唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宰相一覧[除皇族]19.溫彥博

2014-12-31 10:12:47 | Weblog
溫彥博。字は大臨。太原祁人也。
父の君悠は北齊文林館學士・隋泗州司馬。
兄の大雅は禮部尚書・黎國公。
幼時より聡明。開皇末,文林郎直內史省・通直謁者となる。
隋亂に幽州總管羅藝に仕え。
藝が唐に付くと幽州總管府長史。
まもなく中書舎人・中書侍郎・西河郡公となる。
突厥入寇時に,并州道行軍總管行軍長史となるが敗北し捕虜となる。
しかし突厥には附かず、太宗即位後帰ることができ雍州治中
ついで檢校吏部侍郎がなるが人事には適さない。
復中書侍郎兼太子右庶子となる。
貞觀二年御史大夫仍檢校中書侍郎事になる。
蕃使入朝時の儀礼には通じ風格もよく評価が高かった。
四年中書令・虞國公に昇進。
突厥平定後、魏徴らとその処理について争う。
質朴慎重であり,国事を他に漏らさなかった。
十年尚書右僕射に移る。
明年64才で卒する。贈特進。
子の振は太子舎人に至る。
[宰相履歴]
貞觀4年2月中書令~10年6月右僕射~11年6月薨
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唐宰相一覧[除皇族]18.魏徵

2014-12-30 09:29:33 | Weblog
魏徵。字は玄成。鉅鹿曲城人也。
父長賢,北齊屯留令。
生業にはつかず出家して道士となり放浪し説客となる。
大業末に武陽郡丞元寶藏は反乱し李密に附き、徴を典書記とする。
その後李密に用いられ。従って唐に歸附。
關東の状況を売り込み秘書丞として旧知の徐勣を誘降。
竇建徳に捕らわれてその起居舎人となる。
建敗北後、太子建成に仕え引直洗馬となり、謀臣となる。
太子建成死後、秦王に仕え事主簿。
即位後、諫議大夫・鉅鹿縣男に抜擢される。
張り切る太宗に対して常に直言し、その過を諫める。
太宗も全てを受入れるわけ[西域支配や突厥平定後の処置
など軍政についての案は却下されている]ではないが我慢
して聞くという姿勢をとる。
貞觀三年朝政に参与し郡公に進む。
七年,侍中に昇進し、左光祿大夫・鄭國公に進む。
しかし実際の政務は不得意であり、病を称して辞し、
特進仍知門下事として諫臣・相談役の立場に移る。
十六年皇太子承乾を諫めるために太子太師知門下省事如故となる。
しかしすでに病気で気力無く、64才で卒する。
贈司空、相州都督。
没後、その諫言に鬱屈していた太宗は子孫を冷遇する。
子の叔玉が襲爵し光祿少卿に至る。

[宰相履歴]
貞觀3年2月秘書監参豫朝政~6年5月検校侍中~7年3月侍中
~10年6月特進知門下省事朝章國典参議得失~16年9月罷
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唐宰相一覧[除皇族]17.王珪

2014-12-29 10:25:21 | Weblog
王珪。字は叔玠。太原祁人也。
曾祖神念,烏丸人。
祖僧辯,梁太尉、尚書令。
父,北齊樂陵太守。
若年苦学し、開皇末奉禮郎となるが
漢王諒の反に坐し誅殺にあたり、逃亡し十餘年をおくる。
唐高祖に歸附し唐世子府諮議參軍。
建成配下となり太子中舎人・中允を歴任するが、
秦王暗殺の陰謀に連なり巂州に流される。
太宗即位後、諫議大夫として召され、
魏徴登用以前の諌官として重んぜられる。
貞觀元年永寧縣男・黃門侍郎兼太子右庶子となる。
二年侍中として宰相に連なる。
後永寧郡公に進む。
七年宮廷の秘事?を漏洩したことで同州刺史に左遷された。
八年禮部尚書に召される。
十一年「五禮」を編纂。子に縣男を与えられる。
是歲魏王の師となる。
十三年 69才で卒する。贈吏部尚書。
長子崇基が襲爵するが主爵郎中で終わる。
[宰相履歴]
貞觀2年12月守侍中~4年2月侍中~7年3月貶
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唐宰相一覧[除皇族]16.李

