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唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

康承訓伝

2019-06-24 10:04:45 | Weblog
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康承訓伝
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旧伝なし

承訓、字は敬辭。

涇原節度使志睦の子。日知の孫。

蔭位により神策軍に入り、左神武軍將軍に至る。

天德軍防御使となり、騎兵を整備する。
黨項を威圧し、加檢校工部尚書.封會稽縣男。

咸通二年.義武節度使に移る。

南詔が安南、嶺西南道に侵攻してきた。
四年四月.承訓は嶺南西道[邕管]と容管經略使を管轄し、荊、襄、洪、鄂四道兵萬人を従えて防衛にあたった。

六月.南詔が安南都護府を陥し、承訓は兼領安南及諸軍行營。

五年三月.南詔軍に大敗し、邕州城に包囲された。
麾下の奮戦によりかろうじて撃退できたのだが、承訓は勝利したと僞奏した。
四月.檢校尚書右僕射を加えられ恩賞を与えられたが、近習にしか分配しなかった。

五月.旧武寧軍節度の兵を徴して邕州防衛にあたらせた。これが龐勳の乱の素になった。

七月.嶺南東道節度使韋宙がこれを弾劾し、承訓は辞して右武衛大將軍分司に左遷された。

右金吾衛大將軍

九年十一月.徐州で龐勳が蜂起し大乱となった。

十年正月.右神策大將軍知軍使兼御史大夫上柱國龍陽縣開國伯食邑一千戸→金紫光禄大夫檢校刑部尚書兼右神策大將軍御史大夫扶風郡開國公食邑一千五百戸充徐泗行營都招討使となり、魏博、鄜延、義武、鳳翔、沙陀、吐渾の兵二十萬を率いて勳を討っことになった。

だがなかなか兵が集まらず、苦戦して宋州に拠った。

宿州を攻め、檢校尚書右僕射滑州刺史義成軍節度使。

十年四月.体制を立て直し勳を柳子に破った。

六月.小睢寨で敗北した。

九月.勲将張玄稔を帰伏させ徐州を回復し、勳を誅した。

十二月.功績により義成軍節度使光祿大夫檢校尚書左僕射滑州刺史上柱國會稽縣開國伯食邑二千戸より檢校尚書左僕射同平章事兼太原尹、北都留守,充河東軍節度使。

しかし十一年正月.宰相路巖・韋保衡に討伐の緩慢さを弾劾され、貶蜀王傅分司に失脚。再貶恩州司馬。討伐が長期化したのは事実だが、文官が軍人をその場使いする風潮に軍人達の唐朝への憤懣は増大していった。

僖宗が立つと左千牛衛大將軍に復した。

卒年不明.六十六歳。
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康志睦伝

2019-06-23 09:44:37 | Weblog
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康志睦伝
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父晉慈隰節度使日知。字は字得衆。

巨体で騎射に優れ右神策軍将となる。

右神策大將軍に進む。

長慶四年四月.職工張韶達が皇居に乱入した際に鎮圧に功績。
兼御史大夫。

寶暦元年四月.檢校工部尚書兼青州刺史平盧軍節度使となる。

横海李同捷の乱に蒲台を降し功績があり、
太和元年.檢校尚書左僕射。

五年頃.右龍武統軍

七年七月.四鎮北庭行軍涇原節度使に移り.會稽郡公となる。

十一月.卒,五十七歳.贈司空。
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康日知伝

2019-06-22 20:29:38 | Weblog
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康日知伝
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新紀のみ記載。

祖先は西域康国の出身で靈州に移る。

祖植は朔方将、天山縣男左武衛大将軍員外。

日知は成德節度李寶臣に仕え将となり、趙州刺史に至る。

建中三年閏正月.寶臣の死後、自立した惟岳より、日知は州をもって唐朝に降った。
惟岳は兵馬使王武俊に日知を伐たせたが、武俊はかえって恒州を襲撃し惟岳を殺した。

二月.趙州刺史深趙都團練觀察使.賜實封二百戸となる。
幽州朱滔は深州領有を求めていたが叶えられず憤懣を抱いた。武俊もまた日知を軽侮していたので同格[恒冀觀察使]であることが不満だった。

