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裴懐節
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隋孝廉
隋太僕丞
唐秦王府録事参軍
太子詹事丞
給事中
工部侍郎
荊州大都督府司馬
揚州大都督府司馬
荊州大都督府長史
太子少詹事
太常少卿
十三年~十六年
銀靑光禄大夫揚州大都督府長史兼越王府長史
貞觀十七年五月~二十一年
洛州刺史.上護軍
貞觀二十一年
卒 諡曰定.
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裴懐節
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隋孝廉
隋太僕丞
唐秦王府録事参軍
太子詹事丞
給事中
工部侍郎
荊州大都督府司馬
揚州大都督府司馬
荊州大都督府長史
太子少詹事
太常少卿
十三年~十六年
銀靑光禄大夫揚州大都督府長史兼越王府長史
貞觀十七年五月~二十一年
洛州刺史.上護軍
貞觀二十一年
卒 諡曰定.
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長孫敞 字休明 小字多宝
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無忌從父.文德順聖皇后之叔父
北周蔭位
隋左衛郎將。
煬帝に信任され引き立てられていた。
煬帝が江都へ移ると、長安禁苑を守った。
李淵[高祖]が反すると、子弟を連れて新豐で合した。
長安陥落後.
將作少監
武德~貞觀元年
杞州刺史
貞觀初
坐贓免官となったが、太宗は親近のため私費を与えていた。
尋
宗正少卿致仕.加金紫光祿大夫.封平原郡公。
卒 贈幽州都督.謚曰良.陪葬昭陵。
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豆盧寬/盧寬 字僧奴
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隋文帝の外孫。鮮卑人。北周南陳郡公通の子。
仁壽五年
吏部驍騎尉
大業九年
梁泉県令
義寧元年
李淵[高祖]が反した時、河池郡守蕭瑀に従い降った。銀靑光禄大夫。
三月
元帥府属
四月
趙國公[世民]府司馬
武德元年
秦王府司馬.柱國
二年正月
兼陝東道行臺
三年
検校行臺尚書左丞
四年
南陳縣公
天策上將府従事中郎
九年
殿中監
子の懷讓が萬春公主[高祖女]駙馬都尉となった。
「豆盧」から改姓して「盧」となった。
貞觀二年
衛尉卿
三年/四年/五年
禮部尚書
六年
左衛大将軍。
九年
太極殿殿前留守
十二年
鎮軍大将軍.芮國公。
十六年
行岐州刺史
二十三年
致仕.光禄大夫
永徽元年六月
卒 67才 贈特進 并州都督 陪葬昭陵,諡曰定。
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長孫操 字元節
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敞從父弟。北周大司徒薛國公覽の4子
学術があり相國府金曹參軍。
検校虞州[蒲州の一部]刺史
世民[太宗]の征討に従った。
武德中
陝東道行台金部郎中
武德末
陝州刺史。水利に業績があった。
貞觀中
洺州刺史
齊州都督府長史
益州大都督府長史
揚州大都督府長史 善政
貞觀二十三年
子詮 新城公主[太宗]駙馬都尉
岐/陝州刺史
永徽初
加金紫光祿大夫封樂壽縣男/縣公。
尋
卒 贈吏部尚書.并州都督.謚曰安。
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唐儉 字茂約
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父鑒は隋戎州刺史。
儉は規則には従わないが、孝ではあった。父が太原留守の李淵[高祖]と親しかったため、太原に遊び世民[太宗]等と交遊していた。
義寧元年六月
李淵[高祖]が反し、大将軍府記室参軍となった。
渭北道行軍元帥[世民]司馬となった。
長安陥落後、加光祿大夫相國府記室封晉昌郡公。
武德元年六月
內史舎人
尋遷中書侍郎加散騎常侍。
二年十月
抵抗する蒲州城[王行本]に獨孤懷恩とともに攻撃した。
十一月
ついで夏縣人呂崇茂が城をもって反し劉武周についた。敗れて永安王孝基・獨孤懷恩・于筠とともに捕虜となったが懷恩等は脱した。残された儉は懷恩の謀叛を密告し、懷恩は誅された。
三年四月
世民[太宗]が武周將宋金剛を大破し太原を回復すると、儉は府庫・兵甲を守って帰国した。
