◎.光啓二年[886]
◎. 鄭續は?
◎.5月 [朱玫により擁立された僞皇帝(嗣襄王)により淮南節度使高駢の佞臣である
右都押衙和州刺史呂用之が檢校兵部尚書兼廣州刺史嶺南東道節度使に任用されるが不任]
光啓三年[887]
◎.? 裴璩が嶺南東道節度使となる。
文德元年[888]
◎2月.[親衛軍の將保鑾都將陳珮檢校司空廣州刺史嶺南東道節度使に任ぜられるが遥領である]
龍紀元年[889]
◎. 裴璩は?
大順元年[890]
◎. 戸部侍郎劉崇龜が検校戸部尚書嶺南東道節度使となる
景福二年[893]
◎.3/6月 [親衛軍の將捧日都頭陳珮が再度特進同平章事廣州刺史嶺南東道節度使使に任ぜ
られ軍權を解かれた。軍權の皇帝への回収である。名目的な任命で赴任していない]
乾寧二年[895]
◎. 節度使劉崇龜が卒した。
◎.7月(三年正月說あり) 特進戸部尚書兼京兆尹嗣薛王知柔が檢校司徒兼廣州刺史
御史大夫充清海軍節度嶺南東道觀察處置等使となる。
◎. 嶺南東道節度を號清海軍節度とする。
◎.12月 節度使薛王知柔は湖南に至るが、廣州牙將盧琚、譚弘□等は入部を拒否した。
封州刺史劉隱は端州で弘□を、廣州で琚を殺し、知柔を迎え入れた。知柔は隱を行軍司馬とした。
乾寧三年[896]
◎.7月 [崔昭緯派として宰相を逐われた中書侍郎同平章事崔胤が金紫光祿大夫檢校尚書
左僕射同平章事兼廣州刺史御史大夫充清海軍節度嶺南東道觀察處置等使になるが、
朱全忠に依頼して、その圧力により9月復相]
光化元年[898]
韶州刺史曾衮が舉兵し廣州を攻め、將王鐐が應じた。清海行軍司馬劉隱が撃破した。
韶州將劉潼の乱も平定した。
光化三年[900]
◎.12月 節度使嗣薛王知柔が卒する。
◎. 崔胤により逐われた開府儀同三司守太保兼門下侍郎平章事充太清宮使修奉太廟使
弘文館大學士延資庫使諸道鹽鐵轉運等使齊國公徐彥若が檢校太尉同平章事廣州刺史充
清海軍節度嶺南東道管内觀察處置供軍糧料等使として出される。唐朝が赴任させた
最後の節度使である。
天復元年[901]
◎.12月 節度使徐彥若が卒する。
◎.12月 後継として行軍司馬劉隱が自稱留後となる。
天復二年[902]
虔州刺史盧光稠が嶺南を攻めて韶州を陥し、潮州を囲んだ。清海留後劉隱がこれを破り、
韶州を奪回しようとしたが、光稠將譚全播に敗れた。
天復三年[903]
◎.2月 [吏部尚書同平章事裴樞が一時、檢校右僕射同平章事兼廣州刺史清海軍節度嶺南
東道觀察等使となったがすぐ門下侍郎同平章事に戻った。意味不明である]
天祐元年[904]
◎. [兵部尚書崔遠が清海軍節度嶺東觀察使として彥若の後任となったが、荊南まで来て
隠の自立を知って戻った]
◎. 劉隠は朱全忠に通じて贈賄し節度使に任じられた。
天祐二年[905]
◎.3月 劉隠に加同平章事。
天祐四年[907]
◎.5月 唐の滅亡により、劉隠は後梁朱全忠の下につき、兼侍中大彭王となった。
[以降 五代十國の南漢國]
◎. 鄭續は?
◎.5月 [朱玫により擁立された僞皇帝(嗣襄王)により淮南節度使高駢の佞臣である
右都押衙和州刺史呂用之が檢校兵部尚書兼廣州刺史嶺南東道節度使に任用されるが不任]
光啓三年[887]
◎.? 裴璩が嶺南東道節度使となる。
文德元年[888]
◎2月.[親衛軍の將保鑾都將陳珮檢校司空廣州刺史嶺南東道節度使に任ぜられるが遥領である]
龍紀元年[889]
◎. 裴璩は?
大順元年[890]
◎. 戸部侍郎劉崇龜が検校戸部尚書嶺南東道節度使となる
景福二年[893]
◎.3/6月 [親衛軍の將捧日都頭陳珮が再度特進同平章事廣州刺史嶺南東道節度使使に任ぜ
られ軍權を解かれた。軍權の皇帝への回収である。名目的な任命で赴任していない]
乾寧二年[895]
◎. 節度使劉崇龜が卒した。
◎.7月(三年正月說あり) 特進戸部尚書兼京兆尹嗣薛王知柔が檢校司徒兼廣州刺史
御史大夫充清海軍節度嶺南東道觀察處置等使となる。
◎. 嶺南東道節度を號清海軍節度とする。
◎.12月 節度使薛王知柔は湖南に至るが、廣州牙將盧琚、譚弘□等は入部を拒否した。
封州刺史劉隱は端州で弘□を、廣州で琚を殺し、知柔を迎え入れた。知柔は隱を行軍司馬とした。
乾寧三年[896]
◎.7月 [崔昭緯派として宰相を逐われた中書侍郎同平章事崔胤が金紫光祿大夫檢校尚書
左僕射同平章事兼廣州刺史御史大夫充清海軍節度嶺南東道觀察處置等使になるが、
朱全忠に依頼して、その圧力により9月復相]
光化元年[898]
韶州刺史曾衮が舉兵し廣州を攻め、將王鐐が應じた。清海行軍司馬劉隱が撃破した。
韶州將劉潼の乱も平定した。
光化三年[900]
◎.12月 節度使嗣薛王知柔が卒する。
◎. 崔胤により逐われた開府儀同三司守太保兼門下侍郎平章事充太清宮使修奉太廟使
弘文館大學士延資庫使諸道鹽鐵轉運等使齊國公徐彥若が檢校太尉同平章事廣州刺史充
清海軍節度嶺南東道管内觀察處置供軍糧料等使として出される。唐朝が赴任させた
最後の節度使である。
天復元年[901]
◎.12月 節度使徐彥若が卒する。
◎.12月 後継として行軍司馬劉隱が自稱留後となる。
天復二年[902]
虔州刺史盧光稠が嶺南を攻めて韶州を陥し、潮州を囲んだ。清海留後劉隱がこれを破り、
韶州を奪回しようとしたが、光稠將譚全播に敗れた。
天復三年[903]
◎.2月 [吏部尚書同平章事裴樞が一時、檢校右僕射同平章事兼廣州刺史清海軍節度嶺南
東道觀察等使となったがすぐ門下侍郎同平章事に戻った。意味不明である]
天祐元年[904]
◎. [兵部尚書崔遠が清海軍節度嶺東觀察使として彥若の後任となったが、荊南まで来て
隠の自立を知って戻った]
◎. 劉隠は朱全忠に通じて贈賄し節度使に任じられた。
天祐二年[905]
◎.3月 劉隠に加同平章事。
天祐四年[907]
◎.5月 唐の滅亡により、劉隠は後梁朱全忠の下につき、兼侍中大彭王となった。
[以降 五代十國の南漢國]