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”デアデビル”オマー・ロックリアとジェニーJN−4〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-21 | 飛行家列伝

潜水艦内部ツァーまでの時間潰しとして観た、
シカゴ科学産業博物館、MSIの展示から、
今日は「飛ぶもの」=飛行体をお送りします。

■ カーチスJN-4D ”ジェニー”と
命知らずのバーンストーマー



このパートは「スモーラー・エアクラフト」と言って、
文字通り小さめの航空機がドームの天井を飛翔しているように
生き生きと展示されています。

この「ジェニー」も、よくよく見れば、ループを描いて
上下逆さまになった瞬間が再現されているのです。

1917年のカーチスJN-4D、通称「ジェニー」は、
軍事、レクリエーション、商業航空に大きな影響を与えた飛行機です。

何千人ものアメリカ人に初めて飛行機を見せることで、
航空の魅力を広く伝える働きをしました。


ジェニーのパイロットは、人々の目を引くために
飛行機をドラマチックな体勢に宙返りさせています。

まさに、バレルロールで逆さまになっている真っ最中。



よく見ると翼の上でスタントしている人がいます。


はい、これが実際の写真。
本当にこんなことやってたんですね。

写真に写っている人は
「デアデビル・オマー・ロックリア」
(命知らずのオマー・ロックリア)

という伝説のエアリアル・スタントマンで、
ジェニーの翼に脚だけでぶら下がって手を離すスタントを行なっています。


右上の筆記体は、

I'm all smashed up from doing stunts.
(わたしはスタントに完璧に打ちのめされた)

エアリアルスタンドのブームがきていたのでしょうか。
「フライング・デアデビルズ」というポピュラーソングの一節だそうです。

ちなみに「daredevils」というのは「向こう見ずな人」という意味です。

Free Stock Footage Flying Daredevil

どんな歌か調べましたがYouTubeにはありませんでした。

あと、この映像で翼にぶら下がっている人なんですが、
体重をもう10キロ減らした方が安全の面でいいのではないかと思います。


【スタントパイロットとバーンストーマーの登場】

 第一次世界大戦後、多くの元戦闘機パイロットが、
戦争が終わって使わなくなった余剰のジェニーを軍から購入し、
スタント・パイロットとして新たなキャリアをスタートさせました。



当ブログ的には繰り返しになりますが、
初めてアフリカ系アメリカ人女性としてプロのパイロットとなった
ベッシー・コールマンも、飛行技術をN-4ジェニーで習得しています。

彼女はテキサスに生まれ、フランスで飛行機の修行を積み、
シカゴに住んでいましたが、その場所は偶然
MSIからほんの1キロ離れたところだったそうです。



「バーンストーマー」
という存在について以前ここでも説明しましたが、
バーン=納屋という語源からおわかりのように、
スタントで人を集めつつ、農家の畑に飛行機を着陸させて、
集まった人々からお金を取り飛行機のライドを体験させる、
(基本的にどさ回り)というようなことを生業にしていた人です。

アメリア・イヤハートの最初の飛行体験も、
街にやってきたバーンストーマーに乗せてもらった飛行機でした。

ちなみにアメリカのディズニーワールドには、
「グーフィーのバーンストーマー」
なるジェットコースターライドがあるそうです。

Barnstorming

ジェニーを使ったバーンストームを紹介する番組です。

バーンストーマーは農家と契約して、
農家にも売上の一部を渡すことで場所を借り、
宣伝を行って人を集めるようです。
現代でもやっている人がいるんですね。

田舎では地域のちょっと刺激的な出し物として定着していて、
おそらくこれを楽しみにしている人も多いのでしょう。


【ジェニー・ストーリー】 

工場で大量生産されたアメリカ発の飛行機として、
カーチス JN-4D "ジェニー" は飛行を一般に公開しました。

なぜ愛称が「ジェニー」になったかというと、それは間違いなく、
JNという機体番号からと思われます。(調べてませんが)