2014-12-28 08:27:07 | Weblog
李靖。本名藥師。雍州三原人也。
祖崇義,後魏殷州刺史、永康公。
父詮,隋趙郡守。
軍學に通じ、隋長安縣功曹・駕部員外郎。
大業末,馬邑郡丞として高祖の反乱を告げようとして
果たせず捕まる。
斬罪に処せられる時に高祖に認められ、太宗配下となる。
武徳三年王世充征討に従い、開府となる。
また廬江王瑗に従い荊州蕭銑を伐ち、阻まれ高祖に譴責
されるが、許紹に救われる。
四年趙郡王孝恭行軍長史として蕭銑を平定。
上柱國・永康縣公。
そして檢校荊州刺史として嶺南を帰服させる。
嶺南道撫慰大使,檢校桂州總管。
六年江南の輔公祏が反し、元帥孝恭とともに討伐し、
東南道行台兵部尚書となる。
其年檢校揚州大都督府長史。
八年突厥が太原に侵攻し淮南兵を率い防ぐ。
檢校安州大都督。
九年突厥の侵攻を靈州道行軍總管として防ぐ。
太宗が即位し刑部尚書・實封四百戶。
貞觀二年,兼檢校中書令として宰相となる。
三年兵部尚書に転じる。
四年太宗は突厥の冷害による弱体化をみて、和約を破り、
靖を代州道行軍總管として頡利可汗を捕らえ、
隋の子孫も拘束させた。
唐は唐儉を使いとして頡利と講和させ、油断したところ
をに攻撃させるという策で勝利を得た。
功により代國公、しかし太宗は御史大夫溫彥博を唆せ、
靖軍の掠奪を弾劾させに謝罪させてから赦して褒賞
するという姑息な態度をみせた。
そして左光祿大夫を加え、尚書右僕射とした。
靖は宰相となることを喜ばず廷議においては発言しなかった。
八年,畿內道大使として風俗を視察。
ついで足疾を以って致仕を願い出た。
太宗はが宰相を避けていることを知り、特進・每三兩日
至門下中書平章政事として宥めた。
九年吐谷渾が侵攻し、太宗はが出撃することを求めた。
靖も得意の軍務であるため引き受け西海道行軍大總管と
してこれを平定した。
この時も大功を立てながら高甑生の讒言にあい取り調べを
受ける屈辱をうけ、閉門籠居することとなった。
十一年衛國公に転じ世襲濮州刺史。
十八年開府儀同三司に進む。
太宗の高麗平定には随行を申し出たが、老齢のため免ぜられた。
二十三年に79才で卒した。贈司徒、并州都督。
太宗は自らも軍人であるため、大功を立てた將を妬むという
欠点があり、素直に褒賞を与えないことが多かった。
李・李勣・侯君集などはすべてこの被害者である。
子の謇が襲爵、將作少匠に至る。
[宰相履歴]
貞觀2年正月検校中書令~3月關内道行軍大総管~3年2月兵部尚書
~8月定襄道行軍大総管~4年8月右僕射~8年10月三両日一至門下
中書平章政事~11月罷
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唐宰相一覧[除皇族]15.杜淹

2014-12-27 10:18:06 | Weblog
杜淹。字は執禮。
祖業は周豫州刺史。
父征は河內太守。
若くして有能であったが、隠逸が評価されることを知り隠棲。
やがて出仕し大業末には御史中丞に至る。
王世充に従い吏部尚書となり従わない親族を陥れる。
唐に降り太子建成に仕えるが、太宗にも両端をかける
[太宗側のスパイと考えられる]。
武八年楊文幹の乱に坐して越巂へ流される。
太宗即位後、御史大夫・安吉郡公・實封四百戶に取り立てられる。
典故・儀礼に通じている。
ついで判吏部尚書參議朝政として宰相となり、
人材の登用に功績。
貞觀二年に卒する。贈尚書右僕射。
子の敬同襲爵、鴻臚少卿に至る。
[宰相履歴]
貞觀元年9月検校吏部尚書参豫朝政~2年10月薨
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唐宰相一覧[除皇族]14.長孫無忌

