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會昌六年 西暦 846
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三月壬戌,武宗皇帝が崩御した。
三十三歳。宦官仇士良に擁立されたが、その言いなりにはならず、剛腕の宰相
李徳裕を起用して治政に励んでいた。そして回紇帝国の崩壊の後始末・昭義節
度劉稹の討伐に引き続き、腐敗した仏教教団を弾圧し、その財産を国有化する
ことで財政再建に努めている最中であった。反面道教に熱中し悪名高い「金丹」
を服用した。ために中毒死したとも言われるが仏教側の毒殺かもしれない。
・宰相李徳裕の専権に対して宦官や官僚団より反感が強まっていた。
・仇士良が失脚した後、宦官内で権力闘争がおきていた。
・仏教団解体は全国的に大混乱を引き起こしていて、反感もきつかった。
・河北三鎮等は親和的であり問題はなかった。
・回紇崩壊後、辺境地域は混乱しつつも大問題は起きていなかった。
三月丁卯、宦官中尉馬元贄は光王怡[宣宗]を皇太叔として擁立した。
宣宗は憲宗皇帝の十三子であり、光王に封ぜられていたが、その他大勢の皇族
であり、皇位は敬宗-文宗-武宗など子や孫の世代に移っていた。また愚鈍と思
われており、武宗からその鈍さをからかわれる対象であった。武宗等にも皇子
はいたにも関わらず、宦官達は筋違いで愚鈍で扱いやすく、推戴に恩義を感じ
てくれるだろう光王を無理やり即位させた。
四月丙子,剛腕宰相李德裕が解任され荊南節度使に出された。
愚鈍を装っていた宣宗は、突然に強権を振るっていた李德裕を解任し、宦官官
僚を驚愕させた。德裕は強い反感を受けていたが、実績も大きく、太尉の最高
官についていた。
四月辛卯,李讓夷が司空となった。
お飾りであり、まもなく解任される。
五月翰林學士承旨の白敏中が宰相となる。
德裕解任の黒幕である。白楽天の甥だが詩才はなく、単なる文治官僚でしかない。
德裕に引き立てられていたが穴を掘るという人物である。自分の意志を示したい
宣宗皇帝にとっては御し易い人物であった。
九月,宰相鄭肅が解任、盧商に代わった。
両者とも凡庸であった。
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大中元年 西暦 847
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正月,有事於南郊。大赦,改元。
宣宗即位を太廟に告げる儀式と「大中」への改元である[通常即位の翌年]。
三月,宰相盧商が解任され、崔元式や韋琮が任命される。
會昌中頃より両唐書の記載が極めていい加減になる。これは新唐書による。
旧唐書では 盧商の解任 →八月 任命は韋琮七月、崔元式の任命は実に
會昌5年5月。通鑑では 盧商、韋琮と崔元式はいずれも二月である。
この頃の登用基準は德裕時代に冷遇されたものが中心であった。
五月,幽州張仲武が奚を破る。
幽州節度使が奚や契丹・回鶻に対処してくれているので唐朝は気楽である。
吐蕃、回鶻寇河西に侵攻,河東節度使王宰[智興の子]が撃退。
吐蕃論恐熱が武宗崩御の隙を狙って侵攻してきたが、王宰が撃退した。このころ
吐蕃も内訌により弱体化し、回鶻は帝国崩壊後に吐蕃に歸附した残党である。
六月令狐綯を郎中知制誥に登用。
宣宗は父憲宗皇帝時代の治政に憧れていて、元和の遺臣の子を探して登用して
いった。綯は宰相楚の子である
八月丙申,德裕派の残党である宰相李回が解任される。
十二月戊午,李德裕を潮州司馬とし、その後流す。
徹底した德裕派排除が行われる。処罰理由は些細な行き過ぎを過大解釈したも
のである。宰相白敏中等が德裕の復活を懼れてでっちあげたと思われる。
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大中二年~三年 西暦 848~9