高祖はそれを賞して舊官に復し并州道安撫大使とし懷恩の財産を与えた。
四年二月
并州総管李仲文が突厥と通じていると誣告し、仲文は誅された。
禮部尚書天策府長史兼檢校黃門侍郎封莒國公
九年十月
食綿州實封六百戶
貞觀元年
遂州都督
三年~四年
遂州都督兼鴻臚卿
四年二月
飢饉で衰弱していた突厥に使いして有利な条件で和議を結ぼうとした。
突厥頡利可汗は情勢が悪いため和議に傾き油断している所を、李靖が急襲して潰滅させた。
頡利は敗走し、儉もなんとか帰り着いた。
衛尉卿
九/十年~十九年
民部尚書。
十一年十月
太宗の狩猟時に「馬上で天下を得ても、馬上で治めることはできません」と諫めた。
十三年三月
民部尚書として薛延陀に使いした。
十七年二月
加光祿大夫
子の善識が豫章公主[太宗六女]駙馬都尉となった。
十九年
儉は贅沢な宴会好きで職務には熱心でなく、私利を貪り弾劾されたが赦され、免官貶光祿大夫。
永徽初
致仕,加特進。
顯慶元年
卒 78才.贈開府儀同三司并州都督.陪葬昭陵.謚曰襄
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許紹 字嗣宗
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父法光は隋楚州刺史.安州總管。
紹は李淵[高祖]と同学で親友であった。
大業末
隋夷陵通守、群盗を防ぎ州境を守り、流人を慰撫していた。
煬帝弑逆後も節を守り越王侗に従っていたが、王世充が殺奪すると黔安、武陵、澧陽郡をもって唐に帰属した。
峽州刺史封安陸郡公。
蕭銑將董景珍が長沙で降ると、紹に慰撫させた。
子智仁を溫州刺史とした。
蕭銑は楊道生に峽州を攻めさせたが撃退した。
銑將陳普環が開州賊蕭闍提と巴蜀を平定しようとしたが、智仁・婿張玄靖・掾李弘節が西陵で大破した。
智仁等を派遣して荊門を陥した。
紹は敵人を暖かく慰撫したため侵略をやめた。
進譙國公。
武德四年
趙郡王孝恭が荊州蕭銑を征討することになったが病となり卒した。
貞觀中
贈荊州都督。
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龐卿惲
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隋左翼衛果毅都尉
李淵[高祖]の反乱後、朝散大夫。
大業十三年八月
霍邑を陥し.開府儀同三司。
武德元年
薛舉、薛仁杲との戦いに従軍して.大將軍。
王世充、劉黑闥との戦いに従軍して、上柱國,封真定縣侯。
五年
世民[太宗]秦王府左三翊衛府右車騎將軍。
七年
秦王左一副護軍。
補左內馬軍副總管。
九年六月
玄武門の変に功績があった。
太子左衛副率
七月
右驍衛將軍
九月
安化郡公
十月
封邾國公。食實封四百戸
貞觀二年六月
卒,35才。追封濮國公。諡曰肅。
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許洛仁 字濟
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世緒の弟.父康は周鎮西將軍。
李淵[高祖]の反乱に参加。朝散大夫.警備隊長となる。
汾州.柏壁に戦い、宋老生軍を破り、蒲州・長安平定に従軍した。
武德元年
三衛車騎
薛仁杲・王世充・竇建德征討に従軍し勇猛を讃えられた。
九年
坐事辭職
九年
再び大明府別將→尋本府統軍となった。
貞觀二年
右衛原城府統軍
左武衛將領として玄武門を宿衛した。
九年
加雲麾將軍行右武衛中郎將
十七年行左監門中郎將授上護軍
十八年左監門將軍。
太宗の高句麗遠征には参加しなかったが上柱国。
二十三年
坐事免官
前功により雲麾將軍朝參朔望。加冠軍大将軍。
永徽元年?/龍朔二年四月
卒 85才 贈代州都督,諡曰勇,陪葬昭陵。
勇敢ではあるが問題の多い人物であったようである。封爵はなかったようである。
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溫大雅 字彥弘
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父君悠は北齊文林館學士.隋泗州司馬.司隸從事。
性は至孝で好學であり才学を以って知られ隋東宮學士.長安縣尉
父憂で辞職し、大乱の情勢をみて仕えず太原に居た。
太原留守李淵[高祖]は冷遇していた。
義寧元年
反乱が起きると、大將軍府記室參軍として文書起草を專掌した。
高祖が即位する時は參定禮儀を策し、大唐創業起居注を編した。
武德元年
黃門侍郎。
