唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

證聖元年~神功元年 西暦695~697年

2020-05-31 10:02:45 | Weblog
證聖/天冊萬歲元年 西暦695年
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正月辛巳,加號慈氏越古金輪聖神皇帝,改元證聖。
則天は名称変更が大好きで、この後も「天冊金輪大聖皇帝」となどと次々と自作して改元しています。

正月戊子,貶宰相豆盧欽望,韋巨源,杜景佺,蘇味道,陸元方。
またいつもの癖をだして登用した宰相を一括して左遷します。周允元と皇甫文備の誣告によりますが定見の無いことです。

正月丙申,萬象神宮火。
膨大な国費を浪費して作った神宮ですが、則天と痴話喧嘩した薛懷義が放火します。

二月壬子,殺薛懷義
則天も愛想が尽きたのでしょう、懷義を殺します。

四月、また国費を浪費して、30メートルもの巨大な銅柱天樞を作ります。

萬歳登封/萬歲通天元年 西暦696年
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臘月甲戌,如神嶽。
「泰山」の事です。封禪です。則天はこういう儀式祭典が大好きです。

三月壬寅,王孝傑、婁師德及吐蕃戰于素羅汗山,敗績。
またまた吐蕃に敗戦です。大周軍は弱く勢力圏は小さくなっていきます。

三月丁巳,復作明堂,改曰通天宮。
また明堂の再建です。軍事費に回す金はありません。

五月壬子,契丹首領松漠都督李盡忠、歸誠州刺史孫萬榮陷營州,殺都督趙文翽。
八月丁酉,張玄遇、曹仁師、麻仁節等及契丹戰于黃麞,敗績,執玄遇、仁節。
東北で契丹が反乱して周軍は潰滅しました。

九月丁巳,吐蕃寇涼州,都督許欽明死之。
周の弱体をみた吐蕃は深く侵攻してきました。

十月辛卯,契丹寇冀州,刺史陸寶積死之。
契丹も河北内地まで侵攻します。

萬歳通天二年/神功元年 西暦697年
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正月壬戌,殺宰相李元素、孫元亨等。
則天は相変わらず誣告を受けて宰相や官僚達を殺しています。

正月癸亥,突厥默啜寇勝州,平狄軍副使安道買敗之。
突厥も周軍の弱さを知って侵入してきます。

三月庚子,王孝傑及孫萬榮戰于東硤石穀,敗績,孝傑死之。
五月武懿宗、婁師德,沙吒忠義以擊契丹。
総動員してまず契丹を防ぎますが、ろくな将が残っていません。また負けます。

六月、契丹孫萬榮は、突厥默啜の奇襲を受けて敗死しました。
突厥の裏切りによって周軍は一旦救われました。しかし今度は突厥が侵攻してきます。

則天「周」は吐蕃・契丹・突厥の侵攻に敗戦が続き、国内は大きく動揺しますが、武氏一族の無能な将軍を派遣するだけでかえって被害を拡大しています。状況は悪化の一途です。
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天授二年~延載元年 西暦691~694年

2020-05-30 10:03:07 | Weblog
天授二年 西暦691年
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正月乙未,殺丘神勣、庚子,殺史務滋。二月、死周興。
使い終わった酷吏達も処分されていきました。

五月、岑長倩為武威道行軍大總管,以擊吐蕃。
残った名将長倩に吐蕃征討を命じましたが、則天は疑惑を持ち中止することにしました。

十月己酉,殺宰相岑長倩、歐陽通、格輔元、殺樂思晦。
則天は登用した宰相達を信用することができず、すこしでも逆らうと次々と殺しました。

天授三年/如意元年/長壽元年 西暦692年
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正月庚午,貶任知古為江夏令,狄仁傑彭澤令。流裴行本於嶺南。
新たに登用した宰相達も信用できず流しました。近年の歴史本では則天は人材登用を良くしたと言われていますが、実際はむやみに登用し、むやみに廃したというのが実情です。それまでの唐朝宰相のような権威も能力もない濫用でした。「数打てば当たる」の状況です。

正月丁卯,太后引見存撫使所舉人,無問賢愚,悉加擢用。
宰相以下も濫用で、官員はむやみに増加しましたが、酷吏達が次々に陥れて整理しました。

四月大赦,改元如意。
九月庚子,大赦,改元長壽。
むやみな大赦と改元が好きでした。

八月、太后春秋雖高,善自塗澤,雖左右不覺其衰。丙戌,敕以齒落更生,
則天は厚化粧して。臣下に老衰を見せず。新たに歯が生えたと称しました。

九月癸丑,流李游道、袁智弘、王璿、崔神基、李元素於嶺南。
また新規登用した宰相達を流しました。

長壽二年 西暦693年
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臘月癸亥,殺皇嗣妃劉氏、德妃竇氏。
丁卯,降封皇孫成器達為郡王。
則天は皇嗣周辺を疑い、妃達を殺し、息子達を降格しました。

