呉地方隊の観桜会の日、開始までの時間に潜水艦教育訓練隊、
略称「潜訓」の見学をさせていただき、「そうりゅう」型の
訓練用シミュレータに座るという体験をしたわたしです。
シミュレータ体験の後、わたしたちが案内されたのは
ここでサブマリナーになるための技術を学ぶ幹部曹士が、
潜水艦乗員としての精神訓練を行うための施設、資料館でした。
ここに一枚ずつ掲示してある信号旗は、まさに
「ご安航を祈る」
の意味です。
この年季が入った旗の「素性」ですが、その説明はありませんでした。
それから「航海の安全祈る!」の後の「SNAT」、
これはどうやら
潜水艦用航海術科訓練装置
のことらしいのですが、もしそうだとするとこ言葉は少し意味不明です。
訓練施設ですから、いたるところに標語的なものがあります。
「後がない」という意味もあるZ旗の下にあるのは
「百般のこと 〇〇を持って基準とすべし」
ああっ、肝心なところが光ってしまって全く意味のわからない言葉に。
超拡大して字の端っこから類推するに、それはどうやら
「百般のこと 戦闘を持って基準とすべし」
のようなのです。
海自の最前線の一角とも言える潜水艦隊における訓示と思ってみると、
この「戦闘を以って」という言葉にただならぬ重みを感じませんか。
資料館に入る前の廊下には、歴代潜水艦ネームシップの写真が掲示されていました。
アメリカから貸与され「自衛隊潜水艦第一号」となった「くろしお」、
戦後初の国産潜水艦となった「おやしお」。
下段の「うずしお」は、「うずしお」型のネームシップで1971年就役。
ここの説明には
「排水量はこれまでで最大となったがずんぐりした形になり」
という一文があります。
潜水艦の人たちはシルエットを見ただけで何型かわかるようになるんでしょうか。
「なつしお」(1963)「おおしお」(1965)
そして「あさしお」(1966)。
「あさしお」は訓練中潜望鏡を護衛艦「なつぐも」のスクリューと接触するという
事故を起こしたことがありますが、幸い双方軽傷で済んでいます。
艦体は除籍となってスクラップと消えても、艦名を刻んだ盾はずっと残ります。
てつのくじら館で展示されている「あきしお」に始まって、
「たけしお」「ゆきしお」「さちしお」「なつしお」「はやしお」・・・
「そうりゅう」型と違って、「しお」型は名前のバリエーションが多くていいなあ、
とこれらを見ているとつい考えてしまいました。
ちなみにこの金型を作っている会社をわたしは知っていて、
以前この工場の金型倉庫を見学し、ここでご紹介したことがあります。
ある自衛艦の金型を作るとき、一部が少し凹んでしまったが見た目差し支えないので、
一応自衛隊に「構いませんか?」と了解を取ろうとしたところ、
担当者が血相変えて、
「海上自衛隊は験を担ぐので、”凹んだ”は絶対にダメです」
と言われて作り直しを余儀なくされた、などという話を聞いたものです。
「こういうのも時代によって流行りがあるんですよね」
「ふゆしお」「わかしお」「みちしお」の頃、どうやら
潜水艦隊では陶器のプレートが流行っていた模様。
「このデザインはどうやって決めるんですか」
これは(わたしよりは現場の事情に詳しくない)TOの質問。
「乗員がデザインするんです」
「ほーーー」
日本では一つのクラスがあれば、必ずその中に絵の上手い人、音楽ができる人、
スポーツのできる人などがいるものですが、
潜水艦という少人数の単位であっても同じ。
その中に一人は下手したらプロ並みに絵が上手い人がいたりします。
(わたしは海外でいろんな飛行機のノーズペイント等を見てきた経験から、
アメリカ人はあれだけ人間がいる割にその割合が少ないと思っています)
このイワトビペンギンが魚雷に乗っている「みちしお」のデザイン、
これなんかもう完全にプロの仕事ですよ。
