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帽振れ〜海上自衛隊幹部候補生学校 部内課程卒業式

2017-02-07 | 自衛隊

表桟橋。

この特別な言葉を毫も思い出さず、「埠頭」「船着場」
などと書いてしまったことを深くおわびします。

海軍兵学校時代から、ここで学んだ者は士官となるために
表桟橋を船出していくものである、つまり兵学校の門は
「裏門」であり、正門があるとすればそれは表桟橋である。

というようなことまで過去書いておきながら・・・。

 

さて、卒業生が敬礼しながら前を通り過ぎて行きました。
彼らは一番最後に、海自組織のトップである海幕長の敬礼を受けます。
そして内火艇(って今は言わないのかな)に乗り込み、そのまま
練習艦に乗り込んで江田島を後にするのです。

ところで、わたしのいた位置は比較的海幕長や海将、
その他ゲストなどに近かったので、列が通り過ぎ、
岸壁まで移動した時にはすでに彼らは乗り込んだ後でした。


卒業生家族は隊列が前を通り過ぎると、我が子の乗船を間近で見るために
一目散に我々が立っている後ろを通り抜けていきます。 

前にいた紳士は自分の後ろに小さい子供のいる家族がいるのに気づくと、
その家族を前に行かせ、
最前列に変わってあげていました。
やっぱりこういうシーンはご家族の方にちゃんと見せてあげたいものですよね。

場所を代わってもらった家族はこの人物が元海幕長だったことに気づいたかな?

 

内火艇が動き出しました。
波のない江田内ですが、直立している候補生達がよろめかないように
内火艇の操舵は細心の注意を払って行われるに違いありません。

岸壁の家族たちは早々と手を振りだしました。

「帽振れ!」

ここで掛け声がかかりました。

彼らを乗せた内火艇が向かうのはこれから乗り込む

「あさゆき」 JS Asayuki, DD-132

です。
「あさゆき」甲板にはSHヘリが搭載されていますね。
ヘリパイロットの候補生が乗艦するのでしょう。

表桟橋は自衛隊関係者以外立ち入り禁止になります。
帝国海軍の兵学校時代以来、この表桟橋で帽振れを行うのは
海軍大将と中将たる兵学校校長と決まっているのです。

 

呉地方総監の祝辞にも名前がでた、草鹿任一中将が在任中の
(昭和16年4月〜17年10月)卒業式において、
草鹿校長が表桟橋で70期の生徒を見送る動画が残されています。
(映画「勝利の礎」)

「帽振れ」を行う草鹿校長の眼は涙で潤んでいました。

70期の生徒たちは遠洋航海実習ではなく、各配置の軍艦等に
そのまま乗り込んだと言われています。


余談ですが、この時のクラスヘッドで恩賜の短剣を受けた
「伝説の天才」
平柳育郎生徒は、砲雷長として乗り組んだ
「文月」で被弾し、その後戦死しました。

当時ラバウルにいた草鹿中将は病院に駆けつけています。

文月砲術長平柳育郎中尉、胸部及腹部貫通銃創ニテ重症
入院後間モナク戦死シ 見舞二行キタル時ニハ
方二火葬場二送ラムトスル間際ナリシガ
拝礼ノ後副官ヲ九三九空二派シ 級友二通知セシム 
佐々木中尉直チニ病院二行キ 他ハ火葬場二集ル可ク信号セシ由ナリ 
彼レ七十期ノ首席トシテ晴レノ卒業式ノ光景 尚ホ記憶二新ナリ 
駆逐隊二於テモ 大ニ司令以下ノ信頼親愛ヲ受ケ居リシ由ナルニ惜ム可シ

 

ちなみに海幕長旗の横の人は江田島市長のようです。
きっとこの方も江田島で生まれ育ったと思うのですが、
島民の憧れであるこの行事に市長となって参加することは、
感無量だったのではないでしょうか。

 
今まで見てきた「帽振れ」はいずれも船の出港の時でしたが、
明らかにそれより長い時間行われています。

海保の帽子も、陸自の帽子も海自の白い帽子に混じって振られています。
練習艦は沖に三隻おり、候補生は表桟橋の両側から内火艇に乗って
それぞれ乗艦して行きます。 

昔もこうやって練習艦「八雲」などに乗り込んで行ったんですねえ・・・。


 