一月甲寅,殺尚方監裴匪躬、内常侍範雲仙。
則天の許可を得ず皇嗣に拝謁した者達を殺しました。

一月庚子,以夏官侍郎婁師德同平章事。
師德は有能な人物であったが、隠忍の人で常に謙虚であったので、酷吏達も誣告できず生きのびることができました。

二月、或告嶺南流人謀反,太后遣萬國俊,悉召流入,矯制賜自盡。
大量に嶺南に配流していた者を殺しました。

長壽三年/延載元年 西暦694年
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臘月甲戌,突厥默啜寇靈州。
二月庚午,薛懷義為伐逆道行軍大總管,領十八將軍以擊默啜。
突厥が第二帝国を形成し内地へ侵攻してくるようになりました。

七月癸未,嵩岳山人武什方為正諫大夫、同鳳閣鸞台平章事。
則天は河内老尼や山人什方に欺瞞されて、深く信仰し宰相に任じたりしました。

九月壬午朔,來俊臣、王弘義など使用済みの酷吏に、責任転嫁し流罪にして整理していきました。

九月壬寅,貶宰相李昭德為南賓尉。
昭德は則天に信任され専権していましたが、増長したため流されました。
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永昌元年~天授元年 西暦689~690

2020-05-29 10:02:13 | Weblog
永昌元年 西暦689
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正月己未,朗州雌雞化為雄。
雌鶏が雄に変わったとかいう馬鹿話が武后即位のために作り出されています。

二月丁酉,尊考太師魏忠孝王曰周忠孝太皇。置崇先府官。
武后の祖先崇拝が即位に向けて本格的に始まりました。

四月甲辰,殺汝南郡王瑋等徙其家於巂州。
七月丁巳,流紀王慎于巴州,改其姓為虺氏。
武后に反抗しなかった皇族も処理されていきます。

五月丙辰,宰相韋待價及吐蕃戰於寅識迦河,敗績。
吐蕃には敗北が続きます。まともな将軍は告密により粛清・追放してしまいました。

六月己巳,白馬寺僧薛懷義為新平道行軍大總管,以擊突厥。
八月癸未,薛懷義為新平道中軍大總管,以擊突厥。
愛人の懷義に箔をつけるため征討軍の将にしますが、戦功はありません。

八月甲申,殺宰相張光輔。
光輔は李敬業征討で功績がありました。功績がある事は罪になる時代です。

八月乙未,松州雌雞化為雄。
また雌鶏が雄になりました。

閏月甲午,殺魏玄同、夏官侍郎崔詧。
酷吏周興が私怨をはらすために誣告しました。当時酷吏達はやりたい放題でした。

閏月殺劉易從。十月殺李光誼。殺劉延景。殺黑齒常之、趙懷節。殺嗣鄭王璥。
官僚・将軍達は次々と誣告され殺されていきます。


載初元年/天授元年  西暦690年
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正月、武后は周暦に習い、十二月を臘月,正月を一月とします。
唐朝を廃して周帝国建国への向けての準備です。頻繁な改元といい官名の変更といい、迷惑なことだったと思えますが、改名・改元や暦の変更などは官僚機構だけの話しであり、一般の平民には関係のない話しですから混乱はありません。中国の煩瑣な機構は県以下には及びません。

正月、改造「天」「地」等十二字以獻,太后自名「曌」,改詔曰制。
則天文字の制定ですが、ただいじくり回しただけの複雑なもので、世間では通用しません。ただ東夷の日本では水戸光圀の「圀」が残存しています。

一月戊子,武承嗣,武攸寧など武一族が宰相となります。

七月辛巳,舒王元名坐廢,徙和州。
最後に残った唐皇族も排除終了です。

九月丙子,傅游藝帥關中百姓九百餘人詣闕上表,請改國號曰周,賜皇帝姓武氏,太后不許;
仕上げの猿芝居の開始です。笑えることに國號や,皇帝姓氏まで請願者の御指定です。

九月庚辰,太后可皇帝及群臣之請。
さあ「周帝国」が建国されました。睿宗皇帝は「皇嗣」に格下げ、「皇嗣?」、どこかの国に現在おられますが不安定な地位です。皇太子ではありません。

九月丙戌,立武氏七廟于神都,追尊周文王曰始祖文皇帝。立武承嗣為魏王,三思為梁王。
皇帝ともなると七廟を立てたり、追贈したり、親族を封王したり大変です。蕃族としては名門の唐朝ですらまともな祖先をもたない[老子にまでこじつけましたが]のですが、もっと卑賤な武氏にまともな祖先があるわけはありません。

