◎. 李紳[字公垂]は高宗時の宰相敬玄の曽孫だが進士出身。
會昌二年[842]
◎. 2月 淮南節度使李紳は德裕の推薦で宰相となる[旧唐書では元年二月だが]。代わって杜悰[字永裕.父も淮南節度使で宰相の佑]が検校司空淮南節度使となる。會昌年間の記録は混乱して悰のような重要人物でも前任が不明である[開成四年には戸部尚書兼判戶部度支事だが]
◎. 杜悰は名門の貴族で才能はないが気位は高く、淮南監軍が武宗皇帝に献上する女の選定を拒否し、かえって武宗から評価された。
會昌四年[844]
◎.7月 杜悰は宰相兼兼度支鹽鐵転運使となり、昭義節度劉稹の征討供軍にあたった。
◎.閏7月 李紳は足疾と称して宰相を辞し検校右僕射同平章事淮南節度使に再任された。
會昌六年[846]
◎.4月 宣宗即位により紳は加検校司空。
◎.7月 李紳卒,贈太尉,諡文肅。没後、李徳裕失脚後の政争に巻き込まれ官を削られ、子孫は任用されなかった。
◎.7月 李派の宰相で司空の李譲夷[字達心]が武宗山陵使の途中で檢校司空同平章事淮南節度使となったが、大中元年、疾となり帰還を願った途次に卒した。贈司徒。清廉で温和であったので德裕の失脚の巻き添えにはならなかったようだ[旧唐書では伝記が混乱している]。
大中元年[847]
◎.檢校尚書右僕射同平章事劍南西川節度使崔鄲[字?]が淮南節度使へ移る。李派であるが?。
大中三年[849]
◎. 崔鄲は鎭に於いて卒した。
◎.四年かもしれない 金紫光禄大夫吏部尚書李珏[字待價]が檢校尚書右僕射揚州大都督府長史淮南節度使上柱國贊皇郡開國公食邑一千五百戶となる。元牛派の宰相であるが武宗時代に左遷され僻地にいた。宣宗即位により復帰。
◎. 江淮は旱で苦しんでいたが珏は善政をしき民を慰撫した。
大中六年[852]
◎. 李珏は鎭に卒,年六十九,贈司空,諡曰貞穆。淮南節度使は四代続けて在任中亡くなった。
會昌二年[842]
◎. 2月 淮南節度使李紳は德裕の推薦で宰相となる[旧唐書では元年二月だが]。代わって杜悰[字永裕.父も淮南節度使で宰相の佑]が検校司空淮南節度使となる。會昌年間の記録は混乱して悰のような重要人物でも前任が不明である[開成四年には戸部尚書兼判戶部度支事だが]
◎. 杜悰は名門の貴族で才能はないが気位は高く、淮南監軍が武宗皇帝に献上する女の選定を拒否し、かえって武宗から評価された。
會昌四年[844]
◎.7月 杜悰は宰相兼兼度支鹽鐵転運使となり、昭義節度劉稹の征討供軍にあたった。
◎.閏7月 李紳は足疾と称して宰相を辞し検校右僕射同平章事淮南節度使に再任された。
會昌六年[846]
◎.4月 宣宗即位により紳は加検校司空。
◎.7月 李紳卒,贈太尉,諡文肅。没後、李徳裕失脚後の政争に巻き込まれ官を削られ、子孫は任用されなかった。
◎.7月 李派の宰相で司空の李譲夷[字達心]が武宗山陵使の途中で檢校司空同平章事淮南節度使となったが、大中元年、疾となり帰還を願った途次に卒した。贈司徒。清廉で温和であったので德裕の失脚の巻き添えにはならなかったようだ[旧唐書では伝記が混乱している]。
大中元年[847]
◎.檢校尚書右僕射同平章事劍南西川節度使崔鄲[字?]が淮南節度使へ移る。李派であるが?。
大中三年[849]
◎. 崔鄲は鎭に於いて卒した。
◎.四年かもしれない 金紫光禄大夫吏部尚書李珏[字待價]が檢校尚書右僕射揚州大都督府長史淮南節度使上柱國贊皇郡開國公食邑一千五百戶となる。元牛派の宰相であるが武宗時代に左遷され僻地にいた。宣宗即位により復帰。
◎. 江淮は旱で苦しんでいたが珏は善政をしき民を慰撫した。
大中六年[852]
◎. 李珏は鎭に卒,年六十九,贈司空,諡曰貞穆。淮南節度使は四代続けて在任中亡くなった。