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幹部候補生学校部内課程卒業式 於江田島・第一術科学校

2017-02-03 | 自衛隊

江田島で行われた部内課程の卒業式についてお話ししています。
ところで前回アップするのを忘れたので控え室の写真を。 

何年か前の大改装の後、室内も完全に改築されてかつてを彷彿とするものは
もう何も残っていませんが、教室の中央に掲げられた

「五省」

一、至誠に悖るなかりしか

一、言行に恥ずるなかりしか

一、氣力に缺くるなかりしか

一、努力に憾みなかりしか

一、不精に亘るなかりしか

という額は昔から変わることがありません。

ところでこれを自分に問いかけた場合、後半に行くに従って
わたしは極端に自信がなくなるわけですが、それはともかく、

ご存知のように、これは海軍時代からの海軍軍人の「クレド」で、
海上自衛隊が今でも受け継いでいる隊員の精神的支柱でもあります。

 

受け継ぐといえば、わたしは先日このような冊子をいただきました。

昨年暮れに、防衛団体の会合で現幹部学校校長の海将補が
兵学校から現在の幹部候補生学校までの江田島の歴史について講話されたのが、
今回わたしが出席をするきっかけになったのですが、この写真集はまさに、
「江田島今昔」というべき海軍時代と現代の接点に焦点を当てています。

これがよくできてるんですよ。

左ページに海軍兵学校時代の写真(真継不二夫氏の作品)、
右側に現在の写真をできるだけ同じ構図で並べて
どのようにその伝統が受け継がれているかが一目瞭然。
 

皆で食事をしている写真と並べて昔と今のメニューが比べられたり、
実習訓練の測距や航空機の前での同じような構図のスナップを並べたり。

「無断転載を禁ず」

とあるので中身をご紹介できないのが残念ですが、
構成の妙で読み物として大変惹きつけられるだけでなく、現在の海自で
伝統の継承がどのように行われているかを知る絶好の資料となっています。

実はこの写真集、2013年に幹部候補生のための教育資料として
当時の幹部学校校長が作成したものなのですが、
卒業式出席に際して、今回特別に数冊いただきました。

せっかくですので、是非欲しいという方、先着3名に差し上げます。
ご希望の方はコメント欄でお申し込みください。

以上事務連絡でした。

 

さて、わたしのように江田島について実際に何度も来ており、
校内の位置関係も知り尽くしていて、見たことはないけれど
どこで何が行われるかもだいたい知識の上で知っている、
というような人間ばかりではございませんので、控え室には
このようなご案内が親切にも用意されています。 

この赤煉瓦生徒間の二階で待機をしていた来客は、1045の式の開始のために
1030から大講堂に移動を始めました。 

赤煉瓦の東側出口から大講堂に移動。
一つのグループにつき自衛官一人が付き添ってくれます。
これ、一人で行ったとしたら一人がエスコートしてくれるんだろうか。 

見学ツァーでは決して立ち入ることのできない階段を上っていきます。
階段の手すりにあしらわれた模様は今の建築では決して見られないもの。

ちなみに傾斜は無茶苦茶急でした。
 

初めて上った大講堂バルコニー部分・・・。
扉のついた壁で仕切られた部分は世が世ならカメラマンなど
決して立ち入ることのできない「貴賓席」でした。
玉座におつきにならない皇族の方々のお席となっていたのです。

戦後、初めてここに来賓として座った平民は、
幹部候補生課程を修了した息子の卒業式に親として出席した 
当時自民党の小沢一郎代議士だったということです。

のちに自衛隊の海外派遣が決まった頃、その息子という人は
自衛隊を退官して、一般の会社に行ってしまいましたとさ。

東側のバルコニーにも少しだけ人がいます。
3列のひな壇式観覧席はこのためにわざわざ設えられたらしく、
一般の来賓は元将官なども含め全員がここに座ることになりました。

席の取り合いで喧嘩にならないように(笑)、席には名札が貼られています。 

我々の右側の角部分には呉音楽隊の演奏場所が。
国民儀礼の国歌斉唱は、生演奏による伴奏で行われました。

式の間、全く譜面を見ないで演奏している隊員もいました。 

船の舵輪の形をあしらった大講堂の照明をこの角度から。
大講堂の壁には和紙が塗り込まれていて、この天井の角度と合間って
大変音の反響がよく、マイクなしで声が全講堂に聞こえます。 

