩稅を収める、官吏を申請する、鹽法を行うと上奏してきた。憲宗は西川劉闢の平定が済まない状況であるので、師道を檢校左散騎常侍兼御史大夫權知鄆州事淄青節度留後とした。名目上は親王建王恪/審が開府儀同三司平盧軍淄青節度営田海運陸運押新羅渤海両蕃使.鄆州大都督である。
◎.10月 師道は平盧留後から加檢校工部尚書兼鄆州大都督府長史充平盧軍及淄青節度副大使知節度事管內支度營田觀察處置陸運海運押新羅渤海兩蕃等使となった。
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元和四年[西暦807年]
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◎.閏3月 魏徵の玄孫稠は貧窮し、邸宅を質に出した。師道は私財を投じてこれを入手しようとしたが、憲宗は稠に金を与えて阻止した。
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元和五年
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◎.7月 師道、加檢校右僕射
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元和七年[西暦810年]
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◎.11月 魏博節度使で、前使季安の幼子懷諫が廃され、田興(弘正)が擁立された時、師道は干渉出兵を企画し、宣武韓弘に阻止された。
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元和十年[西暦813年]
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◎.4月 自立し追討された淮西吳元濟を支援した。また刺客数十人を送り、軍糧が蓄積された河陰轉運院を焼き払った。
◎.6月 師道の刺客は京師で宰相武元衡を暗殺し、御史中丞裴度を負傷させました。憲宗は成德王承宗の仕業と誤認し、刺客達は無事に逃亡することが出来ました。
◎.8月 師道の刺客は東都で蜂起し宮闕を焼き払おうとして失敗し逃散しました。
◎.12月 師道兵は徐州を攻撃して蕭、沛數縣を破りましたが結局、武寧節度使李愿將王智興に撃退されました。
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元和十一年
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◎.11月 淮西軍が陵雲柵で敗北したと聞き、歸順を申し出ました。憲宗は成德・淮西の両面で戦っていたため師道を赦し、檢校司空としました。
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元和十三年[西暦816年]
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◎.正月 淮西吳元濟が滅び、師道は狼狽して幕僚の勧めを受けて、長子を人質に出すことと、沂、密、海三州を献上することを申し出、成德王承宗を憎む憲宗は受け入れようとしました。
◎.4月 孤立することを怖れた成德王承宗は、二子を人質にし、徳棣二州を献上することを申し出ました。憲宗は渋りましたが、魏博田弘正が強く願ったため受入れることとなりました。師道は優柔不断で妻が子を手放さないことと、諸将がまだ抵抗する兵力があると言い出したことに頼って帰服をしませんでした。もはや憲宗にとって師道は滅ぼす対象でしかありません。
◎.5月 忠武節度使李光顏を義成節度使とし師道を討つ準備を始めました。
◎.5月 棣州刺史河陽都知兵馬使曹華は商河に師道兵を破りました。
◎.7月 宣武韓弘・魏博田弘正・義成李光顔・武寧李愬・橫海軍に師道征討が下命されました。師道には味方は誰もいません。
◎.9月 宣武韓弘自ら軍を率いて曹州を囲む。
◎.11月 魏博田弘正、全軍を率いて黄河を渡り鄆州に迫る。
◎.12月 師道兵で降伏する者が多数でてきた。
◎.12月 武寧節度使李愬、陥金鄉。師道は懦怯頑固で敗北を認めないため敗戦を報告する者は誰もおらず裸の王様の状態であった。
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元和十四年
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◎.正月 宣武韓弘は考城を陥し,沐陽令梁洞が降り。武寧節度使李愬は魚台を陥した。
師道軍は多方面からの攻撃を受け潰乱状態となった。
◎.正月 魏博田弘正は淄青軍を東阿,陽谷に破った。
◎.2月 李聽は東海、朐山、懷仁等縣を陥し、李愬は丞縣を陥した。
◎.2月 淄青都知兵馬使劉悟[平盧節度使正臣の孫]は主力軍を率いて、田弘正軍と対峙していたが、相継ぐ敗報になすすべもなく、逡巡を重ねていた。状況把握の出来ていない師道は、この期に及んで悟を解任殺害しようとした。好機とみて悟は反旗を翻し鄆州に突入して師道父子を殺し、帰順した。高麗李氏は三代四名で終わり、子孫は嶺南に流された。
◎.2月 唐朝は淄青十二州を鄆、曹、濮為一道,淄、清、齊、登、萊為一道,兗、海、沂、密為一道の三分割とすることを決定した。
◎.2月 淄青兵馬使金紫光錄大夫試殿中監兼監察御史劉悟は淄青を継承できると期待していたが、檢校工部尚書滑州刺史充義成軍節度使,封彭城郡王食邑三千戸に任命された。
◎.3月 能吏である華州刺史馬總が鄆州刺史鄆曹濮等州節度使。武将義成節度使薛平が青州刺史平盧節度淄青齊登萊等州觀察使押新羅渤海兩蕃使。経済官僚淄青四面行營供軍使王遂が沂州刺史沂海兗密等州觀察使となった。
◎.薛平[字坦途]は高宗時の名将薛仁貴の曾孫であり、安史の乱後の相衛節度使嵩の子である。数の死後、若年でもあったので自立継承せず唐朝に帰属し、右衛將軍となり宿衛三十年。汝州刺史から左龍武大將軍.義成軍鄭滑節度使となった。軍門の出であり有能であったので、帰服してきた統治困難な淄青節度使の任にあてられたのであろう。
◎.7月 平盧軍に押新羅渤海兩蕃使,許置巡官一人を加える。
◎.7月 沂海兗密觀察使となった王遂は、性急に兵士を軍府経営のために酷使し、旧淄青兵が反乱し殺害された。
◎.9月 棣州刺史曹華が沂海兗密觀察使として入り、沂州兵1200を誅した。
◎.この歳、方鎭表によれば淄青節度使に棣州が増領されている。棣州刺史曹華の沂海節度への転出の影響か。
◎.巨大な淄青節度使が分割、直轄化されたことは唐朝にとっては良いことかもしれない。しかし民衆にとっては唐朝の還元はなく、中央への財貨の吸い上げによる苛酷な収奪に組み込まれた状況は悪化といえる。また強力な節度使による安定した治安維持もなくなり、唐末の騒乱が旧淄青・武寧地域で発生していることを考えると、帝国にとってはマイナスであったかもしれない。
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淄青平盧軍節度使史2

