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軍艦香取征戦記念写真集〜楽しき哉、征戦!

2020-03-06 | 海軍

第一次世界大戦に派遣された軍艦「香取」が、任務を終え、
帰国してから制作された記念アルバムである

「軍艦香取征戦記念写真集」

を、新橋駅前の古本市で手に入れたわたしは、その前半部分を
参加士官などをご紹介するかたちで、ついでに
当時の日本がどうして第一次世界大戦に参戦したのかについて、
紐解いてみました。

さて、今日はいよいよアルバムの後半です。
参加メンバー全員の集団写真が続いた後、「香取」が
「征戦」で訪れた地で撮った写真が紹介されています。

ところで、ウィキペディアによる「香取」の艦歴によると第一次世界大戦で

1914年(大正3年)10月14日、第一次世界大戦において香取は中部太平洋に進出、
マリアナ諸島サイパン島を占領した。
この時に艦内神社から分祀をおこない、同島ガラパン町に香取神社を創建した。

ということが書かれているだけです。

しかしアルバムを見る限り、寄港したのはサイパンだけではありません。

まず出航準備(中央)そして出航(右)

「満々たる大洋を航して征途に向かう」

とあります。
おそらく横須賀港を出ていくところでしょう。

左には

「南鳥島の鳥」

と、洒落なのかなんだかわからないカラスの写真がありますが、
「香取」が最初に寄港したのは南鳥島でした。

■ 南鳥島

アルバムの記事には、各寄港地についてのデータが、
大正3年10月現在の情報をもとに記載されています。

まず、上陸場のコンディションについて。

「島の南方どこそことあそこに二箇所あるも、東北のは使用されていない」

「桟橋は長さ30メートル、甚だ粗造なり。
上陸する船はまず浮標に達し、索をたどり着陸すること」

「水深は小艇には十分である」

にはじまって、潮流、天候、地質、水について述べられています。

「井戸二個あれども塩味を帯び雑用にも適せず。
住民は天水を使用している。
簡単な蒸留器を旱魃の際に使用しているという」

えーっと、つまり当時南鳥島には人が住んでたんですね。

そこであらためて南鳥島の歴史を調べてみると、

1864年(元治元年) - アメリカ人が来訪し、マーカス島と命名

1879年(明治12年) - 日本人斉藤清左衛門が初めて訪れる

1896年(明治29年)-水谷新六ら46人が移住し、集落に「水谷」と命名

1898年(明治31年) -「南鳥島」と命名され、東京府小笠原支庁に編入される

1902年(明治35年) - アメリカ人A・A・ローズヒルがアメリカの領有権を主張
               それに対し大日本帝国も軍艦「笠置」を配置し、牽制した(南鳥島事件)

 