2014-12-26 09:43:28 | Weblog
長孫無忌。字は輔機。河南洛陽人。
拓跋氏の末裔で七世祖道生,後魏司空、上黨靖王。
六世祖旃,後魏特進、上黨齊王。
五世祖觀,後魏司徒、上黨定王。
高祖稚,西魏太保、馮翊文宣王。
曾祖子裕,西魏衛尉卿、平原郡公。
祖光,周開府儀同三司,襲平原公。
父晟,隋右驍衛將軍。
無忌は名門の出身で太宗文皇后の兄である。
太宗の遠征に常に従い信任は最も厚い。
渭北道行軍典簽・比部郎中・上黨縣公を歴任。
武九年の建成・元吉殺害でも活躍し太子左庶子。
太宗即位後、左武候大將軍。
貞觀元年吏部尚書になり齊國公・實封1300戶。
外戚で有り常に太宗の親近にあって謀議した。
その年尚書右僕射として宰相となる。
しかしその寵幸を妬まれ讒言[常に功臣に傷をつけるというのが
太宗の遣り口である]を受けたが免れる。
懼れた文皇后は宰相解任を求め、開府儀同三司として
右僕射は解かれる。
七年十月外戚として司空。
十一年世襲趙州刺史・改封趙國公。
十六年司徒に昇格。
十七年太子承乾が廃位され、太宗は太子対抗馬の魏王泰も逐い、
吳王を立てることを考えるが、無忌はただ独り残る甥の晉王治
を擁立した[長孫皇后の子は承乾・泰・治の三人だけ]。
十九年太宗征高麗時、攝侍中となる。
二十一年揚州都督を遥領。
二十三年太宗没時、中書令となり、褚遂良と二人で遺令を受ける。
高宗即位時、太尉兼揚州都督知尚書及門下二省事並如故と全権を握る。
さすがに知尚書省事は辞退し、太尉同中書門下三品。
永徽二年,監修國史。
四年、房遺愛・薛萬徹の謀叛をでっちあげて、高宗の対抗馬だった
吳王恪を抹殺する。
六年、高宗は武氏を皇后としようとするが反対する
[無忌は皇后王氏を支持していた]。
高宗はこれを懐柔しようとしたが、宰相褚遂良・韓瑗・來濟など
貴族官僚集団を背景とした無忌は同意しなかった。
高宗・武氏は新興・不満勢力の李義府や許敬宗を援軍としてこれに対抗し
永徽六年配下の褚遂良が失脚し。
顯慶四年黔州に配流され殺害された。
上元元年なぜか官爵を復された。
[宰相履歴]
①貞觀元年7月.右僕射~2年正月.罷
②貞觀7年11月.司空~16年7月.司徒~23年6月太尉~顯慶4年4月.罷
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唐宰相一覧[除皇族]13.杜如晦

2014-12-25 10:11:30 | Weblog
杜如晦。字は克明。京兆杜陵人也。
曾祖皎,周贈開府儀同・大將軍・遂州刺史。
高祖徽,周河內太守。
祖果,周溫州刺史・隋工部尚書・義興公,周書に伝記有り。
父吒,隋昌州長史。
大業中に滏陽尉となるが棄官して帰郷。
秦王=太宗に仕えて、秦王府兵曹參軍・陝州總管府長史。
房玄齡とともに活躍し、秦王の諸遠征に従う。
陝東道大行台司勳郎中・建平縣男食邑三百戶となる。
ついで本官兼文學館學士。
天策府ができると從事中郎
秦王が太子となると太子左庶子。
即位後、兵部尚書・蔡國公・實封千三百戶となる。
貞觀二年本官檢校侍中攝吏部尚書仍總監東宮兵馬事として宰相。
三年尚書右僕射仍知選事として房玄齡と共に執政。
其年冬に疾となり辞職し、四年46才で卒する。
「房杜の政」と言われるがわずか二年にみたない宰相期間であった。
贈司空,萊國公
子の構が襲爵し慈州刺史に至るが、弟荷が太子承乾に付いたため連座し流。