四年十一月武俊は趙州を攻めたが敗北した。

興元元年正月.同州刺史充奉誠軍節度使となったが、武俊に囲まれ赴任できなかった。

その後武俊は唐朝に帰順し、日知は趙州を捨てて檢校兵部尚書晉慈隰節度使に移ることになった。

八月.馬燧は晉慈隰節度使を府庫を付けて日知に譲った。日知は大いに喜んだ。

その後検校左僕射.會稽郡王に至る。

貞元元年十一月.德宗皇帝の京師復帰に随行した。

元年中に卒。贈太子大師。
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韋宙伝

2019-06-21 10:05:37 | Weblog
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韋宙伝
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宙は江西観察使丹の子。

蔭位、河南府司錄參軍。

河陽節度幕僚[李玨]。

宣宗皇帝が、宰相周墀に過去の名地方官は誰かと尋ねた、墀は韋丹が優れていたと答えた。

宣宗はさらに丹には子がいるのかと問い、宙を侍御史に登用し、度支郎中に進ませた。

大中六年.河東節度副使[盧鈞]となり、辺境の所部を安撫した。

吏部郎中から永州刺史となり、救災に努力した。

大理少卿に戻り、光禄卿。

十二年六月.江西に軍亂が起こり都將毛鶴は觀察使鄭憲を逐った。

十月.宙は江西觀察使となり山東の兵を借り、十二月.鶴を誅した。
父の政を嗣ぎ簡政。

経営の才能があり江陵付近に広大な田宅を有した。

嶺南節度使となる。
当時南詔が侵攻し安南を征服していたが兵備を整えて防衛にあたった。

咸通三年五月.邕管に嶺南西道節度が設置され、嶺南節度は嶺南東道節度使になった。

四年八月.南詔が邕州を襲うと奏し、容、籐州に派兵を請うた。

五年七月.嶺西節度使康承訓が敗戦を隠していることを弾劾した。

八年十二月.嶺南東道節度使としては異例の檢校左僕射同中書門下平章事となった。

咸通中.卒した。

嶺南小校劉謙を評価し、宙は兄の娘とめあわせた。謙は南漢王国の開祖隠の父である。
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韋倫伝

2019-06-20 22:06:18 | Weblog
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韋倫伝
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倫は京兆出身。

父光乘は朔方節度使だった。

倫は蔭位で藍田尉、鑄錢內作使判官[楊國忠]。吏事に長じていた。

大理評事。

玄宗皇帝について劍南に避難、監察御史劍南節度行軍司馬.置頓判官。

屯田員外郎兼侍御史。

宦官の横暴を抑えるが、憎まれ、貶衡州司戶參軍。

度支使第五琦の薦めで商州刺史荊襄道租庸使となり漕運路を保つ。

山東節度將康楚元が乱し、山東・荊南を寇掠する。

乾元二年十一月.倫は征討使崔光遠を待たず鄧州に進み、賊を破り楚元を捕らえた。
功績により衛尉卿兼寧、隴二州刺史.招討處置等使。

三年四月.また山東將張瑾が節度使史翽を殺して乱し、倫は襄州刺史山南東道襄鄧等十州節度使御史大夫となるが,宦官李輔國に仁義を切らず、秦州刺史御史中丞本州防禦使に降される。