という経緯で、大正3年当時は日本の領土となっていたわけです。

さらにアルバムによると、大正3年現在の島の人口は

42〜3人(うち女性9名、子供3人)だが、4月から8月までは80人になる

で、家屋は15軒。
季節労働者が東京で雇われて滞在していたようです。

というのは、東京に本社を持つ

「南鳥島合資会社」

というのが

「鳥糞を採掘し、余力を以て鳥類鰹を捕獲」

していたからだそうですが、それにしても不思議な会社ですね。
鳥の糞を集めるのが主事業・・・肥料にでもしてたのかな。

この「鳥糞」についても記述があって、

「鳥糞は島の中央部一面にあり、地下五尺まで採掘する。
レールを海岸倉庫まで通し、これを運搬する。
一年で役3000トン、時価15〜20円分が産出される」

だそうで、結構な産業だったらしいことがわかります。

軍艦ファンにはちょっと興味深いカットかもしれません。
太平洋を航行している「香取」の甲板を、艦橋から撮ったものです。

「香取」は前にも述べましたがイギリスのヴィッカー製で、
動力は当時のものならば当然ですが石炭。

航行中のスタックからは黒煙が立ち昇っています。

左上は、サイパンに到着した後、香取が出した作業艇と、
サイパンの「土人」のボートが並ぶ様子。

右は登江丸という補給船が煉炭を補給しているところです。

■ サイパン


ガラパン地区というのは今でもサイパンの繁華街となっているところですが、
この頃から島の中心として建物がそれなりに立ち並んでいた様子がわかります。

さて、戦艦「香取」はこのときサイパンを「占領した」となっていますが、
それまで領有権を持っていたドイツと交戦したなどの記録はありません。

これはどういうことかというと、ドイツは、領有権を有していながら
本国から遠く離れたこの島の開拓、および先住民への教育政策を一切せず、
同島を罪人の流刑地にしていただけだったので、
チャモロ人とスペイン入植者が少数いるだけの荒廃した島となっており、
留守宅に入るが如き無血占領だったのではないかと推察されます。

冒頭写真は「マリアナ群島占領地『香取』守備隊員」とありますが、
これってつまり「香取」の乗員の選抜メンバーですよね。

ということはこの写真の花型の写真の真ん中は、「香取」艦長、
ということになろうかと思います。

守備隊は、サイパン上陸後、なぜか病院で記念写真を撮っています。
士官3名、軍医1名、下士官2名、水兵4名。

写真に写っている誰一人としてにこりともしていないので
彼らがどんな心境で占領軍?幹部と一緒にいるのかは謎です。

ちなみにここはガラパンにあった病院で、占領軍は
ここを長官舎にしていました。

サイパンにはチャモロ人(画像はチャロム土人とある)、
カナカ土人という先住民族が在住していました。

右下はガラパンにあったドイツ語学校です。
ウィキの情報の通りであれば、これは原住民のためではなかった、
ということになりますが、ドイツ人の子供がいたとは思えないので
やはりこれは原住民にドイツ語を教えるための学校だったのではないでしょうか。

 

不思議に思ったわたしは、ドイツ語でサイパン島がどう書かれているのか
検索してみようとして驚きました。
ドイツ語ウィキペディアがないのです。

ドイツ人、自分とこの領土だったことそのものを全く忘れてないか?

 

そこでアルバムの資料をみると、当時の住民内訳がありました。

日本人 27

ドイツ人 13

スペイン人 8

カナカ族 1362

チャモロ族 1310

サモア族 67

オレアイ族 40

ドイツ領のはずなのに、ドイツ人が13人て・・・・。
その内訳はといいますと、

島司令 ドイツ人(ベーメー、測量士出身)

副司令 ドイツ人(フワッケル、所掌は警察、軍、税務、土木)

病院長、教師二人、郵便局長もドイツ人です。
そして、収監されていた囚人が15人。

おそらく住民の13人は純粋な居留者で、囚人は含まれないのでしょう。

そのほかにもサイパンにはサモア人が住んでいたようです。
日本人の目から見ても当時のサモア人は「美人」に見えたのでしょうか。

ちなみに後年、トラック島の原住民の娘と結婚した実在の男の話が

「私のラバさん酋長の娘 色は黒いが南洋じゃ美人」

という歌に歌われました。

 

そして商人「アントニー」の家、と説明のある豪邸。
おそらくチャモロ人の実力者で島一の富豪の家でしょうか。

瀟洒な仕立ての背広を着てドレスを着た娘たち、そして
息子と写真に収まる「アントニー」に、占領軍幹部が
皆で表敬訪問に行ったらしい様子がうかがえます。

ちなみにアルバムの解説には「土人生活状態」として次のようにあります。

 

「チャムロ」族は土人中の優等族にして皆上着及び袴を穿ち
多く帽子を戴けり
婦人中には白粉を用いるものさえあり

性質従順にてまた勤勉なりという

朝は早く起き洗面し朝食としてコーヒーとパン(豪州より輸入)を取り
正午ごろ昼食をなし3時ごろ茶を喫し6、7時ごろ
夕食をなす 
食べ物は支那米及びトウキビを粉にしたパン魚獣の肉にて
野菜は多く食せず

酒は麦酒1日一本はチャムロ族に限り許可せられ居れり

結婚期は女子は18歳より20歳を最多とす
この種族の処女は結婚するまで頗る品行厳格なるも
一度結婚後は宗教上離婚すること能わざる

「カナカ」等の種族は男は褌一本のみ女は腰に布を巻く他
全く裸体にして(略)

