ナイアガラの滝を見るトリップのために調べていて、
「ネイバルパーク」なる文字を見つけました。
正式には
The Buffalo and Erie County Naval & Military Park
(バッファロー&エリー郡海軍軍事公園)
という名前の軍事博物展示です。
ところでみなさん、ナイアガラの滝は何州にあるかご存知ですか。
なんと、ニューヨーク州なのです。
ニューヨークという街は位置的にニュージャージーかコネチカットのはずなのに、
ニューヨーク州がむりやり手を突っ込む様にしてがっつり確保していて、
そのおかげでNY州はエリー湖と大西洋どちらの水路も確保しているのです。
そして、エリー湖に面したニューヨーク州のバッファロー、
そしてエリー郡の名前を冠したこのネイバルミュージアムですが、
1979年に最初に一般公開された
国内最大の内海海軍&軍事公園
となっています。
まあ、ほとんどの海軍軍事公園的なものは
外海に面しているわけですからそうなるでしょうって感じですが。
ナイアガラの滝を見たあと、次にどこに行こうという話になったので、
わたしが運転者の権限でそこに行くことを決定し、車を走らせました。
ナイアガラから車で30分走るとバッファロー市街地です。
エリー湖岸からは屋上に自由の女神が立っている旧リバティ銀行、
リバティビルディング(右)とエリー郡庁舎の時計台が見えます。
時計台の庁舎は1870年代、リバティビルの建築は1925年です。
どちらもバッファローで最も高い建物のうちの二つとなっています。
ナーバルパークはエリー湖からナイアガラ滝を経てオンタリオ湖に続く
ナイアガラ川の河口の近くにあります。
写真の灯台の向こう側にはエリー湖が広がり、湖上の国境線から向こうはカナダです。
駐車場らしきものはなかったので、写真の右側の道路沿い車を停めて
わたしだけカメラを持って車から降りました。
「滑らないように気をつけてねー」
MKは寒いうえミリタリーにほとんど興味がないので車でお留守番です。
地面の白い部分は雪が陽で溶けてほぼ氷になっているところなので、
言われるまでもなく地面と並行に足裏を着地させなくては滑って危険です。
抜けるような冬の青空に翩翻たる星条旗。
これが遠くからのナーバルパークの目標になりました。
あーなんだか久しぶりにしっくりする眺めだわ。
近づくにつれ逸る気持ちを押さえてペンギン歩行を心がけます。
よたよたとたどり着いたところに現れたのはいかにも慰霊碑。
西ニューヨーク地方におけるベトナム戦争の戦死者の碑です。
ベトナムの田園と月と兵士。
碑にはベトナム戦争のベテランのこんな詩が記されています。
彼らは求められ、そしてそれに答えた:
神を少ししか求めなかった:
彼らの死は我々を苛んだが
しかし、その犠牲は我々を豊かにもした
死者を偲んで我々は生を受け入れる:
なぜなら我々は何よりそれを記憶するべきだから
右側のウィングにも延々とベトナム戦争の戦死者の名前が続きます。
こちらにもベテランの「兵士」という詩が記されています。
「兵士」
私は誰もなりたくないものになった
私は誰も恐ろしくて行かないところに行き
そして他の人がしないことをした
私はそれらに何も求めず それらも私に何も与えなかった
そして不承不承 私がヘマをしたが最後陥る
"永遠の孤独"の運命を受けいれた
私は凍るような恐怖に突き刺さされた顔を見た
そしてそれによる甘い一瞬の快楽の味を楽しんだ
泣いた 苦悩した そして 希望を抱いた
しかし何よりも私は
皆が忘れてしまうがよいというに違いない時代を生きた
少なくともいつかは こう言うことができるだろう
私は私自身を誇れるもの・・そう 兵士であったと
対の碑の間に見えているのはUSS「リトルロック」の左舷側の錨です。
錨そのものについての説明は次のようなものです。
1942年に製造された錨は、重量7トン、高さ10フィート(約3m)、
幅7.5フィート(約2.1m)。
各錨鎖の重量は65ポンド(約30kg)で、艦には2つの錨のために
135ファゾム(815フィート)の鎖を搭載していました。
ファゾム(fathom)は、古英語で
「いっぱいに伸ばした腕」という意味のfæthmが由来です。
元々は、両手を左右にいっぱい伸ばしたときの幅に由来する身体尺で、
