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最後の軍艦マーチ~海軍第四艦隊司令部附軍楽隊

2012-10-29 | 海軍






昨日、観艦式の「行進曲軍艦」について書いたところ、
鷲さんからこんなコメントをいただきました。

皆様に読んで頂きたくこの欄にアップいたします。


>今までエリス中尉、この「軍艦」を、
日本以外の媒体で見たことも聞いたこともないのです。

とのことですが、海上自衛隊にとって初の海外派遣任務であった
ペルシャ湾への掃海作業への出発式典のとき、
海自側は「軍艦」の音楽隊演奏により見送ろうと計画をしていました。

しかし、なんと首相官邸筋からの横槍で、
旧海軍を想像させる「軍艦」などまかりならぬ!とのこと。
泣く泣く、その演奏は見送られることになりました。
当時の総理大臣は、例の水玉模様のネクタイがトレードマークの方です。

さて式典も終わり、いよいよ出港となった時、
どこからともなく「軍艦」の勇壮なメロディーが響き渡ります。
防衛庁(当時)背広組の、あわてふためく様子を尻目に、
派遣部隊の姿が小さくなるまで、その演奏は続きました。

誰が演奏したか?

それはアメリカ海軍第7艦隊の音楽隊でした。
海自音楽隊の憤懣を聞きつけた彼らは、
僅か数日の練習で見事な「軍艦」の演奏を聴かせてくれたのです。

その場に出席していた海自幹部の多くが、友邦の友情に涙したとのことです。



最初のペルシャ湾への日本からの掃海派遣は1991年(平成3年)行われました。
水玉のネクタイ首相が誰か分からない方のために一応断ると、
当時の首相は海部俊樹。

ちなみに、天安門事件で孤立していた中国に世界で最初に「手をさしのべ」、
そして「南京大虐殺はあった」として、中国に「勝手に謝罪した」政治家でもあります。

そういった思想の政治家が「旧軍」にまつわるものを、その経緯やそれまでの慣習、
自衛隊に対する理解もそこの属する生身の人間への一片の思いやりもなく
「旧軍を思い出す」というそれだけの理由で禁止する。

世界的、一般常識的に見て異常なことでも、この日本では
「さもありなん」と思えてしまう、というのが何とも情けないことではありますが、
問題は「文化的なものの統制」という、憲法上問題を含む可能性もあることを
一国の首相がやってしまう、という「左ファッショ」の恐ろしさです。

(右側の発言なら『神の国』で大騒ぎするマスコミも、左ファッショに関しては寛容)

そして、その偏狭で頑迷な陋習じみた「ある政治家の自己満足的判断」に、
がつんと一発喰らわせてくれたのが、戦った当のアメリカであったと・・・。

痛快です。

快哉を叫びながら、鼻の奥がつーんとしてきてしまったエリス中尉です。
しかしながら、わたくし、このときはこの背広組でさえも慌てふためきながら
どこかで「やってくれた!」と思っていたのではないかと察します。
なんと言ってもあいては米軍。
彼らが「その行動の責任を取らされる」相手ではないのですから。


「軍艦マーチ」と米軍の関係についてこのブログでは二回テーマを扱っています。
一度目は、

「占領時代、新橋のパチンコ屋で海軍出身のオーナーが軍艦マーチを流ししたら、
飛んできたのは進駐軍ではなく丸の内警察だった。
しかし当の進駐軍は『別にかまわない』の鷹揚な一言だった」

という事件。
音楽という文化的なものに、アメリカ人は決して「排斥の対象」を設けなかった、
という、彼らの民度を証明する一例でした。

もう一つの例が本日タイトルの「最後の軍艦マーチ」です。

昨日、純粋な音楽的観点からはこの曲は世界的に認知されていない、
と「世界三大マーチ」を安易に標榜する向きに苦言を呈してみましたが、
それはあくまでも「音楽そのものの作品的価値」からの異論にすぎません。

音楽とは、時として個々の団体の精神そのものを象徴する「旗」の役目をするわけで、
音楽的に良く出来ているとか有名であるかとは全く関係なく、当事者は勿論、
それがたとえば軍隊の象徴的な曲であれば、たとえかつての敵であっても尊重し、
敬意を払うのが当然である、というのが、世界基準の文明国の考え方なのです。