というところでご覧いただくと、マイクやそのためのコードの類が
全くなく、すっきりした空間が保たれているのがわかります。

先人の創意工夫の恩恵を受けて、現在でも海上自衛隊の儀式は
増幅器、音響機器一切なしで行われるのです。 

舞台中央は昔玉座があったところです。
証書を授与する時、校長が玉座に背中を向けてしまいますが、卒業式に
そもそも天皇陛下はご来臨されることはなかったということでしょう。

開始時間少し前に、舞台奥の扉から飾緒をつけた自衛官などが出て来ました。

壇上には江田島市長や陸自の代表、海保の偉い人、
どこかの武官(この方、自衛隊記念日にも来ておられました)と
その奥様(か通訳)、水交会の代表などの来賓が
左奥の控え室から出て来ました。

いよいよ式が始まります。 

まず、卒業生が全員起立。
一糸乱れぬその動きと微動だにせず姿勢を保っているのを見て、
彼らが海曹長まで務めてきたベテランであることを改めて実感します。 

壇上に立つ幹部候補生学校校長、真殿海将補。

見るからに年配な感じの卒業生たちがまず登壇しました。
最初の一人にだけ証書全文が読み上げられます。 

校長が差し出す証書をまず右手、そして左手を回すようにして受け取り、
シャキーン!と左を向いてこの後証書をたたみ、片手に持って段を降ります。

一人が進むと皆が同時にざっ!と一歩進む様子が見事。
何人かが証書を受け取り終わると、また次の列が登壇のため一斉に並び、
それがなんども繰り返されます。 

壇上右手には、村川海幕長(一番向こう)、池呉地方総監、
そして術科学校長と一佐クラスの自衛官が式を見守ります。 

証書を受け取る時の所作など、卒業生は事前にちゃんと練習を行うのだとか。
そういえば、わたしたちも卒業式の練習はかなり入念に行いましたよね。 

うちの小学校は卒業生と在校生がオラトリオ形式で歌を交わすという伝統があり、
そのため随分前からリハーサルが繰り返されたものです。
ちなみに入場の時の音楽はワーグナーの「トロヴァトーレ」の
「鍛冶屋の合唱」だったのですがこの選曲はどうも・・・・解せぬ(笑)

女性の卒業生一人め。
防衛大学校や一般大卒の女子学生は増えているようですが、
海曹長までいって任官する女性隊員は珍しいように思います。 

柱の向こうの二人は、名簿を見ながら卒業生の名前を読み上げる係。
卒業生にとっては一生に一度のことですから絶対に間違いは許されません。
二人で交互に読み上げていたのか、一人がチェック係なのかは確認しませんでした。

壇上で名前を呼ばれた卒業生はその場で「はい!」と返事をし、
そののち校長の前に進んで正面を向きます。 

女性卒業生二人め。 

つまり全部で女子は三人です。 

そして、昔ならば「恩賜の短剣」授与であったところの
成績優秀者トップ5に対する賞状授与が行われました。

わたしはこの授与で、海軍兵学校の短剣授与と全く同じように
行われている部分を発見して感動してしまいました。

これです。

賞状を授与された者は、そのまま階段を後ろ向きに降りていくのですが、
これこそが、恩賜の短剣を受け取った後短剣を捧げ持ち、
後ろに向かって歩いていくのと全く同じ作法です。

江田島の旧兵学校校舎が戦後占領軍の駐留時期を経て
日本に返還され、昭和29年に海上自衛隊が発足してから
2年後の昭和31年、術科学校が横須賀から移転して来ました。

その時にはまだ旧軍時代を知る者、兵学校を卒業した者が数多くいて、
術科学校の卒業式には海軍兵学校のやり方を再現することが
誰いうとなく決まっていったのに違いありません。 

証書授与の間中呉音楽隊が演奏を続けていたのは、昔の通り、
ゲオルグ・フレデリック・ヘンデルのオラトリオ、「マカベウスのユダ」より、

「見よ、勇者は帰る」


大講堂の落成が成った1917年(大正6年)以来、
江田島を巣立っていく幾多の若き海軍軍人の名前を乗せて
この同じ旋律がこの同じ空間で演奏されてきました。

窓から差し込む早春の(この日は春並みに暖かい日だった)光に満ちた
明るく、しかし厳粛さを湛えた空気のうちに繰り返される調べを聴きながら、
わたしはしばし、この場所に幾度も巡りきた季節に思いを馳せるのでした。

 

続く。

 

 

 

 


呉の街と赤煉瓦生徒館〜第一術科学校幹部候補生卒業式

2017-02-03 | 自衛隊

海軍に興味を持ち出したと同時に、海軍兵学校の伝統を
海上自衛隊幹部候補生学校が色濃く継承していることを知り、
わたしはそれを確かめるために何度も江田島に足を運んできました。


