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大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜横須賀帰国

2018-02-22 | 海軍

さて、しばらくお休みをいただいていた練習艦隊シリーズ、
再開です。

大正13年度帝国海軍練習艦隊はいよいよ帰国の途に向かいました。

大正13年7月24日に兵学校を卒業し、国内巡航に出航したのち、
11月10日、遠洋航海に向けて横須賀を出航した練習艦隊、
帰ってきたのはいつだと思います?

4月4日ですよ。
つまりこの時代の遠洋航海は9ヶ月弱だったということなのです。
海外の遠洋航海が5ヶ月であったことを考えると、長かったのは
江田島を出てから遠洋航海に行くまでの国内巡航だったことがわかります。
当時は日本であった満州や朝鮮半島にも行っていれば、時間もかかりますよね。


■ 南洋

(ホノルルよりヤルートまで
航程 2243哩  航走 9日23時)

南洋と椰子。椰子の果実水と脚気。自然の力。

なんかひとつ腑に落ちない言葉が混じってるけど気のせいかな?


 

■ ヤルート

(自 3月14日 至 3月15日)

絢爛たる物質文明の影はホノルルを以って終わり、3月14日
艦隊は我委任統治の最初の島ヤルート島ジャボールに投錨した。

初めて見た南洋、それは候補生には人文地文の上に於いて
大に裨益(ひえき、助けになる)する所があった。

ヤルート島は流石マーシャル諸島の都だけあって
土人の服装等は中々立派な物である。

この頃別に土人という言葉に軽蔑的な意味は含まれていなかったので、
普通に地元の人、くらいの意味で土人を連発しています。

「土の人」=「現地人」

どこが悪いのかと思いますよね。

彼らが「立派な服装をしている」と感心した彼らの服装は、
ちょっと洋装風なのが日本人にはしゃれて見えたのかもしれません。

ヤルートは今「ジャルート環礁」といい、戦後はアメリカ統治を経て
1986年に独立したマーシャル諸島の一部となりました。

続いてはやはり日本統治下にあったトラック島に移動。
艦隊航行中、「恒例検閲」という観閲が行われていたようです。
艦隊司令百武中将が艦内の下士官兵を閲兵して歩く儀式です。

規律を維持し緊張を保つ意味で頻繁に行われていたのだと推察されます。

写真最前列の真ん中が練習艦隊司令官百武中将です。

■ トラック

(ヤルートよりトラックまで
航程 1084哩 航走 4日23時)

(自 3月20日 至 3月29日)

トラック諸島には春夏秋冬の四大島と七曜島其の他
十数の小島から成り、サンゴ礁が之を囲繞(いにょう・巡らす)して
天然の防波堤を作っておる中々良い港である。

此処には二十日から二十五日迄五日間おった。
此の間恒例検閲、石炭搭載、水中爆破、陸上見学等があった。
又島の学校の運動会、余興の土人の踊りも見た。
そして支庁の「ベランダー」に幾度涼みに行ったことであろう。

トラックの「土人の踊り」を皆で見学。

案外近代的でスマートな形のカヌーですね。
バランスを取るための仕掛けがアバンギャルドでなかなか面白い。

トラック島はよほど暑かったと見え、候補生たちはなんどもトラック支庁の
風通しのいいベランダに涼を求めて立ち寄ったということです。

トラック島は西太平洋、カロリン諸島に位置する島で、今では
そのあたりの島を含めてチューク諸島と名前を変えています。

「日本の真珠湾」と呼ばれるくらい、そこは帝国海軍の一大拠点となっていました。
1944年2月には大規模な米軍の空襲を受け、壊滅しました。

この時逃げ遅れた船は全て撃沈されていますが、ただ一隻の例外は、
座礁しながらも沈まず助かった「宗谷」でした。

 

