サンフランシスコはゴールデンゲートブリッジの袂にあるフォートポイント。
前回からサンフランシスコ防衛の最重要地であった要塞についてお話ししています。
前回にも書いたように、フォートには「出撃路」と呼ばれる出入口が一つしかありません。
「出撃」だけで帰還はスルーしているあたり、いかにも要塞です。
その出撃路の扉らしきものが内部に飾ってありました。
経年劣化したものを70年代から80年代の階層の際に取り替えたのでしょう。
扉の表面は補強のために鋲が無数に穿たれています。
これが要塞の図です。
海に面した三面に砲台が張り巡らされ、
陸側となる画面下部分にこの出撃路があると御考えください。
かつてはこの陸側部分に兵舎など居住区がありました。
現在はかつての姿を再現したり、資料を展示する部屋に使われています。
要塞が健在だった頃の武器関係のものが実物展示されています。
左【実弾】「ソリッドショット」Solid Shotとされています。
砲郭から海上の敵船を狙ったもので、熟練の砲手は、
海面や地面をバウンドさせて目標に当てることができました。
中【キャニスター】鉄球とおがくずが詰められたブリキのシリンダーです。
筒の一方は木製のプラグで留められ、反対側は折りたたんで密封されました。
右【摩擦火管】(フリクション・プライマー)
大砲のベントに発砲時挿入することで、火薬のカートリッジに点火するものです。
【グレープ・ショット】
以前「コンスティチューション」の武器についてお話しした時に
この名前の砲弾について書いたことがありますが、
もともと帆走軍艦の索具類破壊と人員殺傷を目的に考案された武器です。
左の縦型グレープショットは9個の鉄球を内臓しており、
着弾と同時にこれらが飛散してダメージを与えます。
コロンビヤード砲やロッドマン砲の砲弾より大きな気がします。
「フィリングルーム」というのは、砲弾に火薬を仕込む部屋。
それらの作業に使われた道具が展示してあります。
弾倉で火薬を装填するために運ぶツールなどです。
丸い砲弾は動かないよう台座に乗せて、オカモチのような
取っ手付きのケースに入れて一つずつ運搬します。
火薬の樽は4階建てのラックに積んでいます。
樽の重さは相当なものになったと思うのですが、一番上の段のものを
どうやって降ろしたのか、気になります。
倉庫の鍵は司令官のポストにある者が管理をしていました。
ここでの仕事は基本士官が受け持ち、有能な下士官がその下で仕事を支えました。
軍曹クラスの任務は、倉庫の重点やヒューズの調達などです。
弾薬庫で最も重要なことは一にも二にも換気。
通気性がよく、湿度が少なく、清潔であることが求められました。
サンフランシスコ湾沿いに建っている要塞ながら、
サンフランシスコの特性として年中気温が低くて温度差が少なく、
空気が湿気ることはまずありません。
弾薬庫で仕事が行われている様子を描いたものです。
高いとことに立って偉そうにしているのが士官ですね。
少しわかりにくいですが、庫内はもうもうと煙っています。
弾薬庫はいわば要塞の心臓部とでもいうべき場所でした。
セキュリティも安全管理も厳密に行われなくてはいけません。
不注意による火花の発火、敵の「ホットショット」(熱した砲弾)を受けようものなら
要塞全体の破壊につながります。
そこで、重量があり燃えにくい樫の木が扉や窓に使われ、
通路と弾薬庫を隔てる通路は二重構造の壁になっていました。
弾薬庫は三箇所に分散させ、さらにそれぞれを6つの区画に分け、
リスク分散をした上でそれぞれを厳重に施錠して管理しました。
ここにある飛翔体の正体はわかりませんが、横の説明には
「キャノンボールからミサイルへ」
として、
「長年の間に、古今東西の軍の指導者たちはより強力な武器を創造しようと苦心を重ねてきました。
石の球が鉄球になり、そのパワーを強大にするために工夫が凝らされ、
その結果ぶどう弾やキャニスター、ホットショット、バーショット、
そしてチェーンショットなどが生み出されました。
同時に火薬にも開発が加えられ、それに従って破壊力が増してきます。
1880年代の後半、サンフランシスコの防衛は、それまでの先込め式、
(マズルローディング、前装式という)からここにあるような巨大な砲弾、
25マイルの飛翔距離を保つものに置き換わってきます。
それらの砲台は鉄筋コンクリート性でサンフランシスコの丘陵を生かして設置されました。