戦史で名前を知った海軍軍人たちが若かりし日に駆け上がった階段、
海軍体操を行ったグラウンド、そこで過ごした赤煉瓦の生徒館。

奇跡のようにかつての建物がそのままの形で残され、故に、
在りし日の
その空気をまざまざと思い浮かべることができる場所が
戦後の日本に存在していたことに、わたしはどれほど感謝したことか。

そして、現在の海上自衛隊幹部候補生学校が、兵学校の頃の伝統のままに
行なっているという卒業式を是非一度見てみたいものだと思っていました。

それがついにそれが叶う日が来たのです。

 

昔は兵学校で、中学校を卒業した生徒が4年(大戦末期には3年) を
過ごして卒業したここ広島県江田島。
現在では防衛大学校や一般大を
卒業してきた後、
数ヶ月から1年にわたって専門訓練を受ける場所になっています。

現在の自衛隊の組織では、防大や一般大出身ではない隊員が
「部内課程」と言って、ここで訓練を受けたのち、幹部に進級するのですが、
わたしが今回出席させていただいたのはこの部内選抜の学生の卒業式です。

 

広島空港は不便なので、新幹線で行ってもほぼ時間が同じ、
という噂もありますが、今回もわたしは飛行機で前日に呉入りしました。

江田島で行事があると呉のホテルは満室になってしまうようで、
わたしも大変苦労したのですが、結局カード会社のデスクにお願いして
なんとか部屋を確保することができました。

行きのANAで軽食が出たのでいだだきました。
こうして写真に撮ると大きく見えますが、実はサンドイッチも
4センチ角くらいの可愛らしいものです。

普通席を予約したのですが、空きがあったのか、
何も言わないのにプレミアムシートにチェンジされていました。



呉在住の知人と食事をすることになったので、ホテルを出たら
道の向かいに居酒屋「利根」がありました。
もちろんここでは「とねカレー」が食べられるはずです。

帰りに中をのぞいてみたら、カウンターにスーツの男性が一人座っていました。

夜になってから呉の街を徒歩で移動したのは初めてです。
で、思ったのですが、本当に何もありません。


お店もなければ人もいない。
たまに人が歩いていますが、妙に早足なのと姿勢がいいので自衛官だとわかります。
商店街は空き家も多く、早く閉めてしまう。
活気を感じさせるのがコンビニくらいという有様で、
線路脇にあった「五十六」の看板と光がどれだけ華やいでいたか。

知人と会うことになったとき

「利根でもいいけど居酒屋はタバコがちょっと・・」

というと、ここを指定してきたのですが、ここも別に禁煙ではありません。
彼女にどんな感じの店?と聞くと

「小洒落た感じ」

いやまあ確かに二号店で新しく綺麗で居心地は良かったけど。
・・・・小洒落たの定義が多分地方によっては違うんだろうな。

東郷さんがイギリス留学の時に好きだったビーフシチューを食べたくて
海軍で無理やり再現させたものが肉じゃがの発祥らしいですが、
ここには当時海軍の賄いが頑張ってリクエストに答えようとした
そのビーフシチューもどきをオマージュする一品があります。

みりんと醤油で作るとまんま肉じゃがになってしまうので、
さすがにここではドミグラスソースを使っているようですが。
肉が固めなのも再現ポイントかも。
シチューというよりスープみたいな感じですが美味でした。

ここのメニューで気に入ったのが豆腐にクリームチーズを混入させ、
なぜかウニを乗っけたチーズどうふ。

チーズを加えた豆腐に絡むウニの味が
なんとも言えない一味を加えて大人の味でした。
甘いものの嫌いな人のデザートって感じ。 



写真を撮りそこないましたが、ここの「さざなみカレー」もいただきました。
先日たまたまカレーグランプリの話題の時に
「五十六さざなみカレー」という名前に突っ込んだのは実に奇遇です。
何も言わなくてもカレーのスタンプが出てきました。

「集めたくても全部制覇なんてよっぽどその気にならないと無理なんですよ」

と知人は言っていましたが、広島市在住の別の知人は、このスタンプラリー、
もう一巡して二巡目にかかっています。
仕事で呉に来るたびにカレーを食べるんだとか。

呉在住の人よりよその人(呉リピーター)の方が熱心かもしれません。

明けて次の日、トランクをホテルに預けてフェリーターミナルへ。
港内をクルーズして自衛艦を見て回る遊覧船のツァーも
ここから出発するようです。

いつか機会があったら参加しようと思いながら現在に至る。

フェリーのチケットは一人390円。
1時間に1本くらいの間隔で運行しています。
同じフェリーに乗り込む人のほとんどは卒業式参加の
来賓の人々で、退官した元将な人たちの姿もちらほら。