2020-09-28 10:00:12 | Weblog
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建中二年[西暦781年]
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◎.成德・魏博征討が始まると、観望し徐州に派兵して貢祖の輸送を妨害した。唐朝は驍將張萬福を派遣して警戒させた。
◎.8月 平盧淄青節度觀察使司徒太子太保同中書門下平章事李正己卒。
7月卒、8月発喪。49歳であった。子納は継承を求めるが許されず反し、魏博田悅に大將衛俊將兵萬人を送り支援した。
◎.納は淄青行軍司馬兼曹州刺史曹濮徐兗沂海留後兼御史大夫であったという。
◎.10月 徐州刺史李洧は正己の從父兄であり、甥納の自立を認めず徐州を以って唐朝に帰服した。また海州刺史王涉、密州刺史馬萬通とも共謀し、徐海沂密四州觀察使に任用されることを求めた。ところが宰相張鎰を通じて上奏したため、無視された盧杞が妨害した。洧は御史大夫充招諭使に留まった。
納は將王温と魏博將信都崇慶を急派して徐州を攻めた。唐朝は神策・朔方・宣武軍を救援させた。
◎.11月 宣武節度劉洽・神策將曲環・朔方唐朝臣は李納軍を徐州に大破した。
◎.11月 淮南節度使陳少游が擊海州、李納海州刺史王涉はただちに降り刺史となった。
◎.12月 李納密州刺史馬萬通が降り密州刺史となった。
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建中三年
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◎.淄青平盧節度使を廃して、淄青都団練観察使[領淄青登萊齊兗鄆七州.治靑州.統治者不明]に格下げし.徐沂海密都団練観察使[領徐沂海密州.治徐州.李洧が統治]曹濮都団練観察使[領曹濮二州.治濮州.劉洽が統治か?]を置く、徳棣二州は幽州朱滔に移管という唐朝の淄青節度使解体の机上プランである。
◎.正月 納はたちまち海、密二州を奪回し、洧の所有は徐州だけになった。
◎.2月 優勢な宣武節度使劉洽は濮州を攻め、納は歸順を考え、人質として弟弟經や子成務を送ると申し出た。しかし唐朝は継承に対して高姿勢で対応し、納は諦めた。
◎.3月 徐州刺史李洧兼徐海沂都團練觀察使となったが意味はなかった。
◎.4月 李納署德州刺史李士真と棣州刺史李長卿が州をもって唐朝に帰順した。しかし
すでに反意を抱いていた幽州朱滔に来援を求めたため、滔の所有に落ちた。
◎.4月 宣武節度使劉洽攻李納之濮陽を陥した。
◎.7月 劣勢の納は朱滔等に支援を求め、幽州・魏博軍とともに宋州を攻めたが克てず、濮陽を回復するだけだった。
◎.7月 淮寧節度使李希烈を兼平盧淄青兗鄆登萊齊州節度使として納を討たせた。しかし、山東征討後の恩賞に不満を持つ希烈は反し、納と連携して汴州を取ろうとした。
◎.8月 檢校戶部尚書徐海沂都團練使李洧が頓死した。外出して市人の歓呼に驚いて疽が潰れたという、9月 部將高承宗が徐州刺史徐海沂都團練使を継承した。
◎.10月 姚令言・朱泚が京師を陥し、德宗皇帝は奉天に籠城して、形勢はすっかり逆転した。朱滔は河北で優勢、淮西李希烈は東都・汴州を狙った。納は自領域を固めていった。
◎.11月 朱滔は冀王,田悅は魏王,王武俊は趙王,李納は齊王を自称してそれぞれ王府を形成した。
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建中四年
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◎.5月 宣武節度使劉洽が淄青招討使を兼任させたが、洽は淮西戦でそれどころではなかった。
◎.納の願望は唐朝から正式に淄青節度使の継承を認めてもらうことで、それ以上の拡張欲はなかった。そのため状況が好転し、唐朝軍が追いつめられるようになっても、淮西希烈と連携して汴州・東都を攻撃することもなく、徐州回復をめざすのでもなく、弱体な淮南節度使領域を攻めるのでもなかった。魏博や淮西を物資面などで支援するにとどまった。
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興元元年[西暦784年]
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◎.正月 德宗皇帝は従来の藩鎭政策を自己批判し、京師を占拠する朱泚以外の朱滔・李希烈・王武俊・田悦・李納を赦免した。疲弊した魏博悦、滔を怖れる成德武俊、継承願望の納はすぐさま王号をやめて帰順したが、優勢な滔と希烈は従わなかった。
◎.正月 前曹州刺史李納は檢校工部尚書鄆州刺史淄青平盧節度使として継承を認められた。鉄券ももらったようである。
[淄、青、齊、海、登、萊、沂、密、曹、濮、徐、兗、鄆十三州]か
実際は徐州は戻されず、徳・棣二州は成德王武俊の領有になったもよう。
◎.4月 納、加検校右僕射同平章事。使相に任ぜられた。封隴西郡王。
◎.5月 納が帰服したので、亡父正己に太尉が贈られた。
◎.8月 陸海運押新羅渤海兩蕃等使を従来どおり兼任することが許された。
◎.李希烈軍の陳州包囲に際して唐朝軍を支援したという。
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興元二年/貞元元年[西暦784年]
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◎.3月 納、加検校司空同平章事.賜實封五百戸
◎.貞元初、鄆州を大都督府に昇格させ、納は長史となる。
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貞元四年[西暦787年]
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◎.方鎭表ではこの歳、正式に青州から鄆州への移治が認められたようである。また徐州が正式に分離された。
◎.11月 唐朝は若年の徐州刺史高明應[承宗の子]に代えて、有能な壽州都団練観察使張建封を任じ、濠泗二州を加えて軍備を強化した。江淮からの貢納運送の要である徐州を淄青節度より防衛するだめである。これにより強力な武寧軍節度使が形成された。
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淄青平盧軍節度使史1