その規範に照らして言うと、ただ単に自分の聞きかじった乏しい歴史認識と、
政局やら押しつけられた贖罪意識やらからひねり出してきた
「旧軍を思わせるから軍艦禁止」
などという、きっとアメリカ人も呆れかえったであろうみっともない措置を
国家元首が平気でやってのける国は文明国と呼べるのかどうか。

左になびいていれば「ある言論層」(得てして五月蝿い)を黙らせておける、
というような判断であれば、さらにこの政治家の底は推して知るべし。
まあ、皆さんご存じの通りこの人は最後「落選引退」でしたね。

それでは、もう一つの「軍艦マーチとアメリカ軍」のエピソードを
再掲になりますがお送りして終りとします。




昭和20年11月3日。
その日、トラック島のトロモン山の頂には上弦の月が輝き、
満天の星が冴え冴えと瞬いていました。

星空の下、ぼろぼろの楽譜に錆の浮いた譜面台を前に、
彼ら第四艦隊司令部附軍楽隊の隊員は、演奏体形を組み、
米軍、日本軍双方の幕僚のために最後の演奏をせんとしていました。

一年三カ月というもの、掘立小屋に隠されたままだった彼らの楽器は、
今やその主の手に抱かれ、音が奏でられる瞬間を待っています。
艦隊勤務の軍楽隊として派遣されながら、ここトラック島で
いつしか彼らは、小銃と拳銃半々しか武装のない応急の陸戦隊になっていました。
そして終戦。そのまま彼らは捕虜になります。

ある日、米側から捕虜である元軍楽隊に演奏の依頼がありました。。
練習不足と、楽団員を相当数戦闘で失っていたことから、
隊長はそれを辞退しました。

しかし今度は要請というよりむしろ懇願といった態で、
米軍側は再三の演奏依頼をしてきたのでした。

いわく。

「この時期、ベストの演奏が聴けるとは思わない。
お互いに身も心も疲れ果てていることもわかる。
しかしだからこそ生の音楽が聴きたい。
日本のパールハーバーともいうべきトラックで、
日本海軍軍楽隊の最後の生の演奏を聴きたい。
聴かせてほしい」



荒れ地に組んだ演奏会場に、裸電灯がパッと灯りました。
日本軍の原司令官を丁重に先に立てて、米軍の司令官、
続いて幕僚が寄ってきました。
錆びたクリップで留められたぼろ楽譜が風にひっきりなしに震えます。

両国国歌演奏の後、彼らはアメリカの音楽を二曲ほど演奏しました。
すると、米軍司令官が日本語でこう言いました。

「せっかくだが、日本の曲を聴かせてほしい。
アメリカの曲なら国に帰ればいくらでも聴けるのだから」

楽団員はそれに応え「さくらさくら」を演奏しました。

そして「軍艦マーチ」を。

その時です。
楽譜を覗きこんでいた米側の幕僚たちが一斉に立ち上がり、
軍艦マーチに合わせて行進を始めたのです。
右回りに、左回りに、子供のように大きく手を振って・・・。


「ここトラックを守備した日本軍の皆さん。
あなたたちの連日連夜の奮闘ぶりは立派でした。
戦争はお互い祖国のためで、仕方のないことでしたが、
それももう終わりました。
あなたたちは近いうち懐かしい日本に帰れます。

でも内地は大変荒れています。
内地の皆さんにも頑張るように伝えてください。
これからはみんなで力を合わせて、二度と戦争が起きないよう、
世界の平和のために・・・」

きれいな日本語でした。

最後の帝国海軍軍楽隊の演奏する「蛍の光」の演奏に送られ、
米側幕僚たちは、手を振り、
何度も振り返り振りかえりしながら下山していきました。


戦後、軍楽兵としてこの日最後の軍艦マーチを演奏した隊員は、
防衛庁資料室で第四艦隊の日誌を閲覧します。
当然のことながら記録は八月一五日を最後に終わっていました。

日本語で語りかけたあの米軍司令官の名前を知る術もありません。



参考:海軍軍楽隊「花も嵐も・・・」針尾玄三編著 近代消防社刊