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海上自衛隊創設史料室〜海上自衛隊第二術科学校見学

2016-03-07 | 自衛隊

空母「ロナルド・レーガン」見学後、我々の乗ったバスは米軍基地を出て、
渋滞の道を田浦に向かいました。
ここには海上自衛隊第二術科学校があります。

海上自衛隊には第4までの術科学校があり、そのうち1術は江田島にある、
ということはかなり早くから知っていましたが、そもそもそれらが
どのような役割分担なのかはあまり考えずに生きてきました。
(自衛隊に関係ない人なら普通そうですよね)

第1術科学校 江田島 水上艦艇術科教育
第2術科学校 横須賀 機関や語学等の教育
第3術科学校 下総 航空機関連教育
第4術科学校 舞鶴 業務管理や補給等の教育

と、こうやって書き出してみて初めてそうだったんだと知るわけですが(笑)

海軍兵学校は、明治の頃、東京の築地にありました。
しかし、士官教育はすべからく青少年の誘惑がない人里離れた地で行うべし、
ということになり、広島県江田島が選ばれたという経緯があります。

「江田島に行かれたことがある方はご存知でしょうけど、
あそこは今でも誘惑どころか本当に何も!ありません」

我々を案内して展示の説明をしてくれた自衛官はこういって皆を笑わせました。

ここには築地から移転してきた水雷術練習所が明治12年からあり、
明治40年にはそれが海軍水雷学校となりました。
昭和20年、終戦とともに水雷学校は閉校されますが、7年後、
この地で海上保安庁海上警備隊がここ田浦で創設されます。

そう、ここ田浦は海上自衛隊創設の地なんですね。



言ってはなんですが、まるで書き割りのように愛想のない
無機質な建物ばかり、というのがバスで入って行くときに受けた印象です。
海上自衛隊創設の歴史の地というのにこれは一体・・・。 

後から知ったところによると、敷地の一隅に、「歴史保存エリア」として

海上自衛隊発祥乃地記念碑

海軍通信教育発祥記念碑

海軍水雷学校跡の碑

などがまとめて展示してあるのだそうですが、それにしても・・。
江田島はもちろんのこと、舞鶴や横須賀海軍基地のような、
歴史的建造物がないから、というのが理由だとはわかっていますが・・。



ここにまた新しく建物を作る予定のようですね。

構内は石を投げたら当たるくらい(投げませんが)、そこここに
ランニングしている自衛官がいました。
このように集団で走っていたり、一人だったり、二人で仲良くだったり。

定期的に体力測定があるので、自衛官たちは自主的に体を動かすのが
当たり前のこととなっているんですね。

比較的入り口に近いところに、冒頭写真の校舎(っていうの?)があり、
バスから降りて皆中に案内されました。



ロビーに飾ってあった「くらま」模型。
観艦式では旗艦を務めた「くらま」も、もう引退です。



こちら護衛艦「いしかり」。
三井造船玉野で建造された同型艦のない護衛艦で、2007年に退役しました。
調べたら、武井智久現海幕長が1997年から艦長を務めていたそうです。



確か資料室があったのは2階だったと思うのですが、階段を上ると
このペンギンの親子(いや、どっちも成鳥か)がお出迎えしてくれました。

「ロナルド・レーガン」でブロンズのレーガンご本尊を2体拝んできたばかりですが、
大きさだけはこのペンギンも負けていませんでした。
てかこんなもの一体どこに置いてあったんだろう。

この大小のペンギン、砕氷艦「しらせ」にマスコットとして乗り組み、
「しらせ」の除籍後は、「本校に入校」したという歴戦のつわもので、
現在はこうやってここで自衛官募集の仕事をしているというわけです。

小さなペンギンの帽子はここに来てから作ってもらったのでしょう。
南極にあって、彼らは隊員と観測員の心を和ませ
、あるときには
憂さ晴らしの対象として(かどうか知りませんが)無聊を慰めてきました。




専用の設置台まで製作された、南極の石。
昭和基地から600キロ離れたところにあるエンダービーランド。
ここには40億年前に形成された石が露出するのですが、なんと「しらせ」、
これを採取し持ってきて、ここに飾っております。

なんと地球が誕生して間もない頃を知る資料となりうるというのですが、
この岩肌、見ているだけで只者でないオーラが漂っていますね。
これが、地球最古の石か・・・。




さて、またしても一行はふたグループに分かれ、我々は先に

海上自衛隊創設資料室を見学することになりました。

海上自衛隊創設の資料を一堂に展示しているのはここだけで、
なんとなればここは「始まりの地」だからです。

自衛隊創設60周年記念事業の一環として平成24年4月オープンしました。



海軍は終戦とともに消滅しました。
海軍軍人たちは公職追放に遭い、かつての将官ですらつるはしをふるったり、
運転手をして糊口を凌ぎましたが、海軍省の代わりに残された、
旧海軍の復員業務を行う「第2復員省」には、旧海軍軍人が多く配置されました。
この写真に写っているスーツ姿の男性はほとんどが旧海軍軍人です。