弟彥博は中書侍郎で兄弟で重職となった。
二年四月
工部侍郎
陝東道大行台工部尚書。
世民[太宗]擁立側で画策した。
太宗即位
禮部尚書封黎國公。
貞觀三年
卒 58才 謚曰孝。贈官は不明?。
永徽五年
贈尚書右僕射。
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尉遲恭 字敬德
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大業末
討賊に従軍し武勇を示し、朝散大夫までなった。
劉武周が蜂起するとそれに従い偏將となった。
劉武周將宋金剛に従い太原を陥し、裴寂軍を破ってさらに南下し晉、澮二州を陥した。
武德二年十一/十二月
宋金剛に従い世民[太宗]と柏壁で対峙する。
夏縣に侵攻し永安王孝基・于筠・獨孤懷恩・唐儉を大破し尋相と捕らえる。
しかし美良川で殷開山、秦叔寶に大敗し柏壁へ戻る。
三年四月
世民は宋金剛を介州に大破し并州を回復、總管尉遲敬德・尋相は介州を以って降った。
世民は敬德を得て喜び、ただちに右一府統軍とし所部八千を麾下に加えた。
九月
尋相はすぐ逃亡した。そのため諸將は敬德を疑って監禁し、屈突通や殷開山は「敬德は信用出来ません、殺してしまうべきでしょう」と進言した。世民は同ぜず釈放し「私はお前を信じている。留まって欲しい。しかし屈辱に耐えないと思うなら去っても逐わない」と資金を渡した。
その後王世充軍との激戦で世民が窮地におちたとき、敬德は身を挺して救った。
武技に自信のある齊王元吉は敬德に挑戦したが負けた。
四年三月
竇建徳軍を武牢に破った。
九月
行軍總管として突厥を原州に破った。
五年三月
劉黒闥に囲まれた世民を救った。
六年七月
突厥が朔州に侵攻し李高遷を破ったが、行軍總管として救援した。
七年七月
突厥が隴州に侵攻、護軍として撃退。
建成[皇太子]・元吉から招かれたが応じなかった。
九年六月
玄武門の変[皇太子建成を暗殺]で大功をあげ、高祖を恫喝して世民の立太子を実現した。
世民が皇太子となると太子左衛率となる。
七月
世民が即位すると右武候大將軍。
八月
突厥頡利可汗が太宗譴責に来襲し、行軍總管としてその一部隊を涇陽に撃退した。
九月
吳國公食邑三千戸
十月
實封千三百戶を賜る。
貞觀元年正月
李藝が涇州で反すると、涇州道行軍總管として出動した。
五年~八年
靈州都督
六年九月
慶善宮での宴会の時、騒動を起こし仲裁した任城王道宗を殴打して負傷させた。太宗は厳しく譴責し、懼れた敬德は閉居して道教にふけった。
八年~十一年
光禄大夫行同州刺史
十一年六月
世襲宣州刺史.鄂國公.
十三年二月~十六年
光祿大夫鄜州都督
十六年~十七年
光禄大夫夏州都督
十七年二月
致仕.開府儀同三司五日一参
十八年~十九年
太宗の高句麗親征を諫止したがならず、行検校太常卿左一馬軍總管として従軍。
顯慶三年
贈其父為幽州都督
十一月
卒 74歳。贈司徒.并州都督.謚曰忠武.陪葬于昭陵。
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阿史那/史忠 字義節
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突厥人.懷德郡王蘇尼失の子。
清謹であった。
貞觀三年
頡利可汗を捕らえた功で左屯衛將軍となった。
定襄縣主を妻とする.賜姓名
九年
右衛大将軍
十一年
検校長州都督
突厥・高麗・薛延陀の征討に従軍した。
十三年
阿史那思摩を突厥可汗とし、忠を左賢王として出塞させた。
辺境生活を嫌い宿衛を請願した。誠実であった。
上柱国.右武衛大将軍。
永徽初
薛國公
龍朔元年十月
左/右驍衛大將軍検校羽林軍として長岑道行軍大總管となり鐵勒を討った。
契丹を征討した。
總章元年
進青海道行軍大総管として弓月・吐蕃を防いだ。
進西域道行軍大総管として西突厥に備えた。
上元二年
卒 65才.贈鎮軍大將軍.荊州大都督.諡曰貞.陪葬昭陵。
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段綸
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隋兵部尚書文振の子。
隋左親衛
李淵[高祖]四女[後高密公主]を妻とした。
大業十三年
淵の反乱時、藍田で募兵し参加した。
大丞相府属.金紫光禄大夫.
武德元年
駙馬都尉
蜀郡大守/益州総管
昆州刺史蠻酋爨弘達を慰撫し歸附させた。
劍南道招慰大使
益州都督
蒲州都督
武德中
熊州[洛州の一部]刺史.紀國公
散騎常侍
貞觀
右光禄大夫
秘書監
宗正卿
禮部尚書?
