唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

ホームページ 唐資料集は来年3月まで

2018-10-24 18:58:52 | Weblog
Yahoo!ジオシティーズが来年3月で廃業するそうです。
そのため 今設定している「唐資料集」ページも消えます。
JCOMのホームページ廃業により移転して間もないのですが
また廃止・・・ もう面倒くさくなってきました。
このブログ自体は継続していくつもりですが、
ホームページのほうは止めようかと考えています。
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鳳翔[ほうしょう]節度使の歴史

2018-10-24 11:27:12 | Weblog
鳳翔府は京師の西隣に有る重要な都市です。
安史の乱後、隴右道が吐蕃に奪われた後は、常に蕃域に接した地域でもありました。

①.至徳二年[757]十二月岐州は西京鳳翔府となりました。

②.上元元年[760]置興鳳隴節度使
正月、元京兆尹崔光遠が鳳翔尹秦隴節度使となり成立しました。

その後武臣系の節度使が続きました。

永泰元年[765]澤潞節度使李抱玉が対吐蕃防衛の責任者となり鳳翔隴右節度使を兼任しました(隴右と言っても名前だけですが)。

抱玉の統治は大暦十二年まで続き、その後入朝した幽州朱泚の兼任となりました。そして多数の幽州兵が鳳翔や周囲方鎭に入るようになりました。

③.建中四年[783]興鳳隴節度賜號保義節度。是年,罷保義
建中三年泚の弟幽州朱滔が反すると、泚は軍權を外され、宰相張鎰が兼任するようになりました。

四年十一月泚が反し、德宗皇帝が奉天城に遁走し籠城、鎰は皇帝を支援して出兵しました。
ところが軍兵は朱泚側に傾き、鳳翔将李楚琳は乱して鎰を殺しました。
しかし楚琳は積極的に泚側には付かず、両端を決め込みました。
賜號は張鎰に与えられたのか、楚琳を宥めるために与えられたのかは不明です。

興元元年[784]唐朝側が優勢になると、楚琳は入朝し左金吾大将軍となりました。
そして京師回復の功臣である副元帥李晟が鳳翔に入りました。

④貞元元年[785]保義節度增領臨洮軍使

⑤貞元三年[787]罷保義節度,置都團練觀察防禦使。未幾,復置節度,兼右神策軍行營節度使。
初,隴右節度兵入屯秦州,尋徙岐州,及吐蕃陷隴右,德宗置行秦州,以刺史兼隴右經略使,治普潤,以鳳翔節度使領隴右支度營田觀察使

李晟は対吐蕃強硬派、河東節度馬燧は融和派でした。德宗皇帝は燧を支持して、融和策に反対する晟の軍權を取り上げて太尉に祭り上げました。
鳳翔節度は格下げされて晟の部下の邢君牙が都團練觀察防禦使となりましたが、その後の推移(吐蕃が盟約を破り、燧も失脚したため)で節度,兼右神策軍行營節度使に戻りました。
鳳翔隴右の「隴右」は、旧隴右節度使が所領を吐蕃に逐われて鳳翔に移動してきたために処置されたものです。

⑥.元和元年[806]升隴右經略使為保義節度,尋罷保義,復舊名。是年,增領靈臺、良原、崇信三鎮
貞元十年[794]幽州節度劉濟と弟瀛州刺史澭が争い、敗北した澭は所部の兵を率いて唐朝に亡命してきました。
德宗皇帝は秦州刺史隴右經略軍使として鳳翔府の普潤県に屯させ吐蕃防禦に当たらせていました。
憲宗皇帝はその精兵と澭を活用しようとして、元和元年四月節度に昇格させましたが、二年十二月に澭は卒しました。当然廃鎮です。

その後元和末までは武官系の節度でしたが、長慶[821~]は文官・武官が半々になっていきました。

大和九年十二月には李訓(甘露の変)の与党の節度使鄭注が監軍により殺されました。

⑦.大中四年[850]增領秦州。
大中三年より吐蕃の内乱による衰微によって、その領域が唐朝に帰服してきました。
七月秦州もまた帰服したため鳳翔節度使に帰属しました。