ジェニーは、多くのアメリカ人にとって最初にその目で見た飛行機となり、
たくさんの飛行機の撮影現場で使われることになりました。

ジェニーは頑丈で機動性に優れていたので、
空中アクロバットが盛んに行われる一方、
初心者パイロットに最適の単純で信頼のおける操作性を保ちました。



1)後部のメインコクピットにはパイロットが搭乗

2)前部コクピットには乗客のための席

3)機体を牽引するプロペラ

4)ダブルデッカー(バイプレーン・複葉機)の翼は
一つの大きな翼を持つ飛行機より軽量でかつ強度に優れていた

5)フラップの補助翼(エルロン)のタイプにより、
飛行機は旋回、バンクをすることができた
このためバレルロールのようなスタントが可能となった




上の24セント切手は、アメリカ政府が
ジェニーを使用した航空便サービスを開始した記念に発行されました。

デザインで機体が逆さまになっているのは、
決してアクロバットをしているところを再現しているのではなく、
単に印刷した人が「間違えた」結果で、何枚かしか存在しないため、
これがレア切手になっているのだそうです。

まあ、郵便配達ではまず逆さまに飛行することはありませんから、
これを見たアメリカ人も「?」となっていたかもしれません。


当博物館に展示されているジェニーの現役時代の姿です。
今からフライトを行うところで、離陸の順番を待っているのだとか。

ジョン・L・ブラウンという人がかつてこのジェニーを購入し、
輸送パイロット兼バーンストーマーとして生計を立てていました。

彼のジェニーの尾翼には、価格表が記されています。



3分3ドル、5分5ドルで、宣伝をするためのバナーをつけたら
2航過飛行2ドル、3航過3ドル、5航過5ドルと明朗会計です。

1933年、彼はシカゴの A Century of Progress World's Fair で
このジェニーを使用した後、その飛行機を博物館に寄贈しました。


【命知らずのオマー・ロックリア】

MSIの模型でスタントをしている姿を再現された、
オマー・ロックリアについて最後にご紹介しておきます。



オマー・レスリー・"ロック"・ロックリア
Ormer Leslie "Lock" Locklear
(1891年10月28日 - 1920年8月2日)


は、アメリカのデアデビル・スタントパイロット、そして映画俳優でした。

彼のイケてる容姿と飛行サーカスはハリウッドの目に留まり、
航空郵便機が空中で悪者と戦うアクション映画、

『The Great Air Robbery』(1919年)

で主演を務めるまでに出世します。

20歳のころ、故郷フォートワースで有名なバーンストーマー、
カルブレイス・ペリー・ロジャース(当ブログでは紹介済み)
と出会った彼は、航空機に魅了されるようになりました。

そして1917年、アメリカ陸軍航空局に入隊し、
陸軍で訓練を受け、飛行教官として仕事をしていました。

第一次世界大戦末期、少尉だったロックリアは、
軍に人を集めるための広報部門に所属していましたが、
その頃実際に見たバーンストーミングショーより、
自分の普段の飛行活動の方がはるかに素晴らしい!と感じたことから、
陸軍の二人の同僚を誘って退役して、

「ロックリア・フライング・サーカス」

を結成し、活動を始めました。


でこういうことをやっていたと

彼のスタントグループは大成功で、マネージャーともども大金を稼ぎ、
そのお金で豪奢でモダンな生活ができていたといいます。

彼のトレードマークであるスタントは、
飛行機から別の飛行機に飛び移るという危険極まりないもので、
さらにその後、その技を発展させた「死の舞踏」という技は、
2機の飛行機に乗った2人のパイロットが空中で場所を入れ替わるという
文字通り命知らずのパフォーマンスでした。

彼のスタントが有名になると、ハリウッドでは
彼は映画のスタントマンとして引っ張りだこになります。

そして今や「世界一の航空スタントマン」と言われ、
自身が映画界に進出する道が開かれることになりました。



そしてロックリアは、パイロットたちが航空便を飛ばす様子を描いた映画
『The Great Air Robbery』の主演に契約することになりました。

撮影ではロックリアがカーチスJN-4「ジェニー」で、
飛行機から別の飛行機に乗り換え、地球上数千フィート(おそらく)で
飛行機の尾翼に立つ空中スタントを披露します。