フェリーに乗った途端、港を行き交う自衛艦が気になります。
昔江田島に行くためにこの船に乗った時には何も目に入らなかったのに。

支援船のタグボートが2隻どこかに出動するようです。
このタイプは260トンあります。

「大和のふるさと」の沖に浮かんでいたポンツーンには
どう見ても船の底部分であろうと思われる部品が積んであります。
向こうにはバラックのようなものも見えますが、これはなんでしょうか。

輸送艦「おおすみ」はいつもの場所に。

「やまゆき」「あぶくま」 などの護衛艦。
「やまゆき」は今練習艦となっています。

艦番号422「とわだ」。補給艦です。

2013年のフィリピンへの災害派遣では輸送艦「おおすみ」と
護衛艦「いせ」への給油などを担当し、レイテ湾では救援物資輸送や
医療、防疫活動を実施して帰ってきました。

灯台だけがある小さな島。
まるでろうそくが一つ立ったケーキみたいです。
昔はここも灯台守が守っていたのでしょうか。

 

小用の港がすぐに近づいてきました。
出港から到着までわずか20分です。

タクシーで学校の前に到着。
門を入ってすぐのところに参列者の受付テーブルがあり、
名前の書いたリボンをWAVEさんが服につけてくれました。
そのあとは来客係に配置された自衛官がエスコートしてくれます。

あらあら、すでに何かが始まりそうな気配。
卒業生の家族の方々はすでに1本前のフェリーで到着していたようです。
音楽隊と儀仗隊が整列しているということは・・・・。

 

そのとき後ろから桜を4つつけた黒塗りの車が追い越して行きました。
同行の自衛官が立ち止まったのでわたしたちも車を見送ると、
車内では村川新海幕長が敬礼をしておられました。

車から降りた村川海幕長が式台の上で敬礼。

音楽隊が「観閲の譜」を奏楽する中、観閲を行う海幕長。
これが村川海将が初めて行う江田島での観閲に違いありません。

観閲が終了して最後に敬礼。

わたしと連れの方が立ち止まって見ているので、案内の自衛官は
一連の儀礼が終了するまでそこで待ってくれました。
そのあとは赤煉瓦の控え室に案内されました。

一般の見学ではもちろん、兵学校の卒業生と一緒に訪れた時も
赤煉瓦の中に入ることはできませんでした。
なので、一生見ることはないと諦めていたこの二階部分に案内され、
しかも控え室としてかつて教場であった部屋に入れてもらっただけで
夢でも見ているような気持ちです。

部屋のドアにはここを控え室にする来賓の名前が貼り出されています。
実は最初この隣の部屋に案内されたのですが、しばらくしてから
アテンドしてくれた自衛官がやってきて、

「すみません。お二人をご案内する部屋を間違えました」

まあそういうこともあるでしょう。 

部屋の窓から見る術科学校のグラウンド。
観閲を見ていた家族の方々は今から講堂に移動するようです。

赤煉瓦の正面から見るとちょうど裏側の廊下の天井。

天井に下がるペンダント式の照明器具のシェードには
6角のすべての面に錨のマークが入れられています。

壁面にあった謎の鋲。
この形状は間違いなく創建当時のものに違いありません。
生徒館は何年か前に耐震工事を兼ねてリニューアルしていますが、
換装する部分は最小限で、表に見えるものはできるだけ元のものを使っています。 

兵学校時代の写真には、この同じ形の帽子掛けが写っています。
もちろん全く同じものではないでしょうが、時代が移り変わっても
スチールパイプ製のものなんぞに変えないその見識が嬉しいですね。

廊下の突き当たりの窓を通して見る緑もおそらく明治以来
全く変わることはなく・・・。

ちなみに、各室のドアなどは改装の際取り替えられています。

二階の各部屋に来賓は分散して入り、海幕長や海将は
ここをまっすぐ行った正面階段の前の部屋に控えています。 

煉瓦の建物は改築しましたが、こちらはおそらく手付かず。
壁のペンキは随分剥離してしまっています。

 

さて、わたしたちが控え室で15分ほど過ごしている間に、
卒業式の行われる大講堂では卒業生を始め卒業生家族など
人入れが行われていたようです。

わたしたちは式が始まる直前に再び案内されて大講堂に入って行きました。

 

続く。