空母「ミッドウェイ」の搭乗員控え室展示を順番に見ています。
「イントルーダー」の記念展示室にあった「チェックオフリスト」。
スプリンクラーや換気バルブ、消火栓や消火ホースそれぞれの場所が
艦内での現在位置を表す番号で示されており、
それぞれは定期的にちゃんと稼働するかどうか点検が行われます。
これは本当にここにあったチェックリストらしく、最後にチェックした
1991年9月15日の日付と担当CPOのサインが確認できます。
「ミッドウェイ」はこの半年後の1992年4月に退役しました。
最初のレディルーム展示のあった「レディルーム#6」に入った時のことです。
い
入ってすぐのところにあるオーディオツァーの説明には、なぜか
「POW Story」(捕虜物語)として、
ベトナム戦争時に捕虜になったパイロットについての説明がありました。
さらに、レディルームの出口にはこのようなパネルがありました。
名前と階級の間にはパープルハートやネイビークロスなどの勲章が飾ってあります。
左のシンボルには、「POW MIA」「あなた方を忘れない」
まず「POW」は「Prisnor of war」戦時捕虜、そして
「MIA」とは「Missing in Action」戦闘中行方不明を指します。
監視塔と鉄条網、そして捕虜のシルエット。
これが戦時捕虜と行方不明者の家族会のマークとなっています。
ベトナム戦争で捕虜になったり、あるいは行方不明になって帰ってこなかった
兵士は、2017年現在で1,611人もいるのです。
ファントムIIに乗っていたパイロットも、多くが命を失いました。
右側に並ぶ名前は全てパイロットで、名前の横の
KIA(キル・インアクション)は空戦中に撃墜されたとされる人、
そしてPOWは捕虜になってそのままいまだに行方不明の人です。
この場合のPOWは、MIAも含み、
「捕虜になった、あるいは状況的に捕虜になったと考えられる」
人たちのことです。
アメリカ軍ではパイロットは全て士官なので、この名簿もその階級は少尉から中佐まで。
Lieutenant Commander (LCDR) 少佐 [O-4]
Lieutenant (LT) 大尉 [O-3]
Lieutenant Junior Grade (LTJG) 中尉 [O-2]
という「働き盛り」の階級が中心です。
数えてみたところ、1965年の4月から72年の8月にかけて
106名のパイロットが戦死あるいは捕虜となり、
二度と帰ってこなかったということになります。
さらに内訳は、
空戦戦死 64名、捕虜あるいは行方不明 42名
となり、戦死とわかっている割合が多いのに気がつきます。
ベトナム戦争は1955年から始まっていますが、
ファントムが運用されるようになったのは1960年からですから、
この飛行機は新兵器デビューするなり実戦に投入されることになりました。
また、前回お話ししたA-6イントルーダー戦闘機も1963年生産開始なので
戦時生まれの実戦デビューとなります。
イントルーダーのレディルームにはこのような展示があり、目を引きました。
レディルームには、かっこよさや強さを賛美するばかりでなく、
こんな「負」の展示もあります。
地上に激突して粉々に砕け散ったイントルーダーの機体の破片です。
イントルーダーを一目でそうと認識するアイコンでもある、
特徴的な「ツノ」型の燃料プローブがかろうじて原型をとどめています。
先日のF-35の墜落事故でわたしたちは改めて思い知ったばかりでもありますが、
航空機、特に戦闘機の訓練は平時戦時を問わず常に危険と隣り合わせです。
特に、戦争継続中に航空隊に編入されたイントルーダーパイロットに対しては、
何時間にも及ぶ全天候下での空戦技術や、低空での飛行、
数え切れないくらい繰り返される爆撃シミュレーションなどの訓練が
短い期間(通常1ヶ月だったといわれる)の間に集中的に行われたため、
当時150名以上の海軍と海兵隊のイントルーダー乗員が
その訓練中に事故による殉職をしたといわれています。
このイントルーダーの破片は、オレゴンの訓練場でクラッシュし、
バラバラになった二機の残骸です。(個別の事故によるもの)
どちらのイントルーダーも、事故発生時は夜間低空飛行での訓練中でした。
まるで紙くずのようになってしまったイントルーダーの破片がここにも。
詳しいことはそれ以上書かれていないので、この二機のイントルーダーが
同時に事故を起こしたのか(接触などで)、それとも別の事故なのかわかりませんが、
二機のうち一機のパイロットは生還し、もう一人は殉職したとだけ書かれています。
先ほどの展示に書いてあったように、確かに対MiG戦キルレシオ(撃墜比率)は
駆動性の高いと言われるMiGを相手に大変高かったわけですが、
イントルーダーの場合一度のクラッシュで乗員2名が失われるため、
彼我の戦死者の数はこちらが確実に多かったとされます。
先ほどのファントムII乗員の犠牲者名簿も、ABC順の記載なので判別できませんが、
同じ日付で亡くなった、あるいは行方不明になった二人は
同一の航空機に乗っていたという可能性もあるということです。
ちなみに今ちょっと名簿を探してみると、たとえば
1967年5月19日に未帰還になったスティア中尉とアンダーソン中尉、
65年12月29日に空戦戦死したローズスローン大佐とヒル大尉、
67年4月4日に空戦戦死したツェイラー大尉とマーチン少尉
というように、必ずと言っていいほど同一戦死日時によるペアができます。
次回は、航空機が撃墜された後、もし海上に着水したら?
というサバイバルについてお話しします。
続く。
ベトナム「戦争」と言いますが、アメリカは北ベトナムを国家として承認していないので、アメリカから言うと「南北ベトナム間の内戦」であって、アメリカは南ベトナムを支援しているという立場を取っています。そのため、アメリカは戦争の主体者ではなく、北ベトナム(現在のベトナム共和国)に戦後賠償はしていません。
北ベトナム正規軍に加えて、南側に潜入したゲリラ(ベトコン)もいましたが、アメリカの爆撃が激しくなると、中立だったラオスに逃げ込んだり、ラオス経由で補給を行ったりしていたので、アメリカは公表していませんが、ラオスに越境して北ベトナム正規軍やベトコンを攻撃しています。
これは中立国での戦闘で、国際法違反になり、越境攻撃中の戦死者は戦死した場所や状況等の詳細を公表出来ないので、公的にはPOW/MIAとして処理されています。