⑧.大中三年[849]升秦州防禦守捉使為秦成両州経略使
⑨.大中五年[851]罷領隴州,以隴州置防禦使,領黃頭軍使
⑩.大中六年[852]秦成両州経略使領押蕃落等使

隴右河西地方が唐朝に帰属しはじめた対策です。

咸通年間[860~]より鳳翔節度使は使相が在任することが多くなりました。

⑪.咸通五年[864]秦州隸天雄軍節度
秦州に天雄軍節度使を設けて独立しました。

廣明元年[880]十二月黄巣により京師が陥落し、僖宗皇帝と宦官田令孜が成都に遁走すると、元宰相で鳳翔節度使鄭畋は京師回復を宣言し、諸軍を集め京城四面行営都統となりました。
ところが武官への統率力はなく、中和元年[881]十月鳳翔将李昌言がこれを逐い自立しました。
李昌言(中和元年~四年卒)弟昌符(中和四年~光啓三年)と二代継襲しました。
昌符は朱玫と共謀して嗣襄王を僞帝に立てましたが、裏切って僖宗を鳳翔に迎えたのです。
しかし僖宗が率いていた神策軍と争い敗死しました。
後任の節度使は李茂貞であり、急速に勢力を拡大し唐朝を支配しようとしました。

景福元年[893]邠寧王行瑜・華州韓建と組んで、山西[宦官楊復恭と養子守亮が據]討伐を強請し、唐朝が認めないのを無視してこれを滅ぼしました。

景福二年[894]正月、唐朝は茂貞を山西兼武定に移し、宰相徐彥若を鳳翔節度使としました。
当然茂貞は従いません。
そのため八月嗣覃王嗣周に茂貞を討たせたがかえって敗北しました。
十月茂貞は京師に侵攻し、宰相杜譲能等を殺害しました。

⑫.乾寧元年[894]鳳翔節度增領乾州,未幾罷
乾寧二年[895]茂貞等は京師を犯したため、昭宗皇帝の依頼を受けた河東李克用は邠寧王行瑜を敗させ、茂貞はひたすら謝罪しました。

克用が引き上げると、また茂貞は近隣方鎭に勢力を拡張し唐朝にしたがわなくなりました。
乾寧三年六月茂貞は京師に迫り婁館に唐朝軍を破った。為に昭宗皇帝は華州に遁走しました。

乾寧四年[896]唐朝は茂貞を西川節度使[王建が支配]に移しましたが、当然無視されました。
そして征討軍となった覃王軍を奉天城に包囲しました。

茂貞はがて韓建と妥協し包囲を解き、光化元年[897]昭宗皇帝は京師に戻りました。
そして宦官と結んだ茂貞の傀儡となりました。

天復元年[900]、宣武朱全忠が京師に侵攻すると、茂貞は昭宗皇帝を鳳翔に拉致しました。
全忠は鳳翔を包囲し、茂貞は敗戦を重ね、所領を次々と陥されました。
西川王建もまた山南西道の茂貞領を侵食しました。

天復三年[902]茂貞は全忠と和し、昭宗皇帝を引き渡しました。

その後、茂貞は王建と連携し、全忠を牽制しましたが、勢力は弱く単なる地方政権に終わりました。
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耀州[ようしゅう]節度使の歴史

2018-10-23 16:39:43 | Weblog
◎.天祐三年[906]置義勝軍節度使,領耀、鼎二州

鳳翔李茂貞の領域であり配下の将に配分するために自作した方鎭です、養子で群盗出身の李彥韜が任ぜられました、彼は唐朝の墓陵の盗掘で有名でした。
耀州は京兆府華原県、鼎州は京兆府美原県です。
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隴州[ろうしゅう]節度使の歴史

