唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

官位相当制と官品制 その2

2013-04-30 10:29:52 | Weblog
永貞1~開成5までの新任宰相(除再任)45人の前任時の位階を見てみると
従三品-6 正四品上-9 下-1 従四品上-1 下-1 正五品上-2 下-1 従五品上-2 下-5
正六品上-16 下-0 従九品下-1
というように非常に低い、宰相は普通六部侍郎.中書・門下侍郎.六部尚書等を正官とする
ので、最低でも正四品上でなければならない。ところが宰相に就任しても位階はすぐには
上がらない事が多い。そのため宰相はたいてい「守」である。
日本では貴族・門閥による閉鎖的な任用のため、位階のインフレが起きて「行」が主流、
唐では科擧等による能力本位の登用が進み、低い位階の者が上位官職につく「守」が主流
となったと思われる。
ちなみに最下位の従九品下よりの宰相登用は翰林学士承旨知制誥兼皇太子侍讀工部侍郎陳
夷行である。いくらなんでも間違いではないかと思うが正史ではすべて「將仕郎」である。
逆に従三品で就任する者には「杜黄裳」とか「鄭覃」のようにかなり経験を積んでから、
やがて時勢に合って登用されてという場合である。
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官位相当制と官品制 その1

2013-04-29 22:33:29 | Weblog
日本の奈良~平安にかけての中国の制度をまねた官制は「官位相当制」と言い、本家中国は官品制と言う。
「官位相当制」は位階に応じて官職が分布し、「官品制」は官職自体に位階が位置づけられていると言う。
正直違いがあまりわからない。例をひくと唐代の兵部侍郎は正四品上ということになっている。しかし正四
品上の位階を持つ者が任ぜられているのは稀である。本当に例外と言って良い程度しかない。
位階と官職が食い違う場合、官職の方が格上の場合「守」を付けて、守兵部侍郎、格下の場合は「行」を
つけて行兵部侍郎と書く。唐代ではほとんどの場合「守」である。ところが日本の場合はほとんどが「行」
である。これは両国の国制になかなか深い背景を持っていると考える
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唐帝国と臣民の幸福

2013-04-29 10:20:12 | Weblog
唐帝国が最大版図となるのは太宗-高宗皇帝初期である。そして繁栄を極めたのは玄宗皇帝の時代と言われる。
そして安史の乱以降は帝国は衰退し、憲宗皇帝の元で多少の復興があり、その後は宦官の専権により衰退して
行ったというのが史書の定見である。
しかし一般民衆の立場からいうと、太宗-高宗.憲宗の時代は遠征・兵乱が相次ぎ、土地は荒れ、戦費の調達の
為重税が課された時代である。
憲宗後の文宗-武宗-宣宗皇帝の約30年間が帝国ではもっとも平和な期間でなかったかと考える。たいした戦乱
もなく、河北三鎭も老化して穏和となり、外敵もまた吐蕃・回紇は衰退したため辺境防衛程度であり、宦官勢
力の跋扈も長安での問題であった。結構自然災害があったようだが、それが主要な話題になる程度の情勢であ
り、外が静かなので官僚は党争に励んだが、宋代の新旧党の争いとは違い、民衆には関係のないことであっ
た。当時の人々は平和な時代を楽しんでいたに違いない。
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付帯官 淮南節度使を例として その5

2013-04-28 17:29:49 | Weblog
28.崔鄲 元宰相で、李裕派であった。西川節度より転任 → 卒
[検校僕射.平章事]
29.李珏 元宰相で李裕に逐われて配流されていたが復活 → 卒 平章事は付帯せず御史大夫を帯びている。
[検校僕射.御史大夫]
30.杜悰 再任である。まともな統治をせず遊びまくっていたため、宣宗皇帝ににらまれ太子太傅に左遷される。
[検校司空]
31.崔鉉 宰相より、杜悰の失政の後始末を命じられた。→山東節度へ転任
[検校僕射.平章事→検校司空・司徒]
32.令狐綯 宰相として専権を振るっていたが宣武節度を経て赴任。徐泗龐の乱に南方より討伐を命じられたが失敗。太子太保に貶せられた。
[検校司空.平章事→検校司徒]
33.馬擧 武官であり龐の乱に対応するための一時赴任
[検校司空]
34.李蔚 後に宰相となる。旧記では付帯官が「検校吏部」となっているが、前任の宣武節度では検校僕射であり誤記と考えられる。乱で乱れた淮南道の復興にあたって功績があった。
[検校吏部? 検校僕射]
35.劉鄴 宰相より赴任したが、黄巣等の動乱に対処できず武官の高駢に代えられる。
[検校僕射.平章事]
36.高駢 対雲南蠻戦で功績を上げた武将であり、西川→荊南→鎭海→淮南と転任してきた。黄巣討伐の主将となったが、すでに老耄しており成果を上げられず、やがて部下に捕らえられ殺された。
[検校司徒.平章事→侍中→(僞)太尉.中書令]