上元元年十二月.吐蕃や黨項が次々と入寇し寡兵で対応できず敗北し、貶巴州長史、更に貶思州務川尉。

代宗が即位し輔國が除かれると、忠、台、饒三州刺史を歴任する。

廣徳元年十一月.宦官呂太一が嶺南で反すると、韶州刺史兼御史中丞韶連柳三州都團練使として伐つ。

しかし太一が宦官勢力に反間し、貶歴信州司馬、虔州司戶、隋州司戶、隨州司馬。

失職し十年の間、豫章で退隠していた。

大歷十四年八月.德宗皇帝は、危険な吐蕃に使するものを求め、倫を太常少卿兼御史中丞持節充通和吐蕃使に抜擢し、留置していた吐蕃俘五百人を返した。
倫は吐蕃に至り、王である贊普に和親に転じることを説いた。
吐蕃は入獻し、喜んだ德宗は太常卿兼御史大夫銀青光祿大夫。に進めた。
吐蕃は涇原劉文喜の乱においても唐朝軍を妨害しなかった。

建中元年五月.再び吐蕃に使し尊重された。

倫は宦官や不正を憎み正論を言い立てるため、宰相盧杞に憎まれ、閑職の太子少保に移される。

德宗皇帝の奉天籠城に随行した。

直言し盧杞の再任用に反対し、太子少師致仕、郢國公。

最後まで正論を貫き、叛臣李楚琳や李忠誠を憎み、義倉や備邊を献言した。

貞元十四年十二月.卒し八十三歳.贈揚州都督.諡曰肅。

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王武俊/沒諾干伝

2019-06-19 12:03:36 | Weblog
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王武俊/沒諾干伝
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武俊、字は元英。蕃族の契丹怒皆の出身。

祖父可訥干、父路俱は開元中に饒樂府都督李詩に率いられ帰順し薊州に居た。

武俊は初名沒諾干、騎射に通じ、范陽節度使に仕えて安禄山に従う。

上元中.僞恆州刺史李寶臣の將となる。

寶應元年.寶臣に勧めて唐朝に帰順させ、恆定深趙易軍先鋒兵馬使。

大暦十年.田承嗣が乱し、將盧子期を唐朝軍とともに清水で大破する。

建中二年.晩年は猜疑が増し、諸将を殺していた寶臣が卒し、子惟岳が自立する。

二年.成徳將易州刺史張孝忠や趙州刺史康日知は唐朝に附き、

三年正月.幽州朱滔、張孝忠に束鹿で敗北。

閏正月.形勢不利を悟り、疑われた武俊は反し、惟岳を誅して帰順した。

二月.檢校秘書少監兼御史大夫恆州刺史恆冀都團練觀察使實封五百戶
唐朝は成徳軍を分割し易定滄を孝忠に、深趙を日知に、恒冀を武俊に、徳棣を朱滔に与えたが、他より功績があるのに節度使になれない武俊と、遠隔地を与えられた朱滔は極めて不満であった。
淄青李正己が卒し、子の納が自立したが唐朝は認めなかった。
朱滔は魏博田悅、恒冀王武俊とともに反し、納や淮西李希烈とも連携した。

七月.滔・悅とともに唐朝軍を連愜山に大破した。

十一月.將張鍾葵に趙州を襲わせたが敗死した。
武俊は朱滔等とともに趙王と称し、恆州を真定府とし官属を置いた。

四年六月.武俊は疲弊した魏博・成徳に比べて幽州朱滔の勢力が増大するの畏れ、昭義李抱真と密かに通じた。

十月.京師で朱泚が乱し、德宗皇帝は奉天に逃走し、それと連携した滔が回紇軍を引き入れて南下した。武俊は併呑される危機を感じていた。

興元元年正月.形勢の不利を痛感した德宗皇帝は自責し、大赦を宣言。
恒冀深趙徳棣六州を保証された武俊、疲弊して休戦を求める悅、継承を認められた納は直ちに帰順した。
檢校兵部尚書、成德軍節度使。