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五月崔元式が解任。周墀と馬植が宰相に[新唐書.通鑑]。
旧唐書では三月墀と植が就任、元式は記載なし。
五月己卯,太皇太后郭氏が崩御。
宣宗は郭氏が憲宗暗殺に与していると考え冷遇し、これを不満とした投身自殺と
言われる。宣宗は自分の母鄭氏が郭氏と不仲でもあったので外苑に葬しようとし、
禮官に反対されたが強行した。
十一月宰相韋琮が解任。
十一月庚午,萬壽公主[宣宗の娘]が起居郎鄭顥に降嫁した。
顥には既に愛妻がいたが、白敏中は名門の秀才に娘を嫁がせたい宣宗の意向を受
けて降嫁させた。当時、貴族の子弟でも才のある者は、制約の多い公主の降嫁を
望まなかった。顥は敏中を激しく恨んだ。
三年二月,吐蕃の秦原安樂三州と石門驛藏木峽制勝六磐石峽蕭七關が唐朝に帰属した。
吐蕃は大将論恐熱と,鄯州節度使尚婢婢が争い内乱状態となっていて、統治不全
となり、そのため現地豪族は唐朝に帰属しようとした。宣宗は父憲宗の念願であっ
た隴右回復が実現し感激した。
三月,宰相馬植が罷免された。[旧唐書は四月、通鑑は四年四月]
植は宦官中尉馬元贄と同姓の誼で昵懇となり、元贄が宣宗より賜った寶帶を譲り
受けていた。宣宗はそれを知り、宰相と宦官の結託を嫌い解任した。
四月乙酉,宰相周墀が解任された。
崔鉉と魏扶[唐初の名相魏徴の末]が宰相となった。
墀は正論を唱え直言して避けられた。
學士鄭顥は「帝は直言を求めるが、されると避けるのですか」と諫めた。
四月癸巳,幽州盧龍軍節度使張仲武が卒し、子の直方が継承した。
仲武は唐朝に協調していたし、唐朝には幽州節度に干渉する意図はなかった。
五月。武寧軍亂,節度使李廓を逐う。
悪名の高い徐州武寧軍の牙軍の乱である。彼らは徒党を組み、気に入らない
節度使が来ると乱を起こし逐った。相当な政治力を持つ者でないと武寧節度
使は務まらなかった。
十月吐蕃の維州[西川]が、十二月,扶州[山西]が唐朝に帰属した。
失われていた領域が吐蕃の内乱による弱体化により帰属してきた。
十一月幽州軍亂,逐留後張直方,衙將周綝が自立した。
常に外敵と臨戦状態にある幽州では若輩では継承できなかったようである。
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大中四年~五年 西暦 850~51
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四年六月戊申,宰相魏扶が卒し、崔龜從が宰相となった。
八月,幽州盧龍軍亂,逐其節度使張直方,衙將張允伸自稱留後。
旧唐書・通鑑では三年十一月であり、立ったのは張允伸ではなく、周綝
が嗣ぎ、綝が卒したのが四年九月で跡を継いだのが允伸である。
十月辛未,令狐綯が宰相となった。
宣宗の信任が厚く昇進が早い、白敏中も既に穴を掘られる立場である。
十一月,黨項羌が邠寧を侵した。
当時、神策軍人上がりの辺境の節度使達は、貪欲であり辺境の部族を収奪
するものが多かった。親衛軍である神策軍は宦官達が食いものにして、京
師の富裕層[商人達]から収賄して編成していたので形骸化し、ただ利得
を求めたり、徴税を逃れる連中で構成され。出身の節度使達も贈賄により
任命されるのが当たりまえだった。辺境民達は不満が蓄積していた。
五年三月,宰相白敏中為司空,招討南山平夏黨項行營兵馬都統。
憲宗時代の裴度の淮西征討にならったが、所詮二度目は茶番である。
令狐綯等が敏中を追いはらうために画策したものだろう。
敏中は出征中に鄭顥に讒言されることを懼れて、宣宗に申し出た。宣宗
は上奏箱を示した。そこには既に顥から敏中批判の文書が山積していた。
四月,赦平夏黨項羌。八月乙巳,赦南山黨項羌。
本気で征討などしなくても、節度使達の不正な処置を止めることを約束
するだけで、黨項達は歸順するのである。もちろんこの後もろくな節度
使はおらず長く不安定は続いた。平定後も敏中の中央復帰は阻止され、
