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オヘア少佐とF4Fワイルドキャット〜シカゴ・オヘア国際空港展示

2018-04-13 | 飛行家列伝

今回のアメリカ行きでトランジットを行なったのは、シカゴのオヘア空港です。
何しろ最終目的地の空港への便が少ないことから、前人未到、
空港で6時間という、アトランタで予定便に乗れなかった時以来の
待ち時間を経験することになってしまいました。

どんなラウンジで過ごすかは、待ち時間の快適さを左右する要素です。
オヘア空港にはユナイテッドのプレミアムクラス用「ポラリスラウンジ」があり、
そこでなら6時間も苦ではないだろうと思ったのですが、残念なことに、
乗り継ぎを行う便はシートにクラス差がないという共産主義的な機体しかなく、
ラウンジの門番(怖いおじさん)に

「これから乗る便のクラスがプレミアムでないとダメ!しっしっ」(脚色してます)

と追い返されてしまいました。

「く、悔しい〜〜」

涙を飲んで普通ラウンジで行きのトランジットをやり過ごした我々は、
帰りにちゃんとポラリスラウンジへのリベンジを果たしましたとさ。

確かに、席に着いたら注文したメニューが食べられるレストランがあるとか、
トイレが一つ一つ個室になっているとか、設備はまあそれなりでしたが・・。

アメリカにしては出ている料理がちょっと気が利いているという程度。
しっしっされた恨み抜きで言っても正直期待したほどではありませんでした。

 

ところで、この時ポラリスラウンジの場所をチェックしていて、
この第一ターミナルに
オヘア空港の名前となったパイロット、

エドワード・ブッチ・オヘア( Edward Butch O'hare)1914ー1943

のメモリアル展示があることを知りました。

エドワード・”ブッチ”・オヘア海軍少佐が愛機にしていたF4Fワイルドキャットが
空港ターミナルの検査場(右側)の横に展示されているのです。

現地で実物を見るとそれほどとは思いませんが、こうやって写真に撮ると
戦時中の白黒写真で覚えのあるずんぐりした躯体がやっぱりワイルドキャットです。

アメリカの空港は地名である通称名以外に人物の名前をつけることがあり、
ケネディ空港、ハワイのダニエル・ケン・イノウエ空港、ジョン・ウェイン空港、
ルイ・アームストロング空港(ニューオーリンズ)、ダレス空港、
サンノゼのノーマン・ミネタ空港などがよく知られた人名空港です。

ちなみに世界にはサビハ・ギョクチェン(女流飛行家)空港(トルコ)、
フレデリック・ショパン空港(ワルシャワ)、レオナルド・ダ・ビンチ空港
アントニオ・カルロス・ジョビン空港(リオ)、チンギス・ハーン空港(モンゴル)
ニコラ・テスラ空港(セルビア)などが有名なところとしてあり、
最近ではついに我が日本にも、

高知龍馬空港

が誕生しました。


エドワード・”ブッチ”・オヘア少佐の父親エドワードは弁護士でした。
シカゴでアル・カポネの一味として随分と際どいことをやって財をなし、
ドッグレースの支配人などをやっていた一筋縄ではいかない人物でしたが、
その一面、飛行機に大変な愛着と憧れを持っていたと言われます。

エドワードの夢は息子のエドワードを海軍の士官パイロットにすることでしたが、
当時のアナポリス入学には国会議員の推薦が必要だったというくらいで、
ましてやギャングのビジネスパートナーの息子ではとても入学は不可能でした。

そこで彼は、まずギャング仲間の脱税を当局に密告します。
さらに、アル・カポネが裁判で陪審員を買収していることを暴き、通報。
つまり息子の兵学校への入学と引き換えに仲間を売ったのです。

カポネが牢屋に入って2年後、息子のブッチはアナポリスに入学しました。

しかし、組織は裏切り者を許しませんでした。
ブッチ・エドワードが、何者かに銃撃され父親が死亡したという知らせを聞いたのは
彼が兵学校を卒業し、飛行訓練を行なっている時だったといわれています。

その後彼は優れたパイロットとなり、「サッチ・ウィーブ」の開発者、
ジョン・サッチの飛行隊に配属され、サッチと共に
そのマニューバの開発を行なっています。(右側がサッチ少佐)

彼の技量によってグラマンF4Fワイルドキャットは、

「ジャパニーズ・”ゼロ”・ファイター」に対し、速さにおいても
その駆動性についても優位に立つことが可能に
(現地の英文を直訳)

なったといわれます。

これは、とりもなおさず、それまでのアメリカ海軍飛行隊が
零式艦上戦闘機に圧倒されていたということを表しているわけですが、
それはともかく(笑)彼はアメリカ海軍最初の「トップガン」だったのです。

向こうがオヘア、手前のF-1がサッチです。
「レキシントン」艦載機部隊時代。

ハワイ上空を飛行するサッチとオヘアのワイルドキャット。
彼らはUSS「レキシントン」に配備されていました。

1942年2月20日、「レキシントン」はソロモン諸島ラバウルを攻撃しましたが、
これは第二次世界大戦における最初の空母からの航空攻撃となりました。

迎え撃ったのは帝国海軍第4飛行隊の18機の爆撃機で、この戦闘で
オヘアは今にも「レキシントン」に爆弾を落とそうとしていた
「ベティ」(一式陸攻)を4分間の間に5機撃墜しています。