「じんりゅう」の盾は刀を抜く侍と桜、これもなかなかすごい。
さて、資料室に入るとき、案内の自衛官は一礼を行いました。
彼らの先輩の遺品や写真があるのですから、ここは聖域でもあります。
わたしたちももちろんそれに倣いました。
寄贈のあった海軍の制服や揮毫などがガラスケースに収められています。
ここでも時間がないので案内の方はいくつかの展示を抜粋して選び、
それについての説明をしてくれました。
この写真は説明を受けたものではありませんが、少し気になって写真だけ撮り、
後で調べたところ、今まで知らなかった潜水艦事故のことがわかりました。
第43潜水艦沈没事故です。
大正13年3月19日、「佐世保鎮守府第一回基本演習」参加中の
第43号潜水艦は、佐世保湾を潜望鏡深度にて航行中の8時53分、
巡洋艦「龍田」と衝突して深度36mの海底に沈没しました。
演習はすぐに中止され、全艦艇が救助に当たりました。
沈没潜水艦の位置は浮標ブイが浮上してすぐに特定され、
電話機も備わっていて沈没艦と地上と交信する事もできたと言います。
海軍はすぐさまクレーン船を派遣しましたが、引き揚げは困難を極め、
同日の19時30分には電話から万歳三唱が聞こえ、数名を残して死亡。
20時には
「あと二、三人しか残っていない」
とまだ生存していた兵曹長から連絡がありましたが、
その兵曹長の言葉も
「ただ天命を待つ」
を最後に、20時38分、途絶しました。
潜水艦が引き揚げられたのは、沈没から一ヶ月が経過した4月19日で、
翌日には遺体の収容が行われたということです。
このケースは帝国海軍潜水艦隊の資料など。
潜水艇の青写真や第1潜水艇が竣工した時の記念写真や、
海軍潜水艇の生みの親でもある海軍大将井出謙治についてです。
井出謙治大将は兵学校ではなく海軍機関学校卒で、
アメリカに私費留学した際潜水艦に興味を持ち、
帰国後も潜水艦の必要性を訴え、その獲得に尽力した人物です。
時間がない見学時間で、案内の方がまず説明されたのがこの伊53潜の模型です。
甲板には6基の「人間魚雷」回天が搭載されています。
これを製作し、寄贈したのは伊53潜の元乗組員である会社社長。
潜水艦で使用する潜望鏡の内筒部分で製作したものです。
潜望鏡の外側は、現在呉市上長迫にある呉海軍墓地に、
呉鎮守府戦没潜水艦合同慰霊碑とともに展示されているそうです。
次に説明を受けたのは、伊47潜乗組だった軍人が、
甲板で航空機の攻撃を受け、戦死した時に持っていた手帳。
胸のポケットに入れていた手帳には、銃弾の跡が残ります。
手帳の記述には
2日 1904 伊47
2日0915 駆逐艦1、大型輸送艦1発見
0945 1号艇発進 惜別 駆逐艦1発見 1010轟爆音2、
10252号艇発進 1118轟爆音1
回天戦用意
戦訓
などと読み取れます。
伊47はあの仁科関男中尉が乗った回天を搭載し回天戦を行った潜水艦ですが、
この記述によると、手帳に書かれているのは1945年5月2日
沖大東島での回天戦の様子であると推察されます。
手帳には「パレンバン空挺降下(十七)」と印刷されており、
手帳の持ち主はどうやら空挺部隊の隊員ではないかと思われます。
「こういうのを見ると今のわたしたちと変わりないと思いますね」
説明の方が指差したのは
邦子「ハシカ」ラシイ
という手帳の一文でした。
このケースには真珠湾の軍神の写真、テレビの放映に使われた
真珠湾突入の際特殊潜航艇を搭載していた伊号の模型などがありました。
軍艦旗は「 咬龍」が使用していたもの、その横にあるのは
特殊潜航艇「海龍」の四式時期羅針儀二型そのものです。
「わかしお」の潜望鏡接眼部、 ネームプレート、銘板など。
除籍になって形を壊された潜水艦たちの、「遺品」がここにあります。
広角レンズでも全部入りきらなかった(笑)潜水艦模型は、あの!