よく見ると、彼らを受け入れる艦の舷に人が整列しています。
午餐会に参加していた練習艦の艦長たちは準備のために
こう言って一足先に退出していきました。

「候補生諸君、船で待ってます」

「帽戻せ」

さて、表桟橋の一番前には、お立ち台があって、ここには
海上幕僚長と幹部学校校長が並んで立つことになっています。

桟橋の街灯の下に赤と緑のランプがあるのにご注目。
ご両人、いずれも黄色いストラップの双眼鏡を首にかけての観閲です。

海幕長「おー、こりゃよく見える・・・ん?」

校長「(あ、海幕長が使い出したから私も)」

校長「おーこれはよく見えますなあ」

海幕長「(・・ピントの調整どうやってするんだっけ)」

ちなみに海幕長も校長も艦艇出身ではありませんので、
今までのお仕事柄、双眼鏡を日常で使うことはあまりなかったはず。 

ということでこの瞬間を見ていたわたしの勝手な妄想です。 

続いて祝賀飛行が行われました。
まずはヘリSHー60K。

練習機 TC-90。

徳島航空基地にある202教育航空隊から飛来しています。

そしてPー3C対潜哨戒機。
こちらは鹿屋からでしょうか。
海自所有の各祝賀部隊には、江田島を候補生として卒業したパイロットが
乗り組んでいるということでした。

「まきなみ」の艦橋を見てください。
発光信号によるメッセージが送られてきています。

表桟橋に立っている海自の人って全員この信号を解読できるものなの?
(絶対にそうではないとわたしは予想) 

信号の発信時間は大変長く、長文でした。
終わったあと、アナウンスで信号で送られたメッセージを読み上げていましたが、
これは前もって知っていたのか、それともその場で信号を解読したのか
果たしてどちらだったのでしょうか。

そして、再び帽振れが始まりました。
「まきなみ」「あさゆき」「しまゆき」が出航です。
彼女らは候補生を乗せて、これから練習航海に出ます。

詳しい寄港先は忘れましたが、確かインドネシアまで行くということでした。

わたしの前にいた男の子はお母さんに言われて手を振っていました。
お父さんの乗った船が帰ってくるのは3月だということです。

 

呉での自衛隊行事でお見かけするアフリカ系の国の軍人さん。
卒業式典で名前を呼ばれた時には、日本語で

「はい、よろしくお願いします」

と返事をしていました。

江田内からは「まきなみ」先頭で出て行くようです。

続いて「あさゆき」。
村川海幕長、熱心に双眼鏡を覗いておられます。

現在舷側に整列しているのは幹部候補生でしょう。

内火艇が出発した時の「帽振れ」には、伝統に倣って

「蛍の光」

が奏楽されました。
海軍兵学校では「ロングサイン」と呼んでいたスコットランド民謡です。
正確には

「ラングサイン」( Auld Lang Syne)=久しき昔

で、Wikipediaの項には

大日本帝国海軍では「告別行進曲」もしくは
「ロングサイン」という題で海軍兵学校の卒業式典曲として使われた。

とあります。
そして、二度目の帽振れ、練習艦隊の出港に演奏された曲は

「錨を上げて 」“Anchors Aweigh”

でした。
アメリカ海軍の公式行進曲にもなっていて、
これだけは海軍兵学校時代にはあり得なかった選曲です。
平和って素晴らしいですね。

他には自衛隊の公式歌、「海をゆく」も演奏されました。 

まず旗艦の「まきなみ」が我々の前で艦首の方向を湾口に変えます。
 

続いて「あさゆき」が運動一旒とでもいうんでしょうか、
「まきなみ」の航跡に続いて行きます。 

続いて「しまゆき」。
こうして見ていると江田内は狭く感じますが、三隻の艦が
このように一列に並ぶのですから、見かけより大きいことがわかります。

海軍時代からこの湾は「江田内」と呼ばれていたようですが、
正式には「江田島湾」で、島をくりぬいたような湾内では
牡蠣の養殖などが行われ、カッターの練習などには絶好で、かつて
海軍が何が何でも兵学校をここに開校したかった理由が窺えます。

「しまゆき」は1999年に練習艦に転籍した元護衛艦で、wikiに

 2013年6月11日夜、関門海峡(下関市六連島沖)で対向してきた
自動車運搬船(2万6,651トン)に接近して衝突の危険があったと報道された。

とあったので、何!とその時の艦長の名前を見ると、昨年女性としては初めて
戦闘艦である「やまぎり」艦長となった防大40期の大谷美穂二佐でした。
大谷二佐の経歴にはこのことは書かれていないようです。 

こういうミスを起こした艦長は普通昇進が止まるものではないか、
などと素人は思うのですが、事故の件も昇進の件も、
所詮外野にはわからない事情があったのかもしれません。