十月西川に転出させられた。
十月,沙州人張義潮以瓜沙伊肅鄯甘河西蘭岷廓十一州歸唐朝。
安史の乱で吐蕃に奪われた河西・安西節度使領域が帰順してきた。現地の
豪族達の君主替えにすぎず、唐朝の治政が及んだわけではない。歸義軍節
度使が沙州に置かれ義潮が任ぜられた。
十月,戊辰,魏暮が宰相となる。
またまた唐初の魏徴の末裔である。宣宗は名家の末が好きである。ただや
はり末は二流でしかないのが実情であった。
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大中六年~八年 西暦 852~854
--------------------------------------
六年二月南山の賊を討つ。
京師南方の山西の山岳地域に蜂起している賊を、劉潼に慰撫させて降したが、
追討使王贄弘はそれをだまし虐殺して討ったと称した。
八月,裴休が宰相となった。
京師への漕運の方法を改善し安定した補給を確立した功績で。
[当時の状況]
・既に腐敗した宦官・官僚による硬直化が進行し、宣宗は鋭意治政に励んだ
が、ほとんど地方には伝わらなかった。
・節度使は文武の官僚達の利権化し、牙軍の経費をピンハネしたため、ほと
んどの軍が弱体化していた。
・中央の神策軍も利権化し、京師の富民の子弟が占有する所となっていた。
・宣宗は母鄭氏の父光を優遇したが、能がないため治政には関与させなかった。
・官僚や豪族の荘園化が進行し、農民は逃避し、租税は集まらず、唐朝の財政
は塩の専売など間接税にたよっていた。
・科挙も官僚貴族[唐初の貴族とは別物、官僚を代々出す家柄が貴族化したもので、
崔氏・鄭氏・楊氏などが有名]が独占するようになってきた。
八年正月長慶初の乱臣与党の赦令が出た。
宣宗即位後、憲宗暗殺に関与した宦官・官僚への追及が続き、動揺が広がったため。
九月、宣宗は勅使として派遣された宦官の横暴を知り、処罰した。
宣宗は宦官の力を抑えようと努力した。しかし學士韋澳に「帝の威權は憲宗と比べ
てどうですか」「宦官の力は憲宗時と比べていかがですか」と諫められ、「我、力
及ばず」ともらした。
十月県令李行言が海州刺史に抜擢された。
宣宗は狩猟にこと寄せて京師近郊を巡り、庶民の意向を探り良吏を抜擢しようと
した。しかし全体的に腐敗した官僚制の改革には力及ばなかった。
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大中九年~十年 西暦 855~856
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正月甲申,成德軍節度使王元逵が卒し、子紹鼎が継ぐ。
唐朝にはもはや河北三鎮の継承については追認するだけであった。
七月,丙辰,宰相崔鉉が淮南節度使となった。
前使名門貴族出身の杜悰が遊興にふけり、要地である淮南が混乱したため交代
させた。
是月,浙東道軍亂,觀察使李訥が逐われた。
これも名門貴族李遜の子である。監軍と共に乱政をしたため逐われた。
沈珣(傅師の子、やはり貴族)が赴任し鎮圧した。
宣宗は宮廷の小吏の名前まで覚え、節約し日夜行政に励んでいたが、既に唐朝
文武官は構造的に硬直し、宦官に限らず腐り果てていていかんともしがたかった。
邠寧・鄜坊・涇原・朔方・振武等西北方面は腐敗した神策軍出身の軍人が
淮南・浙西・浙東・宣歙・江西等江淮方面は腐敗した文官貴族出身が収奪にのみ
励み、わずか数人の練達した能吏を使い回すことで表面を繕っていた。
大中十年
正月宰相交代 鄭朗が任。十月裴休が罷、十二月崔慎由が任。
宰相のような重要人事ですら新唐書・旧唐書・通鑑でバラバラである。当時の資
料が散逸している為で、旧唐書などは異常に詳細な部分と、簡略な部分に分かれ
ている。
そして崩壊の予兆が見え始めた。
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大中十一年~十二年 西暦 857~858