もしかしたら、米内光政という海軍軍人がいなければ、海上自衛隊の創設は
また違った形を迎えていたのかもしれません。
終戦時海軍大臣だった米内は、保科善次郎軍務局長を呼び、ここですでに
海軍の再建を要望したのでした。
この時、米内が保科に言ったとされるのは次のようなことでした。

「第一に、連合国側もまさか日本の軍備を永く完全に永く完全に
撤廃させておくとは言わないだろう。陸海軍の再建を考えろ。
海軍の再建に関してはほぼ日露戦争当時の30万トンか」

「第二が、海軍の持っていた技術を日本の復興に役立てる道を講じろ」

「第三が、海軍には随分優秀な人材が集まり、その組織と伝統とは
日本でも最も優れたものの一つであった。
先輩たちがどうやってこの伝統を築き上げたか、それを後世に伝え残して欲しい」


保科軍務局長は米軍に多くの知己を持つ野村吉三郎元海軍大将に
そのことを請願し、快諾を得ています。

以後、海軍再建計画は、旧海軍残務処理機関の中で密かに進行していきました。

保科の右の山本義雄元海軍少将、そして吉田英三元大佐は、その実務を行い、
海軍再建に大きな功績を残した旧軍軍人です。

当初、海軍の再建には100年かかる、という意見もありました。
しかし100年間の間に、旧軍経験者など誰も残らなくなってしまいます。
できるだけそれを短い時間で成し遂げねば・・・・。



新憲法施行の翌年、元山本善雄海軍少将を責任者、吉田元大佐を中心とした
再軍備の研究グループが結成され、海の再建に向けて極秘のうちに研究が始められました。

折しも昭和21年、朝鮮半島でコレラが発生し、このために大量の不法入国者が
海上から日本に入り込む、という事態になりました。
(今現在日本にいる朝鮮系民族の何割かは、この時の不法入国によるものということです)

これを防ぐため、不法入国船舶監視部が設置され、2年後にそれが海上保安庁となります。




そのうち、彼ら旧海軍軍人も予想していなかった事態が起こります。
朝鮮戦争の勃発でした。
GHQは日本に進駐していたアメリカ軍を朝鮮戦争に投入することにしたため、「
その代わりとして、陸上自衛隊の前身、警察予備隊を創設する決定をしました。

写真下は1950年8月、任官して初めての朝礼を行う警察予備隊隊員たちです。




当時、「Y委員会」なるものがありました。

山本、吉田を含む旧海軍軍人、野村が話を通したアメリカ海軍、そして

コーストガードの軍人からなるこの委員会は、極秘で海軍再建のために活動をしていました。
海軍再建の際の表向きの目的は

「米軍貸与のフリゲート艦を全能発揮させること」


この写真はY委員会のメンバーを写した、たった一枚の貴重な写真だそうです。

このメンバーには、すでに創設されていた海保の職員もいましたが、
その後、海上警備隊発足に伴い
総監部が設置された時には、旧海軍と海保の間で
どちらがトップに立つかで激しい人事抗争が起こり、その後も、
課長級人事などにおいて、両者の間で争いが生まれたということです。




海上自衛隊創設に大きな働きをしたビッグネーム。
海軍大将アーレイ・バークについては、すでにお話ししましたね。

元海軍大将であり、開戦時の駐米大使であった野村吉三郎も、
海軍再建のために戦後、その晩年を捧げました。
海上自衛隊の生みの親はだれか、というなら、野村とバークの二人でしょう。
Y委員会は野村が調整し、バークの後押しで生まれたのです。

野村はまず米軍司令官と話をし、(同じ海軍のよしみで)、その後
ダレス特使に資料を提出するという戦略的な道筋をつけました。

一番右はY委員会の写真にも顔が見える(突き当たり左)山崎小五郎。
彼は海軍軍人ではなく官僚出身ですが、初代海幕長となりました。



開戦時の駐米大使であった野村が当時を回顧して残した著書。



昭和24年までにアメリカ海軍の掃海隊は全て引き上げました。
深刻な問題となっていた日本近海に敷設された機雷機雷の処分は
実質日本側が行うことになり、専門知識を有する旧海軍軍人が公職追放を解かれ、
海に復帰して処分業務を実地することになりました。