十月甲子,檢校内史宗秦客坐贓貶遵化尉,内史邢文偉,遽自縊死。
急に登用された武派宰相達は収賄に励みすぎて処罰されました。

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垂拱元年~四年  西暦685~688

2020-05-28 10:02:00 | Weblog
垂拱元年  西暦685
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是歳.太后修故白馬寺,以僧懷義為寺主。
女が男妾を楽しむ場合は男色と同じく「男寵」というそうです。懷義は洛陽の薬売りから登用され、宮中にいれる関係と武后の佛教信仰もあり仏僧を称するようになりました。それなりに有能だったらしく武后の即位の為に「大雲経」をでっちあげるなどの働きもあります。

垂拱二年  西暦686
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二月、右衛大將軍李孝逸既克徐敬業,聲望甚重;左遷施州刺史。
孝逸は皇族出身で、功績を警戒され、当然の如く誣告されて貶せられました。

三月、開告密之門,有告密者,臣下不得問,皆給驛馬,供五品食,使詣行在。
武后は密告を奨励し、索元禮,周興、來俊臣等が次々と登用され、誣告と拷問により、唐朝の官僚の粛清をはかりました。

垂拱三年  西暦687
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五月庚午,殺宰相劉禕之。
禕之は武后に睿宗への返政を提案して殺されました。

垂拱四年 西暦688
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四月戊戌,殺太子通事舍人郝象賢。
武后は象賢の父處俊[高宗時の宰相]が、かって政治に飽きた高宗が権限を武后に委譲するのに反対したこと遺恨に思い、誣告させて殺しました。

六月丁亥朔,日有食之。得瑞石于汜水。
七月丁巳,大赦,改「寶圖」為「天授聖圖」,洛水為永昌洛水,封其神為顯聖侯,加特進,禁漁釣。
武后の即位に向けて瑞祥のでっち上げが始まりました。するほうもされるほうも虚偽だとわかってはいますが、違例の事を行うには猿芝居と辞退が欠かせません。

八月丙午,博州刺史琅邪郡王沖舉兵以討亂,遣左金吾衛大將軍丘神勣拒之。
殺韓王元嘉、魯王靈夔等,皆改其姓為虺氏。
武后の圧迫により皇族が蜂起しましたが、簡単に鎮圧され皇族の大量粛清が始まりました。

十二月大殺唐宗室,流其幼者於嶺南。
大半の皇族を殺し、幼い者は暑熱の嶺南に流して根絶を目指しました。
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弘道元年~光宅元年 西暦683~84年

2020-05-27 10:01:43 | Weblog
中宗前記
顯慶元年生まれのため名前は「顯」、父高宗に似て小心凡庸で決断力に欠けています。
いろいろな封爵・官職に任命されましたが全てお飾りです。
哲と改名、永隆元年兄賢が廃された後皇太子になります。
弘道元年十二月即位時27歳。母武后が称制として実権を持っています。
妻は韋氏。前妻趙氏は母が高宗と親しかったため武后に殺されています。

弘道元年 西暦683年
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十二月丁巳,大帝崩,皇太子顯即位
実権は武后が握っているので即位自体はスムーズです。

十二月庚午,韓王元嘉為太尉,霍王元軌為司徒,舒王元名為司空。
武后の専権を懼れる皇族の有力者を名誉職に就けて慰撫しました。


嗣聖/文明/光宅元年 西暦684年
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正月甲申朔,改元「嗣聖」。
即位翌年の通例の改元です。

正月、立太子妃韋氏為皇后、擢後父玄貞自普州參軍為豫州刺史。
小心な中宗は、妻の韋氏の尻の下に敷かれていいなりです。武后も自分の覚えがあるので忌々しいかぎりではあるようですが。韋后父の玄貞はたいした人物ではありませんが昇進しました。

正月癸巳,中宗欲以韋玄貞為侍中。
中宗は玄貞を宰相に任用しようとし、宰相裴炎達に制止されると「玄貞を皇帝にだってできるのだ」と言い放ち炎を呆れさせました。炎は武后に注進します。

二月戊午,武后は中宗を廃位して、廬陵王に落としました、中宗は事態が理解できないようでした。

二月己未,豫王旦為皇帝。妃劉氏為皇后。
宰相や臣下からの異論はでませんでした。豫王旦[睿宗]が即位しましたが実権はまったくないお飾りでした。

二月壬子,睿宗の子成器為皇太子としました。改元「文明」
皇帝が変わったことを示す改元です。

二月庚申,流韋玄貞于欽州。
玄貞一族は流され殺されました。

三月,太后命左金吾將軍丘神勣詣巴州,殺故太子賢宅。
廃太子賢は殺されました。賢の子達は殺されませんでしたが長く幽囚されます。

閏五月以禮部尚書武承嗣[武后の甥]を宰相にしました。
一度排斥した一族からの再任用です。しかしすぐ解任しました。

九月甲寅,改元「光宅」。官名旗幟を大きく変更しました。
東都→神都,尚書省→文昌台,六部→天、地、四時六官、門下省→鸞台,中書省→為鳳閣などです。武后好みの形式の変更です。

