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エアメール・ヒーローとボーイング40B〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-23 | 博物館・資料館・テーマパーク

潜水艦内部見学ツァーの時間つぶしで見学した
「小型飛行機」の紹介を続けます。

■ 1928 ボーイング40B

そのほかの小型飛行機は、前回ご紹介したJN-4Dジェニーといい、
シュトゥーカ、スピットファイアといい、いずれも
アクロバットや空戦の真っ最中を表現する展示となっていますが、
この1928年のボーイング40Bはひたすら水平です。

それはなぜかというと、この飛行機がかつて郵便輸送機として
現役であったころは、パイロットもできるだけ水平に、
静かに真っ直ぐ飛ぶことを心がけていたからです。



そう言われれば、郵便飛行機が始まった記念として発行された
「ジェニー」が、ひっくりがえっているのは、
ますます何かの間違い(現に印刷者のミス)であるのが納得できますね。

郵便物を運ぶのにこれは断じて許されません。

商業航空便の開設は航空産業に恩恵をもたらしました。
これは現存する2機の1928年のボーイング40Bのうちの1機です。



”We can't let the transcontinental effort end here.
I'll fly her on through!”
「大陸横断の取り組みをここで終わらせてはなりません。
わたしは彼女を最後まで飛ばします!」


パネル右側の決め台詞を言った人、それは・・・、



パネル右上の人物、

ジェームズ・H・ナイト
James Herbert "Jack" Knight 1892-1945


というこの時代のパイロットです。
この人とこのセリフについての説明は後にします。

先にこのボーイング40B-2についてのスペックを説明しておきます。



1)二つのメールコンパートメント

郵便物を運ぶための飛行機だったので、前と後ろに一つずつ、

最大1000ポンドのメールを収納するための
コンパートメントが設けられていました。

パイロットのコクピットは二つの物入れの後ろに位置します。

2)ラジアルエンジン

飛行機のパワーと効率を高める最新式のエンジン。
プラットアンドホイットニー・ホーネット525馬力で、

最高時速は132マイル(約1.5km)でした。

3)着陸灯

地上係員が夜間飛行機の存在を追跡するのに役立ちました。

4)布製ボディパネル

スチールのチューブに張られた布が機体を強化しました。
正確には、鋼管フレームを布で覆っています。

5)乗客キャビン

二人の乗客(有料で席を買って乗る)が乗ることができました。


主翼の構造は、軽量化のためにスプルース無垢材の木柱、
合板の前縁で構成されています。

第一次世界大戦後、数多くのベテランパイロットやエンジニアが
アメリカに戻って、航空を産業として発展させようとしました。

これらの退役軍人は、飛行機には戦争以外の実用的で有益な目的があり、
自分の得た技術と経験がそれに役立つと思ったのです。

飛行機で貨物を運ぶことの利便性が明らかになると、
民間航空産業は急速に発展していきました。

前回の「ジェニー」が最初の汎用民間機ならば、
ボーイング社の40B-2型は、初めての商用飛行機の一つであり、
1920年代、当時最も貴重な貨物のひとつである航空郵便を運びました。



最初の航空便サービスは政府による国営となりました。
MSIに展示されている40B-2の機体は、
この地図に表されているシカゴーサンフランシスコ間を往復していました。

偶然ですが、当博物館には、いわゆるジャンボ型のボーイング727もあり、
こちらも全く同じ航路を運行していたのだそうです。

【危険すぎてヒーローとなった航空便パイロット】

今でこそエアメールの配達は日常的なサービスですが、
航空黎明期には飛行機で大陸を横断すること自体危険な仕事でした。


雪の山岳地帯を低空飛行する40B-4タイプの郵便航空機。
なぜこんなに低空を飛ぶかというと、コクピットが剥き出しのため。

たとえば、1927年に郵便局が雇った最初のパイロットは40人で、
そのうち、31名が事故で死亡しました。
100人のパイロットのうち43人が
運用開始から9年以内に死亡したというデータもあります。


この衝撃的な事故の写真は、当時の郵便パイロットの最後を表す
典型的な例として有名です。


わたしもスミソニアン博物館で初めてこれをみたときには
写真の女性同様、思わず見入ってしまいました。

当時は航空事故イコール”死”でした。

エアメイルパイロットは風雨にさらされるオープンコックピットに座り、
2人の乗客はエンジンの後ろにある完全に密閉された胴体に座りました。

パイロットは自分で操縦するので何ですが、
こんなものによくお金を出して乗る人がいたものだと思います。

しかし、それだけ危険と隣り合わせの仕事であったからこそ、
当時のエアメイルパイロットはヒーローとして人々を魅了しました。

郵便配達が大胆不敵な仕事の代名詞になろうとは、
後にも先にもこのころだけの事象だったのではないでしょうか。

ハリウッドも関心を寄せ、郵便配達を描いた映画が乱立?します。


1925『エアメイル』(サイレント)