2020-09-27 12:58:30 | Weblog
淄青平盧軍節度使は山東半島付近にあった巨大藩鎭である。高麗人の李氏が長期にわたって支配していたが、憲宗皇帝によって元和14年に滅ぼされて、三鎭に分割され平凡な軍鎭となった。

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天寶15年/至德元年[西暦756年]
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◎.14年11月の安禄山の反乱に対応して、15年のどこかで、靑密/北海節度使が設置された。領郡/州は北海[青州]高密[密州]東牟[登州]東萊[來州]の四郡/州。
◎.15年3月~10月までは北海郡太守は賀蘭進明であり、起兵して禄山軍と戦っていた。
3月起兵し、平原郡顔真卿と連携→河北招討使となる→6月信都郡を陥す→しかし禄山軍が京師を陥し、進明も敗走→10月肅宗行在へ→嶺南節度使兼御史大夫へ移る。
◎.新旧唐書の鄧景山傳では、「至德初,擢拜青齊節度使,遷揚州長史、淮南節度」と記載があるので、方鎭表の名目としては初代節度使となるが、前職も就任月も不明であり、淮南節度使への転任年月も不明である[淮南節度使は至德二年となっている]。7月以降、青州付近は禄山の勢力圏となっているので実際に赴任したとは思われない。
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至德二年
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◎.方鎭表では北海節度使は名目上鄧景山である。
◎.禄山側北海節度使は能元皓であり、実質統治をしている。
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乾元元年[西暦757年]
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◎.2月安慶緒所署北海節度使能元皓が所部を率いて降り、鴻臚卿充河北招討使となる。
◎.8月青登等五州節度使許叔冀が滑濮等六州節度使になる。
唐側の青登節度使は許叔冀であり、五州は誤りで靑密登來の四州、叔冀が滑濮二州を併任して六州節度使と称したのであろう。
◎.旧紀では青徐等五州節度使季廣琛兼許州刺史、青州刺史許叔冀兼滑州刺史充青滑六州節度使とさらに混乱している。その場合は靑密四州+徐州ということになるが、季廣琛が兼許州刺史淮西節度使というのは理解しがたい。
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乾元二年
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◎.3月に史思明が唐軍を滏水で潰滅させ、節度使許叔冀も鎭を棄てて逃亡したと思われる。
◎4月甲辰,以徐州刺史尚衡為青州刺史青密等七州節度使[青淄密登萊沂海州]滑州は汴滑節度、濮州は鄆齊兗節度の領域に移管された。淄沂海三州を移管した。海州は間もなく汴滑節度へ移管された。
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上元元年[西暦759年]
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◎.10月青州刺史殷仲卿為淄州刺史淄沂滄德棣等州節度使。甲申,以兵部侍郎尚衡為青州刺史青登等州節度使。
◎この辺りも混乱していて訳がわからない。尚衡はいつ青密節度使から兵部侍郎になったのか[転任の意味も不明だが]、後任が殷仲卿なのか、実際に赴任しているのか?など。
尚衡が再任された青登節度使は五州[青密登萊海州]である。
----------
上元二年
----------
◎.4月青密節度使尚衡は史朝義兵を破り,斬首五千餘級。
6月青密節度使能元皓は史朝義將李元遇を破る。
◎.4~6月の間に節度使が尚衡から能元皓に交代したのかは不明。
----------
元年/寶應元年[西暦762~3年]
----------
◎.いつの頃からか徐州刺史田神功が靑密節度使となった。
◎.建丑月、安禄山の乱に従わず遼東半島の營州に孤立して抗戦していた平盧節度使侯希逸は、奚の侵攻や禄山軍連年の戦いと、孤立無援のため、營州を棄て軍民家族二萬餘人を率い、渤海湾を渡って山東半島に移動してきた。
◎.建丙月戊申,侯希逸は青州に到り、先に派遣していた平盧軍出身の田神功や能元皓と会同した。
◎.建卯月
侯希逸、田神功、能元皓は汴州を攻めて朝義將謝欽讓と戦った。
◎.五月.甲申,平盧節度使侯希逸をその住地として平盧青淄等六州節度使[青密滄徳棣齊州]として与えられた。これにより青州節度は平盧軍の号を帯びることになった。靑密節度使田神功は兗鄆節度使[兗鄆登來沂海泗七州]に移った。その後滄徳齊棣四州は離れて、登來沂海泗州が来属したようだ。
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寶應二年/廣德元年
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◎.閏正月、田承嗣為魏、博、德、滄、瀛五州都防御使[上記]
◎.五月丁卯,制分河北諸州:魏、博、德為魏州管;滄、棣、冀、瀛為青淄管。?
----------
永泰元年[西暦765年]
----------
◎七月淄青節度使侯希逸為副將李懷玉所逐。以鄭王邈為平盧淄青節度大使,令懷玉權知留後事。
淄青節度使となった侯希逸は、まだまだ苦しい状況を顧みず、弛緩して游畋し、塔寺を造営して、軍士の憤懣をかった。衆望を得ていた兵馬使李懷玉[高麗人]が解職し追放した。希逸は京師に亡命待罪したが唐朝は今までの忠誠を評価して檢校右僕射として遇した。懷玉も自立を赦され正己と賜名され、形式的な親王による遥領節度大使のもと、權知留後事として継承した[まもなく正任に]。当時領十州[淄、青、齊、海、登、萊、沂、密、德?、棣州]のようである。
◎.平盧淄青節度觀察使海運押新羅渤海兩蕃使檢校工部尚書兼御史大夫青州刺史となる。海運使は渤海湾の海運管理、押新羅渤海兩蕃使は渤海・新羅両国との外交貿易関係を掌る。
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大暦三年[西暦768年]
----------
◎.平盧行軍司馬許杲が卒三千人を率いて濠州を占拠し、6月に淮南節度使崔圓が卒した後を窺うことがあり、唐朝は副使張萬福を攝濠州刺史として威圧させ、さらに和州刺史行營防御使として討たせた。正己の指揮に従わない勢力なのか、事実背景は不明である。
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大暦四年
----------
◎.方鎭表では海沂密三州都防禦使を分離し、ついで廃し復領と記載されているが、事実関係は不明である。
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大暦十年
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◎.2月 魏博田承嗣が反し、正己の同調を懼れ加檢校尚書左僕射。封饒陽郡王。
◎.3月 承嗣討伐を上表。
◎.4月 河東成德幽州淮西永平汴宋河陽澤潞軍と魏博を討つ。
◎.5月 德州を抜く。
◎.9月 成德李寶臣軍と棗強で会同,貝州を囲む。成德軍の賞与が厚く、平盧軍が少ないため、平盧軍が動揺し、正己は変を怖れて撤退した。
◎.魏博から奪った德州の所管が認められた。
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大暦十一年
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◎.正月 形勢不利な田承嗣の謝罪入朝を取りなした。
◎.5月 汴宋留後田神玉が卒し、都虞候李靈曜が自立し、田承嗣と結んだ。
汴宋節度使は同じ平盧軍系列であり、將士にも縁類がいた。
◎.8月 淮西、永平、河陽、淮南軍とともに靈曜を討った。
◎.9月 鄆、濮二州を取った。
◎.12月 討伐の功績により検校司空同平章事。
汴宋節度使は解体され、淮西李忠臣は汴州、永平李勉は宋潁二州、正己は曹濮徐兗鄆五州を得て最大の利得者[もともと同根であるので帰服を得やすかった]で、魏博からも德州を奪い十五州を領有する大藩となった。
[淄、青、齊、海、登、萊、沂、密、德、棣、曹、濮、徐、兗、鄆十五州]
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大暦十二年
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◎.2月 子の前淄州刺史納を青州刺史充淄青節度留後とした。
◎.12月 青州より富裕の地鄆州に移治し、子納に青州を守らせた。
正己は用刑が嚴峻であるが、法に従いぶれることなく、税金は軽く民意を得ていた。そして兵十萬を擁して富強であった。
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大暦十三年
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◎.正月 正己は皇族の籍に入ることを望んだ。
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大暦十四年
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◎.6月 德宗皇帝が即位し、正己は郭子儀の後を継いで正任の司徒兼太子太傅となった。
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お久しぶりです