映画はスタントパイロットの活躍を扱った戦後映画の第一弾として、
おおむね好意的に評価されました。

『The Great Air Robbery 』は商業的にかなりの成功を収め、
これに気をよくした彼はハリウッドでのキャリアを続けたいと思いました。

というか、航空ショーでのバーンストーマー生活は結構過酷なので、
もうこれから足を洗おうと考えたのかもしれません。

そして1920年4月、『スカイウェイ・マン』に出演する契約をしました。



しかし、この映画でのスタント飛行の場面は多くなく、
ロックリアの航空機が教会の尖塔を倒すとか、
航空機から電車に飛び移るという二つのスタントはいずれも問題が多く、
ほとんど失敗と酷評されることになりました。

パーソナルライフも、こういう人にありがちな不幸な結果となりました。

最初の結婚はあまりにも二人の性格が違いすぎて早々に別居となりましたが、
相手のルビー・グレイブスは離婚をあくまでも認めず、
二人はロックリアが亡くなるまで法的には夫婦のままでした。



グレイブスと別居中、ロックリアは未亡人のサイレント映画女優、
ヴィオラ・ダナと交際を始め、ロックリアが死ぬまで付き合っていました。

ゆえに彼女は目の前で恋人の死を目撃することになりました。

【事故死】

『スカイウェイマン』の撮影のころ、ロックリアは、
家庭生活が乱れていただけでなく、映画会社に契約の意思がないことを知って
大きなプレッシャーを感じていました。

撮影予定最後となるスタントは最初昼間に行われましたが、
彼は夜間飛行を許可するよう要求して、スタジオはこれを許可しました。

珍しい夜間飛行によるスタントということで、大々的に宣伝されたため、
現地には撮影を目撃するために大勢の人々が集まっていました。

フィールドにはカーチス「ジェニー」を照らすため、
大きなスタジオのアークライトが設置され、
機体が最後のスピンに入るとライトには水がかけられました。

飛行機が油井のそばで墜落したように見せるために、
油井の桟橋に向かって飛び込むというシナリオでした。

この撮影の前に、ロックリアは照明係に、

「ライトを消しても、僕は自分のいる場所がわかっているから大丈夫」

として、デリックに近づいたらライトを消すように言っていました。
一連の空中操縦を終えたロックリアは、降下の合図を出しました。

そして、観客や撮影クルーが見守る中、
彼と長年のフライトパートナー、エリオットの操縦するジェニーは、
スピンの初期状態から抜け出せないまま、油井のプールに墜落し、
大爆発と火災を引き起こして二人は死亡しました。

事故後の調査で、5つのアークライトが完全に点灯したままであったため、
パイロットはそれで目が眩んだのではないかとの憶測が流れました。

普通ならそこで映画はおじゃんになるところですが、
この頃の映画界のモラルはいい加減というか、商魂たくましく、
夜のシーンを除く全編がすでに完成していたため、
フォックスは『スカイウェイマン』の公開を急ぎました。

致命的な事故を利用することを決定したのです。

「ロックリアの壮絶(そして致命的)な
最後のフライトを映し出すフィルムの全貌」

センセーショナルな事故の報道と合わせて広告キャンペーンを打ち、
映画の内容は急遽、彼の以前の功績に焦点を当てるものに変わり、
模型展示と展示飛行を組み合わせたドキュメンタリー作品になったのです。

映画の公開時に、フォックス映画社は利益の10%を
ロックリアとエリオットの家族に寄付することを発表しました。

ロックリアの家族って・・・別居していた元妻ってこと?

それでは故人はおそらく納得しないと思うがどうか。



ロックリアの死亡診断書です。

配偶者はルビー・ロックリアのまま。

死亡日時1920年8月2日、
死亡原因、飛行機事故による全身粉砕と火傷、
埋葬地はテキサスとあります。

死亡時年齢27歳、職業飛行家。



続く。




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