唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

河中節度使史 その3

2021-03-20 17:46:56 | Weblog
永泰・大暦年間は安史系の魏博・成德・幽州・相衛・永平五鎭・
平盧軍系の淄青・汴宋・淮西や梁崇義の山東、そして崔寧の西川などが自立していますが、
自鎭の統治確立のために努力し、大暦末までは紛争を起こそうとはしません。
唐朝軍は極めて弱体で吐蕃の攻勢を回紇と同盟することで必死に防いでいます。
その主力は河中・朔方・邠寧に屯する郭子儀の勢力で、彼の威權により唐朝が支えられていると
言って過言ではありません。郭子儀は宰相元載や宦官魚朝恩と連携したり対立しながら朝政を動
かしていたのです。
彼は大人で鷹揚であり、軍紀は緩く横暴な武将も多く、子儀との個人的関係で繋がっていました。
回紇との同盟にも関係し、影の皇帝と言えるほどです。

永泰元年[765]
◎.2月 黨項羌寇京兆府富平。
京師近郊まで蕃軍が侵攻してきたのです。

◎.3月 郭子儀は吐蕃に対抗するため、河中軍を奉天城に出動させました。

◎.8月 僕固懷恩は吐蕃、回紇、黨項羌、渾、奴剌の数十万の大軍を率いて侵攻してきました。

◎.9月 吐蕃寇醴泉、奉天,黨項羌寇同州,渾、奴剌寇盩厔。
唐朝軍は各地で籠城し防衛するするだけで、迎撃する戦力はありません。
◎. 吐蕃軍は奉天城を攻めて郭子儀軍[渾瑊.白元光]と激戦しました。
◎. 李忠臣屯東渭橋,李光進屯雲陽,馬璘、郝庭玉屯便橋,李抱玉屯鳳翔,内侍駱奉仙、
將軍李日越屯盩厔,同華節度使周智光屯同州,鄜坊節度使杜冕屯坊州,上自將六軍屯苑中。
 唐朝は動員できる全軍を率いて防衛に当たりました。
 代宗皇帝はまた東都への逃亡を図りましが、官僚達の反対を受けて断念した。
 一応、これは宦官魚朝恩の提案ということになっています。
◎ 蕃軍の指揮者僕固懷恩が病死し、その直轄軍は潰乱しました[蕃軍は個人的権威にのみ従う
 ため、懷恩不在では統制がとれなくなったわけです。]
◎ 郭子儀屯于涇陽。

◎.10月 吐蕃至邠州,與回紇寇邊。辛酉,寇奉天。癸亥,寇同州。乙丑,寇興平。
◎ 回紇、黨項羌請降。
 到底蕃軍には対抗できない郭子儀は、旧知の回紇幹部[吐蕃に対しては反感を持っているが、
 懷恩の権威には服していた]に同盟して吐蕃を討とうと呼びかけました。
 子儀との人的関係を重視し、貢納の実利と、吐蕃が上位に立つのがまんできない回紇達は応じました。
◎. 郭子儀及吐蕃戰於靈台,敗之。
 吐蕃は回紇の反意を知りあわてて撤退しました。唐朝軍はそれを追撃したわけです。

◎.閏10月 郭子儀は入朝し、その後主力軍を率いて河中に帰りました。
 戸部侍郎路嗣恭を朔方節度使とし朔方を任せました。
 子儀は京師にいることで、宰相・宦官との権力闘争に巻き込まれることを避けたわけです。

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河中節度使史 その2

2021-03-03 18:06:38 | Weblog
◎.8月 文官殿中監李若幽/國貞が戸部尚書充朔方鎮西北庭興平陳鄭等九節度行營兵馬及河中節度都統處置使となった。唐朝は河中を軍人から回収したかったわけである。光弼は河南行営に向かった

◎.是年 河中節度は沁州を増やされ、同州は華州鎮國軍節度に移管、しかし沁州はまた澤潞節度に移された。

寶應元年[762]
◎.建卯月 河中軍が亂して都統李國貞と鎮西行営節度使荔非元禮を殺した。國貞が屯する絳州は荒れ果てていて、軍人に対する給糧がされず、唐朝からの供軍もなかった。不満が昂じた突將王元振等が反した。近隣に屯していた鎮西北庭行営軍も乱して元禮を殺して、裨將白孝德を擁立。河東軍も乱して厳酷な節度使文官鄧景山を殺し、都知兵馬使代州刺史辛雲京を擁立した。史朝義軍に対峙していた唐朝軍は潰滅状態となった。
◎. 唐朝は肅宗皇帝は重病[まもなく崩御]する状態であり、狼狽したが、冷遇していた朔方節度使郭子儀を朔方河中北庭潞儀澤沁等州節度行營行興平定國副元帥充本管觀察處置使進封汾陽王に任じて乱を鎮圧させようとした。河中軍は郭子儀の旧麾下であり威權が通じると判断したわけである。子儀は実権者宦官李輔國の策動を懼れて、重病の肅宗に強いて謁見し、親しく勅命を受けた。
◎.4月 郭子儀は軍に至り、乱兵は直ちに帰服した。子儀は乱者元振等数十名を誅した。河東辛雲京・鎮西白孝徳も子儀の命に復した[職はそのままであるが]
◎.7月 郭子儀は入朝し、都知朔方河東北庭潞儀澤沁陳鄭等節度行營及興平等軍副元帥となった。その間に肅宗は崩御し、李輔國は張皇后・趙王係を殺して皇太子[代宗]を擁立し、最高権力者[司空兼中書令]となった。
◎.8月 李輔國は郭子儀を讒言し、懼れた子儀は副元帥・節度使を辞して[形式的には留任したが実権は手放した]、京師に居した。
◎. 王昂が河中尹河中晉絳等州節度使となったようである。
◎.10月 朔方節度使僕固懷恩が同平章事兼絳州刺史領諸軍節度行營副元帥となり河中節度も統制下においたと見られる。そして回紇軍とともに史朝義を追討した。