2020-09-27 12:49:21 | Weblog
突然、休載しコロナにでも感染したのかと思われ方も
おられるでしょうが、実は「漢字パズル」にのめりこ
み、そういう性格なので解答しまくっていたのです。
ほぼ三日で一冊、そして六冊を完了した今、少々飽き
てきました。その最中に某氏より「藩鎭関係」を中途
半端にやりっぱなしですよと諭され[これはいつもの
ことですが]、また宦官録を放り出して・・・。
一応まとまったものとして「淄青平盧軍節度使史」を
アップします。その後いくつかの鎭史をアップしてか
ら宦官に戻ります。節度使にのめりこむと最低でも50
は作成しなければいけないので宦官と並行ということ
になるかもしれません。
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10月1日までの更新停止

2020-09-14 09:55:06 | Weblog
緊急な所用のため9月中の更新ができません。
10月1日より再開の予定です。
悪しからずご了承ください。
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程元振

2020-09-13 10:00:44 | Weblog
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程元振
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京兆の三原の出身です。

若くして宦官となり、內侍省に勤務していました。

內射生使、飛龍廄副使に進み、李輔國の配下でした。

寶應元年建巳月、肅宗皇帝が重病となり、張皇后と輔國が実権をめぐって対立しました。張皇后は輔國を除こうとし、皇太子と結ぼうとして失敗し、趙王係を擁して内廷を制圧しようとしました。それを知った元振は、輔國と共に先制攻撃を加えて、皇后・趙王を殺し皇太子[代宗]を擁立しました。

功績によって左/右監門衛將軍[唐史における左右は極めていい加減です。]となりました。

輔國は増長し、代宗皇帝を傀儡にしようとしました。

寶應元年六月、代宗皇帝の憤懣を知った元振は輔國の軍權・宰相職を奪い、名誉職に祭り上げて内廷から追い出しました。元振が判元帥行軍司馬として軍權を握ります。

寶應元年七月、鎮軍大將軍、保定郡開國公を与えられます。

寶應元年八月、副元帥郭子儀が河東の軍乱を平定し入朝しますが、元振は讒言して副元帥を解任し、軍權を奪います。

寶應元年九月、驃騎大將軍兼内侍監に進みます。進封邠國公。

従わない肅宗山陵使左僕射裴冕を讒言して逐います。

寶應元年十月、雍王适[後の德宗]を天下兵馬元帥として、諸道軍と回紇を率いさせ史朝義を討たせます。代宗は郭子儀を副元帥にするつもりですが、元振と魚朝恩は子儀を警戒し、蕃族出身の僕固懷恩を任命します。

