唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

陳許忠武軍節度使 その3

2012-11-30 09:38:11 | Weblog
・復光は京師回復の為に募兵し忠武八都軍を作った。都將には韓建・王建・鹿晏弘等唐末で活躍する
武将が揃った。また宗權を招慰して蔡州に奉國軍を立て軍を併せた。
・復光は中和3年[883年]4月沙陀の李克用を先鋒として京師回復に成功したが、7月卒した。
その威權に従っていた八都兵は動揺した。
・11月晏弘に率いられた八都は忠武を出て皇帝の元に向かうと称して襄、、金、洋州を掠奪し流れ
て行った。岌はこれを制することができなかった。12月晏弘は山西節度使牛勖を逐い自立した。
・一方京師より敗走した黄巣は、5月蔡州を陥し秦宗權を配下とし、6月陳州を攻囲したが刺史趙犨は
力戦して巢將孟楷を敗死させた。巢は激怒して全軍をあげて陳州を囲んだ。
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陳許忠武軍節度使 その2

2012-11-29 09:12:19 | Weblog
・元和13年[818年]淮西節度使が廃止され蔡州が移管され陳許蔡を領州とすることとなった。
忠武軍は淮西の強兵も併せて唐朝最強の軍となり、光顔は三度(元和9~13.13~14.
長慶1~宝暦1)節度使となり、軍を率いて各地を転戦した。
・その後も各地の反乱や侵攻があるたびに忠武軍は派遣されていった。節度使は武官と
文官が混在するが、文官も有能な者が任命された。
・乾符年間[874-879]、王仙芝・黄巣の叛乱に対しても活動したが、廣明元年[880年]黄巣の
北進に対峙していた忠武軍に軍乱が起こり節度使薛能は殺され周岌が自立した。そのため
齊克讓に率いられて諸軍は潰乱し、巢から東都を守る者はいなくなった。
・岌は巢に降って節度使に任命されが、蔡州では秦宗權が自立した。
・京師陥落後の中和元年[881年]体勢を整えた岌は監軍楊復光と謀り唐朝に復帰した。
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陳許忠武軍節度使 その1

2012-11-28 10:34:07 | Weblog
・貞元3年[787年]淮西李希烈が誅されたが、すぐ呉少誠が自立する情勢下、淮西の許州と永平
の陳州を以て陳許節度使を立て神策系の曲環を節度使とした。
・陳許は淮西より汴州・東都を防衛する要地であり、領域には山岳民を中心とした強兵を擁していた。
環は兵備を整え淮西の侵攻をゆるさなかった。
・貞元15年[799年]環が亡くなると小誠は許州を囲み、留後より昇格した上官涗は劣勢であった。
貞元19年涗が卒すると行軍司馬劉昌裔が昇格し忠武軍節度の號が与えられた。
・昌裔の後には文官の韓皐がついたが、元和9年[814年]淮西呉元濟征討が始まると、副使李光顔
が昇格し河陽鳥重胤とともに征討にあたった。
・元和10~12年にかけて、光顔は淮西軍と激戦を重ねたが決定的な勝利は得られなかった。
12年宰相裴度は自ら督戦し、正面の戦線で攻勢をかけた隙をつき唐隋節度李愬は蔡州を奇襲して元濟を捕らえた。
・元和13年[818年]光顔は忠武兵を率い義成節度使となり、対淄青李師道戦に向かった。
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夏綏銀節度使 定難軍節度使 その2

2012-11-27 17:45:51 | Weblog
・節度使は武官が配当され、蕃族の無知につけこんで私利を図る者も多かったが、辺境のため実戦経験の
ない神策系では対応が困難であり、李聴(晟の子)李祐・董重質(旧淮西將)傅良弼・李寰(旧成徳將)
などが登用された。
・廣明元年黄巣が京師を陥すと、夏州付近に據していた黨項の拓抜思恭はいち早く来援し京師回復に貢献した。
その功績により賜姓され李思恭となり夏州節度を定難軍節度と号して与えられた。
・その後思恭-思諫-成慶と夏州を世襲し、五代から「西夏」につながる黨項の根拠地となっていった。
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夏綏銀節度使 その1