「海軍は一旦消滅しましたが、掃海隊は、実質解体されていないまま
現在に至っている唯一の部隊なのです」

案内の自衛官がこう言いました。

朝鮮戦争が勃発すると、掃海隊は極秘裏に海外派遣されます。
この時の名称は「海上保安庁特別掃海隊」とされていました。

この写真は、1950年、和泉灘で行われた掃海部隊天覧越艇式のもの。



昭和24年5月23日、下関付近で触雷し沈没する掃海艇。
死傷者を出しての国際貢献活動であったわけですが、極秘である筈のこの作戦の内容は
ソ連や中国から、これらと関係の深い社会党と共産党に提供され、
当時の国会で、このことが吉田茂首相への攻撃材料となっています。




誰がいつ作ったのか、昭和33年当時の第2術科学校。
3月22日、2術は術科学校横須賀分校から改称し、ここに開校となります。



戦後旧海軍の用地は全て米軍に接収されていましたが、米軍が使わないところは
「旧軍港市転換法」により民間が使用していました。
田浦を使用していた民間企業は旧軍と関係の深い会社であったため、
Y委員会が
調整したところ、明け渡しを快諾してくれたということです。



田浦で、内火艇から艦船に乗り込む最初の隊員たち。
晴れやかな笑顔です。



艦船が並ぶ田浦。
これが米軍から貸与されたものなのか、国産のものなのかはわかりませんでした。




「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、
もつて国民の負託にこたえることを・・・・・」

自衛官の「服務の宣誓」が史上初めて行われた瞬間です。
1954年、6月2日、ここ田浦でのことでした。



昭和28年10月15日から12月4日まで、第一船隊群本州周航記念。
「うめ」「くす」「なら」「かし」「さくら」「すぎ」「かや」「まつ」「にれ」

うーんなんたる雑木林。
これが戦後初めて日本がもった「艦隊」(当時は船隊)でした。
指揮官は警備官監補、吉田英三。



現在の海上自衛隊旗を考案したのは米内光政の親戚である米内穂豊画伯でした。
画伯に依頼されたのは旭光をモチーフにした新たな旗でしたが、
提出されたのは帝国海軍の軍艦旗そのもの。

米内画伯いわく、

「旧海軍の軍艦旗は、黄金分割による形状、日章の大きさ、位置、

光線の配合等実に素晴らしいもので、これ以上の図案は考えようがありません。 
それで、旧軍艦旗そのままの寸法で1枚描き上げました。
これがお気に召さなければご辞退いたします。

ご迷惑をおかけして済みませんが、画家の良心が許しませんので」 

最終的な判断は吉田首相に委ねられました。
吉田首相は、

「世界中で、この旗を知らない国はない。
どこの海に在っても日本の艦であることが一目瞭然で誠に結構だ。
旧海軍の良い伝統を受け継いで、海国日本の護りをしっかりやってもらいたい」 

と述べ、この旗を自衛隊のシンボルとすることを決めたそうです。



海上自衛隊創設20周年記念に発売されたアルバム「海の歌声」。
御幸浜で演奏している自衛隊音楽隊の写真がジャケットになっています。



第2術科学校、39年頃の学生のノート。
方位測定の誤差式などが几帳面な字できっちりと書き込まれています。



第2術科学校創設当時の授業風景。
内燃実習やボイラの燃焼ガス測定実習など。



川崎重工が製作したガスタービンエンジン主機。
ずいぶんきれいですが、レプリカは本物か見当もつきません。



警備隊は当初、艦艇の殆どがアメリカから供与されたPFやLSSLで、
旧式艦(つまりお下がり)ばかりでした。
新型艦の必要性に迫られた警備隊は、甲型警備艦(DD)を2隻、
乙型警備艦(DE)を3隻、いずれも国産で調達することにしました。
こうして建造された甲型警備艦がはるかぜ型護衛艦であり、
乙型警備艦としてはいかづち型護衛艦、そしてこの「あけぼの」でした。

「いなづま」と衝突事故を起こしたことを一度ここでも書いたことがあります。

ちなみに、戦後初めて退役し、最初に「廃棄処分」になったのは「あけぼの」です。



女性自衛官等の子育ての支援を目的に、平成22年、海上自衛隊としては初めて、
第二術科学校に託児所が設置されました。全国では3件目となります。
当直や緊急出港などがあっても、24時間365日対応可能な託児所です。 



なぜか資料館内に展示してあった限定チョコクランチ。
購入できるものならしたかったのですが、そもそもここでは
売店に行く時間などは一切なく、涙を飲みました。

一般公開などの機会があればぜひ試してみたいものです。



続く。