寶應二年正月、山東節度使來瑱を讒言して殺します。軍人達は元振の悪辣さを嫌い、警戒し始めます。

寶應二年六月、同華節度使李懷讓が元振の讒言のため自殺します。

廣德元年九月、吐蕃が侵入してきますが、元振は報告しません。

廣德元年十月
吐蕃が京師近郊まで入寇して来たとき、始めて代宗は知り、脅えて京師を棄てて華州へ奔ります。

後始末は郭子儀にさせますが、子儀は兵力がありません。

吐蕃は二十餘萬で京師を陥して掠奪します。

廣德元年十一月
今までの陰険な元振の政策を憎んで、河南李光弼等の諸将は来援しません。

郭子儀は雑軍を集めて、吐蕃が放棄した京師を回復しました。

さすがに博士柳伉は群臣と共に元振を弾劾し解任を迫ります。
実際は元振が臆病で定見の無い代宗皇帝の政策を代行していただけですが、臣下としてはそうは言えません。すべて元振の責任にするのです。

代宗は自分の責任とわかっているので、元振を厳罰にすることなどできず、解任して郷里を戻します。

廣德元年十二月
不満な元振は京師が回復されたことを知ると、女装して潜入し再任用を求めます。

廣德二年正月
さすがに代宗も処罰するしかなく、一旦溱州へ流しますが、目覚めは悪いので江陵で隠居させます。

元振派の宰相劉晏と、反元振派の李峴も宦官達に憎まれ解任されます。
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董秀

2020-09-12 10:00:03 | Weblog
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董秀
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前歴出自はすべて不明です。

廣德元年十二月頃
宰相元載は、内侍董秀や主書卓英倩と結び、代宗皇帝の気持ちに把握迎合し、実権を握っていました。

大暦元年頃
隴右行軍司馬陳少游は桂管觀察使となりましたが喜ばず、知樞密董秀に巨額の贈賄を申し出ました。


少游は秀が帰宅したのを見計らって夜間に訪問し、いきなり言いました。
「七郎殿=秀の御家族は何人おられ、毎月費用はどのくらいかかりますかな」
秀「帝の信任を得たのはよいけれど、頼ってくる親族も増えて費用がかかって困るのだ。物価も高くなる一方だし、月に錢千餘貫を超えてしまいやりくりが大変だわ」と嘆いた。
少游「正規の給与では数日分にしかなりませんね。あなたのような地位にある方が、やりくりに悩まれて苦労されるのは問題です。あちこちからかき集めるのも面倒でしょうしね。私がすべてお世話しましょう。年に錢五萬貫もあれば足りるでしょう。今ここに大半の錢はありますのでお渡しします。あとは赴任しだい追送しますよ。これで錢の心配はなくなりますよ」と返した。
秀は望外の贈賄の申し出に大いに喜び、少游と友となりました。
少游はさらに言う「公と親しくなれて嬉しいことです。ただ桂管が炎瘴の地であり、またお会いできないかもということだけが残念です」
秀はあわてて言う「あなたのような優秀な方が、桂管のような遠隔地にいくことはない。数日まってくれればなにか良い方策がありますよ」
少游は宰相元載の子仲武にも贈賄していました。
秀と載が運動し,數日後に富裕な宣州刺史宣歙池都團練觀察使に、数年後に越州刺史浙東觀察使に赴任することになりました


大暦四年/六年九月、兼檢校國子監董秀は內常侍に昇進しました。

大歷七年、秀は冠軍大將軍.左衛將軍知內侍省事.封魏國公となります。

大暦十二年三月、代宗皇帝は宰相元載の専権ががまんできなくなり、誅殺します。そしてその一党と子弟及主書卓英倩等をも殺し、内廷での共謀者として左衛將軍知内侍省事秀をも誅しました。

次は 程元振です
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李輔國

2020-09-11 10:00:17 | Weblog
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李輔國
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本名は靜忠。

宮刑を受けて閑廄小兒となりました。容貌はさえなかったようです。

一応は学問を学び,高力士の部下として仕えていました。

閑廐使王鉷のもとでは育馬の成績を上げて、皇太子附きに進みました。

表面は恭謹寡言てすが、内心は狡險でした。

天寶十五年七月、玄宗は逃亡し馬嵬驛につきましたが、將士は飢えと疲れから反乱し、宰相楊国忠を殺そうとしました。皇太子附きの宦官李輔國は太子に報告し、国忠を誅して主導権をとるように勧めますが、柔弱な太子は決断できませんでした。

事変後、太子は玄宗を追行していましたが、父老に遮られ、關内に残ってくれと請願されました。太子はやはり決断できなかったのですが、子の建寧王倓と輔國が強硬に勧めて残存する朔方軍へ向うことになりました。その後、太子家令.判元帥府行軍司馬となり皇太子側近で軍事を掌り活躍しました。
そして「護國」と改名し、その後「輔國」に変えました。