[宰相履歴]
貞觀2年正月.検校侍中~3年2月.右僕射~3年12月.罷
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唐宰相一覧[除皇族]12.房玄齡

2014-12-24 10:53:26 | Weblog
房喬。字は玄齡[こちらのほうが有名]
齊州臨淄人。
曾祖翼は後魏鎮遠將軍・宋安郡守・襲壯武伯。
祖熊は褐州主簿。父彥謙,隋陽令,隋書に伝記あり。
若年より博学で州進士に挙げられる。
隰城尉となり、高祖自立時にすぐ帰服し秦王=太宗に仕え、
秦王府記室・臨淄侯・兼陝東道大行台考功郎中・加文學館學士として
杜如晦と並び秦王の謀臣となる。
秦王が太子となると太子右庶子。
即位と共に中書令として宰相となる。
邢國公に進み實封千三百戶を与えられる。
三年に攝太子事兼禮部尚書。
四年に尚書左僕射・魏國公・監修國史。
行政の中心として誠実で有能であった。
九年高祖の山陵造成にあたり加開府儀同三司。
十一年世襲宋州刺史,改封梁國公
十三年加太子少師
十六年司空に進む。
晉王が太子となると太子太傅・知門下省事監修國史如故。
太宗親征時は京城留守となる。
二十二年七十才にて宰相職のまま卒する。
贈太尉并州都督。
杜如晦とともに貞觀の治に功績があったとされるが、
行政に練達ではあったが特別な功績はない。
子の遺直が嗣爵。永徽初に禮部尚書・汴州刺史に至る。
[宰相履歴]
武徳9年7月.中書令~貞觀3年2月.左僕射~16年7月.司空~22年7月.薨
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唐宰相一覧[除皇族]11.高士廉

2014-12-23 10:09:31 | Weblog
高儉。字は士廉[こちらのほうが有名]。渤海修人。
曾祖飛雀,後魏贈太尉。
祖岳,北齊侍中、左僕射、太尉、清河王。
父勵,字敬,北齊樂安王、尚書左僕射、隋洮州刺史。
北朝名家の出身であり、文史を学習し、大業中,治禮郎となる。
長孫家とも姻戚であり文皇后ともつながる。
斛斯政に坐して嶺南の朱鳶主簿へ貶。
隋末の乱に交趾太守丘和の麾下となる。
武五年和に従い歸國する。
雍州治中として牧太宗の部下となる。
文皇后の舅であり親愛される。
太子建成殺害の密謀に預かり、太子右庶子となる。
貞觀元年に侍中.義興郡公.實封九百戶と得て宰相となる。
ところが黃門侍郎王珪の密奏を太宗に取り次がなかった
ことから解任され安州大都督に出された。
益州大都督府長史に転じ風俗、治水、教育に善政をしく。
五年吏部尚書・許國公となり。「氏族志」を編纂する。
このとき太宗は鮮卑の末裔である「皇族=李氏」を
關東の名族より上位に置いた。
編集の功績により特進・上柱國。
同中書門下三品に復帰する。
十二年.世襲申州刺史,申國公となる。
其年尚書右僕射に昇進し、攝太子少師,特令掌選。
十六年開府儀同三司を加えられ致仕を請願。
尚書右僕射は解かれて開府儀同三司舊平章事となる。
「文思博要」を撰する。
十九年太宗の高麗遠征時、留守の皇太子を攝太子太傅として輔佐。
二十一年正月に72才で卒。贈司徒・并州都督
子の履行が嗣爵する。
[宰相履歴]
①武徳9年7月.侍中~貞觀元年8月.貶
②貞觀12年7月.右僕射~17年6月.同中書門下三品~21年正月.薨
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唐宰相一覧[除皇族]10.宇文士及