2012-11-19 16:12:46 | Weblog
・対吐蕃防衛の最前線夏・鹽州は貞元2年[786年]吐蕃の領有するところとなったが、補給が続かないため城郭を壊し、
民を移して放棄した。6月杜希全はこれを回復し、7月振武の綏、銀二州を分割し、右羽林將軍韓潭を夏綏銀節度使とし
て、神策軍・朔方・河東兵八千を駐屯させた。
・吐蕃の關内侵攻は連年続き、京師は戒厳することが続いたが、貞元9年[793年]大軍をもって鹽州城を修築したこと
により一応の安定をみ、貞元13年[797年]邠寧楊朝義が方渠・合道・木波の三城を築くことにより侵攻は収まった。
・貞元14年長武城使韓全義が節度使となり、16年宦官の支持により淮西呉少誠征討の総帥となった。しかし宦官に贈賄
し媚びるだけの全義は敗戦を重ね逃げ帰った。宦官に操作された無能な宗皇帝はかえってこれを賞した。
・永貞元年[805年]憲宗皇帝が即位すると、新帝に憎まれていて形勢不利を知った全義は入朝し引退することができた
が、宗時代の無気力な藩鎭交替になれた全義の甥の楊惠琳は自分が継承しようとして征討され、部下に殺された。
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振武軍節度使 その2

2012-11-08 20:16:53 | Weblog
・貞元3年[787年]綏銀二州が分離され夏綏銀節度使が設置された。
・回紇や吐蕃や黨項と対する最前線のため神策系の武官の赴任が続いた。
・元和以降辺境の為給糧が大変なため天徳・振武に屯田が行われ一時的には成果があがった。
・開成5年[840年]より崩壊した回紇の一部が南下して振武・天徳に乱入し、節度使劉沔等が防衛にあたった。
・會昌元年[841年]回紇は振武を根拠地として求めたが唐朝はこれを拒否し征討に決し、2年これを破った。
・咸通11年[870年]徐州龐勗の乱の鎮定に功績があった沙陀李國昌(克用の父)が節度使となった。
・咸通13年[872年]國昌は官員を勝手に殺したため大同へ左遷されることになったが従わなかった。
・乾符5年[878年]克用は大同防禦使段文楚を殺し自立し、振武に拠る國昌と連携し叛した。
・廣明元年[880年]幽州節度・吐谷渾などの征討軍は國昌・克用軍を破り、振武は契苾部の支配する所となった。
・その後河東節度使に克用が任ぜられると振武はその勢力下となり麾下が節度使となった。
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振武軍節度使 その1

2012-11-02 20:35:47 | Weblog
・乾元元年[758年]方鎭表では振武軍節度押蕃落使が鎭北大都護府に置かれ領州は麟勝二州であった。
朔方節度使より分離したものであるが使名も不明で有り実体があったとは思えない。
領域は回紇に面したオルドス東北部の辺境である。
・廣徳2年[764年]方鎭表では振武節度使は廃止され朔方節度へ統合された。
・大暦14年[779年]5月振武軍節度使が置かれ鎭北大都護府綏銀二州東中受降城を領した。
郭子儀引退後の麾下の諸将への分与であり、渾瑊が任ぜられたが、11月には崔寧が朔方鄜坊とともに管
轄し留後張光晟が管理する体制になった。
・建中元年[780年]光晟は横暴を極めた回紇からの使者の一行を殲滅した、そのため唐-回紇間が緊張
関係になり、完全に修復しない間に奉天の役になり、十分な回紇の支援が得られなくなった。
・貞元2年[786年]唐朝臣が節度使に任ぜられて留後時代が終わった。
・その後、武将の赴任が続いた。元和8年[813年]李進賢はその虐政のため牙軍に逐われた。
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