2018-10-23 16:38:29 | Weblog
隴州は鳳翔の西北にあり吐蕃の領域と接しています。

①.建中四年[783]以隴州置奉義軍節度使,尋廢
十月、涇原軍の反乱に始まる朱泚の乱により、鳳翔節度使の属州である隴州にも朱泚の兵が来襲しました。
留後であった判官の韋皐は従わず防衛に努めました。
十一月、唐朝はこれを支援するため隴州に奉義軍を置き,韋皐を節度使としました。
その後李懷光の来援により危機を脱しました。
「尋廃」とは興元元年[784]八月のことで、韋皐は左金吾大将軍になり隴州は鳳翔節度に戻されました。

②.大中五年[851]罷領隴州,以隴州置防禦使,領黃頭軍使
隣接の吐蕃に内乱が置き影響が及ぶ事を懸念したのでしょう。

③.中和三年[883]隴州防禦使增京甸神勇軍使

④.天復元年[901]升隴州防禦使為保勝軍節度使
鳳翔李茂貞の領域になり、配下の将に配分するために自作した方鎭でしょう、養子の李繼岌が任ぜられました。
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華州・鎭国[ちんこく]軍節度使の歴史

2018-10-22 09:54:39 | Weblog
華州は京師と東都を繋ぐ経路にあり、その地にある潼関は京師防衛の重要拠点です。
華州刺史は潼関防禦鎭国軍使を兼ねるのが通例です。

①.上元二年[761]以華州置鎮國節度,亦曰關東節度。
史朝義滅亡後、宦官魚朝恩の配下である李懷譲が同華節度使としてこの要地を抑えました。

②.廣徳元年[763]罷鎮國軍節度
寶應二年[763]六月、宦官程元振は李懷讓を讒言し自殺させました。
②は誤りであり廃節度使は大暦二年[767]のことです。

その後魚朝恩の配下周智光が同華節度使となり吐蕃防衛に功績がありましたが、増長し反抗することが多く、
大暦二年唐朝は河中郭子儀に討伐を命じました。
それを聞いた麾下は智光を殺害し降りました。

以降は華州刺史潼関防御鎮國軍等使として文官の任命が続き、潼関防禦兵二千が置かれるのみでした。

③.興元元年[784]以華州置潼關節度使
建中四年[783]京師で朱泚が反し、華州にも侵攻しました。
文官の刺史董晉は遁走しましたが、
潼関を守る鎭国軍副使駱元光[西域人]は逆襲して奪回し、華州刺史潼関防禦鎭国節度使に任ぜられました。
その後元光は朱泚・李懷光討伐に功績があり、賜名され李元諒となりました。

④.貞元四年対吐蕃防衛の為、元諒は隴右節度使を兼任し、良原に築城して屯しました。

⑤.貞元九年[793]罷潼關節度。
李元諒は良原に卒し、華州節度使は華州刺史潼関防御鎮國軍等使に戻り、文官が赴任することになりました。

廣明元年[880]黄巣による京師侵攻が始り、長い文官統治により潼関の防禦はすっかり衰微していて、簡単に突破され京師は陥落しました。

⑥.大順元年[891]以前、以華州置鎮國軍節度
忠武軍将から宦官楊復光下で討黄巣→鹿晏弘下で山西占拠→宦官田令孜配下へという経歴の韓建は文徳元年[888]には華州刺史となっていました。
宰相張濬が朱全忠と組んで河東の李克用を攻撃すると、その都虞候兼供軍糧料使となり節度使にも任ぜられたとみえます。

韓建は鳳翔李茂貞、邠寧王行瑜と組んで唐朝を圧迫し続けましたが、
乾寧二年[895]河東李克用が侵攻するとただちにこれに降り滅亡を免れました。

乾寧三年[896]唐朝が鳳翔李茂貞と戦い敗北し、昭宗皇帝は李克用を頼って東走しようとしました、
途中韓建は華州に誘致しました。
建は禁軍を解散し、諸王を殺害するなどしたため唐朝はすっかり衰微しました。

