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STLL ON PATROL(未だ哨戒中)〜バッファロー&エリー郡海軍軍事公園

2021-01-04 | 博物館・資料館・テーマパーク

ニューヨーク州エリー郡バッファローにある海軍軍事博物館を訪れています。
本題の艦船に入る前に、公園内に設置されている記念碑、慰霊碑を紹介します。

●朝鮮戦争慰霊碑

朝鮮戦争の慰霊碑と、それに向かい合うように
同じく西ニューヨーク州出身の戦死者名が刻まれた石碑があります。

●駆逐艦「フランク・E・エバンス」

駆逐艦USS「フランク・E・エバンス」
Frank E. Evans DD754

の慰霊碑です。

誇りを持ってともに航海し 祖国のために究極の代償を払った
乗組員とこの艦を わたしたちは決して忘れません

と碑には刻まれています。
この駆逐艦はどのような犠牲を払ったのでしょうか。

「アレン・M・サムナー」 であるUSS「フランク・E・エバンス」(DD-754)は、
第一次世界大戦のときフランスに遠征軍として派遣された

フランク・エドガー・エバンス准将

 

の名前を冠した駆逐艦です。
海兵隊将校の名前が海軍艦に冠されている理由は、海軍戦争大学、
ハイチの司令官、ワシントンDCの海軍部の海軍作戦部長、
フィラデルフィアの海軍造船所司令官兼地区海軍士官を歴任し、
海軍十字章、パープルハートメダルを受賞したことによるものでしょう。

 

ニューヨークのるベツレヘムスチールカンパニー造船所で起工し、
エバンス准将の未亡人の主催により進水を行った「フランク・E・エバンス」は、
第二次世界大戦でエニウェトク、グアム、ウルシー、沖縄などで
護衛任務とレーダーピケット艦の役目を負い、その任務のあいだ
しばしば日本軍の航空機と戦うことになりました。

終戦後は1946年まで極東で戦争捕虜解放などを補助し、
1949年に一旦予備役に入れられます。

朝鮮戦争勃発後再就役し、第7艦隊に加わった彼女は、
元山の包囲戦に参加し、敵の沿岸砲台と11回交戦しました。

その中で、30発の榴散弾の打撃を受けたのにも関わらず被害は乗員の軽傷4名のみ、
最終的に敵の砲台を沈黙させるという戦闘を行い、これ以降彼女は

「ラッキー・エバンス」🤞
「グレイ・ゴースト」👻

というニックネームで呼ばれることになります。

また彼女は、1954年11月、台湾海峡でパメラ台風に遭い操舵制御を失った
USNS「マスキンガム」のSOSを受け、すでに安全海域に避難していたにも関わらず
再び暴風域に突入し、5時間航行ののち「マスキンガム」のもとに駆けつけました。

幸い「マスキンガム」は「エバンス」が到着する前に体勢を立て直していましたが、
「エバンス」にピューリッツァー賞を受賞した特派員ホーマー・ビガートが乗っていて
その勇敢な行動は広く報道され彼女を有名にします。

USS「フランクE.エバンス」1963年4月

 

●HMAS「メルボルン」との衝突事件


事故後の現場

 

1969年6月3日深夜3時、「フランク・E・エバンス」は、英海軍、豪海軍、
そしてニュージーランド海軍共同での対潜訓練のための艦隊行動中でした。

フォーメーション内のすべての艦は無灯火で航行していました。
このとき、オーストラリア海軍の空母「メルボルン」が「エバンス」に
空母の左舷側の「駆逐艦レスキューポジション」に付くように打電しました。

このときのロジカルな動きとしては、「エバンス」は左舷に転舵し、
外側に円を描くようにして空母の左舷艦尾側に位置するべきだったのですが、
「エバンス」はフォーメーションの基礎的な進路を誤解し、
「メルボルン」の右舷に位置するものと思い込んで艦首を逆に右舷に向け、
その過程で空母の艦首前を二回横切ることになってしまいました。

Animation of a carrier and a destroyer. The carrier is travelling in a straight, downward-sloped line across the frame. The destroyer starts near the bottom of the frame, turns in a clockwise arc to travel up the frame past the oncoming carrier, then turns sharply back into the carrier's path.

これを見ていただくとおわかりのように、「エバンス」が一度目に
「メルボルン」の艦首先を横切ったあと、左に転舵していれば
同じく左側に転舵した「メルボルン」との衝突は避けられたのですが、
なぜか右側に舵を切って「メルボルン」の進路を塞ぐ形になってしまいました。

その結果、空母の艦首は「エバンス」の左舷艦首の28m後方に激突し、
次の瞬間「エバンス」は真っ二つに切断されました。
彼女の艦首は「メルボルン」の左舷側に落下し、73人の乗組員が脱出するまもなく
艦内に残されたまま艦体はわずか5分後に沈没しました。

艦内の73名に加えて海中から遺体が一体収容され、犠牲者は合計74名、
約60〜100人の乗員は救出され、迅速に「メルボルン」に収容されました。

事故発生時、「エバンス」艦長は隊形に変更があったら起こすように、
と指示を残して就寝中でしたが、甲板士官も甲板士官補佐(少尉)のどちらも
位置変更を命じられたことを艦長に報告していません。