九月丁丑,柳州司馬李敬業舉兵揚州。
敬業は勣の孫[子は早死]で、武后により眉州刺史より左遷されていました。また揚州には左遷された者が多く集まり、武后に対する反感と不満が結集していたため反乱はたちまち拡大しました。

十月甲申,李孝逸,李知十等率兵三十萬以討李敬業。
孝逸は皇族です。まだこの時点では武后の簒奪を予期しておらず、やがて「睿宗」の時代がくると考えていたようです。

十月丙申,武后殺宰相裴炎。
炎は中宗の廃位を提言した人物ですが、敬業の乱が広がると、武后に「解決策としては、后が退いて、睿宗に実権を戻すことです」と提言して怒りをかい殺されました。

十一月乙丑,徐敬業將王那相殺敬業降。
唐朝軍が本格的に征討すれば反軍など容易に征討できますが、あまり士気は高くなく手間取ったようです。「徐」は李勣が功績により賜姓されたものが剥奪されたためです。

十二月癸卯,殺單于道安撫大使程務挺。
裴炎を庇ったために殺されました。名将の誅殺に苦手にしていた突厥は大喜びでした。
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高宗史をアップしました。

2020-05-26 09:54:07 | Weblog
今までの 太宗~高宗、代宗~憲宗、文宗~懿宗史を
PDF形式でデータをアップロードしました。
太宗史
高宗史
代宗史
德宗史
順宗憲宗史
文宗史
武宗史
宣宗史
懿宗史
リンクをクリックするとPDFが開きます。

宰相一覧
クリックすると表が開き、各宰相名をクリックするとPDFが開きます。
宰相年表[附使相]
クリックすると表が開き、右クリック「リンクを開く」で各皇帝の年別宰相一覧とその官職[使相も]を表示するPDFが開きます。

一応流れに沿って則天に行こうかなと予定しています。則天と言っても「天授」年間までは形式的には中宗~睿宗の時代ですが。
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永隆元年~弘道元年 西暦680~83

2020-05-25 10:01:10 | Weblog
永隆元年 西暦680
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八月丁巳,貶李敬玄為衡州刺史。
敬玄は吐蕃に敗戦後も対峙していましたが、病気と称して帰任を求めました。しかし仮病であることがばれて左遷されました。

八月甲子,廢皇太子賢為庶人。
乙丑,立英王哲為皇太子,大赦,改元。
武后の子供は弘だけがまともで、賢・哲[中宗]輪/旦[睿宗]の三人は阿呆愚図の類でした。賢は自分が武后の実子[姉の子?]であるかを疑い、廃されるかを懼れて挙動不審でした。武后は明崇儼殺害容疑を抱き、薄弱な根拠から謀叛の罪を問うて廃しました。さしたる罪状はないのですぐ殺される事はありません。代わりの哲[中宗]は意志薄弱な低能です。

開耀元年 西暦681
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五月丙戌,定襄道副總管曹懷舜及突厥戰于橫水,敗績。
九月壬戌,裴行儉俘突厥溫傅可汗、阿史那伏念以獻。
突厥が再結集し、再び強勢[第二帝国]に向かっていきます。この時は勝ったようですが、徹底的な勝利ではありません。

永淳元年 西暦682
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四月辛未,裴行儉為金牙道行軍大總管,率三總管兵以伐突厥。
安西副都護王方翼及車薄、咽面戰於執海,敗之。
突厥は再び結集した。唐朝の勝利は疑わしく、勝っても地域的なものです。

四月丁亥,郭待舉、岑長倩、郭正一、魏玄同與中書門下同承受進止平章事。
一挙に四人を宰相に補しましたが、まだ十分な経歴ではないのでこのような名称[平章事]です。これから宰相には「平章事」という用語が多用されます。また次代の則天時には使い捨てのように多数の宰相が任罷免されていき権威がなくなっていきます。

弘道元年 西暦683
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二月庚午,突厥寇定州,刺史霍王元軌敗之。
五月乙巳,突厥寇蔚州,刺史李思儉死之。
突厥は北邊だけでなく河北に侵攻してくる状況です。

十二月皇帝崩于貞觀殿,年五十六。
高宗は東都で崩御します。病死のようです。

前半は長孫無忌、後半は事実上武后が動かしていた朝政ですが、高宗の意志がまったく通らないわけではありません。さすがに高宗が生きている間は皇族や重臣の殺害も多発せず、官僚にとって安穏な状況が続きました。そして以前は過小評価され、近年は過大評価されている則天皇帝への時代となります。
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儀鳳元年~調露元年 西暦676~679

2020-05-24 10:01:14 | Weblog
上元三年/儀鳳元年 西暦676
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二月甲戌,徙安東都護府于遼東故城、熊津都督府于建安故城
新羅の攻勢に圧されて百済・高麗からの撤兵しました。住民も連れていきます。