二/三月.加検校司空同中書門下平章事兼幽州盧龍兩道節度使、琅邪郡王となり滔を伐つ立場になった。

五月.背信に激怒した滔は大軍を率いて魏博を攻めたが、武俊・抱眞軍に大敗して幽州に逃げ帰った。
武俊は滔を追い詰めず幽州盧龍節度使の兼任を辞した。

八月.滔は帰順し、河北の戦乱は終了した。

九月.恆州を大都督府とし武俊は長史となり、檢校司徒,實封七百戶。

丁母憂,起復加左金吾上將軍同正

免喪,加開府儀同三司。

六年三月~十二月.棣州刺史趙鎬が淄青李納に付き、魏博田悅も同じたため戦闘が起こった。

八年.淄青李師古を攻め棣州・德州に戦った。

九年.義武張茂昭と争い、定州義豐を取り、安喜・無極を荒らした。

十年六月.昭義李抱眞が卒し、子緘が自立しようとしたが支援を拒否した。

十二年正月.檢校太尉兼中書令。

十七年六月卒,六十七歳.贈太師.謚曰威烈/忠烈
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程權/程執恭伝

2019-06-18 11:51:52 | Weblog
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程權/程執恭伝
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永貞元年七月.父懷信が卒し、自稱留後。

元和元年五月.横海留後より節度使。

三年十一月.入朝し檢校兵部尚書,封邢國公。

六年.入朝し検校左/右僕射

十一年十二月.成德兵を長河に破る。

十二年三月.賜名權。滄州衙門樓額の悉帖「權」字を参照している。
成徳兵に敗れて撤退。

十三年二月/六月.滄景二州を唐朝に返還して、検校司空邠州刺史邠寧節度使
これにより唐朝は河北五鎭の中にクサビを打ち込み。次に易定義武軍の帰服により分断に成功し、魏博田弘正の帰順により河北回復の道を開いた功績は大きかった。

十四年十一月.卒,贈司徒。
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王智興伝

2019-06-17 11:59:15 | Weblog
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王智興伝
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智興、字は匡諫、懷州溫の人。

曾祖靖は左武衛將軍、祖瓌は右金吾衛將軍、父縉は試太子詹事。

若くして勇敢で徐州の牙兵となり、刺史李洧[淄青節度使正己の從父兄]に仕える。

建中二年.正己没後、其子納が自立した時、洧は徐州をもって唐朝に帰順した。
納は徐州を攻め、智興は急使として京師に来援をて援軍を得た。
功績により滕、豐、沛、狄四鎮將と昇進していった。

元和十年十二月.淮西吳元濟の乱に、淄青李師道は共謀し徐州を攻めた。節度使李愿[晟の子]は智興を将として反撃させ連破した。本軍都押衙.侍御史を帯した。

十三年.師道を伐ち金鄉を攻め、魚台を抜いた。御史中丞に進む。

十四年.沂州刺史。
  
長慶元年十月.節度使崔群の命で成徳王廷湊を伐ち、檢校左散騎常侍充武寧軍副使河北行營諸軍都知兵馬使。
黄河を超えて攻撃していたが、群は疑いその軍權を奪おうとした。

二年三月.智興は歸鎭して群を攻めて逐い、自立した。
京師への鹽鐵銭や貢物を奪い、商人から強奪、濠州刺史侯弘度を逐った。
河北三鎭との戦いで疲弊した唐朝は智興を伐つことができず、檢校工部尚書徐州刺史御史大夫充武寧軍節度徐泗濠觀察使として認めることで糊塗した。

その後も智興は淮南からの交易に私税をかけて軍備をととのえていった。

八月.宣武軍将李騕が節度使李愿を逐い宋州を攻めると、智興は唐朝を支援してこれを破り、檢校尚書左僕射、検校司空と進んだ。

四年十二月.泗州に戒壇を置いた。

太和元年七月.横海李同捷が叛すると、智興は全軍をあげて伐つことを請い、

十二月.檢校司徒同中書門下平章事滄德行營招撫使となった。

二年九月.唐朝の諸軍がまともに戦わない中、智興は勇戦し棣州を抜き、同捷平定の最大の功労者となった。守司徒となる。

三年二月.軍内で勢力を持つ将石雄を逐い、その党を誅した。

十一月.入朝し守太傅.封雁門郡王となり兼侍中に進んだ。

智興は元同僚達が多く、専横で扱いにくい武寧軍節度から離れることを望み、
六年三月.許州刺史忠武軍節度陳許蔡等州觀察使

七年九月.河中尹河中節度晉磁隰觀察等使に遷る。

九年五月.汴州刺史宣武軍節度宋亳汴穎觀察等使へ。

開成元年七月.鎭に卒した,七十九歳.贈太尉。
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何士幹伝

2019-06-16 15:40:00 | Weblog
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何士幹伝
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新旧とも伝はない。

