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帝国陸軍軍楽隊とフランス人気質

2012-07-14 | 陸軍



今日はキャトルズ・ジュイエですね。
・・・てなんだ?と思われた方。
「パリ祭」ですよ。
フランス独立記念日です。
昔、日仏学館に通っていた頃、この日にはちょっとしたパーティが行われたものです。
「踊れ」
といわれてダンスの相手をしたら、自分より背の低いフランスオヤジに、くるくるとまわされて、
「踊れないのに、わたし踊ってる~」これすなわち、
「あなたのリードに島田も揺れる~」という「芸者ワルツ」?
フランス人と踊りながら、この一節が脳裏をよぎったのは、何年前のことでしょうか・・・。

というわけで、唐突ですが、今日はフランスと我が帝国陸軍に関連した記事をお送りします。


昭和6年9月満州事変発生。
戦火は次第に拡大して13年10月、武漢三鎮の占領へと展開していきます。
本日写真は中支における日本軍軍楽隊の行進の様子。
この当時中国大陸にあった、ある陸軍軍楽隊のお話。

軍楽隊に初めて動員令第十号下命という出動命令が出されたのは、昭和12年のことです。
昭和16年には、このシナ事変で活躍する軍楽隊を紹介したドキュメンタリー映画が製作され、
南京や蘇州の各地で、ときには敵前数百メートルの位置で演奏する
軍楽隊の「戦い」が国民に紹介されました。

ありがちなことですが、この映画の題名、「戦う軍楽隊」の、「戦う」が気にいらず、
「武器も持たないのに『戦う』とは何事だ」と文句をつけてきた陸軍の馬鹿参謀がいたそうです。

しかし現に、広い中国で、軍楽隊は兵士の慰問演奏や住民の宣撫のため演奏し続けていました。
ある時は楽器を銃に持ち替え、ある時は敵陣に決死の突撃をするに至り、
文字通り血みどろになって戦っていたと言っても過言ではなかったのです。
しかし、今日お話しする軍楽隊は、外国軍を「無血降伏」させた、最強の部隊です。


中支派遣軍総司令部軍楽隊は、昭和13年10月27日、漢口に進駐しました。
当時の漢口には、イギリス、フランスの租界がありました。
その租界を接収するに当たり、日本軍はあくまでも武力を濫用することなく、
平和裡に事を進めることに注意を払っています。
「日本軍は入城すべからず」というのが軍部から出された命令で、
ひっそりした城内には、陸戦隊の一部と憲兵が入っているのみでした。

そのときフランス租界接収の交渉をまかされたのが陸軍少佐田島清
田島少佐は国際連盟の日本側随員としてフランスに5年いたことがあり、
フランス人の気質というものをはなはだ良く知る立場にあったそうです。

フランス人気質。

みなさん、ご存知ですか。フランス人の気質というものを。
フランスと言う国が文化に優れた魅力的な国であるということに異論を唱えるものではありませんが、
フランス人と言うものをわずかでも知っている人は、
こんな厄介な人種が世の中にいることもまたごぞんじかもしれません。

わたくし、大学ではフランス語を選択し、4年間日仏学館に通い、ちょっととはいえパリに住み、
少しとはいえフランス人気質を知っているつもりですが、一言で言うと

1、意地悪

もう一言加えると

2、ケチ

につきます。
あと、皮肉屋である、無意味にプライドが高い等々、
まあ、良いとこもあるにはあるけど、あくまでもそれは個人的な資質における「良さ」で、
全体としてはどちらかというと、かなりお付き合いにもスキルが必要。
それがフランス人と言うものです。

田島少佐もこのあたりは百も御承知。
駐留していたコラン領事以下、居留民たちは、日本人をもともと馬鹿にしきっており、
かつ野蛮で何をするかわからないと、恐怖におののいていたわけです。
(昔もそうですが、日本文化人気の今現在ですら、そう思っている節がありまして)
こういう人たちと交渉するには全く一筋縄ではいかないわけで、とにかく武力はちらつかせず、
根気よい説得によって

フランス租界内の通行権
軍用電線の架設権
日本側への協力要請

などと取りあえず認めさせました。
しかしながら、何の根拠もなく東洋人など一段劣る民族であると信じて疑わないおフランス人、
相変わらず疑いの白い目でこちらを見ている様子が見え見え。

田島少佐は一計を案じました。
長らくの籠城生活で娯楽、ことに音楽に飢えているに違いない彼らに、軍楽隊の演奏を聴かせて
心を少しでも和らげてやれば、ひいては日本軍に対する印象も変わってくるのではないだろうか。