⑦.乾寧四年[897]兼領同州節度
七月建は李茂貞麾下の匡國節度使李繼瑭を脅かして逃走させ、十月同州を兼併しました。

⑧.光化元年[898]華州節度兼興德尹
昭宗皇帝は李茂貞と和解し京師に戻りました。
八月功績により華州は昇格し興德府になり、建は興德尹となりました。

⑨.光化三年[900]罷鎮國軍節度及興德尹。

天復元年[901]朱全忠が京師に侵攻し、韓建はすぐ降り忠武軍節度使に移されました。
以降華州は朱全忠の領域に入りました。
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振武[しんぶ]節度使の歴史

2018-10-21 19:35:38 | Weblog
①.乾元元年[758]置振武節度押藩落使,領鎮北大都護府、麟勝二州。
②.上元二年[761]廢關內節度使,罷麟勝隸振武節度
③.寶應元年[762]振武節度增領鎮北大都護府,以鎮北隸朔方
④.廣徳二年[764]罷河中、振武節度,以所管七州隸朔方。

黄河屈曲部の北邊の地に朔方節度使から分離した方鎭ですが、
初期節度使は不明です。
初期より朔方節度使郭子儀の統合下にありました。

⑤.大暦十四年[779]析置河中、振武、邠寧節度,振武節度復領鎮北大都護府及綏銀二州東中二受降城
郭子儀が太尉に祭り上げられ、所領は分割され、配下の渾瑊が一時振武軍節度使となりますが、すぐ召還され。また朔方節度使の統合下に戻ります。
張光晟等の振武軍使・留後が在任しました。
光晟は横暴な回紇の使節を虐殺する事件を起こしました。

建中二年[781]光晟を継いだ振武軍使彭令芳は軍士に苛虐であったため、監軍と共に殺されました。
汾州刺史王翃が後任として抑えましたが特段の処罰はありません。

貞元二年以降、唐朝臣等の武将出身の専任の節度使が配置されるようになりました。

⑥.貞元十二年[796]東中二受降城隸天德軍
天徳軍都防禦使設立によります。

元和八年[813]節度使李進賢は軍士を虐待したため軍乱が起き殺されました。憲宗皇帝はこれを赦さず、夏綏節度使張煦に河東の援軍を与えて叛者を誅殺しました。しかしその後実情を知り慰撫することに。

その後も武将出身の節度使が乾符年間までは赴任しましたが、
現地は回鶻・沙陀・吐谷渾など蕃族が盤踞する地域であり、
節度使も李國昌(沙陀)や契苾璋(回鶻)などが任ぜられるようになりました。

景福二年[894]以降は沙陀出身の河東節度使李克用の支配下になり、その将(石善友等)が占有することになりました。
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夏綏[かすい]節度使の歴史

2018-10-10 17:30:31 | Weblog

①.貞元三年[787]置夏州節度觀察處置押蕃落使,領綏、鹽二州,其後罷領鹽州。
吐蕃防禦のため夏州に左羽林大将軍韓潭が屯し、夏綏銀三州を管轄しました。
しかし銀州は城郭もなく、度支からの供給による軍事基地としての色彩が強いものでした。

韓潭のあとは貞元十四年[798]神策軍より宦官勢力と結託した韓全義が夏鹽綏銀節度使となりました。
全義は十六年[800]に蔡州行營招討使として淮西吳少誠を討ちますが敗北し逃げ帰りました。
暗愚な德宗皇帝は宦官にごまかされ処罰はされませんでした。
鹽州は誤記でしょう。