トラック諸島を出航し、練習艦隊はサイパンに到着しました。

行き先はどうでも、最後にはこれら委任統治されている島に立ち寄るのが
当時の帝国海軍練習艦隊のおきまりのコースだったようです。

■ サイパン

(トラックよりサイパンまで
航程 615哩  航走 2日17時)

(3月28日 午前8時着 同日午後7時発)

朝8時に到着して、夜7時には島を後にしています。

 

サイパン島は小笠原の南方750マイルの処にある、
土人の家、殊に「チャムロ」族の住み家などは内地人のそれより立派だ。
甘藷栽培は今後益々有望である。

 

滞在時間が11時間だったということは、おそらくこの写真もスナップではなく
現地で売られていた「イメージフォト」の類ではないでしょうか。

「チャムロ族の娘」と説明がありますが、チャモロはグアムの先住民です。
旅行に行った時に現地のフィリピン人ホテルマンが言っていたところによると、
政府に保護されているので働かずに太ってばかり、ということです。
(未確認情報ですので念のため)

こちらはカナカ族の夫婦の正装。

そういえば映画「さらばラバウル」では、平田昭彦演じる若い士官搭乗員が
日本人の経営する飲み屋で働くカナカ族の娘と熱い恋をする、
という設定でしたが、この映画について書いたとき、

「カナカ人の娘は・・・ないんじゃないかな」

と否定してみました。
いくらなんでも当時の兵学校出士官ですからねえ。

「土人」と呼んでいる人との結婚は流石にハナから考えないと思うの。

しかもこれを見る限り子供も大人も完全に「裸族」ですから。

この写真も11時間の間にどこかに滞在して撮影されたものでしょうか。
どうもチャモロ人とカナカ族では随分生活レベルが違ったようです。

■ 小笠原

(サイパンより小笠原まで 
航程 750哩 航走 3日14時)

(4月1日午前8時着 同 午後5時発)

小笠原に上陸して警察署の表札を見ると

京橋区築地警察署 小笠原分署 

と書いてある。なんとなく内地に帰った気分になった。
たった半日の滞在に、砲台、捕鯨会社、正覚坊の池、
帰化人村などを見学した。

さすが帝国海軍、どこまでも前向きでアクティブです。
この「正覚坊」というのは地名だと思っていたらそうではなく、
この写真にも写っているアオウミガメの別名なんだそうです。

絶滅危惧種なので、ほぼどの国でも法令でその捕獲禁止がうたわれていますが、
現在もなお、かなりの数が世界中で捕獲され続けています。
小笠原諸島では、今でも父島および母島において食用目的のウミガメ漁が認められており、
ただし年に135頭の捕獲制限が設けられているのだとか。
近年人工孵化と稚ガメの放流が行われており、生息数は安定してきているそうです。

「南洋の産物、清涼品」とありますが、バナナ、パイナップル、
ヤシの実にマンゴーといったところで、この頃は珍しかったのでしょう。

鯨見物とありますが、捕鯨会社でとれとれのクジラの解体を見学したようです。
見物している候補生や水兵さんが心持ちドン引きしているような・・・。

鯨を捌く様子など当時の日本でも滅多に見られるものではなかったでしょう。

■ 横須賀寄港

(小笠原より横須賀まで
航程519哩 航走 2日15時)

大正14年4月4日午前8時横須賀に入港し、ついに
146日2万416哩の外国航海を無事に成し遂げたのである。

 

到着です。お疲れ様でした〜!

というわけで最後のページにはこのようにあります。

四月八日、九日両日にわたり 畏も摂政殿下より拝謁を賜り
建安府拝観を差許されぬ 

ちなみに、この練習艦隊司令官を務めた百武三郎中将は、
拝謁と「建安府拝観」6日後に佐世保鎮守府長官に就任しています。

さらにいうと、この練習艦隊に参加した「出雲」は、到着後の5月、
秩父宮雍仁親王イギリス留学のため香港まで殿下のご座乗の栄誉を賜りました。


最終回に続く。