武德八年 西暦625年
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七月丁巳,秦王世民屯于蒲州,以備突厥。
八月壬申,並州行軍總管張瑾及突厥戰於太谷,敗績。
甲申,任城郡王道宗及突厥戰於靈州,敗之。
全国制覇した唐朝にとってあとは突厥が悩みの種です。まだまだ突厥の軍事力には及びません。
武德九年 西暦626年
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正月甲寅,裴寂為司空。二月庚申,齊王元吉為司徒。
六月庚申,秦王世民殺皇太子建成、齊王元吉。
癸亥,立秦王世民為皇太子,聽政。
秦王が皇太子、齊王を殺害して自立します。皇太子は本来帝国を継承するので陰謀をする必要はありません。高祖は威嚇され追認しました。
六月庚辰,幽州都督、廬江郡王瑗反,伏誅。
反太宗派皇族を挑発して滅ぼします。
八月甲子,皇太子即皇帝位。
八月癸未,突厥頡利可汗進至渭水便橋之北,遣其腹心執失思力入見,以觀虛實。
突厥は属国である唐で無断の廃立が行われたことを責めて入寇しました。簒奪により即位した太宗は防禦の態勢が立たず、単独で渭水に出頭し謝罪しました(鴻門の会の劉邦のようなものです)。莫大な貢物をせしめた可汗は即位を認めて撤退しました。
貞觀三年,太上皇徙居大安宮。
太宗の地位が安定してきたので幽閉地から遷されました。
貞觀九年五月,崩,年七十一。廟號高祖。
高祖も突厥に対する勝利を認め、このころは和解したようです。