鋭意仕事をし殿中監に昇格しました。そして閑廄五坊宮苑營田栽接總監使,兼隴右群牧京畿鑄錢長春宮等使,少府殿中二監という多くの実務職を兼ねて実権を握ります。

至德元年十二月
京師回復の功績により封成國公.實封五百戸になりました。

張良娣[太子の側室、後に皇后]と輔國は連携し、肅宗を操作しようとし、建寧王や邪魔な謀臣李泌を追いはらおうとしました。

至德二年正月、輔國は建寧王を讒言して殺させ。泌は懼れて避退しました。

至德二年九月、肅宗は京師を回復するとまた泌を呼び寄せ宰相にしようとしましたが、泌は輔國を懼れて固辞しました。

乾元元年二月、輔國は寵姫張淑妃と結託し、殿中監より太僕卿を兼任し判元帥府行軍司馬となって軍權を掌握しました。

乾元二年三月
京師に盗賊が多く、輔國は金吾軍に代わって麾下の禁軍の羽林軍を巡回させることを提案しましたが、宰相に止められました。

乾元二年四月
太子詹事として軍權・制勅を握り、宰相李揆は従属していましたが、新任の宰相李峴はその専権を弾劾しました。輔國は制勅権を返上し、行軍司馬を辞めるという擬態を示しました。

乾元二年五月
輔國は朋党と誣告して反撃し宰相李峴を解任させました。

乾元三年四月
襄州將張維瑾、曹玠等が節度使史翽を殺して反しました。隴州刺史韋倫を節度使として討たせることになりましたが、倫が輔國に登用の礼に来ないので急遽解任し、秦州防御使に左遷しました。

上元元年六月
李輔國は目障りな玄宗とその側近達[卑賤な時代の自分を熟知し軽んじている、恩を受けているために頭が上がらない]を排除しようとし、病中の肅宗の命令と称して武力で玄宗を幽閉しました。そして高力士や陳玄禮を排除し配流しました。本当は輔國が肅宗の希望[小心なため父玄宗に脅えている]を代行したのかもしれません。側近を奪われ玄宗は鬱々として病となりました。

上元二年八月,輔國は開府儀同三司兵部尚書となりました。さらに宰相となることを求め、裴冕等に推薦させましたが、宰相蕭華が「宦官を宰相にできない」と拒否、内心嫌がっていた肅宗もそれを認めました。当然輔國は憤慨しました。

元年建辰月、輔國は肅宗を恫喝して宰相蕭華を罷免させ、自派の戸部侍郎元載を宰相としました。

寶應元年建巳月、肅宗は重病になり、張皇后と輔國は権限を争いました。張皇后は輔國を除くため皇太子[代宗]と結ぼうとしますが、太子は逃げます。そこで兵馬元帥越王係と結びます。それを知った宦官程元振は輔國に密告し、輔國は兵を率いて張皇后・越王等を殺害しました。そして肅宗が死ぬと皇太子を擁立し即位させました。

驕った輔國は代宗に「帝はただ禁中にいるだけでよい、政治は私が行います」と言い放ちました。そして三公の司空、尚父と称し、實封八百戸。念願の宰相である中書令となり専権を振るうようになりました。

寶應元年六月
宦官程元振は代宗皇帝の不満を知り、上司の輔國を陥れようと企み、突然輔國の行軍司馬及兵部尚書を解任させ、自分が兵権をにぎりました。また輔國を宮中から追い出しました。

輔國は中書令も解任され、博陸郡王という虚名を与えられ、「もう私は不要なのでしょう、先帝に地下でお仕えします」と嘆くだけだけでした。

寶應元年十月、代宗は輔國を暗殺させました。首と手を切断させ宮中の便所に投げ入れさせ、そして形式的に捜査させ、「木首」を贈り葬儀させ、太傅の位を贈りました。

[次回は 董秀 です]
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高力士

2020-09-10 10:00:14 | Weblog
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高力士
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潘州[広東省茂名市]人,本姓は馮と言われます。
唐初の群雄で蕃族出身の高州[広東省茂名市]総管馮盎の子君衡が潘州刺史となりました。力士はその子と称していますが、なぜ刺史の子が宦官になるのか不明です。先祖を名門に託しただけでしょう。

宦官とされて献上され、同僚の金剛とセットで「力士」と命名されたようです。

聖歷元年より則天皇帝に仕えますが、罪があって解任されました。

また武三思配下の宦官高延福の養子となり、また禁中に入り司宮台につとめだしました。

長身で六尺五寸[197センチ]と言われていますが、大げさでしょう。

性は謹密で記憶力はよかったようです。宮闈[宮門警備担当]丞となります。

景龍中,臨淄郡王[玄宗]の知遇を得て奉仕するようになりました。

景雲中、玄宗が立太子→即位すると、朝散大夫[従五品下]內給事になりました。

先天二年七月、大平公主等を誅するのに功績があり、一躍、銀青光祿大夫[從三品]行內侍員外同正員に進みました。

開元初には右監門衛將軍知內侍省事[内侍監は虚位の時が多く、実質的な長官]となりました。

玄宗にそれとなく直言することもあり、宰相と皇帝との仲立ち役としても活躍しました。

玄宗の信任篤く、実情の確認に派遣されることも多々ありました。

開元十九年に宦官達の天敵であった玄宗の奴隷上がりの王毛仲[禁軍を掌握していて、宦官を蔑視していました]が排除されたあとは宮中に敵なしの状態となりました。

豪壮な邸宅を賜りましたがあまり帰る事はなく、宮中に宿営していました。

玄宗への上奏文はまず力士の元へ届けられ、小事は専決することが許されていました。

また呂玄晤の女を妻とし,玄晤は少卿[從四品],その子弟は王傅となりました。

しかし増長せず小心恭恪で玄宗の疑惑を招くことはありませんでした。

開元二十六年、玄宗が武惠妃等の誣告によって皇太子瑛達を殺害してしまいました。武惠妃の死後、玄宗は失敗に気がつき後悔しました。そして次の太子決定に悩みました。宰相李林甫は武惠妃の子壽王瑁を勧めますが若年であり、年長で仁孝恭謹好學の忠王璵[肅宗]と比較して決することができません。懊悩していましたが力士の勧めにより忠王に決しました。当然、林甫は後難を懼れて太子を陥れようと次々と疑獄を起こしますが、次の寵姫楊貴妃には子がなかったこともあり力士は太子を守り抜きました。