 「しまゆき」が向きを変えてもうすぐ航跡が一直線になります。

わたしとしては、彼女らが江田内を出て行くまで見送りたいところですが、
ここで来賓に対しバス乗車するようにと声がかかりました。 

続く。(ええまだ続くのよ)

 

 

 

 

 


行進〜幹部候補生学校 部内課程卒業式

2017-02-07 | 自衛隊

皆様は海軍兵学校の卒業式で、「行進曲軍艦」の調べに乗せて
在校生と参列者、学校関係者の前を卒業していく少尉候補生たちが
敬礼しながら通り過ぎるシーンを映画などでご覧になったことがあるでしょうか。

以前ここでお話しした映画「海兵四号生徒」や「あゝ海軍」にもありましたし、
兵学校時代の白黒の写真にもその様子が残されています。

海軍の伝統を色濃く残す江田島、という言葉は、今回の卒業式の訓示や祝辞での
挨拶の中でも何度か使われた言葉ですが、江田島の旧海軍兵学校で行われる
第一術科学校の卒業式は、形式において昔のやり方そのままを踏襲しています。

大講堂での式次第に始まり、赤煉瓦から出て来る卒業生が「正面玄関」である
港まで一列になって行進していくのはまさに昔のままなのです。

式の後の午餐会が終われば、いよいよ行進、そして艀に分乗して
練習艦に乗り込むというのがこの日のクライマックスです。

それまでのわずかな時間、来賓はもう一度赤煉瓦の控え室に戻ることになりました。 


普段この入り口は使われることがなく、この日は異例だと聞いています。
ご存知かもしれませんが、ここには扉がありません。

最初に建てられた時から、 ある意図のもとにそうなっているのです。

正面玄関から入ったホールの右手。
大きな姿見があります。

この鏡は昭和の頃に海軍兵学校卒業生の会が贈呈したもので、
反対側の鏡には74期の期数が金文字で刻まれていました。 

ホール左側。
ここにも、廊下の突き当たりにも扉なし。


正面玄関も廊下の出入り口も、開けっ放しのまま。
風が吹けば風が、雨が降れば雨が吹き込んできます。

これには理由があります。

生徒館の建物は横に長いですが、これは兵学校がこれを
フネ(艦)に見立てているからであり、

「どんな気候状態にあっても常に対処できる」つまり、
「海の上でどんな気候にあっても心身が翻弄されない」
対処と心構えを教育機関の段階から身体に叩き込むためです。

なるほど、たとえ入り口から風が吹き込んでも、埃や塵が舞うことなど
床が常日頃からピカピカに磨き上げられていれば、ありえません。

というのは当ブログの過去ログからのコピーです(笑)

普段なら正面玄関から階段を登っていくということはあり得ませんが、
今日は特別なので、バスの到着が一緒になってしまった
自衛隊の偉い人と一緒に階段まで上ってしまったり・・・。

最初の踊り場で右と左の二手に分かれるという昔の形式の階段。
手すりは昔のままで、かつて海軍軍人たちがここで身だしなみを
チェックした鏡は、今でも自衛官たちの点検に使われています。

控え室の前の廊下から中庭に何かの記念樹があるので撮ってみました。
説明の看板足元にまで目立てをしたばかりの箒の跡があります。

拡大して読んで見たら、

日米安全保障条約改定50周年記念

〈平成22年度日米候補生交換見学行事〉

 2010・6・11

とありました。

安保条約改定からもう58年になるんですね・・。
当時安保で戦争になるとか言っていた人って、今息してる?

さて、時間になったので、担当の自衛官が迎えにきてくれ、
マイクロバスに乗り込んで埠頭に向かいました。
実質煉瓦館から歩いても大した距離ではないのですが、
来賓を歩かせるわけにはいかない!という自衛隊の気遣いでしょう。