コラン領事に提案してみると、喜ぶどころか
「それは困る」
フランス人ならこうくるだろうと、田島少佐は予想していなかったということでしょうか。
甘い。
先ほどの性格に

3、ひねくれている

を入れるのを忘れていました。
コラン領事に理由を問うと
「演奏を聴かせると言いながらデモ、つまり日本の国威誇示みたいなことをするのだろう」

あ、4、疑い深い

も付け加えましょう。
かてて加えて、頭から日本人を見くびっているので、軍楽隊といっても
支那の楽隊のような、サーカスのジンタかチンドン屋の楽隊みたいなものだと
勝手に決め付けているのがこれも丸わかり。つまり

5、視野が狭く井の中の蛙

なのですね。こういうところは。
そこで田島少佐、一計を案じ、提案をこのように変更しました。

「日本租界で音楽界を開きます。
その際、フランス租界を通過するので、フランス守備隊司令部前で敬意を表して、
フランス国家を演奏させていただきたい」

コラン領事、「それならばお好きにどうぞ」と、あくまでもフランス人らしく

6、お高くとまっています

さて、帝国陸軍軍楽隊の、いや日本の音楽界の名誉を担って、山口楽長以下60名、
守備隊の前でまずはフランス国歌を演奏しました。
その素晴らしさに驚く守備隊フランス人。
ぜひもう少し聴かせていただきたい、との所望に対し、
彼らがかねてから用意していたフランス音楽をサラサラっと演奏すると、
ぞろぞろとどこからともなくフランス人が集まってきました。
そして、拍手喝さいでアンコール、アンコール。
しかし、田島少佐、ここで一芝居打ちます。

「いや、せっかくのご所望なれど、
先だって、
わざわざこちらかから御慰問申し上げようと存じたのに対し
お断りを受けたわけで。

日本軍楽隊は辻芸人ではござらぬ。
さらばごめん!」


さっさとトラックに乗って引き揚げてしまいました。
田島少佐は大いに溜飲を下げ、逆に相手方は慌てます。
「前の失礼は幾重にも詫びるから、ぜひあらためて演奏会を催してほしい」
平身低頭、手をすり合わさんばかりにコラン領事は申し入れてきますが、
いや、こちらにも都合が、とかなんとかじらしにじらして、15日目に、やっと承諾。
田島少佐もなかなかに人の悪い。

フランス人倶楽部で催されたその演奏会では、
なんと、フランスの音楽学校に留学していた山口楽長が音楽解説をするというものでした。
これを目の当たりにしたフランス人の驚きは想像に余りあります。
なぜなら彼らは

7、フランス語を話せる民族こそが文明人であると信じている

からです。
彼らは実際、どんな下手でも、外国人がフランス語でしゃべりだすと、がらりと態度を変えます。
英語が判っても英語で返事をしない、という都市伝説もありますが、基本的にそれは嘘。彼らは

8、良いかっこしい

なので、英語が全く分からないということを隠すために
「英語なんて」という態度を取ってみせるのです。(体験談)

・・・・というフランス人ですから、この計らいにまず茫然。
続いてレベルの高い軍楽隊の演奏に、まさに聴衆は感激興奮の渦。
二時間にわたる演奏会の間、彼らは身じろぎもせず、神妙に聴き入っていました。
それからというもの、彼らが日本軍を見る目はがらりと変わったそうです。
これは、軍楽隊がフランス人を制圧したと言っていいのではないでしょうか。

ところで、このフランス国家ですが、余談として少し。




昔フランス語の授業で全文翻訳し、歌わされたのでいまでも空で歌えるのですが(自慢)
その際このコーラス部分の最後の一文がことに印象的でした。

「進め!進め!敵の汚れた血で 我らが田畑を潤すまで」

最後の「nos sillons」(ノシヨン)というのは田畑のあぜのことです。
君が代を歌うことを拒否した菅前首相が
「君が代は暗い感じがする。フランス国歌のようにもっと明るい歌が良いと思い」
と、いかにも教養のない言い訳をしていますが、
おフランス国歌とは、このような「軍靴の足音聞こえまくり」な内容なんざんす。(byイヤミ)

でも、妙な思想信条を振りかざし、学校の教師が卒業式で立つの立たないので大騒ぎ、
一部の人間およびマスコミもそれをいつの間にか応援しているかのような最近の日本に比べれば、

9、国旗国歌を心の底から誇りに思っている

フランスの方が、この点まし。
まあ、これはフランスに限ったことではなく、ただ日本が異常なだけなんでしょうけど。