天寶三年頃
玄宗は老齢となり、東都への巡幸[關内の食糧難の解消のために必要でした]が辛くなり始めました。それをしった林甫は状況が改善したと言って巡幸不要と言い立てました。力士は地方の視察も重要だと指摘し、玄宗の不興をかってしまいました。失敗したと悟った力士は玄宗に迎合し、国政に口をださない事に決しました。

天寶五年頃
力士が推薦した楊貴妃が寵遇され、玄宗と貴妃の間を取り持つことで、林甫の攻勢を排除し、玄宗の信任を保つことが出来ました。

天寶七年四月、左監門大將軍、知内侍省事より加驃騎大將軍[從一品]。
力士の勢力は増大し、皇太子から兄と,諸王公からは翁と呼ばれます。李林甫、安祿山達も迎合し、巨財を築きます。しかし恭謙で驕らないため皇帝の親任はますます篤く、士大夫も悪く言いません。

天寶十一年四月
李林甫の配下である王鉷の弟銲が乱します。乱に参与していない鉷と禁軍を率いた力士が鎮圧しますが、楊国忠は鉷の責任を厳しく問い失脚させました。病がちとなった林甫の勢力が傾いていきます。

天寶十一年十二月
西の河西隴右節度哥舒翰と東の范陽平盧河東節度與安祿山、朔方節度安思順は互いに争いあい仲がよくありません。そこで玄宗は和解させ義兄弟を結ばせようとしました。冬に三人は入朝し、力士がとりもって宴会を催しましたが、祿山と翰はお互いに罵り合って和解しませんでした。
翰は突厥の名門であり、雑胡出身の禄山などと同格になるのは耐えられなかったのでしょう。

天寶12.3
力士は安禄山が帰国するのを送りました。
玄宗「禄山の様子はどうだったかな」と問うと
力士「宰相になれぬので鬱々として帰りました」と答えた
国忠「宰相人事を知っているのは張均兄弟だけなんですが、情報が漏れたのでしょうか」
この時宰相に任用していれば乱はなかったはずですが、権限を分割される国忠は認めませんでした。

天寶十三年六月
唐朝軍が雲南で潰滅しました。しかし楊國忠の権勢を怖れて誰も上奏しません。
玄宗は脳天気に「朕は老いた、政治は国忠に、軍事は諸将に任せている」
力士「大敗のことは聞いています。諸将は大軍を握って乱がおこるかもしれません。なにかあったらどうしょうもありませんが」
玄宗「言うな、朕はわかっているのだ」

天寶十三年
玄宗「いやな雨が続いているが、お前はなにも言わないのか」
力士「陛下は政治を宰相まかせてしまっているのに、私がなにをいうことがありますか」と返した。
玄宗は黙然としていました。力士は立場を弁え遠回しに諫言しますが、楊貴妃に溺れた老帝はうけつけようとしません。

天寶十五年七月
潼関で唐朝軍が敗れ、玄宗皇帝は劍南の成都へ逃亡しました。緊急のことで混乱し、地方官も逃亡したので、ろくな準備もなく、宿舎食事も整いません。もちろん内侍の力士は玄宗に近侍しています。
馬嵬驛に到った時、随行の將士達は糧食の供給もないのに憤怒して乱し、宰相楊國忠やその一族の責任を問うて殺しました。そして玄宗に楊貴妃の処分を迫りました。玄宗は「貴妃には罪がない」と躊躇しましたが、力士は「貴妃が生きている限り反乱した將士達は安心できません。このままでは帝の命も危ないのです」と強く諫めました。そして貴妃を絞殺し、屍体を將士に示しました。それにより一応乱は治まりました。

力士は玄宗に従い成都に入り、至德二年十二月、玄宗に従い入京しました。
功により、封齊國公。開府儀同三司となり實封五百戶[封***戸は虚名であり、實封だけが本当に給されるはずです]を与えられます。

上元元年頃
陳玄禮や力士等は、玄宗を囲んで趣味の世界を楽しんでいましたが、権力を握っていても経験と教養の差から輪に入れてもらえない李輔國は妬もます。そして玄宗が肅宗の地位を脅かそうとしていると吹き込みました。もともと正常な即位でなかった肅宗は皇太子時代の事を思い出し脅えました。輔國にとっても力士は自分を登用してくれた恩人でもあり扱いが難しかったのです。

上元元年七月
李輔國は肅宗の命令と称して武力で玄宗を幽閉しました。そして力士や玄禮を排除しました。力士は巫州[湖南省懐化市]に流されました。輔國が肅宗の希望を代行したのかもしれません。玄宗は鬱々として病となり肅宗と共になくなります。

寶應元年建巳月
力士は肅宗崩御の大赦にあって帰還し、再び玄宗に仕えることを期待して朗州[湖南省常徳市]に到りましたが、そこで玄宗の崩御を知り、絶望して卒しました。

七十九歳。贈揚州大都督,陪葬泰陵。

養子承悦は 渤海郡公.正議大夫將作少監。

[次回は 李輔國 です]
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邊令誠

2020-09-09 10:00:14 | Weblog
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邊令誠(へん れいせい)
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前歴は不明。