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二月辛巳,魏暮が西川節度へ。
正論を述べるので、主宰相の令狐綯に敬遠された。
五月,容管軍亂,逐經略使王球。
嶺南磎洞蠻がしばしば容管・邕管領域に侵攻してきた。弱体な容管軍が動揺し
て反乱を起こしたもの。洞蠻征討軍を率いた宋涯が進駐し一応は抑えた。
七月成德軍節度副大使王紹鼎が卒し、弟紹懿が継承した。
九年正月に継承した紹鼎は愚かで横暴であったため、牙軍は乱の気配があった。
丁度都合よく死んでくれたので、王氏は存続できた。暗殺したのかも知れない。
このように河北三鎮では総帥の力量が乏しい場合は相続ができない。ただ成德だ
けがまだ穏健であった。魏博は牙軍の意向に左右され、幽州は指揮能力のない
ものは排除される。
十月壬申,宰相鄭朗が疾辭した。
大中十二年
正月安南軍に王式が赴任した。
雲南蠻の動揺していた牙軍を立て直し、築城した。
正月戊戌,劉瑑を崔慎由と交代に宰相に任じた。
即位して十三年、宣宗は皇帝としての権限を揮えるようになり、他に相談するこ
となく信任する劉瑑を相に任じた。
四月庚子,嶺南都將王令寰が乱し,節度使楊發を逐った。
硬骨な楊發が腐敗した嶺南軍政を粛清しようとしたため逐われた。
涇原節度使李承勳がこれを討った。南方の牙軍は弱くまともな征討軍が来れば
すぐ鎮圧される。
五月丙寅,宰相劉瑑が薨。
なったばかりの宰相が死ぬ、こういうことがこれからも何度も起きる。
五月庚辰,湖南都將石載順が乱し,逐觀察使韓琮。
恒例の腐敗した帥と、収奪により弱体化して綱紀が緩んだ牙軍。
六月丙申,江西都將毛鶴、逐觀察使鄭憲。
上に同じである。十二月鎮定。
六月辛亥,南蠻寇邊。
ガタガタな唐朝の南方防衛を知り本気で雲南蠻が侵攻してきた。
七月,容州將來正が反した。
ここは防衛拠点であり、宋涯が居るので乱軍は返り討ちになった。
八月,宣歙將康全泰逐觀察使鄭薰。
上に同じだが、宣歙は唐朝の重要な財源地帯である。
直ちに淮南節度使崔鉉が追討しとなり、十月鎮定。
忠武や山東などといった強い軍がくれば、堕落した南方諸鎮の牙軍
はひとたまりもなく鎮定される。しかし統治官僚の腐敗した状態に
変わりはないので、ただ崩壊するだけであり、雲南蠻侵攻や黄巣の
乱にはなんの抑えもできなくなっていった。
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大中十三年 西暦 859
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三月河東節度の雲蔚朔三州を分割し、雲州に大同軍を置いた。
北邊防禦対策である。雲蔚朔三州は蕃族が多数派であった。
四月武寧軍がまた節度使康季榮を逐った。
武寧牙軍は札付き不良軍であり、気に入らないとすぐ騒動を起こした。
左金吾大將軍田牟を再任させ安撫した。牟は將士のご機嫌取りがうまかった。
宣宗は当時としては老齢であり、当然皇太子を立てるべきであり、宰相も要請
していた。しかし長男の鄆王[後の懿宗]の無能ぶりが気に入らず、三男の蘷
王を立てたかったが、長男を排除する理由や、宦官への遠慮[宣宗も正統では
ないのに宦官に擁立してもらった]もあり決めることができなかった。
八月癸巳,宣宗皇帝崩御,年五十。
宣宗は重病となり朝見ができなくなった。
宦官にも派閥があり、宣宗皇帝の意向を尊重する樞密使王歸長と馬公儒、
右軍中尉王茂玄は蘷王を擁立するように動いた。そこで反対派の左軍中尉
王宗實を淮南監軍に転出させようとした。ところが宗實は宣宗が既に崩御
していることを知り、実力を持って鄆王を擁立した。
宣宗は日夜努力して帝国の再建に励んだが、腐敗した体制を動かすことは
できなかった。その死により実質的に唐帝国は衰亡期に入った。しかし巨大
な帝国であるので、崩壊が表面に出るのに20年、完全な滅亡までは50年かか
った。