寶應二年/廣徳元年[]
◎.正月 史朝義は自殺し安史の乱は治まったが、宦官勢力は副元帥僕固懷恩の謀叛を言い立てた。
◎.6月 旧紀では王昂は檢校刑部尚書封祁國公に。

廣徳二年[]
◎.正月 關内副元帥司徒兼中書令郭子儀を充河東副元帥河中等處觀察兼雲州大都督單于鎮北大都護とした。元年10月吐蕃軍は京師を陥し、代宗皇帝は華州に逃亡した。やむをえず冷遇していた郭子儀を關内副元帥として京師回復にあたらせたが、子儀には兵力がなく雑軍をかき集めて吐蕃軍を撤退させることしかできなかった。さすがに代宗皇帝を操作していた宦官程元振は失脚し、魚朝恩に代わり。子儀も復権してきたわけである。
◎.2月 子儀は河中に入り、動員されて駐屯し、横暴を極めていた雲南蠻子弟を粛清した。
◎. 郭子儀の留後として河中尹兼節度副使崔寓/公寓が任用されたようである。
◎.6月 罷河中節度及耀德軍、置置河中五州都團練觀察使。朔方節度副元帥郭子儀の管轄下に入ったことで、独立の節度ではなくなったという制度変更である。吐蕃・回紇に接した朔方府を避けて河中府には子儀の朔方親衛軍が移動していた。
◎.朔方節度復兼單于大都護,罷河中、振武節度,以所管七州隸朔方。
◎.8月 郭子儀は僕固懷恩の入寇から京師を防衛するため入朝した。
◎.9月 河中軍は吐蕃を懼れて出動を望まず騒乱を起こした。
◎.12月 懷恩が卒し吐蕃軍が潰乱して撤退したので、郭子儀は京師に戻り再度關内河中副元帥に兼尚書令や太尉などを加えられたが辞退した。
◎.12月 吏部侍郎暢璀が左散騎常侍兼河中尹として留後となった。
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河中節度使史 その1

2021-03-02 13:49:23 | Weblog
蒲州[河東郡.河中府]は京師と、唐の建国地河東[太原府]を結ぶ要地である。また鹽池が有り多額の税収が得られる地域であった。

天寶十五年/至德元年[756]
◎.? 安禄山軍に対して河中防禦守捉蒲關使が設置され、呂崇賁が防禦使となった。
◎.6月 安禄山軍に潼関で唐軍は大敗し、京師は陥落した。蒲、華、同、商州防御使は皆逃亡し守兵は逃散した。
◎.7月 關内采訪使が節度使となり、前蒲關防御使呂崇賁が節度使となった。

至德二年[757]
◎.正月/2月 朔方節度使郭子儀が賊將崔乾祐を潼關に破り河東郡[蒲州]を回復した。
◎.3月 賊将安守忠が河東を攻撃したが、郭子儀が撃退した。
◎.4月 郭子儀は關内河東副元帥となった。
◎.10月 唐軍が京師・東京を回復し河東・河南諸郡を制圧した。
◎.? 馮翊[同州]太守顔真卿が蒲州刺史本郡防御使封丹陽縣開國子となった。真卿は安禄山の乱に際して挙族抗戦したが敗れて入朝し、憲部尚書兼御史大夫となっていたが、その剛直さを宰相等に敬遠されて馮翊太守に出されていた。
◎.12月 河中防禦使は河中節度兼蒲關防禦使となり,蒲晉絳隰慈虢同七州を管轄した。

乾元元年[758]
◎.10月 顔真卿は御史唐旻の誣告により饒州刺史へ貶せられた。
◎.9月 右羽林大将軍趙泚が蒲州刺史蒲同虢三州節度使となった。

乾元二年[759]
◎.7月 刑部尚書王璵が蒲州刺史充蒲同絳三州節度使となった。璵は禮典の専門家である。

乾元三年/上元元年[760]
◎.2月 尚書右丞崔寓が蒲州刺史充蒲同晉絳等州節度使となった。
◎.2/3/4月 蒲州は河中府に昇格し、尚書右丞蕭華が河中尹兼御史中丞充同晉絳等州節度觀察處置使となった。
◎.8月 將作監王昂が河中尹河中晉絳等州節度使となった。

上元二年[761]
◎.2月 前河中尹蕭華は宰相となった。
◎.3月 副元帥李光弼が史思明に敗北した責任を取り、太尉と中書令を辞した。敗戦は唐朝の指示による強行で、光弼としては不本意な戦いであった。そこで光弼は不満を示したわけで、唐朝は慌てて侍中河中尹晉絳等州節度觀察使として遇した。
◎.5月 すぐ李光弼は大尉兼侍中.河南副元帥都統河南淮南山東五道行営節度しなり、臨淮郡に鎭した。現実の河中節度使は王昂が継続していたと推定できる。

唐史データリンク集

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