三年~十五年
工部尚書
十五年
致仕
十六年四月
卒 陪葬昭陵
追贈晉昌郡王
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屈突通
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父長卿は周邛州刺史。
性格は剛毅で忠誠であり、武略や騎射に通じていた。
隋虎賁郎將。
開皇十七年二月
新衛大都督として隴西群牧を監察し、隱匿馬二萬餘匹を得た。文帝は激怒して多数の関係者を誅殺しようとしたが、通は諫めて通常の処罰に留めさせた。右武候將軍/右武候車騎將軍となった。
左武衛将軍?。
仁寿四年正月
煬帝は文帝が寵愛していた并州総管漢王諒を、文帝の命として召還しようと、車騎將軍通を派遣したが、僞署と見抜かれた。その後漢王は反した。
大業九年六月
宇文述とともに左候衛將軍として楊玄感の乱を討った。八月玄感を破った。
十年五月
左驍衛大將軍兼關內討捕大使として延安賊帥劉迦論を討った。
義寧元年七月
左武候大將軍として河東に屯して李淵[高祖]軍を防いだ。
九月
虎牙郎將桑顯和を派遣して黄河に李淵軍を防がせたが敗れた。
通は河東で包囲された。
十二月
通は劉文靜軍と対峙していたが、家族の居る長安が陥落し將士は戦意を無くし桑顯和と共に降った。
高祖は高く評価して兵部尚書封蔣國公兼秦公元帥府長史とした。
河東を守る堯君素を降そうとしたが君素は拒否した。
武德元年六月
隋兵部尚書より唐兵部尚書
世民[太宗]に従い、薛仁杲を平定。掠奪をしなかった。
武德四年
本官判陝東道大行台左僕射
王世充を征討し論功第一。東都にいた二子を犠牲にした。
陝東道大行台右僕射として鎮東都。
七/八年
刑部尚書となるが文字を知らず辞退。工部尚書となる。
九年六/七月
玄武門の変後、復檢校行台僕射として東都を安定させた。
十月
賜實封六百戶
貞觀元年~二年
行台が廢され洛州都督.左光祿大夫。
二年
卒 72才.贈尚書左/右僕射.諡曰忠.
永徽中
追贈司空。
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王湛/諶 字懷元
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父綽 仁寿宫監.離石郡通守.晋陽侯
唐石州刺史であったが武徳二年六月劉希真反により敗死。贈代州総管.諡曰烈.
李淵[高祖]に従い霍邑を攻め、金紫光禄大夫。
長安陥落後、加左光禄大夫・丞相府典籖
相国府参军事。
武德元年
通事舍人
通直散骑侍郎封金水縣侯食邑七百户。
虞部郎中
丁父憂
隴西別駕
武德
商州刺史
貞觀
壁州刺史
貞觀
鄜州刺史.上柱国
高宗時
許州刺史
龍朔三年
銀靑光禄大夫瀘州都督上柱国
荆州大都督府司马
永徽~顯慶
冀州刺史
乾封二年
致仕
咸亨三年七月
卒 93才 諡曰敏
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李大亮
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父充節は隋朔州總管武陽公であった。
文武才略があり、隋末に韓國公龐玉の行軍兵曹となった。
李密が東都に侵攻したとき、玉は敗北し大亮は將張弼に捕らえられたが助命され麾下となった。
李淵[高祖]が長安を陥すと、大亮は歸附し土門県令となった。
荒廃した縣を亡散を招集し墾田を勧めて再建して賞された。
胡賊が来襲し危機に瀕すると、単独で賊を招撫し歸附させた。
金州總管府司馬に昇進した。
武德三年十一月
王世充領域の樊、鄧を安撫し,十餘城を歸附させた。
安撫大使として王世充沮、華二州を陥す。
四年~七年
遷安州刺史。
また廣州を安撫した。
六年十二月
輔公祏の反時、賊將張善安を捕らえた。
七年十二月
輔公祏の攻撃から籠城する猷州刺史左難當を支援して撃破した。
七年~貞觀元年
遷越州都督。
元年
交州都督/刺史.封武陽縣男。
二年
太府卿
三年~九年
復涼州都督、惠政を称された。
三年十一月
太宗に鷹を献じることを断った。
四年七月
突厥が平定されたが、なお余部の綏大度設、拓設、泥熟特勒及七姓種落が帰服しなかったので
西北道安撫大使として歸附させた。大亮は蛮夷を慰撫して京官にすることを無用とした。
八年
劍南道巡省大使。
十二月/九年閏四月
李靖とともに河東/且沫道行軍總管として吐谷渾を大破した。
進爵縣公.右衛大將軍。
十五年十一月
靈州道行軍總管として兵四萬騎五千で靈武に屯して薛延陀を防いだ。
十七年
晉王が皇太子となると兼太子右衛率
八月
右衛大将軍兼工部尚書兼太子右衛率と三職を兼ねた。
十八年十月
太宗は洛陽に行幸し、京師副留守[留守は房玄齡]となった。
十二月
卒 59才 贈兵部尚書.秦州都督.諡曰懿.陪葬昭陵。
忠勤.清廉で家に余財がんかった。
賜った財物・奴婢は全て解放するか、親戚に散じていた。
また張弼に救われた恩を忘れずに酬いた。