2014-12-22 10:08:46 | Weblog
宇文士及。字は仁人。
雍州長安人。隋右衛大將軍述の子,叛臣化及の弟。
開皇末に父の勲功により新城縣公。
煬帝の女南陽公主を妻とする。
大業中に尚輦奉御・鴻臚少卿を歴任。
兄化及が煬帝を弑すると內史令となる。
その後、竇建に追われ、旧交があった高祖に降った。
妹が高祖の側室であったので優遇され、上儀同。
太宗に従い宋金剛を伐ち、新城縣公に復し壽光縣主を妻とす。
王世充・竇建を平定するのに功績があり、郢國公に進む。
中書侍郎・太子事を歴任する。
武徳8年に検校侍中として宰相となり。
太宗が即位すると、さらに中書令となり實封七百戶を得る。
さいで兼檢校涼州都督として突厥対策にあたり、
軍備充実をしすぎて疑われ罷免、殿中監となる。
病気と称して蒲州刺史となり善政をしく。
また右衛大將軍となり太宗の親任が極めて厚い。
また殿中監となり金紫光祿大夫を加えられる。
煬帝を弑殺をした一味が、その後功績があっても、多くが左遷されたが
なぜか士及は優遇され続けた。
貞觀政要をでっちあげた太宗の政治が言行不一致である証拠といえる。
貞觀十六年に卒する。贈左衛大將軍、涼州都督
家族・親族を大切にしたが、自らの生活も贅沢であった。
[宰相履歴]
武徳8年12月.検校侍中~9年月.中書令~貞觀元年9月.罷
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唐宰相一覧[除皇族]9.裴矩

2014-12-21 10:32:09 | Weblog
裴矩。字は弘大。
祖父佗は後魏東荊州刺史。父訥之は北齊太子舎人。
若年より博學であり、齊高平王文學となる。
齊が亡ぶと,定州總管記室となり隋の文帝の部下となり、
文帝が即位すると,給事郎直內史省奏舎人事となった。
また晉王廣の陳平定に記室として従い、その圖籍を収集した。
その後吏部侍郎となる。
大業初、西域諸蕃の互市を監督し西域の権威となる。
煬帝に親近され民部侍郎・黃門侍郎參預朝政を歴任する。
西域諸国を入朝させることに努力し、銀青光祿大夫を加えられる。
その後高麗征討に従い、領虎賁郎將となり。兼掌兵部事。
そして功績により右光祿大夫に進む。
天下が乱れるのをみて、恐懼し下僚に至るまで歡心を得るように努力するが、
煬帝を諫めずただ迎合に努めた。
宇文化及弒逆には尚書右僕射となる。
化及が破れると竇建に仕え尚書右僕射令專掌選事となる。
建が敗れると,傳國八璽を携えて唐に来降し安邑縣公となる。
武徳五年には太子左庶子。
俄に太子事に移り、太子建成派となる。
八年兼檢校侍中となり相に昇格。
太子建成が殺害された時、その党派を説いて解散させた。
そして80才を超えて民部尚書になり即位の典礼に働く。
貞観元年に卒。贈絳州刺史。
常に権力者に迎合阿諛する佞臣であった。
子の宣機は銀青光祿大夫太子左中護に至る。

[宰相履歴]
武徳7年12月.検校侍中~8年11月.罷
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唐宰相一覧[除皇族]8.封徳彙

2014-12-20 09:46:11 | Weblog
封倫。字は徳彝[こちらのほうが有名]。
北齊太子太保隆の孫。父繡は隋通州刺史。
開皇末,內史令楊素に評価され內史舎人。
大業中,煬帝の佞臣虞世基に迎合し政を乱す。
乱臣宇文化及に付き內史令として北上。
しかしその衰えをみて唐に来降。
旧知の高祖はこれを優遇し、內史舎人、ついで內史侍郎とする。
太宗に従い王世充征討にあたり、平原縣公兼天冊府司馬。
武徳六年本官をもって檢校吏部尚書。
行政に通じて功績をあげる。
八年道國公,ついで密国公へ。
蕭瑀の推薦に中書令となり、高祖の親任が厚い。
太宗が即位し、右僕射となり、蕭瑀と対立し始める。
貞觀元年勤務中に病となりまもなく卒する。年六十。
贈司空。
有能な佞臣であり、常に両端をかけ保身に長じていた。
卒後、その策謀が暴かれた。
子の言道は高祖淮南長公主と結婚し宋州刺史に至った。
[宰相履歴]
武徳3年3月.兼中書令~6年4月.中書令~9年7月右僕射~貞觀元年6月.薨
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唐宰相一覧[除皇族]7.楊恭仁