閏月乙酉,周王顯,領劉審禮等十二總管,相王輪,領契苾何力等軍,以伐吐蕃。
吐蕃に対する本格的な進攻を計画しました。唐朝では太宗以降、親王がつく元帥は名目上で赴任しません。副元帥の武将が実際の指揮をとります。ただ征討の格式の問題です。

儀鳳二年 西暦677
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二月丁巳,高藏為遼東州都督,封朝鮮王,遣歸遼東,安輯高麗餘衆
靺鞨・新羅の攻勢に対抗するため、滅ぼした高麗を再建しようとし、元の王である藏を赴任させました。しかし一度亡んだ国はどうにもなりませんでした。

八月命宰相劉仁軌鎮洮河軍。
吐蕃の全面攻勢が続き、唐朝は防衛体制を固めるしかありませんでした。

儀鳳三年  西暦678
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正月丙子,宰相李敬玄為洮河道行軍大總管,以伐吐蕃。
劉仁軌は対吐蕃防衛策を提案しますが、人事畑出身で文官の敬玄はなにかれとなく難癖をつけて妨害します。怒った仁軌は敬玄を主帥に推薦しました。

九月丙寅,李敬玄、劉審禮及吐蕃戰于青海,敗績,審禮死之。
やはり軍才のない敬玄は吐蕃に大敗し、逃げ帰りました。

儀鳳四年/調露元年 西暦679
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五月壬午,武后の寵臣明崇儼為盜所殺,求賊,竟不得。
崇儼は占や幻術によって武后の信任が篤かったのですが、賊に殺され、厳重な捜査にもかかわらず犯人はわかりませんでした。武后は皇太子賢[崇儼に誣告されていた]を疑っていました。

六月吏部侍郎裴行儉伐西突厥。
九月壬午,行儉敗西突厥,執其可汗都支。
吐蕃の支援を受けて西突厥が反しますが、行儉はこれを鎮定しました。
吏部侍郎は人事を担当する吏部尚書の次官です。こういうわけのわからない官爵をもった将軍が唐朝では多くみられます。

甲辰,禮部尚書裴行儉為定襄道行軍大總管,以伐突厥。
西突厥に続いて突厥残党も蜂起しています。こんどの禮部尚書は文教・儀礼を掌る長官です。
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總章三年/咸亨元年~上元二年 西暦669~74

2020-05-23 10:06:05 | Weblog
總章三年/咸亨元年 西暦669
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四月癸卯,吐蕃陷龜茲撥換城。廢安西四鎮。
吐蕃は攻勢を続け、西域支配を目指し安西都護府を制圧しました。

四月辛亥,薛仁貴以伐吐蕃。
七月薛仁貴及吐蕃戰於大非川,敗績。
対吐蕃戦は敗戦が続きました。

四月高麗酋長鉗牟岑叛,寇邊,高偘,李謹行以伐之。
高麗の残党が新羅の支援を受けて蜂起しました。高麗領の支配を巡って唐朝と新羅は対立していたのです。

咸亨二年 西暦670
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咸亨三年 西暦671
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二月庚午,徙吐谷渾于鄯州浩亹水南。
吐谷渾は吐蕃に逐われて唐朝に亡命してきました。靈州の安樂州に遷しました。

咸亨四年 西暦672
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閏五月、李謹行大破高麗叛者于瓠蘆河之西,餘衆皆奔新羅。
謹行は靺鞨人です。新羅は本格的に高麗故地を狙っています。

上元元年 西暦673
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二月壬午,劉仁軌為雞林道行軍大總管,以伐新羅。
唐朝は新羅を征討することになりました。

八月壬辰,皇帝稱天皇,皇后稱天后。
武后の権力はますます増大し、高宗と肩を並べるようになって行きます。

上元二年 西暦674
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二月,劉仁軌及新羅戰於七重城,敗之。
仁軌は新羅を大破し、新羅は謝罪したということになっています。実際は唐朝は高麗故地を維持できず半島部分を新羅に割譲したのです。

四月己亥,天后殺皇太子。
六月戊寅,立雍王賢為皇太子,大赦。
武后は皇太子弘が長じて自分の意志に従わないので殺害しました。実子ですが。
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乾封元年~總章二年 西暦666~668

2020-05-22 10:01:08 | Weblog
乾封元年 西暦666
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正月庚午,泰山封禪於社首,以皇后為亞獻。
封禪時、皇帝の次に武后が献上しその権威を天下に示しました。

六月壬寅,高麗泉男生請内附,契苾何力為遼東安撫大使,率兵援之。
龐同善、高偘,薛仁貴、李謹行為後援。
高麗では蓋蘇文が死に、長男の男生と弟男建、男產が争い、敗北した男生は唐朝に助けを求めた。今までどうにもできなかった高麗を攻撃するチャンスがうまれたわけです。

八月丁未,殺始州刺史武惟良、淄州刺史武懷運。
武后は自分の母楊氏[武士彠の後妻]に冷たかった武氏一族に恨みがあり、気に入らない前妻子孫を誅殺したり流罪として報復しました。