以降は自立・遥領となり付帯官の意味はなくなるので略す
37.秦彦 38.朱全忠 39.孫儒 40.楊行密 41.楊渥
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付帯官 淮南節度使を例として その4

2013-04-10 20:36:02 | Weblog
◎崔従を除き宰相関連の人事と連動している。淮南の付帯官の格式が検校僕射に定着してくる

21.崔従 特記事項はない →卒
[検校左/右僕射.御史大夫]
22.牛僧孺 宰相を李裕に逐われて移る、やがて東都留守へ.僕射の左右は両記がある。
[検校左/右僕射.平章事]
23.李裕 党争により貶せられていたが浙西観察より重職にもどる。武宗皇帝の即位とともに宰相に
復帰し専権をふるう.僕射の左右は両記がある。
[検校戸部尚書→検校左/右僕射]
24.李紳
裕の復権によりその系列の紳も栄進して就任。やがて宰相になる。
[検校右僕射]
25.杜悰 佑の子.経済官僚.裕派.やがて宰相になる。
[検校右僕射]
26.李紳 宰相であったが裕の独裁に見切りをつけて赴任 →卒
[検校右僕射.平章事]
27.李譲夷 宰相であったが裕の失脚後まもなく逐われる →卒
[検校司空.平章事]
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付帯官 淮南節度使を例として その3

2013-04-10 12:49:22 | Weblog
15.李鄘
経済官僚である。任期中に監軍として赴任してきた有力宦官吐突承璀に評価され、宰相に推された。しかし硬骨の鄘はそれを不満として就任を拒んだ。僕射の左右は両記がある。[検校吏部尙書.御史大夫→検校左/右僕射]
16.衛次公
尚書左丞から赴任.  →卒
[検校工部尚書.御史大夫]

◎.この後、使相となることが多くなった。
17.李夷簡
宰相となったが裴度に押されて活躍することが出来ず、自ら出ることを求めた。右僕射として復帰した。
[検校左僕射.平章事]
18.裴度
宰相陣に敬遠され河東節度使より兵権を解かれて東都留守となったが、諫官の強い批判により兵権のある淮南に移され、すぐ宰相に加わった。赴任していない。司徒は正官であ
[司徒.平章事]
19.王播
経済官僚であり、裴度の代わりに宰相より赴任。諸道鹽鐵転運使を兼ねて巨富を積み、貢献して復帰した。
[検校右僕射平章事.諸道鹽鐵転運使→検校司空→検校司徒]
20.段文昌
皇帝の親近感より宰相に任用されたが任にあらずと自覚して出た。やがて荊南節度使へ移った。
[検校右僕射.平章事]


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付帯官 淮南節度使を例として その2

2013-04-09 13:59:53 | Weblog
09.陳少遊 宦官と密着し吏治に長けていた。建中-興元の動乱においては初期には軍費の貢納など大きく
貢献し昇格、後期は淮西李希烈に内通したが、情勢の推移をみて動かなかった。没後[自殺の可能性大]
淮南牙軍唯一の自立の動きがあったが、隣鎭の浙江韓滉の威圧により収束した。
[御史大夫→検校禮部尚書→検校兵部→検校左僕射→検校司空平章事]
10.杜亞
[御史大夫]
11.竇覦  赴任後まもなく卒
[御史大夫]
このころ以降淮南・浙西は唐朝の基幹財源となり優秀な官僚が統治するようになり、中央への昇進の原点
ともなっていった。
12.杜佑 経済官僚として貢献し、巨額の私財を積み、宰相への昇進を図った。平章事任用は武寧張建封没
後の処理の一環である。中央への復帰を求めて交替を求めた。
[検校禮部尚書.御史大夫→検校刑部→検校右僕射→検校左僕射平章事]
13.王鍔 刑部尚書であったが杜佑の後任として志願し行軍司馬.検校兵部尚書として赴任しやがて交替した。
やはり巨富を積み、貢献して宰相を求めたが得られなかった。
[検校右僕射→検校司空]
14.李吉甫
宰相より直接淮南節度使になる例を開いた。現任の宰相である中書侍郎.平章事を兼ね、やがて宰相に復帰
していった。
[検校兵部尚書.平章事.中書侍郎]
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付帯官 淮南節度使を例として その1