2014-12-19 09:20:59 | Weblog
楊恭仁。本名は綸。隋の觀王雄の長子。
仁壽中に甘州刺史となり善政を行い戎人を帰服させる。
大業初に吏部侍郎となり、楊玄感の征討に功績があったが、
清廉な人事を行ったため周囲に敬遠される。
河南道大使として討賊に出されたが朱粲に敗北し江都に逃げ帰る。
宇文化及の弒逆後,化及に従い吏部尚書となり河北へ。
唐に帰服した元寶藏に捕らわれて京師へ送られる。
旧知の高祖は禮遇して黄門侍郎・觀國公とし涼州總管とした。
西域の鎮撫に当たり夷狄を入朝させ功績をあげた。
功績により納言を遥領し總管を兼ねた。
突厥頡利可汗への防衛・瓜州賀拔威の反乱の鎮圧に功績あり。
入朝し吏部尚書となり、左衛大將軍・鼓旗將軍となる。
貞觀初に雍州牧・左光祿大夫・揚州大都督府長史となり宰相は離れる。
地方統治に能力があり。五年洛州都督に移る。
やがて特進をもって致仕し。十三年卒。贈開府儀同三司潭州都督。
子の思訓が襲爵し右屯衛將軍に至る。
[宰相履歴]
武徳2年10月.領納言~6年4月中書令~9年7月.罷
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唐宰相一覧[除皇族]6.陳叔達

2014-12-18 10:23:45 | Weblog
陳叔達。字は子聰。南朝陳宣帝の第十六子。
容姿が良く才學にも優れていた。
陳では義陽王に封ぜられ、侍中・丹陽尹・都官尚書を歴任。
隋に降ったが起用されず、大業になりやっと內史舎人・絳郡通守となる。
高祖自立に際しては絳郡をもって帰服し丞相府主簿・漢東郡公となる。
詔勅軍令起案を専らにする。
武徳元年黃門侍郎となり、二年納言を兼ねて宰相となり、
四年侍中[改称]となる。
弁舌にすぐれている。
多く江南の名士を起用していった。
五年江國公に進む。
建成・元吉と太宗との闘争には太宗側に立つ
貞観初,光祿大夫を授けられるが。
太宗の前で蕭瑀と争い免官。
まもなく母の喪に服し、明けると遂州都督を受けず。
やがて禮部尚書となる。
のち弾劾されるが、なんとか致仕を許される。
九年に卒する。贈戶部尚書。
贈官が意外に低いのは弾劾の影響か?
[宰相履歴]
武徳元年6月.判納言~2年正月.兼納言~9年10月.免
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唐宰相一覧[除皇族]5.竇抗

2014-12-17 10:42:08 | Weblog
竇抗。字は道生。太穆皇后の從兄。父は隋洛州總管陳國公榮であり、母は隋萬安公主。
帝の甥であり、優遇されて太學に入り書史を学ぶ。千牛備身儀同三司となる。
襲爵陳國公となり梁・岐州刺史に至る。
高祖と親しく、自立に際して帰服し、將作大匠となる。
武徳元年竇威の没後、本官兼納言として宰相となる。
高祖の親任は厚かったが宰相としての識見はなく、
短期間で左武候大將軍・領左右千牛備身大將軍に転じて宰相を辞める。
その後太宗の薛仁杲・王世充討伐に従い勲功があった。
武徳四年宴会中に急死する。贈司空。
子の衍が嗣爵し左武衛將軍に至る。
[宰相履歴]
武徳元年6月.兼納言~10月.罷
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