十二月己酉,李勣為遼東道行台大總管,率六總管兵以伐高麗。
形勢が有利に傾き勣が総帥となり高麗を征討することになりました。

乾封二年 西暦667
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九月辛未,李勣及高麗戰於新城,敗之。
それでも高麗は健闘しなかなか征討は進みませんでしたが、反軍と連携ができてきました。

乾封三年/總章元年 西暦668
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二月壬午,李勣敗高麗,克扶餘、南蘇、木底、蒼岩城。
高麗の崩壊が始まりました。

九月癸巳,李勣拔平壤。敗高麗王高藏,執之。
ついに太宗以来の願望である高麗平定が実現できました。滅亡原因は内訌です。

總章二年 西暦668
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七月癸巳,左衛大將軍契苾何力為烏海道行軍大總管,以援吐谷渾。
吐蕃が隣国の吐谷渾[とよくこん]を攻撃します。形勢不利な吐谷渾は唐朝に助けを求めました。

十二月戊申,李勣薨。
残った功臣の勣も死に、武后を制する者はいなくなりました。
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龍朔元年~麟德二年 西暦661~65

2020-05-21 10:00:21 | Weblog
龍朔元年 西暦661
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正月戊午,鴻臚卿蕭嗣業為扶餘道行軍總管,以伐高麗。
四月庚辰,任雅相,契苾何力,蘇定方,蕭嗣業,程名振,龐孝泰,率三十五軍以伐高麗。
総動員態勢で高麗を攻めますがやはり成果はあがりません。

三月、百済の残党が蜂起し唐朝.新羅は掃討に苦労しています。

十月鄭仁泰,蕭嗣業,阿史那忠,以伐鐵勒。
回紇婆閏が卒し、統制がとれず侵攻してきたのを撃退。

龍朔二年 西暦662
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二月甲子,大易官名。
名称を変更することが好きな武后の好みで、百官名を変えました。門下省→東台,中書省→西台とか、尚書を太常伯とかという所です。

七月丁巳,熊津都督劉仁願、帶方州刺史劉仁軌大破百濟于熊津之東,拔真峴城。
百済残党は依然として強力で高麗征討どころではありません。

龍朔三年 西暦663
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四月戊子,流李義府於巂州。
高宗は人事権を掌握し収賄に励む義府に激怒し、武后にも見放されたようです。

九月戊午,孫仁師及百濟戰于白江,敗之。
唐朝・新羅軍はやっと百済・日本連合軍を白江[白村江]に大破し、百済を完全に平定しました。

麟德元年 西暦664
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十二月丙戌,殺宰相上官儀。
高宗は武后の専権を忌み、除こうとして儀を登用し謀らせました。しかし宦官の密告により武后にばれると全責任を儀に押しつけて殺すに任せました。さすがにその無責任さに呆れた官僚達は高宗を見限り、武后の指示に従うようになりました。

麟德二年 西暦665
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二月上語及隋煬帝,謂侍臣曰:「煬帝拒諫而亡,朕常以為戒,虛心求諫;而竟無諫者,何也?」
李勣對曰:「陛下所為盡善,群臣無得而諫。」
高宗は自分を諫める臣下がいないと漏らし、李勣に「名君だから諫める所がないのです」と馬鹿にされています。ようは実権を失ってしまっているのです。

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顯慶二年~五年 西暦657~660

2020-05-20 10:01:14 | Weblog
顯慶二年 西暦657
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八月丁卯,貶韓瑗為振州刺史,來濟為台州刺史。許敬宗を宰相に。
武后は長孫派の宰相達を左遷し、自派の敬宗を宰相としました。

十二月丁巳,蘇定方敗賀魯于金牙山,執之。分西突厥地置濛池、昆陵二都護府
西突厥が一応平定され、唐朝直轄となりまし。

十二月丁卯,以洛陽宮為東都。
高宗・武后は貴族勢力の強い長安を嫌い、洛陽を好みました。また關内は貧しく、兵が多いので食料が不足がちで、江淮からの供給がある東都に滞在する必要もありました。

顯慶三年 西暦658
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正月戊申,楊胄及龜茲羯獵顛戰于泥師域,敗之。
龜茲を完全に支配し、安西都護府を移した。高昌は西州としました。

十一月乙酉,貶杜正倫為橫州刺史,李義府普州刺史。
義府が専横なため、正倫が弾劾し争いとなった。両者が左遷されたが、武后の引きのある義府はまもなく復帰することになりました。

顯慶四年 西暦659
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三月壬午,昆陵都護阿史那彌射及西突厥真珠葉護戰於雙河,敗之。
西突厥の残党はまだ蠢動しています。