The Air Mail 1925


1932年『エアメイル』もう一丁

ジョン・フォードも1932年にそのものずばり、
「エアメール」という映画を撮影しています。

Air Mail 1932 John Ford Movie 

YouTubeで全編観られます。
だいたい55分ごろに飛行機が墜落して事故が起こっています。


『スリーマイル・アップ』


『ナウ・ウィアー・イン・ザ・エア』

このほかにも航空郵便をテーマにした映画が数多く制作されました。

■ ヒーロー、ジャック・ナイト(郵便配達員)


1922年1月16日、冬用のフライトスーツに身を包むナイト(左)

ジェイムズ・H・"ジャック"・ナイトは、
アメリカで最も有名な航空郵便パイロットの一人でした。

彼は初の夜間大陸横断航空便の配達を行い、
これによりヒーローと称されるようになりました。



初期の空対地無線をテスト中のナイト

1892年3月14日、カンザス州で生まれ、翌年母親が亡くなったため、
妹とともにミシガン州の叔父叔母に育てられました。

1917年、第一次世界大戦をきっかけに陸軍飛行隊に入隊した彼は、
テキサス州ヒューストンのエリントンフィールドに派遣され、
教官パイロットとして活躍し、19年に少尉の階級で除隊しました。

終戦後、ほかの第一次世界大戦に参加したパイロットのように、
彼はネブラスカを拠点とする航空便のパイロットの仕事に就きました。

【航空郵便の政治的危機】

1920年9月、アメリカの大陸横断郵便路が運行を開始しました。

パイロットは通常日没後は飛行できないため、
郵便物は鉄道車両に移し替えて夜間に輸送していました。

そのころ、新大統領ウォーレン・ハーディングと一部の下院議員は、
連邦航空郵便助成の廃止を公然と口にするようになっていました。

夜間の運用ができないこと以前に、安全性に対する懸念がその理由です。
そしてそれは決して根拠のないものではありませんでした。

その前の3年間で、17人の航空便パイロットが、
機械や天候に起因する墜落事故で亡くなっていたからです。

当時の計器盤には航法用の磁気コンパスしかなく、
荒天時には北から南へ振動して正確な機位がわからなくなるため、
パイロットは悪天候時には限界まで低空飛行し、川や線路、
町を梢の高さでかすめながら、行き先を確認しなければなりませんでした。

こんな状態では事故は起こらない方が不思議というものです。

そこで、郵便局の上層部は航空郵便の有用性を実証するため、
あえて鉄道を使わず、完全に空輸で郵便物を横断させる実験を計画しました。

この航空オンリーによる横断の実験を行う日として、関係者は
ジョージ・ワシントンの誕生日の1921年2月22日を選びました。

当時の飛行機で大陸を横断すると、必然的に夜間に飛行時間が被ります。

ランドマーク(目印)を見つけることが難しい夜間に、
むき出しの無防備なコックピットに乗って飛ぶことは
パイロットにとってもちろん全く簡単ではありません。

"ジャック・ナイトの夜間(ナイト)フライト"


ナイトという名前はKnightで、アメリカ人には夜=ナイトと間違えるとか
あり得ないのかと思いましたが、ちゃんと洒落にしていました。

夜間における大陸横断の試験飛行のパイロットには、
腕の立つジャック・ナイト始め何人かが選ばれました。



「大陸横断の取り組みをここで終わらせてはなりません。
わたしは彼女を最後まで飛ばします!」


ここで冒頭のセリフをもう一度振り返ってみますと、
彼が何を意気込んでいたのかわかりますね。

1921年2月22日の朝、2機の郵便機が
ニューヨーク州ロングアイランドの飛行場を出発して西へ向かい、
他の2機はサンフランシスコプレシディオの
マリーナ・フィールド(わたしが毎年訪れる場所ですね)
から逆に東へ向かいました。

中継機をその間のポイントで待機させての出発です。



このとき、ナイトは前週にデ・ハビランドDH-4B郵便機で墜落し、
鼻を骨折してこんな顔でこの飛行に臨んでいます。

それほどの高度ではないとはいえ、骨折して飛行機は無茶すぎ。

しかし、まあ色々とあって予定より大幅に遅れ、
落ち合う予定のパイロットがシカゴで吹雪に見舞われてしまい、
同じ嵐で、もう一人の西行きパイロットも足止めされて、
ナイトは、いつの間にかたった一人でフライトを続けてていました。

しかし、彼は孤立無縁の飛行機を操縦していたため、いまや
航空郵便の未来が自分一人にかかっていることに気づいていなかったのです。

オマハに到着したナイトは、この時初めて
まだ飛んでいるパイロットが自分だけであることを知ります。

しかし(というかだからというべきか)ナイトは体を温めた後、
オマハの東を飛んだことがないという事実にもかかわらず、
嵐を捺して飛行を続けることを選択したのでした。