耳の下部に穴を穿ち貝殻・ビンロウズ・鼈甲の輪を嵌めおれり

女子は12歳より結婚し14歳より子を産するも児童の発育悪しく
夭死する者多きを以て結婚期の遅きチャムロ族の方が
却って繁殖力大なりという

右下はサイパンのラウラウ湾に停泊する「香取」から上陸する小艇上。

真ん中は上の「アルペン」の家族と記念写真を撮る士官たち。
バン・アルペンはラウラウ湾付近に住んでいたドイツ人で、

年齢四十六従順なる男なり

6年前この地に移住し開墾に従事する

とわざわざ記述されています。

占領したといっても、現地のドイツ人とは友好的で
なんのトラブルもなかったらしいことがわかります。

 

右下に、かつてドイツ守備隊がガラパンに上陸したとき、
という写真があります。
どうしてこんな写真が手に入ったかというと、実は
米西戦争でサイパンを占領したアメリカがドイツに売却したのは
1899年、つまりドイツ領だったのはたった15年だったのです。

その間、ドイツがほとんど開発や定住を行わなかったので
日本は無血占領することができたということなんですね。

■ ロタ・グアム・パラオ・トラック

マリアナ群島守備隊、征戦をそれなりにエンジョイしております。
無血占領で一発も使わずにすんだため余った銃弾を消費すべく、
ロタ島に鹿狩り隊を編成して上陸し、戦果をあげました。

グアムにも寄港したようです。
下の写真は

「椰子の浜辺に涼風薫として苦熱を忘る」

トラック、ボナペ、パラオの島々。

「香取」は寄港したのではなく、通過しただけだったと思われます。

■パガン島

マリアナ諸島守護隊として、「香取」はパガン島という
北マリアナ諸島の面積48㎢の島にも寄港しています。

 

マリアナ諸島を「香取」が出航したのはいつかわかりませんが、
帰国したのは12月5日とはっきりしています。
つまりこの征戦とは9月19日出航から3ヶ月のことであり、
マリアナ諸島を占領したのは10月14日、滞在期間は
およそ1ヶ月しかなかったということになります。

■ 小笠原諸島

「香取」は帰国途中、小笠原諸島に立ち寄りました。

大将時代の練習艦隊の遠洋航海アルバムをご紹介したとき、
やはり小笠原諸島の「正覚坊」という亀園の写真がありましたが、
当時すでに東京都となって長かった小笠原には日本社会が根付いていました。

アルバムでは当時の人口を、群島全て合わせて4,000人ほど、としています。

当時はパパイヤもバナナも国内では手に入らない珍しい果物でした。

そして左の写真。

「内地に帰着し久しぶりの上陸
累々として前に置かれたるは征戦中の記念品」

とあります。

この書き振りから推察するに、「香取」のマリアナ諸島占領には
全く戦争に往ったという悲壮感はありません。

何もせずに敵地を占領、現地では住民との親交を深め、
珍しい土地で見たことのないものを見て、狩をしたり
ボートレースをしたり、ドイツ人家庭で歓談したり(多分)
乗員一同にとって、実に楽しい「征戦」だったのではないでしょうか。

 

ところで、この6年後、パリ講和条約の結果を受けて、マリアナ諸島が
日本の正式な委任統治領となるわけですが、この歴史的事実に対し、
第二次世界大戦後、
戦勝国の側はもちろん日本国内のメディアが

「日本は権益目的で第一次世界大戦に参加し、
ヨーロッパで皆が戦っている隙に青島始め
マリアナ諸島を盗んだ」

なんて鬼の首とったように断罪しているのは、前にも説明したように
日本の第一次世界大戦参戦の経緯からみても、
なんだか日本に対してのみ悪意ありすぎじゃない?と思います。

本当に日本のメディアって、日本嫌いだなあ・・・。

「映像の世紀」、おめーのことだ。

 

軍艦香取征戦記念写真集シリーズ 終わり