唐末の賊中にいた知識人は「宣宗没後、国に政治なし」と嘆じた。
會昌六年 西暦 846
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三月壬戌,武宗皇帝が崩御した。
三十三歳。宦官仇士良に擁立されたが、その言いなりにはならず、剛腕の宰相
李徳裕を起用して治政に励んでいた。そして回紇帝国の崩壊の後始末・昭義節
度劉稹の討伐に引き続き、腐敗した仏教教団を弾圧し、その財産を国有化する
ことで財政再建に努めている最中であった。反面道教に熱中し悪名高い「金丹」
を服用した。ために中毒死したとも言われるが仏教側の毒殺かもしれない。
・宰相李徳裕の専権に対して宦官や官僚団より反感が強まっていた。
・仇士良が失脚した後、宦官内で権力闘争がおきていた。
・仏教団解体は全国的に大混乱を引き起こしていて、反感もきつかった。
・河北三鎮等は親和的であり問題はなかった。
・回紇崩壊後、辺境地域は混乱しつつも大問題は起きていなかった。
三月丁卯、宦官中尉馬元贄は光王怡[宣宗]を皇太叔として擁立した。
宣宗は憲宗皇帝の十三子であり、光王に封ぜられていたが、その他大勢の皇族
であり、皇位は敬宗-文宗-武宗など子や孫の世代に移っていた。また愚鈍と思
われており、武宗からその鈍さをからかわれる対象であった。武宗等にも皇子
はいたにも関わらず、宦官達は筋違いで愚鈍で扱いやすく、推戴に恩義を感じ
てくれるだろう光王を無理やり即位させた。
四月丙子,剛腕宰相李德裕が解任され荊南節度使に出された。
愚鈍を装っていた宣宗は、突然に強権を振るっていた李德裕を解任し、宦官官
僚を驚愕させた。德裕は強い反感を受けていたが、実績も大きく、太尉の最高
官についていた。
四月辛卯,李讓夷が司空となった。
お飾りであり、まもなく解任される。
五月翰林學士承旨の白敏中が宰相となる。
德裕解任の黒幕である。白楽天の甥だが詩才はなく、単なる文治官僚でしかない。
德裕に引き立てられていたが穴を掘るという人物である。自分の意志を示したい
宣宗皇帝にとっては御し易い人物であった。
九月,宰相鄭肅が解任、盧商に代わった。
両者とも凡庸であった。
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大中元年 西暦 847
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正月,有事於南郊。大赦,改元。
宣宗即位を太廟に告げる儀式と「大中」への改元である[通常即位の翌年]。
三月,宰相盧商が解任され、崔元式や韋琮が任命される。
會昌中頃より両唐書の記載が極めていい加減になる。これは新唐書による。
旧唐書では 盧商の解任 →八月 任命は韋琮七月、崔元式の任命は実に
會昌5年5月。通鑑では 盧商、韋琮と崔元式はいずれも二月である。
この頃の登用基準は德裕時代に冷遇されたものが中心であった。
五月,幽州張仲武が奚を破る。
幽州節度使が奚や契丹・回鶻に対処してくれているので唐朝は気楽である。
吐蕃、回鶻寇河西に侵攻,河東節度使王宰[智興の子]が撃退。
吐蕃論恐熱が武宗崩御の隙を狙って侵攻してきたが、王宰が撃退した。このころ
吐蕃も内訌により弱体化し、回鶻は帝国崩壊後に吐蕃に歸附した残党である。
六月令狐綯を郎中知制誥に登用。
宣宗は父憲宗皇帝時代の治政に憧れていて、元和の遺臣の子を探して登用して
いった。綯は宰相楚の子である
八月丙申,德裕派の残党である宰相李回が解任される。
十二月戊午,李德裕を潮州司馬とし、その後流す。
徹底した德裕派排除が行われる。処罰理由は些細な行き過ぎを過大解釈したも
のである。宰相白敏中等が德裕の復活を懼れてでっちあげたと思われる。
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大中二年~三年 西暦 848~9
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五月崔元式が解任。周墀と馬植が宰相に[新唐書.通鑑]。