アイオワ州デモインでは雪で着陸できず、その先のアイオワ・シティでは、
天候の悪化で飛行機が着陸してしまったと思い、
みんな家に戻ってしまって空港には誰もいなくなっていました。

着陸する飛行機のエンジン音を聞いていたのは、空港の夜警ただ一人。
夜警は目印に鉄道フレアを2つ設置し、飛行機を迎えました。

深夜のアイオワシティの気温、マイナス24°C。

ナイトはエンジンが再起動しないことを恐れてエンジンをかけたままにし、
コーヒーを飲み、ハムサンドを食べて給油し、
シカゴまでの最後の200マイルに向けて午前6時30分に出発しました。

そして、午前8時40分にシカゴのチェッカーボードフィールドに到着。
徹夜のフライトで830マイルを飛んだ彼ですが、
彼が使ったナビゲーションシステムは、普通のコンパス、
そして小さく破れた道路地図のみ。

つまりほとんど肉眼で道を探しながら飛んだことになります。

シカゴでは新聞記者たちがナイトを待っており、
彼の飛行は全米の一面を飾ることになりました。

ナイトは後に、氷点下の気温、凍った風、揺れた空気のため
飛行を続けることは非常に過酷だったと述べています。

もちろん、鼻を骨折していなければかなり少しマシだったかもしれません。

新聞は

「ジャック・ナイトの夜間飛行」"Jack Knight's Night Flight"

について大々的に報道し、
彼はリンドバーグ以前の時代で最も有名なパイロットとなりました。

エアメールパイロット仲間で友人のスロニガーは、いつも彼を

"Jack Knight the guy who saved the night mail"
「ジャック・ナイト、ナイトメールを救った男」


と、まるでそれがすべて彼の名前の一部であるかのように呼びました。

確かにナイトは英雄と特に持ち上げられましたが、実はこのとき、
他の2人のパイロットもニューヨークまでの飛行を成功させているので、
この偉業はみんなで成し遂げた勝利というべきでしょう。

結果、全部で7人のパイロットが大陸横断飛行に参加し、
33時間20分かけて2,629マイル(3,652km)を飛行したことになります。

この偉業に感銘を受け、世間が広く賞賛したため、議会はついに
窮地にあった航空郵便サービスに必要な資金を計上することを決めました。

ナイトとパイロットたちは郵便飛行を廃止から救ったのです。


【ナイトのその後の人生】

一躍有名になったナイトは、郵政公社や地元の市民リーダーたちと協力して、
航法ビーコンや緊急着陸帯のシステムを構築させました。

1927年9月1日に国有航空郵便が廃止され、民間企業に入札されたとき、
ナイトは417,000マイル以上を飛行し、
航空郵便のパイロットの頂点に立っていました。

その後彼はボーイング航空輸送に就職し、
1934年にユナイテッド航空に席を置いてDC-3の旅客飛行を行い、
後に安全担当副社長になりました。

第二次世界大戦が始まると、ナイト民間航空局に入り、
航空路の開発に携わりました。
その結果、戦時中の資材を調達する国防支援公社に転職することになります。

そしてこのことが彼の命を縮めることになりました。

ゴムの原産地を開拓するチームとしてアマゾンのジャングルにいたナイトは
マラリアに感染し、彼は健康を害していきます。

転倒しても立ち上がれないほど弱っていた彼は、
1945年2月24日、シカゴで死去し、その遺灰はミシガン湖に撒かれました。



1950年には、A.M.アンダーソンとR.E.ジョンソンによって
児童向けに彼の活躍を描いた
「パイロット・ジャック・ナイト」
が出版されています。

1999年になって、ミシガン州でナイトの航空殿堂入りが決定しました。


■MSIの40B-2


当初、航空郵便事業はアメリカ政府によって管理されていましたが、
1927年、大陸横断航空便と旅客サービスの事業に民間が参入します。

このときの会社が、今日の民間航空会社の前身となります。

この40B-2は、その航空会社であるユナイテッド航空が所有していましたが、
1933年から開催されたシカゴの「進歩の世紀」万国博覧会の終了後、
1935年に科学産業博物館へ寄贈しました。




現在、この飛行機は博物館の
ボーイング727ターボジェットの隣に展示されており、
わずかな間に起こった旅客機の進化を物語っています。

続く。



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1 Comments

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こんなものによくお金を出して乗る人がいたものだ (Unknown)
2023-06-24 07:10:48
>パイロットは自分で操縦するので何ですが、こんなものによくお金を出して乗る人がいたものだと思います。

タイタニック(沈船)をわざわざ大金をはたいて見に行った人達もそうですね。DSRVに比べると、かなりしょぼい潜水艇のようです。
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