(去年お伝えしたこの地域に点在する砲台の数々です)
好ましからざる訪問者が湾内に侵入してきたときに1発お見舞いする、
という当初の目的でしたが、48年間何も起こらなかったので、
1946年にここを防衛するサービスは廃止されました。
1959年1月、カリフォルニアのフォートバリーに、陸軍の対空部隊が駐留し、
1974年にはナイキミサイルがアメリカの対空防衛に採用されるようになりました。」
と書いてありました。
フォートポイントを建造した業者の紹介もされていました。
右下のおじさんが CEOのナグリー氏である模様。
建築にあたっては、現地で調達できる建設資材が限られていたため、
中国など遠方から材料となる花崗岩を輸入することになり、
約800万個ものレンガは要塞の建設現場にほど近い工場で制作されました。
しかし、工事の終了と同時に、フォート・ポイントは改修作業が必要になります。
その理由は、南北戦争の東海岸での戦いにおいて、 石造要塞は
新型の施条砲での攻撃を防ぎきれないことが証明されてしまったのです。
1870年代以降には、南東部の急崖に位置するバッテリー・イースト防塁が、
要塞の岬先端部での防御力増強を担いました。
当時ここに勤務していた兵士の軍服と国旗、カリフォルニアの旗がなぜか。
今は絶滅してしまったアメリカングリズリーがあしらわれた
カリフォルニア州旗は、南北戦争の頃にはまだなく、
制定されたのは熊が絶滅した頃とされる1911年のことです。
兵士たちが私物を入れていたチェストには、制服やノート、歯ブラシなどが納めてあります。
「兵士の給料」とあるのは、南北戦争の1861年頃、
兵士がどういう手当をもらっていたかが示されています。
戦争前には例えば月13ドルの給料が戦時中は16ドルまで上がり、
戦争が終わるとまた13ドルに戻されたりしたそうです。
例えばある兵士の実際の天引きの内訳は、
洗濯代 1ドル
食費 3ドル
タバコファンド1ドル
弾丸紛失 50セント
装備紛失 50セント
軍法廷罰金 12セント
家族控除 12セント
装備紛失 2ドル56セント
床屋 50セント 洋服屋 50セント
などなど。
軍法廷の罰金が12セントって、何をやったんだこの人は・・・。
肩にモールがついたなかなか立派な制服ですが、士官ではなく
下士官ではないかと思われます。
生活の場でもあったフォート・ポイントでの憩いのひととき。
膝にボードを置いてチェスに興じています。
弾薬庫を出ると、螺旋式の階段で上に上るようになっています。
弾薬庫は階段の近くに作られ、宿舎である二階と三階からすぐに
駆けつけられるようになっていました。
ご覧になればお分かりかと思いますが、この階段ものすごく怖いです。
手すりはありませんし、段が護衛艦の中並みに小さいので、
降りるときにはそろそろと壁伝いに歩きました。
砲郭の内部、ここから砲口を突き出します。
要塞として使われていた頃には、砲口口は蝶番のある扉を開け閉めしましたが、
その後レンガとセメントで塞がれていたようです。
真ん中に穴が空いているのは経年劣化で剥落してしまったのでしょう。
そこからカメラを持った手を突き出して外部を撮影してみました。
なんと、びっくり!外側は自然の岩に囲まれています。
もしかしたら、砲口を出すために岩を削ったのかもしれません。
海上の船舶からもし要塞を武器で狙ったとしても、自然の岩が
シールドとなるように作られたということでしょうか。
今ではゴールデンゲートブリッジの橋脚がその前に立ちふさがっています。
この砂浜にはよほど物好きでもない限りやってくる人はいないだろう、
と思ったのですが、手前の砂浜には足跡がありますね。
カモメのいい休憩場所らしく、雛がいます。
二階に上がり、回廊をもう一度砲郭の並んだ方向に歩いて行くと、
火薬庫やその上の士官居室の窓が並んでいます。
この棟だけに居住区があり、二階は士官、三階が下士官兵の居住区となっていました。
さらに進んで行くと、建物の角部分にこのようなものが・・・。
なんの説明もありませんでしたが、これは明らかにトイレの跡。
トイレの遺跡です。
個室はもちろん、全く部屋として仕切られてもいないわけですが、
二階にあるということはこれでも士官用だったのでしょう。
外部の一般人が決して入ってこない上、サンフランシスコは
年じゅう寒いといっても雪が降ったり凍えることはないので、
こんなトイレでも大丈夫だったようです。
続く。