特に水深の単位としてよく用いられます。
ここから派生して、英語でfathomは「測る」(measure)という意味の動詞、
さらに「真相を究明する」(get to the bottom of)や、
「理解する」(understand)といった意味にも使われます。
なお、ここでいう鎖の135ファゾムは約247メートルくらいとなります。
巡洋艦「リトルロック」についての説明も翻訳しておきます。
USSリトルロック(アーカンソー州の首都に因み名付けられた最初の米軍艦)は、
ペンシルベニア州フィラデルフィアのクランプ造船会社によって建造され、
1945年6月17日に軽巡洋艦として米海軍に就役しました。
1957年から1960年の間に、USSリトルロックはニュージャージー州カムデンの
ニューヨーク造船所によって誘導ミサイル巡洋艦に改造されました。
冷戦中は地中海で広範囲に活動し、1967〜1970年、1973〜1976年の期間、
イタリアのガクタにおける第6艦隊の旗艦として活躍しました。
軍籍廃止は1976年11月22日。
1977年7月15日に博物艦、そして公式の記念碑としてバッファローに到着しました。
おお、これがもしかしてその巡洋艦「リトルロック」だったのですか。
左舷の錨鎖が海に落とされていますが、これは「演出」で、
本物は陸揚げして展示されているということなんですね。
ピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館の展示のログで
赤い枠に金色の星のフラッグを紹介したことがあります。
これはゴールドスターファミリーに与えられる旗で、
窓にそれがかかっている家の家族の誰かは戦死しており、
ゴールドスターを贈られている、という目標になります。
当ミリタリーパークは
アメリカ合衆国を守るため究極の代償を払った
愛する家族をもつゴールドスターファミリーへのオマージュ
であるとその使命がここに記されています。
ミリタリーパークであり、軍人顕彰碑のあるメモリアルパークでもあります。
1939年から1946年まで存在した特別海兵隊ユニットの顕彰碑です。
そういえば後ろのアパートはマリーンストリートという道沿いに建っています。
碑には、
1939ー1946にアメリカ合衆国海兵隊と海軍に奉職した
全ての男性と女性に捧ぐ
とあります。
スペシャルマリーン、というのは、第二次世界大戦前から戦後にかけて
海兵隊が2個旅団から6個師団、5個の航空集団、および支援部隊を増設し、
20個師団の防衛大隊とパラシュート大隊が編成されたことを指します。
その結果海兵隊員は合計で約485,000人となり、
第二次世界大戦中、そのうち約87,000人が死傷(約20,000人が死亡)。
82人が名誉勲章を授与されました。
碑の土台部分には
Deffence Battalions 防衛大隊
AntiAircraft Artillery 対空 砲兵
Airdrome battalions 航空大隊
Barrage Balloon squadrons 弾幕風船部隊
Glider Group グライダー小隊
Parachute Battalion パラシュート大隊
Raider Battalions 急襲部隊
と特別海兵隊として存在した隊が記され、その下に
海兵隊のモットーである、
The Few The Proud The Marines
が見えます。
Marines - The Few, The Proud
同名の必要以上にかっこいい海兵隊のビデオをどうぞ。
クリスマスのデコレーションが遊歩道に沿ってあしらわれていました。
キモ可愛いサンタさんの帽子に書いてある
Flatten The Curve
ですが、直訳すると「カーブを平らにする」ですね。
実はこの言葉、中共ウィルスが蔓延して以降よく聞かれるようになりました。
統計感染者の数を示した二次曲線を平らにする、つまり疫病を押さえ込むを言う意味で、
ここに書いてあるのは
疫病退散祈願
みたいな意味が込められているのだと思われます。
疫病のせいで本来なら艦内ツァーができるところ中止されているのですから、
ミリタリーパークとしては一日も早い疫病退散を祈らずにはいられないはず。
HPによると、来年の四月には再オープンを予定しているようですが、