永貞元年[805]德宗が崩じると、処罰を怖れた全義は入朝し致仕しました。空気を読めない甥の楊惠琳は自立しようとしましたが討たれて誅された。

○.元和八年[813]鹽州隸夏州。自夏州至豐州,初置八驛。
鹽州はこの前後とも朔方に属しており、この旧紀の記載は誤りでしょう。

②.元和九年[814]夏州節度增領宥州
寶應[762]後廃止されていた宥州が経略軍に復置されました。
これは吐蕃から黨項を守るためでした。
しかし宥州は十五年[820]に吐蕃に陥され、また長慶四年[824]節度使李祐により復されました。

吐蕃の侵攻が絶えない辺境であり、神策系の武将が赴任する方鎭でした。

③.長慶四年[824]節度使李祐、塞外築烏延。宥州。臨塞。陰河。陶子等五城。

④.大和七年[833]以銀州刺史領銀川監牧使。

⑤.開成三年[838]夏州節度使領採造供軍、銀川監牧使。
二年七月節度使劉源が銀州監牧使等も管轄することを請願し認められました。

⑥.大中十年[856]夏州節度使增領撫平党項等使

夏州付近は黨項が盤踞し、中和年間以降は拓抜氏[賜姓され李氏]の支配下になりました。
李思恭-思諫-成慶と世襲していきます。

⑦.中和二年[882]夏州節度賜號定難節度
拓抜思恭は京師回復を援助した功績により賜姓され、夏州付近を与えられました。そして五代から西夏王国へと続いていきます。
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鄜坊[ふぼう]・渭北[いほく]節度使の歴史

2018-10-10 15:57:37 | Weblog

①.上元元年[760]置渭北鄜坊節度使,治坊州,并領丹、延二州
対党項防衛のため邠寧節度使を分割して成立しました。
鄜州刺史杜冕が節度副使となり、邠寧節度とともに京師にいる郭子儀が統括するということになりましたが、子儀には実権がありませんでした。治所は坊州です。

②.永泰元年[765]渭北鄜坊節度使罷領丹、延二州,增領綏州
故李光弼の弟光進が坊州刺史渭北節度使に、辛德謙が延州刺史丹延都団練使→都団練観察安塞軍使となり分離しました。この背景は不明です。

③.大暦六年[771]渭北鄜坊節度使更名渭北節度使,復領丹、延二州

④.大暦十四年[779]罷渭北節度,置都團練觀察使
郭子儀の引退によりその支配下[弟の子日+胃が名目節度使です]より吳希光に分担し、都団練観察使に格下げされました。

⑤.建中四年[783]復置渭北節度,如上元之舊,尋罷。未幾復置,徙治鄜州,其後置都團練觀察防禦使
西川節度使崔寧が朔方等とともに管轄し、その留後として李建徽が担当しました。治所は反乱した李懷光や朱泚から遠い鄜州に移ったもようです。いろいろの制度変更の背景は不明ですが、奉天の乱の混乱によると見られます。乱時、鄜坊は弱体ですがほぼ唐朝に従っていました。

⑥.貞元三年[787]復置渭北節度使,以綏州隸銀夏節度
夏綏銀節度使が設置されたため綏州が管轄から分離しました。

⑤.元和元年[806]析丹州置防禦使
弱小方鎭であり、中央より順調に神策系の武将が赴任し、特に軍乱は見られませんでした。
宣宗~僖宗にかけて沙陀や黨項などが勢力を拡大する地域でした。

⑧.中和二年[882]渭北節度賜號保大軍節度,增領翟州,以延州置保塞軍節度黄巣の京師占拠に対して、節度使李孝昌・東方逵などが討伐に参加しましたが、弱小軍のためあまり影響はないようです。
翟州は唐末に鄜州の鄜城県を分離して置いた州です。延州を分離する代替として名目上領州を増やしただけでしょう。
光啓年間より夏綏・延州節度とともに黨項系の拓跋氏[思孝-思敬]が占拠する地となり、やがて鳳翔李茂貞の支配下に移りました。
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涇原[けいげん]節度使の歴史