旧唐書では三月墀と植が就任、元式は記載なし。
五月己卯,太皇太后郭氏が崩御。
宣宗は郭氏が憲宗暗殺に与していると考え冷遇し、これを不満とした投身自殺と
言われる。宣宗は自分の母鄭氏が郭氏と不仲でもあったので外苑に葬しようとし、
禮官に反対されたが強行した。
十一月宰相韋琮が解任。
十一月庚午,萬壽公主[宣宗の娘]が起居郎鄭顥に降嫁した。
顥には既に愛妻がいたが、白敏中は名門の秀才に娘を嫁がせたい宣宗の意向を受
けて降嫁させた。当時、貴族の子弟でも才のある者は、制約の多い公主の降嫁を
望まなかった。顥は敏中を激しく恨んだ。
三年二月,吐蕃の秦原安樂三州と石門驛藏木峽制勝六磐石峽蕭七關が唐朝に帰属した。
吐蕃は大将論恐熱と,鄯州節度使尚婢婢が争い内乱状態となっていて、統治不全
となり、そのため現地豪族は唐朝に帰属しようとした。宣宗は父憲宗の念願であっ
た隴右回復が実現し感激した。
三月,宰相馬植が罷免された。[旧唐書は四月、通鑑は四年四月]
植は宦官中尉馬元贄と同姓の誼で昵懇となり、元贄が宣宗より賜った寶帶を譲り
受けていた。宣宗はそれを知り、宰相と宦官の結託を嫌い解任した。
四月乙酉,宰相周墀が解任された。
崔鉉と魏扶[唐初の名相魏徴の末]が宰相となった。
墀は正論を唱え直言して避けられた。
學士鄭顥は「帝は直言を求めるが、されると避けるのですか」と諫めた。
四月癸巳,幽州盧龍軍節度使張仲武が卒し、子の直方が継承した。
仲武は唐朝に協調していたし、唐朝には幽州節度に干渉する意図はなかった。
五月。武寧軍亂,節度使李廓を逐う。
悪名の高い徐州武寧軍の牙軍の乱である。彼らは徒党を組み、気に入らない
節度使が来ると乱を起こし逐った。相当な政治力を持つ者でないと武寧節度
使は務まらなかった。
十月吐蕃の維州[西川]が、十二月,扶州[山西]が唐朝に帰属した。
失われていた領域が吐蕃の内乱による弱体化により帰属してきた。
十一月幽州軍亂,逐留後張直方,衙將周綝が自立した。
常に外敵と臨戦状態にある幽州では若輩では継承できなかったようである。
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大中四年~五年 西暦 850~51
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四年六月戊申,宰相魏扶が卒し、崔龜從が宰相となった。
八月,幽州盧龍軍亂,逐其節度使張直方,衙將張允伸自稱留後。
旧唐書・通鑑では三年十一月であり、立ったのは張允伸ではなく、周綝
が嗣ぎ、綝が卒したのが四年九月で跡を継いだのが允伸である。
十月辛未,令狐綯が宰相となった。
宣宗の信任が厚く昇進が早い、白敏中も既に穴を掘られる立場である。
十一月,黨項羌が邠寧を侵した。
当時、神策軍人上がりの辺境の節度使達は、貪欲であり辺境の部族を収奪
するものが多かった。親衛軍である神策軍は宦官達が食いものにして、京
師の富裕層[商人達]から収賄して編成していたので形骸化し、ただ利得
を求めたり、徴税を逃れる連中で構成され。出身の節度使達も贈賄により
任命されるのが当たりまえだった。辺境民達は不満が蓄積していた。
五年三月,宰相白敏中為司空,招討南山平夏黨項行營兵馬都統。
憲宗時代の裴度の淮西征討にならったが、所詮二度目は茶番である。
令狐綯等が敏中を追いはらうために画策したものだろう。
敏中は出征中に鄭顥に讒言されることを懼れて、宣宗に申し出た。宣宗
は上奏箱を示した。そこには既に顥から敏中批判の文書が山積していた。
四月,赦平夏黨項羌。八月乙巳,赦南山黨項羌。
本気で征討などしなくても、節度使達の不正な処置を止めることを約束
するだけで、黨項達は歸順するのである。もちろんこの後もろくな節度
使はおらず長く不安定は続いた。平定後も敏中の中央復帰は阻止され、
十月西川に転出させられた。
十月,沙州人張義潮以瓜沙伊肅鄯甘河西蘭岷廓十一州歸唐朝。