わたしもその暁には必ずもう一回来るぞ!と早くもここで心に誓いました。
続く。
日本にも慰霊碑や忠霊塔はありますが、地味な存在ですよね。アメリカでは一等地にあったりしますが、イスラエルには、こういうものはありません。なんでないんだと聞いたら「国民すべてに戦争が身近だから」だそうです。
確かに毎朝、ヘリコプターが大挙して出動して、夕方になると帰って来ていたし、街中でいきなり爆弾テロがあったりしましたが、皆さんきちんと警察の指示に従って、うろたえるでもなく、淡々としていました。
ベトナム戦争の後、徴兵がなくなってからのアメリカは、ちょくちょく戦争をやってはいますが、身近ではなく、どこかでやってる感じですよね。基地のある街では、黄色いリボンが掛けてあったりしますが、戦争の影はほとんど感じません。Patriotismを維持するためには、こういうものを作らないといけないのだと思います。
お正月で戦艦大和と空母信濃のNHKスペシャルを再放送していました。どちらも乗り組みだった方のインタビューがありました。下士官や士官はもうほとんど鬼籍に入っているので、出て来る方はほとんど少年兵(当時16~18歳くらいで、現在は80代後半)でしたが、大和乗組と信濃乗組の方の違いが面白かったです。
大和は、いわば日本海軍の象徴ですが、同型で空母に改修された信濃は、戦闘に参加していないこともあり、存在感が薄いと思います。ご自宅で撮影されているのですが、大和乗組の方は全員、背景に大和の写真か模型が誇らしげに飾ってあるのですが、信濃乗組の方で信濃ゆかりの品を飾っていた方は皆無でした。
大和乗組の方には「国のために戦った。感謝されてもいいのではないか」とおっしゃる方がいましたが、信濃乗組の方は「戦うことなく沈んでしまい、お国の役には立てなかったので、忘れられていいと思う」とおっしゃっていました。
大和は最後が壮烈だったし、世界最大の戦艦だったので、日本海軍の象徴のように思われていますが、実際には戦果らしい戦果はありません。インタビューでも主砲方位盤配置だった方が「自分が知る限り、一度も主砲発射は行っていない」(レイテ海戦では主砲発射を行っていると私は聞いたことがあります)とおっしゃっていました。戦果らしい戦果がないという意味では、大和と信濃にそれ程大きな差がある訳ではありません。
あの違いはどこから来るんだろうと思って見ました。国がひっくり返る程の負けはなかったアメリカと違って、我々は自信を無くしてしまったんでしょうね。
外洋からどのように遡上したのでしょか?セント・ローレンス川から5大湖経由?ナイアガラ滝があるからどこかに閘門があるのかなあ。
軽巡「リトル・ロック」CL-92
クリーブランド級27隻の1隻です。このクラスは1940、41、42年年度で41隻計画されましたが9隻は軽空母、2隻が改設計のファーゴ級となり、3隻が建造中止となり、1942年6月から1946年10月までの竣工となりました。
クランプ社として同型4隻目で1945年6月竣工でこの後2隻が建造中で「ヤングズタウン」CL-94は建造中止、「ガルヴェストン」CL-93は建造中断でしたが10年以上後にCLG-3として竣工しました。
戦没艦はなく、戦後一旦退役し、CLGとして再役した5隻を除き、保管期間が6年から24年位で売却や実験艦で海没処分となっています。
要目
基準排水量10,000t、全長186m、幅20.2m、吃水7.5m、缶4基、蒸気タービン、4軸、100,000馬力、速力32.5kt、兵装47口径152㎜3連装砲4基、38口径127㎜連装両用砲6基、40㎜4連装機銃4基、40㎜連装機銃6基、20㎜単装機銃10基、水上偵察機4機、装甲水線127㎜、甲板51㎜、砲塔165㎜、司令塔127㎜、乗員1,255名
「リトル・ロック」はCLGに改装された1隻であり1946年6月一旦退役し、1960年6月CLG-4として再就役、1976年11月26日除籍されました。
なお改装には2種類あり、「リトル・ロック」は大規模な方で152㎜3連装砲は1番のみ残置し、艦橋構造物は前方に延長拡大、2番砲の位置に127㎜連装砲が移動し、後部にテリアミサイルの連装発射機MK-9が誘導レーダー2基とともに搭載され、マストは3本で対空見張用や3次元レーダーを装備しました。
参照海人社「世界の艦船」No464