2013-04-08 22:56:04 | Weblog
至徳元年に安禄山の乱に際して設置された淮南節度使は、唐朝の財源たる淮南道を確保するための重鎮であったが、初期の節度使はあまり有能とは言えない中級文官中心で、短期に交替したため弱体なものであった。体制が確立されるのは崔圓をまたねばならなかった。
[第一期.付帯官は御史大夫]
01.李成式 采訪使より.永王に逐われる
[?]
02.高適  貶せられる
[御史大夫]
03.景山 劉展に逐われて敗走
[御史大夫?]
04.李峘 淮南・浙西・浙東都統として
[御史大夫]
05.王璵 祠祭使兼職.赴任したかどうかは不明
[御史大夫]
06.崔圓 元宰相.淮南節度使を8年つとめ、体制を確立 →卒
[検校吏部尙書.御史大夫→検校右僕射知省事→検校左僕射知省事]
 *ただの検校僕射ではなく、知省事が付加されると宰相格といってよく准使相である。
07.韋元甫 →卒
[御史大夫]
08.張延賞 短期の御史大夫(中央)を外されて赴任、その不満と丁憂もあり辭職。後に宰相となる。
[御史大夫]
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方鎭の付帯官について

2013-04-07 23:01:14 | Weblog
節度使・団練観察使なとの付帯官には憲官系と検校系がある。憲官は御史大夫と御史中丞(初期の下位方鎭
にはには侍御史も)があり、当然上位方鎭は御史大夫であるが、必ず付帯されるものではない。使相になる
とほぼ付帯されない(しかし例外もある)。これは上奏權に関連するものではないかと思う。使相になると
当然上奏権があるので憲官の付帯は必要なくなるわけだ。
検校本官には下位から なし→検校常侍→検校尚書→検校僕射→検校三公の順である。桂管・福建など弱小
方鎭で功績があったり、格の高い者は検校常侍が加えられる。有力藩鎭は検校尚書から始まり、僕射に及ぶ。
淮南・西川等の重要方鎭は最初から僕射、三公の場合が多い。
次回は重要藩鎭である淮南節度使の付帯官を例示してみる。
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三師三公(正任)

2013-04-07 16:57:36 | Weblog
三師(太師.太傅.太保)三公(太尉.司徒.司空)は正一品の最上級官であるが、唐代では属官もなく単なる最高
名誉職になっていた。
三公は検校官としては唐中期より乱発され、後期には三師もよく任じられたが正任として与えられる例は少ない。
節度使に与えられる正任の初例は至徳元年の郭子儀・李光弼があり、平章事を兼ねないものは上元元年の河東王思禮
(侯希逸もあるが節度使兼任ではない)がある。
その後は僕固懷恩・李懷光・李晟・馬燧などの唐朝系と幽州朱・魏博田承嗣・成徳李寶臣・淄青李正巳の河北藩鎭
がみられる。
やがて唐朝系李光顔・鳥重胤と、親唐朝系藩鎭である宣武韓弘・武寧王智興・幽州李載義になど移る。
開成三年~乾寧二年の58年間は武官の任用はなく、文官宰相の古株を遇する任命だけになる。
乾寧二年河東李克用が任ぜられた後は、鎭国韓建・宣武朱全忠・西川王建などがみられ、未確認だが邠寧王行瑜・
鳳翔李茂貞なども任ぜられたと推定できる。
三公の序列は 上位より 太尉→司徒→司空
三師の序列は 上位より 太師(李克用の一例しかない)→太傅→太保
両者の序列としては 下位より 司空→司徒→太保→太傅 であるが太尉の位置は不明である。
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