四月戊辰,流長孫無忌于黔州。于志寧罷。
武后はついに無忌とその族を追放し、両端を保った志寧を罷免しました。

七月、殺柳奭、長孫無忌。
武后はこれからも敵を徹底的に追いつめて行きます。

八月壬子,李義府為吏部尚書、同中書門下三品。
武后により義府は復帰しましたが、高宗はその貪汚を快く思っていませんでした。

顯慶五年 西暦660
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三月辛亥,蘇定方,新羅王金春秋率三將軍及新羅兵以伐百濟。
高麗の同盟国である百済を新羅と共に討伐することになりました。後援を断つためです。

戊辰,定襄都督阿史德樞賓為沙磚道行軍總管,以伐契丹。

七月乙巳,廢梁王忠為庶人。
武后の怖いところは、スターリン的に執念深くじわじわと段階的に追いつめていく所です。最終的には殺しますが。

八月庚辰,蘇定方及百濟戰,敗之。
十一月戊戌,蘇定方俘百濟王以獻。
百済は意外に簡単に滅亡します。しかし残党はまだまだ抵抗します。

十二月壬午,契苾何力,蘇定方,劉伯英,以伐高麗。
百済征討の勢いに乗って高麗を攻めます。
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永徽五年~顯慶元年 西暦654~56

2020-05-19 10:03:19 | Weblog
永徽五年 西暦654
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六月癸亥,中書令柳奭罷為吏部尚書。
王皇后は高宗の寵愛はもともとなく、蕭妃や武昭儀が寵愛を受けていました。そのため王皇后派の奭は宰相を辞して難を逃れようとしました。ですが結局地方へ左遷されることになりました。

高宗の武昭儀への寵愛は増し、王皇后を廃位して武氏を立てようとしました。しかし長孫無忌以下宰相達の同意は得られず、気弱な高宗は押し切ることができませんでした。

永徽六年 西暦655
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二月乙丑,營州都督程名振、左衛中郎將蘇定方伐高麗。
五月壬午,及高麗戰于貴端水,敗之。
太宗の遺志を継いで高宗も高麗討伐を継続した。今回は高麗が百済と組んで唐朝方の新羅を攻撃したため征討したものです。

七月中書舍人李義府為中書侍郎,參知政事。
義府は無忌に嫌われ[貴族である無忌にとって、地方からの成り上がりの義府は気にくわなかったのでしょう]地方左遷されると知った義府は、武昭儀の立后を願いでて、高宗と武氏に迎合しました。そして左遷どころか宰相に昇格することができました。

九月庚午,貶褚遂良為潭州都督。
宰相無忌・褚遂良・韓瑗・來濟は武氏立后に反対し、特に遂良は強硬でしたので追放されました。于志寧は沈黙し、李勣は高宗に迎合しました。

十月,己酉,廢王皇后為庶人。乙卯,立宸妃武氏為皇后。
武氏は義府や許敬宗・崔義玄等を結集し、長孫派を押し切って、優柔不断な高宗にやっと決断させました。

顯慶元年 西暦656
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正月辛未,廢皇太子忠為梁王,立代王弘為皇太子。
王后・長孫派の忠が廃位され、武后の生んだ弘が太子となりました。

八月辛丑,程知節及賀魯部歌邏祿、處月戰于榆慕穀,敗之。
癸未,程知節及賀魯戰於怛篤城,敗之。
西域では西突厥賀魯との長期の戦闘が続いていました。
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貞觀二十三~永徽四年 西暦649~53

2020-05-18 10:02:03 | Weblog
高宗前史
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晉王治は太宗九男で、太子承乾・魏王泰とともに長孫皇后の子です。性格は兄二人と違い温和柔弱で、学問を好みました。承乾と泰が争ったときは部外にいて傷つかず、結局叔父である長孫無忌の強い推薦で太子に立てられたわけです。ただ皇帝としての決断力は疑われ、高祖太宗のような権威もなく、前半は無忌を中心とする貴族達、後半は則天武后の傀儡となっています。ただ中宗・睿宗のような腑抜けではなく自分の意志を示す時もあったようです。

貞觀二十三年 西暦649
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五月、太宗崩,以羽檄發六府甲士四千,衛皇太子入于京師。
唐朝はまだ安定していませんでした。太宗は京師西郊の翠微宮で崩じましたが、そこから皇宮まで重武装の護衛をつけて皇太子が戻りました。

六月甲戌,即皇帝位於柩前。
癸未,長孫無忌為太尉。癸巳,檢校洛州刺史李勣為參掌機密。
長孫無忌が太尉として実権を握り、勣が予定通り再登用され軍事を抑えました。

九月甲寅,荊王元景為司徒,吳王恪為司空。
皇族を抑えるため叔父元景、兄恪などを高官に任じましたが、名目だけでした。

永徽元年 西暦650
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正月辛丑,改元「永徽」。
慣例り即位翌年の改元です。

