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映画 「The Bridge」 橋から飛ぶ人たち

2010-08-04 | 映画



先日「自殺の名所としてのゴールデンゲートブリッジ」の記事を描いた際、
「映画だかテレビだかが自殺者の映像を撮ることに成功している」と書きました。
 この話は、サンフランシスコ在住の友人に聞いたものだったのですが、記事を書いてから
気になってこのことについて調べてみました。

それは「The Bridge」という映画でした。
この映画は日本では公開されていません。
ユーチューブで9編に分けた映画を検索すれば見ることができます。


2004年、ゴールデンゲートブリッジからの飛び降り自殺者は24人。
一年間、カメラを回し続け、何人かが飛び降りる瞬間をカメラに収め、関係者や目撃者、
さらには飛び込んだが奇跡的に助かった人のインタビューをまじえて映画を作った人がいます。

楽しげな観光客をよそに一人で橋に寄りかかり、海面を見つめる何人かの映像から映画は始まります。
そのうち一人は意を決したように柵を乗り越えたと思うと、手足をばたばたさせながら落下し、
水面に激突します。
ウィンドサーフィンをしていてそれを至近距離で見ていた二人が
「なんだって自殺などするのか理解できない」という語調でそのときの様子を語ります。

つづいて、飛び降りた何人かの友人、家族のインタビューが始まり、この映画の「主役」であるところの
不気味なくらい美しいゴールデンブリッジの映像と、橋の上で飛び降りる決心をするまでの
何人かの映像が繰り返されます。

通行人に見つかり、あわてて橋から手すりの外に転がり落ち、そのまま飛び降りる人。

その直前まで携帯電話で誰かと話し、その会話の途中で大きく体をのけぞらして笑っていたのに、
電話を切るなりサングラスと携帯を地面に置き、手すりに腰をかけ、十字を切り、
そのままの姿勢で落下していく人。

至近距離からではなく、ブリッジの遠景に飛び込む飛沫と水音だけで最後が記録された人もいます。



「本当に普通だったけど、あるときから偏執的だと言われるようになって」
「いつも黒ばかり着て、手袋をしていた」

とリサの家族は言い、
「全て黒だったわ。髪も黒、服も黒・・・」
とジーンの友人は語ります。

いずれも自殺者が自殺に至るまでの何らかの理由を、自分の知る情報の中から彼らなりに探りつつ、
そのエピソードが語られるのです。

最後のときも黒い長髪、黒の革ジャンパーに黒いジーンズ、「全て黒」をまとっていたジーンは、
長時間の逡巡の末、橋の手すりにまっすぐ立ちあがるとそのまま後ろに倒れるように落下していきます。




この映画が公開になったとき、当然激しい非難の声が制作者に寄せられました。
長時間そこに佇む人間がいれば、いかに他人に無関心で触らぬ神にたたりなしを決め込むアメリカ人も
それを防ぐために声をかけたり警察を呼んだりします。

現に、このフィルムで実際手すりの外に踏み出した若い女性がいたのですが、たまたまそこで
撮影をしていたプロのカメラマンが(飛び降りる直前ためらう彼女にシャッターを切ってから)
彼女を引きずり上げています。

その後彼女はどうなったと思いますか?

警察が来たと思うと、押さえつけられ、後ろ手に手錠をかけられ・・・・
彼女は犯罪者として連行されてしまったのです。
そう、自殺は「犯罪」(クリミナル)なのですから。
他にも一人、通報されたのか、たたずんでいるだけで手錠をかけられた女性がいました。

ここに映されている何人かは、通報すればそれが防げたはずだ、というのが
主な非難の内容だったようですが、本当にそうでしょうか。

確かにこの映画の撮り手は自殺者の苦悩を彼らが橋に佇んだときから予測しており、
飛び込むこと明らかに「期待して」カメラを回しています。
それを非難する声があるのは当然のことでしょう。

しかし、通報して彼らを「自殺志望者」から「犯罪者」に変えることは、自殺を大罪とする宗教の教えには
背かないでしょうが、彼らがおそらくそれを望まない以上、それは「誰のために」「何のために」
なされる行為なのでしょうか。
彼らを失うことによって哀しむ家族や知人のため?

飛び降りる前に近くにいた家族に微笑みかけたというリサ。
橋に腰かけ暫く海を見つめていたフィル。
「飛び降りるのを止めたところで、結局彼女が死ぬのを止められたとは思わない」
「色々やったけど結局何も彼の決心を変えることはできなかった」

彼らの家族は異口同音にこう語ります。





何故、死ぬのに年中人通りが絶えることのないブリッジの、それも昼間衆目の中を選ぶのか。

一人、橋げたまで下りたものの、周りの通行人何人かに見つかり、彼らと会話を交わすうちに泣きだし、
思い直して自ら手すりを乗り越えて「帰ってくる」人がいます。
やはり、何人かは「何かに引き留められたがって」その心理がブリッジを選ばせたのだろう、と思えます。

しかし、やはり大半の人は人ごみの中の一瞬の空白をつくようにして
誰も見ていない瞬間に飛び降りるのです。
これはいかなる心理によるものなのでしょうか。
 その答えはおそらく「ジャンパー」の知人家族が語るように
「本人でないとわからない」のでしょう。

何時間もの逡巡の末、わざわざ至近距離に二人の女性がいるときに橋の手すりにすっくと立ち、
文字通り映画の一シーンのような最後をフィルムに刻んだジーン。
彼の最後にその心理の一端を見るような気がします。

自分の生の終焉を誰かに確認してほしい。
どんな形でもいい、このように死んでいったと、語ってくれる誰かに。


完全な孤独の中で逝きたくないというのは死んでいくものの最後のこの世に対する執着の一種でしょうか。
だとしたら、その最後を記録にとどめられ、人々が自分の死に往く姿を今日も目にしているというのは
彼らの意にかなうことなのでしょうか。

ジーンは、身体をまっすぐにしたまま落下していく途中で胸においていた手を十字架のように広げます。
人生最後の一秒間、最後まではずさなかった黒いサングラスが外れて飛んでいったそのとき、
彼の見た光の色はどんなものだったのでしょうか。

ブリッジの上のジーンから
「そのときが来たんだ。さようなら」と電話を受けたという友人が最後に語ります。


「何故彼が『ブリッジ』を選んだのか・・。
私にはわかりません。
彼は、苦痛から逃れるための苦痛を選んだのだと思います。

多分・・彼はただ、一度空を飛んでみたかったのでしょう」