天寶六年
安西高仙芝の監軍として吐蕃に附いた小勃律王[カシミール北部]を捕えます。この時は仙芝を庇い仲は良好でした。

天寶十四年十二月
安禄山の乱、副元帥高仙芝は雑軍を率いて陝州[河南省三門峡市/山西省運城市]に進み、監門將軍令誠は監軍となりました。
この当時仙芝とは合わず、無能な玄宗に事ごとに讒言し、まず封常清を殺し、ついで仙芝も殺しました。そのため軍は混乱し敗因を作ったと言えます。宦官の弊害といえます。軍は病身の哥舒翰が嗣ぎます。その後潼関を守り、敗戦と共に京師へ逃亡します。

天寶十五年六月
玄宗が京師から逃亡する時、宮廷の管鑰[かんやく-鍵]を託されますが、安禄山に献じます。

至德元年九月
安禄山の元から逃亡し、肅宗に帰しますが誅殺されました。

[次回は 高力士 です]
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楊思勖

2020-09-08 10:00:04 | Weblog
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楊思勖(よう しきょく)
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本姓は蘇。
安南の羅州石城[広東省湛江市北部]の出身。
宦官楊氏の楊氏となり、去勢されて宦官となりました。

神龍三年七月、惰弱な中宗皇帝のもと、依然として武氏が専権を振るうのを憤慨した皇太子が羽林軍を率いて蹶起し、武三思・崇訓を殺害し、宮城に突入しました。その時宮闈令として中宗側近にいた楊思勖が乱軍に突入し將を切ったことより乱は鎮圧されました。功績により銀青光祿大夫,行内常侍に昇格しました。

その後、臨淄王[玄宗]が韋皇后を倒した時にも参画し功績がありました。

累進して内侍、右監門衛將軍[従三品]となりました。

開元十年八月、安南[ベトナム]の賊帥梅叔焉/玄成/叔鸞等が林邑や真臘國と通じて「黑帝」と称して反して安南府を陥しました。思勖は驃騎將軍兼内侍として嶺南で大軍を募兵しこれを討ちました。叔焉を始めとして大いに賊を殺し京觀[敵の死骸で塚を作り戦勝の記念とする]を作りました。鎭軍大将軍[從二品]に進みます。

開元十二年七月、五溪[湖南省懷化市]首領覃行璋が反しました。思勖はこれを討ち,行璋を捕らえ、三萬を殺しました。輔國大將軍[正二品]に昇進しました。

驃騎大將軍[從一品],封虢國公に昇進します。

開元十四年二月、邕州[広西南寧市]獠梁大海・周光が賓、橫州反しました。思勖はこれを討ち大海を捕らえ、二萬を殺して京觀を作りました。

開元十六年,瀧州[広東省羅定市]首領陳行範が何游魯・馮璘が反し皇帝を称しました。思勖はこれを討ち六萬を殺しました。
思勖は厳酷で、捕虜は斬首し顔皮を剥ぐのを通例とし、將士はその凶暴さを怖れました。

開元二十七年、內給事牛仙童が収賄により死罪となった時、処刑し心臓をえぐり出し解体して肉を食べました。

思勖は南方の反乱討伐に活躍しましたが、高力士のように内政に関与することはありませんでした。

開元二十八年に卒しました,八十余歳。

[次回は 邊令誠 です]
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唐宦官列傳を始めます

2020-09-07 10:00:05 | Weblog
唐代の宦官跋扈は玄宗皇帝の時代から始まります。則天皇帝までの時代は軍の監軍も宦官を用いず、重用もしませんでした。女好きで遊び人の玄宗がどんどん宦官を活用したわけですが、まだ能力をみて用いていました。その後肅宗や代宗皇帝は宦官[李輔國.程元振.魚朝恩]を重用し跋扈させましたが、宦官が組織的に支配するようになるのは、德宗皇帝が禁軍[神策軍]支配を宦官に委ねた時からです。そして文宗皇帝の時代には宦官優位の態勢が築かれ、皇帝の擁立も彼らの専権事項にになります。そして僖宗・昭宗皇帝の時代には唐朝=宦官[田令孜・楊復恭]という状況になり、天祐元年に朱全忠・崔胤による宦官絶滅ということになります。そして唐朝も終わります。

皇帝が宦官に依存するようになったのは、玄宗皇帝が諸王とその子孫を地方官に赴任させず、十王宅・百孫院に囲い込み宦官に世話をさせたことから始まります。皇族は生まれたときから宦官の世話を受け、成長するのです。宰相・官僚とは疎遠で宦官に家族的な親しみを感じるのは当然です。

有力宦官の列傳を随時掲載します。まずは人肉食の楊思勗から。
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次のテーマは?

2020-09-06 19:05:14 | Weblog
一応 各皇帝別唐史 は終了したので、次はなにをすべきか[すべきでないか]を考えて
います。
 1.蕃族出身の武将列伝 結構多数です。
 2.宰相の列伝 官位履歴だけはもう書いたような
 3.各節度使史 長くなることと、どうしても内容重複が増えます
 4.宦官伝 資料が十分ではありません。

 当面、1 にするか 4 にするかで迷っています。
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昭宗哀帝史をアップし、全史が揃いました

2020-09-03 10:00:54 | Weblog
唐各皇帝史をPDF形式でデータをアップロードしました。
高祖史
太宗史
高宗史
則天史
中宗睿宗史
玄宗史
肅宗史
代宗史
德宗史
順宗憲宗史
穆宗敬宗史
文宗史
武宗史
宣宗史
懿宗史
僖宗史
昭宗哀帝史
リンクをクリックするとPDFが開きます。

[唐歴史データ]
全節度使データ一覧(エクセルリンク)
封爵データ一覧(エクセル)3183名分
文官宰相一覧(エクセルリンク)
宰相年表[附使相]
中書舎人年表
給事中年表
太子庶子年表
字[あざな 1846名分]一覧
皇族一覧表[皇帝別]
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