大暦十二年七月。諫言を賞され左拾遺より左補闕。

興元元年五月.淮西李希烈に貢納の道が閉塞されていたが、浙西韓滉は行在にいる德宗皇帝に献納を図った。幕僚であった士幹は苦心してそれを成し遂げた。

諫議大夫。

貞元四年六月.鄂岳沔蘄黄等州都團練觀察使.御史中丞。

八年正月.獻白鹿。

十二年二月.加御史大夫。

十八年.鎭に卒する。鄂州統治は十五年に及んだ。
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皇甫溫伝

2019-06-16 15:36:14 | Weblog
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皇甫溫伝
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新旧とも伝はない。

廣德元年十月/二月.魚朝恩部將より陝州刺史/陝州大都督府長史。

大暦元年十二月.華州周智光は元々同僚である溫と仲が悪く、溫の監軍張志斌が入奏するため華州に滞在したが横暴であるとして憤激し殺した。

五年正月.朝恩が専権横暴であったため、宰相元載は警護將周皓と、外部の兵を握る陝州節度使溫に重賂して籠絡した。これには代宗皇帝も関与していた。溫は朝恩を油断させるために鳳翔節度使となった。

三月.朝恩が誅された後、温は陝州節度使に戻った。

九年八月.越州剌史充浙東觀察使.御史大夫。

邠國公。

十一年.鎭に卒した。贈太子大師。
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嚴震伝

2019-06-16 15:34:16 | Weblog
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嚴震伝
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震、字は遐聞で梓州鹽亭の人。

代々豪農であり、辺境軍を支援して官を得た。

梓州長史、王府諮議參軍を歴任。

東川節度使嚴武が合州長史/刺史に任用。

嚴武が西川節度使に遷ると押衙,改恆王府司馬。

武と同姓のため信任され軍府の事を一任され、銀靑光禄大夫.試衛尉少卿、太常少卿/卿を帯びる。

嚴武卒後郷里に戻るが、姻戚である東川節度使李叔明は渝州刺史とした。

疾免を経て山南西道節度副使.鳳州刺史.摂侍御史。

丁母憂罷。起復本官,興鳳兩州團練使.開府儀同三司兼殿中侍御史→御史中丞.馮翊郡公に進む。
政績よく賞賛される。

建中初,黜陟使より理行山南第一と讃えられ、特賜鄖國公。
鳳州を統治すること十四年、能政であった。

建中三年十一月.賈耽に代わり梁州刺史兼御史大夫山南西道節度営田觀察等使に進む。

朱泚・李懷光の乱に德宗皇帝が籠もる奉天を支援。

興元元年二月.德宗皇帝が山西へ避難し、震は叛将を誅してこれを迎えた。
加檢校戶部尚書,馮翊郡王.賜實封二百戶。

三月.德宗は梁州に至るが、山南は貧しいため、安史の乱の前例を考えさらに西川成都府への移動を検討した。

しかし震は京師回復を図る李晟達を支援するためには、遠隔の成都では不便ですと反対した。

そして震は貧しい山南の地よりの収入をやりくりし行在の費用を支弁した。

六月.京城が収復され、德宗は京師に戻った。功績により檢校尚書左僕射。
山西梁州を興元府とし、震を興元尹.賜實封二百戶。

貞元八年十一月.吐蕃を芳洲に破った。

十二年二月.山西節度使としては異例の同平章事を与えられた。

十五年六月.現職で卒し、七十六歳.贈太保.諡曰忠穆。
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