安史の乱で吐蕃に奪われた河西・安西節度使領域が帰順してきた。現地の
豪族達の君主替えにすぎず、唐朝の治政が及んだわけではない。歸義軍節
度使が沙州に置かれ義潮が任ぜられた。
十月,戊辰,魏暮が宰相となる。
またまた唐初の魏徴の末裔である。宣宗は名家の末が好きである。ただや
はり末は二流でしかないのが実情であった。
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大中六年~八年 西暦 852~854
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六年二月南山の賊を討つ。
京師南方の山西の山岳地域に蜂起している賊を、劉潼に慰撫させて降したが、
追討使王贄弘はそれをだまし虐殺して討ったと称した。
八月,裴休が宰相となった。
京師への漕運の方法を改善し安定した補給を確立した功績で。
[当時の状況]
・既に腐敗した宦官・官僚による硬直化が進行し、宣宗は鋭意治政に励んだ
が、ほとんど地方には伝わらなかった。
・節度使は文武の官僚達の利権化し、牙軍の経費をピンハネしたため、ほと
んどの軍が弱体化していた。
・中央の神策軍も利権化し、京師の富民の子弟が占有する所となっていた。
・宣宗は母鄭氏の父光を優遇したが、能がないため治政には関与させなかった。
・官僚や豪族の荘園化が進行し、農民は逃避し、租税は集まらず、唐朝の財政
は塩の専売など間接税にたよっていた。
・科挙も官僚貴族[唐初の貴族とは別物、官僚を代々出す家柄が貴族化したもので、
崔氏・鄭氏・楊氏などが有名]が独占するようになってきた。
八年正月長慶初の乱臣与党の赦令が出た。
宣宗即位後、憲宗暗殺に関与した宦官・官僚への追及が続き、動揺が広がったため。
九月、宣宗は勅使として派遣された宦官の横暴を知り、処罰した。
宣宗は宦官の力を抑えようと努力した。しかし學士韋澳に「帝の威權は憲宗と比べ
てどうですか」「宦官の力は憲宗時と比べていかがですか」と諫められ、「我、力
及ばず」ともらした。
十月県令李行言が海州刺史に抜擢された。
宣宗は狩猟にこと寄せて京師近郊を巡り、庶民の意向を探り良吏を抜擢しようと
した。しかし全体的に腐敗した官僚制の改革には力及ばなかった。
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大中九年~十年 西暦 855~856
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正月甲申,成德軍節度使王元逵が卒し、子紹鼎が継ぐ。
唐朝にはもはや河北三鎮の継承については追認するだけであった。
七月,丙辰,宰相崔鉉が淮南節度使となった。
前使名門貴族出身の杜悰が遊興にふけり、要地である淮南が混乱したため交代
させた。
是月,浙東道軍亂,觀察使李訥が逐われた。
これも名門貴族李遜の子である。監軍と共に乱政をしたため逐われた。
沈珣(傅師の子、やはり貴族)が赴任し鎮圧した。
宣宗は宮廷の小吏の名前まで覚え、節約し日夜行政に励んでいたが、既に唐朝
文武官は構造的に硬直し、宦官に限らず腐り果てていていかんともしがたかった。
邠寧・鄜坊・涇原・朔方・振武等西北方面は腐敗した神策軍出身の軍人が
淮南・浙西・浙東・宣歙・江西等江淮方面は腐敗した文官貴族出身が収奪にのみ
励み、わずか数人の練達した能吏を使い回すことで表面を繕っていた。
大中十年
正月宰相交代 鄭朗が任。十月裴休が罷、十二月崔慎由が任。
宰相のような重要人事ですら新唐書・旧唐書・通鑑でバラバラである。当時の資
料が散逸している為で、旧唐書などは異常に詳細な部分と、簡略な部分に分かれ
ている。
そして崩壊の予兆が見え始めた。
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大中十一年~十二年 西暦 857~858