映画「真夏のオリオン」で撮影に使われたものだそうです。
最後に案内の方が立ち止まったのは、このおなじみの(わたし的に)写真の前でした。
戦後、海上自衛隊が最初にアメリカから貸与された潜水艦第1号、
それが潜水艦「くろしお」です。
ここには、ニューロンドンのグロトンで訓練を受け、
サンディエゴでガトー級の「ミンゴ」という戦時中は日本と戦っていた
年代物の潜水艦を受け取った時の写真とともに、その時の証書、
マニュアルらしきブックレット、諸元表などが展示してあります。
「ミンゴ」いや「くろしお」の甲板に日米海軍軍人が乗るの図。
以前もこの経緯を書いたことがありますが、日本側はスノーケルすらない
モスボール化していた潜水艦を、体良く「押し付けられた」といったところです。
「大戦中は日本と戦っていた潜水艦ですものね」
わたしがいうと、
「そうです。日本の船を何隻も沈めています」
日本軍と戦って実際に何人もの日本人を殺戮している潜水艦を
その日本に与えるのですから、日本人ならあからさまな悪意を感じるでしょうが、
アメリカ人というものを少しは知っているわたしにいわせると、案外、
というか例によって
「アメリカ人はそこまで深く考えていない」
というのが正解のような気がします。
「しかし、これを見てください」
案内の自衛官が指差したのは「くろしお」の潜航実績回数でした。
米海軍時代 1,423回
海上自衛隊 3,630回
海自が使用していたのは15年、アメリカ海軍は12年。
比率は5:4、しかし潜航回数は2.5倍も海上自衛隊が多かったのです。
ここで彼は、わたしも知らなかったこんなエピソードを教えてくれました。
モスボール化していた「ミンゴ」を「くろしお」として受け取り、
サンディエゴから祖国にこれを回航していくことになった時、
アメリカ海軍の誰かが「くろしお」艦長にこう聞いたそうです。
「君たちは潜水艦をどうやって持って帰るのか」
同じように潜水艦を貸与されたカナダ海軍は
「海上を航走して帰る」
やはり同じくアメリカから潜水艦を受け取った韓国海軍は
「間違って潜らないように(どこかに何らかの)設定した上、海上航走して帰る」
しかし、海軍兵学校卒で、戦時中は伊号潜水艦乗りだった艦長は
「我々は潜水艦乗りだ。
どうやって帰るかなどと聞かれるのは心外だ。
いうまでもなく、我々は日本まで潜航して帰る」
ときっぱり言い放ったということです。
この回航には、監視のため?米軍軍人が乗り込んでいましたが、
日本までの航海中、当然のように毎日訓練を行う様子を見て
その熱心さに驚嘆したという話も残されています。
しかしわたしがそれより感動したのは、その話を語る自衛官の口調でした。
初代「くろしお」の乗員たちが守ってきた気概と志を受け継ぐ者、
日本国海上自衛隊潜水艦隊の一員であることに心から誇りを感じている様子が、
その熱い話ぶりから手に取るように伝わってきたからです。
かつて海軍の潜水艦隊があったここ潜訓には、敷地内にいくつもの桜木があります。
入り口で車を待つ間、向かいのアレイからすこじまの潜水艦基地を見ていると、
ちょうど潜水艦が一隻、帰投して来るのが見えました。
二隻の押しぶねを従え、今から岸壁に向かいます。
少し離れた呉地方総監部に咲く桜は、昔から観桜会で多くの人々に賞賛される一方、
潜訓の桜は、昔から潜水艦を住処とする武人たちのためにのみ咲き、
彼らの眼を慰め、そして散ることを繰り返してきたに違いない。
わたしはこの満開の桜を仰ぎ見ながら思いました。
呉観桜会シリーズ終わり。