兵学校の同期会の時に陸奥の砲塔などを見学した時と同じコースで
グラウンドの南側を回っていくようです。

江田内の海に面した古い校舎。
同期会で来た時もすでに使用されなくなって随分経っているようでしたが、
未だに放置されているようです。

わたしは古い建物ならなんでも保存してほしいと思いますが、
歴史的な価値がないと判断されたものは維持費も出ないので、
取り壊しを待っている状態なのかもしれません。

アメリカ人なら、そういう価値とは関係なく、一旦建てたものは
手を加えてずっと使い続けるものですが、日本はねえ・・。

修復するより立て替えた方が安くて早い、とかいう理由なんだったら嫌だなあ。

バスは陸奥の砲塔の前を通り過ぎ、ストップしました。

よく見ると、地面に名札が置かれ、立つ位置が指定されています。
おそるべし自衛隊。
来賓がここに並ぶのに混乱をきたさないように、立つ位置まで・・。

画面右のほうに飾緒をつけた何人かがいますが、
彼らは車でやって来る偉い人たちの副官です。

まさかと思ったら、わたしの立つところにも名札が置かれ、
位置についたらいつの間にか取り除けてありました。

立つ人の邪魔にならないように。
なんどもいうけど、おそるべし自衛隊。 

隊員家族の方々はこのラインの一番左、その右に見送りの自衛官、
来賓、そして自衛隊高級幹部などの順番に並びます。 

わたしはこの場所からお見送りをすることになりました。

軍楽隊・・・じゃなくって、呉音楽隊の位置も、おそらく
昔からここと決まっているのに違いありません。

指揮者はタクトを振り下ろす瞬間を逃すまいと、
ずっとこの姿勢で後ろをうかがっていました。

あー、なんかこの構図、見覚えがあるなあ。
イメージが白黒ではないので、映画のシーンだったかも・・・。

卒業生を見送る立ち位置には、向こうまで足元にラインが引かれていて、
自衛官の立っているところは特にぴしりと美しい直線になっています。 

儀仗隊の服装に身を固めた隊員が持つ海将旗を従えて、
村川海幕長が車から降りてこられました。

カッターのデリックの向こうには練習艦のシルエットが見えます。 

そして、いよいよ行進曲「軍艦」の演奏が始まりました。
それにしてもこの日の天気の良かったこと。

ネタで取り上げましたが、「呉とわたし」の取り合わせには雨が多く、
もし今回わたしのせいで
この晴れの日に雨が降ったらどうしよう、
と内心気にしていたのですが、
さすがにこの旅立ちの日には、
人々の希望とあつい思いが雨雲を遠ざけるようです。 

卒業生が出て来たのは赤煉瓦と白い術科学校校舎の間からでした。
てっきり赤煉瓦から出て来るものと思っていたのですが・・・。 

グラウンドと術科学校の間の砂の道。
ここはまっすぐ船着場へと歩いていけるように、芝がカットされています。
海軍兵学校時代から卒業生たちが行進し、海へと旅立って行った同じ道です。

ふと気づくと、グラウンドの南側を、四人の自衛官が歩いていました。
卒業行進とは全く関係なく移動しているだけなのですが、
四人の足取りは完璧に行進曲と合っていました(笑)

自衛官が何人かで歩くと行進のテンポでいつのまにか歩調が揃っている、
という噂は本当なのだろうなとこれを見て確信しました。

卒業生の列は国旗の前を通り過ぎていきます。

敬礼しつつ、まず家族の前を行く卒業生たち。 

全く列に並んでいない一般人もいるのですが、どういう人たちでしょうか。

左手にはネイビーブルーの卒業証書の筒を持ち、右手で敬礼。

在校生の前をゆく卒業生。
敬礼で見送る列の中に知り合いを見つけて思わず頬が緩みます。

今見送っている在校生は、来月には同じようにここを旅立ってゆく
防衛大卒の候補生たちのはずです。
 

一人一人の目を見ながら通り過ぎることを、卒業生は義務付けられているようです。
ところで、この写真を見てわたしはあることに気がつきました。

制服が違う在校生がいます。(左から二人目も?)
三月には防大と一般大を卒業した候補生の卒業式が行われるのですが、

「その時には留学生もいるので来賓の数は今日より多い」

と聞いたばかりでした。
なるほど、彼がその留学生の一人なのかもしれません。 

卒業生の隊列がいよいよ近づいて来ました。
わたしはこの写真を最後に撮影するのをやめ、カメラを下ろして
拍手でお見送りに専念することにしました。

そしてできるだけ皆の顔をしっかりと見て、激励の気持ちを込めました。

敬礼をしながら歩く卒業生の何人かはほんのりと眼を赤くしています。
ただでさえ「行進する海軍軍人」に滅法弱いわたし、これを見て
ついつい涙腺が決壊しそうになりました。

 

列の最後に歩いて来たのは、三人の女子候補生たちでした。
彼女たちの眼も潤んでいます。

「がんばって」

思わず口をついて出た言葉に、最後尾の候補生は
小さな声で、しかしはっきりと

「はい」

と返事をして前を往き過ぎました。

 

続く。