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二月辛巳,魏暮が西川節度へ。
正論を述べるので、主宰相の令狐綯に敬遠された。
五月,容管軍亂,逐經略使王球。
嶺南磎洞蠻がしばしば容管・邕管領域に侵攻してきた。弱体な容管軍が動揺し
て反乱を起こしたもの。洞蠻征討軍を率いた宋涯が進駐し一応は抑えた。
七月成德軍節度副大使王紹鼎が卒し、弟紹懿が継承した。
九年正月に継承した紹鼎は愚かで横暴であったため、牙軍は乱の気配があった。
丁度都合よく死んでくれたので、王氏は存続できた。暗殺したのかも知れない。
このように河北三鎮では総帥の力量が乏しい場合は相続ができない。ただ成德だ
けがまだ穏健であった。魏博は牙軍の意向に左右され、幽州は指揮能力のない
ものは排除される。
十月壬申,宰相鄭朗が疾辭した。
大中十二年
正月安南軍に王式が赴任した。
雲南蠻の動揺していた牙軍を立て直し、築城した。
正月戊戌,劉瑑を崔慎由と交代に宰相に任じた。
即位して十三年、宣宗は皇帝としての権限を揮えるようになり、他に相談するこ
となく信任する劉瑑を相に任じた。
四月庚子,嶺南都將王令寰が乱し,節度使楊發を逐った。
硬骨な楊發が腐敗した嶺南軍政を粛清しようとしたため逐われた。
涇原節度使李承勳がこれを討った。南方の牙軍は弱くまともな征討軍が来れば
すぐ鎮圧される。
五月丙寅,宰相劉瑑が薨。
なったばかりの宰相が死ぬ、こういうことがこれからも何度も起きる。
五月庚辰,湖南都將石載順が乱し,逐觀察使韓琮。
恒例の腐敗した帥と、収奪により弱体化して綱紀が緩んだ牙軍。
六月丙申,江西都將毛鶴、逐觀察使鄭憲。
上に同じである。十二月鎮定。
六月辛亥,南蠻寇邊。
ガタガタな唐朝の南方防衛を知り本気で雲南蠻が侵攻してきた。
七月,容州將來正が反した。
ここは防衛拠点であり、宋涯が居るので乱軍は返り討ちになった。
八月,宣歙將康全泰逐觀察使鄭薰。
上に同じだが、宣歙は唐朝の重要な財源地帯である。
直ちに淮南節度使崔鉉が追討しとなり、十月鎮定。
忠武や山東などといった強い軍がくれば、堕落した南方諸鎮の牙軍
はひとたまりもなく鎮定される。しかし統治官僚の腐敗した状態に
変わりはないので、ただ崩壊するだけであり、雲南蠻侵攻や黄巣の
乱にはなんの抑えもできなくなっていった。
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大中十三年 西暦 859
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三月河東節度の雲蔚朔三州を分割し、雲州に大同軍を置いた。
北邊防禦対策である。雲蔚朔三州は蕃族が多数派であった。
四月武寧軍がまた節度使康季榮を逐った。
武寧牙軍は札付き不良軍であり、気に入らないとすぐ騒動を起こした。
左金吾大將軍田牟を再任させ安撫した。牟は將士のご機嫌取りがうまかった。
宣宗は当時としては老齢であり、当然皇太子を立てるべきであり、宰相も要請
していた。しかし長男の鄆王[後の懿宗]の無能ぶりが気に入らず、三男の蘷
王を立てたかったが、長男を排除する理由や、宦官への遠慮[宣宗も正統では
ないのに宦官に擁立してもらった]もあり決めることができなかった。
八月癸巳,宣宗皇帝崩御,年五十。
宣宗は重病となり朝見ができなくなった。
宦官にも派閥があり、宣宗皇帝の意向を尊重する樞密使王歸長と馬公儒、
右軍中尉王茂玄は蘷王を擁立するように動いた。そこで反対派の左軍中尉
王宗實を淮南監軍に転出させようとした。ところが宗實は宣宗が既に崩御
していることを知り、実力を持って鄆王を擁立した。
宣宗は日夜努力して帝国の再建に励んだが、腐敗した体制を動かすことは
できなかった。その死により実質的に唐帝国は衰亡期に入った。しかし巨大
な帝国であるので、崩壊が表面に出るのに20年、完全な滅亡までは50年かか
った。
唐末の賊中にいた知識人は「宣宗没後、国に政治なし」と嘆じた。