この戦闘で第4飛行隊は18機のうち15機を失い、この日のうちに
オヘアは「エース」(5機撃墜が条件)になりました。

早速撃墜した5機を意味する海軍旗を愛機にペイントするオヘア。

「レキシントン」艦上のサッチ率いる第3飛行隊VF-3グループの記念写真です。

 USS「レキシントン」。
「サラトガ」と共にアメリカ海軍最初の空母となります。

ところで、この写真は「サラトガとレキシントン」という説明に添えられていたものです。

レイアウト的に「レキシントン」の説明が添えられていたので、わたしはてっきり
これが「レキシントン」であることを信じて疑わなかったのですが、
(しかも建造年月日が横に書かれていたので、どう見ても建造中のレキシントン)
コメント欄で、

「これは真珠湾で入渠中のヨークタウンである」

というご指摘を受けました。
そんな馬鹿な、ともう一度確かめたのですが、やっぱりそうなっています。

これは看板を作成した人がレイアウトをいい加減にしたか、
あるいは資料の写真を間違えたかのどちらかだと思われます。

(ヨークタウンは機動部隊のことが最後に一文出てくる)

これも「サラトガとレキシントン」の説明に添えられていた写真ですが、
どちらでもない「ヨークタウン級」であることが判明しました。

ということは、これも「ヨークタウン」の写真である可能性は高いですね。

戦争が始まった頃、アメリカ海軍は七隻の空母を保持していました。
オヘアの勤務してた「サラトガ」のコードはCV-3です。
空母には4個の航空部隊、戦闘機隊、爆撃機隊、偵察隊、
そして雷撃隊が搭載されていました。

オヘアの配属された戦闘機隊は「急降下爆撃」のパイオニアで、
優れたパイロットばかりを集めたエリート部隊でした。

「フィリックス・ザ・キャット」の作者パット・サリバンは
この精鋭部隊のために爆弾を抱えたフィリックスをデザインし、
これが彼らのインシニア(シンボル)となります。

彼らの乗っていたのが「ワイルドキャット」であることも
少しは関係していたかもしれません。

 

エドワード・ヘンリー・”ブッチ”・オヘアが生まれたのは1913年3月13日。
31歳になる寸前、1942年2月20日の爆撃機5機撃墜に対し名誉メダルが授与されました。

1942年、ホワイトハウスでのメダル授与式でFDRと握手をするオヘア。
彼の首にメダルを掛けている美人は彼の妻リタ・オヘアです。

彼女はこのわずか2年後に愛する夫を失い、未亡人となる運命です。

その時のメダルのレプリカがここに展示してありました。

1日の戦闘において一気にエースの一員に名を連ね、アメリカでは
今でも飛行場に名前を残すほどの英雄となりました。

オヘアの所属していた第3航空隊の編隊飛行。

1940年から1943年までの間に、グラマンF4Fワイルドキャットは、
その翼を畳むことができないにも関わらず、艦載機として300機弱生産されました。

第二次世界大戦が始まってすぐ、アメリカの当面の脅威は
東海岸とカリブ海近海に出没する潜水艦だったため、
まずアメリカ海軍は空母艦載機の訓練をミシガン湖で行っています。

蒸気船を改造して空母の形にした「ウルヴァリン」と「セーブル」の二隻で
海軍パイロットは空母での離発着の訓練を行いました。

訓練中の事故で飛行機のいくつかが失われ、それらは
戦後ずっとミシガン湖の湖底に沈んでいました。

1990年、そのうちの一機を引き揚げようというプロジェクトが立ち上がりました。

ダイバーによって湖底から発見された後は、AT&Tの提供したソナーによって
正確な鎮座地点が特定され、海軍が主体となって引き上げ作業を行なった結果、
45年ぶりに一機の機体が冷たいミシガン湖の底から陽の目をみることになったのです。

湖底でバラバラになっていた部品も一緒に引き上げられ、
その後、ボランティアの尽力によって復元されたものが・・・・、

今オヘア空港で見ることができるこの機体がそれである、
と現地の復元プロジェクトにはあったので、わたしも最初はそう思っていたのですが、
読者の方が「絶対に違う」とコメントで指摘してこられました。

引き揚げられた機体はF6Fヘルキャットだそうです。

もう一度現地の説明を読み直したのですが、

「これは現存する貴重なF4F3のうちのひとつである」

なんて書いてあるんですよね・・・。
一体どうなっているのでしょうか。



所有者はペンサコーラにある国立海軍博物館となっていますが、
オヘア少佐をトリビュートする展示が空港内に設置されることが決まり、
空港が借受けるという形で展示されているというわけです。

胴体には引き込み足がぴったりとはまる格納場所があります。
オリジナルの部分はほとんどないのではないかというくらい綺麗に復元されていますね。

5機撃墜後、一夜にしてエースとなったブッチ・オヘアですが、1944年11月27日、
ギルバート諸島のタラワ環礁で日本軍と交戦中、未帰還になりました。

パブリック・ロー(公法)490項第5条の定めるところにより、
11月27日にオヘア少佐の死亡が認定されています。

ギルバート諸島のアベママ島にある「オヘア・フィールド」
海軍の駆逐艦USS「オヘア」DD899、そして彼の出身地であるシカゴの
オーチャード・フィールド飛行場は、ここ、

「シカゴ・オヘア・インターナショナル・エアポート」

となって英雄だった彼の名前を後世に伝えています。

ところで余談です。

わたしがここを発見した時飛行機の周りには誰もいなかったのに、
写真を撮っていたら、たちまち通行人が足を止めはじめてご覧の状態に。

誰もいない店舗に一人でふらりと入っていくと、いつの間にか
人が次々と入ってきて大混雑になっているという「招き猫体質」は
わたしにとって実は決して珍しいことではないのですが、

「何もこんなところで発動しなくても・・・・」

TOに笑い混じりに言われてしまいました。

もし、シカゴ空港第1ターミナルに立ち寄ることがありましたら、
ぜひこのコーナーを一目見られることをおすすめしておきます。


終わり