正月丙午,立妃王氏為皇后。
長孫無忌が貴族関係を配慮して選定しました。

六月,高偘及突厥戰於金山,敗之。
突厥残党車鼻可汗を破り捕らえました。

十一月己未,貶褚遂良為同州刺史。
無忌とともに太宗の遺詔を受けた遂良が、権威を利用して押買をしたと弾劾され左遷されました。これにより無忌の力は増大しました。

永徽二年 西暦651
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正月乙巳,宇文節、柳奭が宰相となりました。
奭は王皇后の舅です。

正月乙卯,瑤池都督阿史那賀魯叛。
七月丁未,賀魯寇庭州,伐之。
西突厥の残党が蜂起しました。

永徽三年 西暦652
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正月己巳,以同州刺史褚遂良復相。
失脚した遂良は無忌に復帰させてもらい、以降頭が上がらなくなりました

七月丁巳,立陳王忠為皇太子
忠は王皇后の子ではありませんが、子のない王皇后派の支援で立太子されました。

永徽四年 西暦653
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二月甲申,房遺愛薛萬徹柴令武、高陽巴陵公主謀反,伏誅;殺荊王元景、吳王恪。
公主達は太宗の娘であり降嫁した家で傲慢に振る舞い、不法な行動が多く。夫達も無忌の専権を批判していました。無忌派は単なる不平派を謀叛とでっちあげ、皇室の重鎮元景と恪を連座させて除きました。特に恪は一時期高宗の競争者であったので排除したかったのです。

二月乙酉,流宇文節于桂州。戊子,廢蜀王愔為庶人。
これは単なる連座です。愔は恪の同母弟というだけです。
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貞觀二十~二十三年 西暦646~49

2020-05-16 10:03:46 | Weblog
貞觀二十年 西暦646
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二月甲午,從伐高麗無功者,皆賜勳一轉。
高麗遠征の失態に、軍人達の不満が高まったため慰撫策をとりました。

三月己丑,宰相張亮謀反,伏誅。
失敗により太宗は疑心暗鬼になっていたのか、亮が養假子五百人を使って謀叛を企てているという誣告を信じ、ろくに調べもせず誅殺しました。

六月乙亥,江夏郡王道宗、李世勣伐薛延陀。
七月李世勣及薛延陀戰,敗之。
多彌可汗は諸部を統率できず、唐朝軍の攻撃もあり敗死し、薛延陀は北邊の覇権を失いました。

九月甲辰,鐵勒諸部請上號為「可汗」。
薛延陀崩壊後、主導権を持った鐵勒が太宗を祭り上げました。

十月、元宰相蕭瑀を貶商州刺史。
瑀は梁皇族出身で、唐初より宰相として太宗と親しかった人物ですが、名門貴族出身の矜持が高く博学雄弁であったので、太宗や他の宰相達と衝突することも多く、何度も罷免されては起用されることを繰り返してきました。瑀は仏教の篤い信者で、致仕して出家することを望みましたが、心細くなってきた太宗は許そうとはしませんでした。ところがあくまで固執する瑀に腹を立てて、國公の爵も實封も奪い左遷したわけです。

貞觀二十一年 西暦647
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正月壬辰,高士廉薨。
太宗の太子時代からの重臣達が次々と死んでいきます。

三月戊子,牛進達,李世勣,率三總管兵以伐高麗。
高麗に未練がある太宗は征討を続けますが、民力が疲弊するだけで実効はありません。

五月壬辰,命百司決事于皇太子。
体力気力とも衰えた太宗は皇太子[高宗]に政治を委ねますが、軟弱な太子に憂慮しています。

十二月戊寅,契苾何力,率三總管兵以伐龜茲。
焉耆より更に遠隔地の龜茲を討ち、西域に勢力を拡大していきます。

貞觀二十二年 西暦648
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正月丙午,左武衛大將軍薛萬徹為青丘道行軍大總管,以伐高麗。
まだ諦めてはいません。

七月癸卯,房玄齡薨。
元老玄齡が死に、長孫無忌だけが残り、高宗を支えることになります。

貞觀二十三年 西暦649
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正月辛亥,阿史那社爾俘龜茲王以獻。
西域では唐朝軍は将も兵も蕃軍が中心となっています。

五月戊午,貶李勣為疊州都督。
太宗は勣[唐初からの武将]を深く信任しているはずでしたが、突如として理由無く左遷しました。勣が皇太子[高宗]から恩を受けていないので、一度追放[従順でなければ殺す]し、太子がまた再任用すれば有り難がるだろうという猿芝居を企画したのです。勣は太宗の信任を信じていたので深く傷ついたようです。

五月己巳,皇帝崩于含風殿,年五十三。

太宗はどちらかといえば隋煬帝と同様気まぐれな暗君で、うち続く外征により唐朝を疲弊させ、国力は回復していませんでした。ただ有能な将や軍団によりたいていの外征に勝利したことによって国運を繋いでいました。また自分が無学であることは自覚し、魏徴・王珪・馬周・褚遂良などの諫臣を登用し、内政においては無理をしませんでした。そして彼らが礼賛して「貞觀の治」というフィクションを作り上げたわけです。
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