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雪風は死なず(初心者向け)

2012-07-27 | 海軍












少しでも海軍の艦船というものに興味を持っている方なら、一度は
「世界の歴史上もっとも好運な不沈艦」としての駆逐艦「雪風」の名を聞いたことがあるでしょう。

大東亜戦争中、主要作戦のほとんどに参加し、いつも第一線で戦いながら生き残った、
まるで奇跡のようなこの駆逐艦。

デビュー戦は1941年、12月8日。
そう、大東亜戦争開戦の日です。
パラオ基地を出撃し、フィリピンのレガスピーへの急襲でした。
その後、スラバヤ、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモン、ニューギニア、マリアナ、レイテ、
そして昭和20年4月の天一号作戦の大和特攻。
これだけの激戦を戦い抜き、終戦を迎えたとき、81艦の寮艦たる駆逐艦(特型、甲型)は、
ことごとく沈没し、「雪風」だけが残ったのでした。

第三次ソロモン海戦では至近弾を喰うが、これがもし1mずれていたら、沈んでいた。

この後、艦上機を含む大艦隊に襲われたが、ちょうどスコールの黒雲が現われ、
その中に飛びこんで逃げのびた。

この時、爆撃機が艦橋をかすめるように墜落してきた。
何十分の一秒の違えば、
甲板中央に墜ちているところであった。

天一号作戦では艦体に地響きのようなものを感じたものの、

誰ひとりとして全く気にせず、激しい戦闘を続けた。
後から調べたら、上部甲板に穴が開いており、艦内には不発弾があった。

ダンビール海峡の「スキップ・ボミング」
(爆弾を超低空から落とし、海面で跳ね返らせ艦船の横腹を狙う)

の嵐と化した悪夢の海を駆け回り、海上にいた将兵を助けて、無傷で戦場を去った。

艦底に魚雷が当たったが、そのまま通過していた。

終戦間近(7月30日)の空襲で、ロケット弾が命中したがこれも不発。

終戦後、舞鶴に回航される途中機雷に接触。
今度こそ駄目だと覚悟を決めるも、それが「回数機雷」で、爆発せず。
後ろにいた「初霜」が、同じ機雷に接触し、今度は作動したため暴発し、沈没。

戦争中を通じて、戦闘による死者は10人以下であった。

戦時中の艦長4人(飛田健二郎、菅間良吉、寺内、古要桂次)は戦後も健在であった。



最後の方になると乗組員も、他の艦の乗員を助けながら「当たり前の光景」のように
思えてきたというから、幸運もここまで来るとむしろ不気味というレベルです。

現に、「雪風は沈まない」=「雪風と一緒に出撃すると沈む」
というネガティブな解釈から(船乗りは、何かとげんを担ぐ)
「疫病神」「死神」とまで言われることすらあったそうです。

歴代艦長はそれまで「不沈艦長」と言われていたような人ばかりが就任し、全員が
「どんな激戦場に出ても、雪風だけは絶対に沈まない」
と、全くその気になってしまっていたそうですから、全員の超ポジティブな「プラシーボ効果」が
実際にも好運さえも呼び寄せたのでしょうか。

「駆逐艦な野郎たち」という小林たけし氏の漫画で、新任の中尉がスリッパで出てきた艦長に
驚き、軍帽を斜めに被る艦員に怒り、「どうなってるんだ!」と呆れる話がありますが、
まさにこれは「雪風」をモデルにしており、そのラフな態度が戦前は「田舎者」扱いされていました。

この「駆逐艦気質」を最も体現していたと思われるのが第五代艦長の寺内正道少佐で、
天一号作戦、ご存じ戦艦大和が海の藻屑と消えたあの激戦中、艦橋に椅子を置き、
その上に立って天蓋から鉄兜も被らないまま頭を出し、三角定規で雷跡を読みながら、
航海長の右肩、左肩と蹴りながら操舵を指示し続けました。

この豪胆な艦長の姿に、総員が奮い立ったのは言うまでもありません。
元々、日本の駆逐艦の操艦、ことに「爆弾除けの秘術」はお家芸の域まで達していたと言われ、
ある駆逐艦長のそれなどはまるで名人芸で、あるいはスポーツのようにそれを楽しんだ、
とまで言われていましたが、この寺内少佐も、第4代艦長の菅間良吉中佐も、
この「芸」は超一流であったということです。

そういった「職人技」に加え、この駆逐艦は名技術にその幸運を支えられてもいました。
一般に駆逐艦は造るのが非常に難しいと言われました。
船体を作るのに制限があったからで、それは2千トンから一トン増してもダメ、というくらいでした。
その小さな艦体ゆえに操舵の敏捷性を持つ駆逐艦ですが、また同時に戦艦を撃沈せしめる攻撃力、
あるいはどんな荒波の中も艦体を叩かれることのない安定性が要求されるのです。

雪風は、造船界の天才、「大和」をも手掛けた牧野茂技術大佐によって設計されました。


ところで、日本一の好運艦が雪風なら、日本一の不運艦は?
聯合艦隊が壊滅してしまったわけですから、幸運も何もほとんどのフネは「不運」であった、
としか言いようもないのですが、その中でもワーストの例を三つ。

巡洋艦「畝傍」(うねび)。
フランスで建造され、日本に回航される途中行方不明。

これは明治時代の出来事だそうですが、当時の科学技術では、畝傍が一体どこでどうなったのか
全く分からないまま、とにかく彼女は痕跡も残さず消えてしまったのだそうです。
これは、不運というより生まれる前に消えてしまった、という感がありますが、

空母「信濃」
1961年「エンタープライズ」が生まれるまでは、世界最大の排水量を持つ空母であった。
未完成のまま横須賀から呉まで回航中に、米潜水艦の攻撃により沈没。

雪風は、この回航に「磯風」「浜風」とともに参加しています。
信濃には貨物として特攻機「桜花」、あるいは震洋が乗せられていたといい、これをもって

「信濃の回航が特攻にならなければいいが」

と冗談を言うものがいたということですが・・・・・。

むやみにポジティブであった雪風が幸運を否が応でも引きつけた感があるのに対し、
冗談でもこのようなことを言わない方がいい、という見本のような話だと思いませんか?

空母「大鳳」
魚雷命中ではなく、密閉された艦内の気化ガソリンに、胴体着陸した戦闘機の衝撃で引火、
大爆発を起こし、沈没。

全海軍の期待をになってデビューした空母でしたが、初陣で戦闘開始直後に沈んでしまったのです。
それまで大鳳は何発かの魚雷を受けていたのですが、それにはびくともしていませんでした。


戦後、雪風は戦利品引き渡しとなり、中華民国海軍の旗艦「丹陽」となりました。
その舵輪と錨は、日本に送られ、江田島の海軍兵学校跡に展示されています。








戦後、我が国が軍艦の所有を許されたとき、その最初の艦の名前を決定することになり、
「雪風」乗り組みであった旧軍人たちは、この好運艦の名を引き継ぐことを強く提案しました。

その栄光の名前は、戦後の警備艦第一号「ゆきかぜ」となって刻まれることになったのです。