珊瑚の時々お絵かき日記

夫と二人暮らし、コロナ自粛するうちに気がついたら中国ドラマのファンになっていました。

少将滋幹の母とピエタ

2008年12月15日 | 日々のこと
昨夜、NHKで「母恋いの記」というドラマをやっていた。
谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」のドラマ化だという。
「少将滋幹の母」は高校時代に読んだような気がするのだが、内容は全然おぼえていなかった。
でも王朝ものは大好きなので、真央ちゃんとキムヨナの対決を見届け、ほっと安心したところで、チャンネルを替えた。
開始から20分ほど見逃したことになるけれど、滋幹の母が格上の貴族に連れ去られるところだった。

7歳で生き別れたやさしく美しい母の面影を心に抱いたまま成長した滋幹は、母を慕う思いを綴った文を送り続ける。
だが文は、それを不愉快に思う異父弟によって奪われ、母には届かない。

異父弟は滋幹に、母は老いて疱瘡を患い今や醜い老婆となっていると告げる。
美しい母の面影が崩れ母への思いが変わるのを恐れる滋幹は、母の五十の賀を祝う宴への招待に応ずることができない。

やがて異父弟もその父も他界し、母は出家した、と伝え聞く。
数年の後、たまたま通りかかった山道で見かけた蝶に誘われて行くと、満開の桜を手折る尼に出会う。
その尼は、滋幹の面影のとおり美しい母だった。
滋幹は母の膝にすがり、背を抱かれ再会の涙を分かち合う。
至福のひと時の後、手折った桜の一枝を残し母の姿は消えていた。
母はその数日前に他界していたのだ。
滋幹を思う心が形となって、つかの間現れたのだった。

原作がこの通りなのかどうかは知らない。

このドラマを見終わって、サンピエトロ寺院のミケランジェロのピエタ像を思い出した。
10年以上も前だが、早朝ほとんど人気の無いサンピエトロ寺院で、ピエタ像と対面した。
若く美しいマリアと端正なキリスト、その姿に感動し、涙してしまったのだが、知らないで見たらこの二人を親子だとは思わないだろう。
私は直感的に、作者のミケランジェロは幼いときに母をなくしているのではないかしら、と思った。
だから彼は、母と言う名の女のエゴも嫉妬も、醜さのすべてを知らず、このようにひたすら美しく穢れない母のイメージを作り上げられたのではないだろうか。

うちの息子が母をイメージして像を作ったら、無様にソファに転がったトドのような私だろう。

ルーブルだったと思うが、ミケランジェロが晩年製作したもう一つのピエタ像がある。
製作したと言っても、出来上がっていない。
全体のかたちからかろうじてピエタ像かとわかる程度の荒削りで終わっている。
完成していたらどういうピエタになっていたのだろう。
加齢とともにミケランジェロのマリアのイメージも変わっていっただろうか。