2018-10-06 11:21:58 | Weblog

①.大暦三年[769]置涇原節度使,治涇州。
邠寧節度使馬璘[邠寧慶涇原]が涇州に移治し成立。
吐蕃の侵攻に対する防衛が邠寧一鎮では力不足であり、強大な朔方河中郭子儀の軍団を邠寧慶に配置して共に防ぐことを企画しました。
しかし旧邠寧軍は安西四鎭と北庭節度使から、安史の乱に際して派遣された軍団を母体としており、あちこちを転々と流浪し、やっと邠州で落ち着いたと思うと、さらに辺境で危険な涇原への移鎭を宣告されたため、軍団兵士の憤激は激しく、乱が企てられましたが、首帥の馬璘が先行し、留後の段秀實がなんとか慰撫をして無事に移動することができました。

②.大暦五年[771]涇原節度使馬璘訴地貧軍廩不給,遙領鄭、潁二州。
涇原二州とは言え、原州は失われて行州であり、涇州も戦乱に荒れ果てた地域でったので、到底軍団を養える状態ではありませんでした。
また移鎭時の不満も残り、憂慮した節度使馬璘は増領を要求しました。当然の要求であったので内地の河南鄭州と潁州二州の税を与えることで納得させた。これらは飛び地です。

③.大暦十四年[779]潁州隸永平節度使
大暦十一年馬璘は卒し、留後段秀實が継ぎました。
度支からの糧食供給も円滑になってきたので飛び地を返却していくことになりました。しかし宰相楊炎に秀實は憎まれて解任されました。

④.建中元年[780]劉文喜の乱
後任は厳格な李懷光[朔方河中]が兼任し、さらに辺境の原州築城移鎭が決まると、不満な牙軍は劉文喜を首領として吐蕃と通謀しました[しかし吐蕃は応じなかった]。
德宗は懷光を解任し、徳望のある朱泚に交代させたのですが、四月に反しました。朱泚らはこれを包囲し、牙將劉海賓等は形勢不利とみて文喜を殺して降りました。

⑤.建中二年[781]鄭州隸永平節度

⑥.姚令言の乱
建中四年[783]淮西李希烈が侵攻し、危機となった東都を助けるため關内の諸軍が動員されました。
十月節度使姚令言に率いられた涇原軍が、寒風の中を京師を経由して東都に向かったのですが、あまりの低待遇に憤激して反して京城を襲撃しました。
德宗は奉天城に敗走し籠城することになりました。
もともとは叛意はなかった姚令言も、前鳳翔幽州節度使朱泚を奉じて反乱を起こすことになりました。[この時唐朝は軍費に苦しんでいたのは事実ですが、德宗自身は私財を貯め込んでいました]

涇原の残留軍は馮河淸を節度使として唐朝側に残ったのですが、興元元年[784]4月牙將田希鑒は河淸を殺して朱泚につきました。
しかし形勢が不利になると6月朱泚をも裏切り唐朝に帰服しました。
副元帥李晟はこれを赦さず閏10月に誅しました。

④.貞元六年[790]涇原節度領四鎮北庭行軍節度使
この歳、吐蕃が北庭都護府を陥し、節度使楊襲古は敗死し本来の北庭節度使は亡びました。

貞元七年[791]築平涼故城.築朝谷堡、九年築鹽州城により涇原は対吐蕃防衛線を構築します。
元和三年[808]の築臨涇城により防衛線は完成します。

⑦.元和四年[809]涇原節度增領行渭州。

その後涇原節度使は神策系の武将が主に節度使となります。

中和元年[881]黄巣の京師占領後、節度使程宗楚等は奪回に参加しますが敗死しました。

中和二年より張一族が涇原節度使を世襲していきます。
しかし弱小藩鎭なので大勢に影響を与えることはありません。

⑧.乾寧元年[894]涇原節度賜號彰義軍節度,增領渭、武二州。

鳳翔李茂貞の勢力下に入り李繼儼[茂貞の子]が節度使となり五代へと続きます。
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