さらに艦橋もCICから周辺の艦位と動きの情報を取るということをしていませんでした。

ちなみにこの二人のうち一人は「スタンドワッチ」の資格試験?に落ちており、
もう一人は艦隊勤務に入ったばかりで初めて海に出るという状態でしたが、
運の悪いことにこの瞬間この二人が「エバンス」の全責任を負っていたことになります。

 

USS「フランク・E・エバンス」、事故が起きてから約1ヶ月後の1969年7月1日、
事故のあったスービック湾で退役し、海軍船籍簿から抹消され、
海上に残された艦尾部分は標的として沈没処分になりました。

 

●潜水艦「グレネディア」の魚雷と慰霊碑

潜水艦の魚雷が展示されていました。
撃沈された「グレネディア」に装備されていたものですが、
これを設置したのは第二次世界大戦潜水艦隊ベテランの会です。

右側の米海軍潜水艦隊の徽章の下にはこう書かれています。

「この組織の目的は、潜水艦戦で命を落とした船員の記憶を永続させることです。
第二次世界大戦では52隻の潜水艦が失われ、
374名の士官、3131名の下士官兵が潜水艦戦で命を落としました。

この記念碑は彼ら『未だ哨戒中』の男性たちに捧げられています」

 

USS「グレナディア」Grenadier SS210は、タンバー」級潜水艦で、
艦名はソコダラ科の魚の総称に因んで命名されました。

1941年に就役後六度目の哨戒活動でマラッカ海峡に向かった「グレナディア」は
船団攻撃を行わんとして特設砲艦「江祥丸」(名村汽船、1,365トン)に発見され、
これから逃走中、第九三六航空隊の艦上攻撃機の攻撃を受けました。

「グレナディア」の動力と照明は完全に停止し、82メートルの海底に沈座。
操舵室では火災が発生した一方、乗員は必死に修理を試みましたが、
推進システムを失ったまま13時間経過後浮上し脱出を試みます。

浮上した「グレナディア」は航空機と特設捕獲網艇「長江丸」(三光汽船889t)
に攻撃されたため、
艦を廃棄して8名の士官と68名の乗組員は日本軍の捕虜となりました。

石碑にはこの日本での捕虜期間に死亡した4名の名前が刻まれています。

 

●その他の慰霊碑

西部戦線ではポーランドは連合国軍側として戦いました。
この碑は「自由のために」戦ったポーランド陸軍と、
情報局の男女を讃えるために設立されました。

見る人が見ればわかるポーランドの国土を表しているのでしょう。

「汚辱の日となるだろう」(A date that will live in infamy)

というルーズベルトの演説の一部が刻まれた真珠湾攻撃による犠牲者慰霊碑。

イラク、アフガニスタンにおける戦死者名が刻まれた顕彰碑です。
トランプ政権はイラクとアフガンからの撤退を進めようとしていますが、
クリスマスまでの完全撤退はマコネル院内総務の牽制で叶いませんでした。

The Battle Within PTSD Monument
つまり
「PTSDの中での戦い」を特に顕彰した碑です。

A tribute to those we will always carry,
and to those we can no longer hold

私たちがいつも持っているもの そして
私たちがもはや持つことができないものへのオマージュ

という言葉が刻まれ、傷ついた兵士を抱える兵士の姿があしらわれています。

ヒスパニック系アメリカ人の全てのベテランを顕彰する碑です。
碑には、

スペイン、メキシコ、プエルトリコ、キューバ、グアテマラ、
アルゼンチン、コスタリカ、ウルグアイ、パラグアイ、
ペルー、チリ、ボリビア、エルサルバドル

などの彼らのルーツとなる国の旗があしらわれています。

「パープルハート顕彰碑」

1775年以来の国家の戦いに命を捧げ、あるいは傷ついた
西ニューヨーク出身パープルハート受賞者のための碑です。


さて、それでは次から展示されている軍艦を(外からではありますが)
ご紹介していきます。

続く。



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4 Comments

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エバンス (Unknown)
2021-01-05 07:04:33
>このときのロジカルな動きとしては、「エバンス」は左舷に転舵し、外側に円を描くようにして空母の左舷艦尾側に位置するべきだったのですが「エバンス」はフォーメーションの基礎的な進路を誤解し「メルボルン」の右舷に位置するものと思い込んで艦首を逆に右舷に向け、その過程で空母の艦首前を二回横切ることになってしまいました。

一番簡単なのは「エバンスは停止して、空母をやり過ごしてから増速して、空母の左後方に就く」ですが、それだと時間が掛かります。(自衛隊でそれをやると言ったら「教育的指導」となる(笑))迅速にやろうと思ったら、この時のエバンスの運動になります。

中尉がおっしゃる「外側に転舵」するやり方だと、空母の後方に就くには、内側に転舵する方法に比べて、長い距離を走らないといけないので、行き着けない可能性があります。

要領としては、空母の方に向かって取舵回頭する時に思いっ切り加速して、空母と反航態勢になった時点で減速。やり過ごしてから(ここ大事)取舵回頭で、空母の左斜め後方に就きますが、空母の前方で取舵回頭しているのが致命的です。

操艦者のミス?と艦長が艦橋にいなかったこと(日本だと法的にはOKでも、艦長のあるべき姿としてはNG。あたごがこのパターン)が原因の事故なので、亡くなった方は「Ultimate Sacrifice」であることには同意しますが、ちょっとみっともない話なので、日本だったら、記念碑にはならないでしょうね。
返信する
訂正します (Unknown)
2021-01-05 07:55:52
>要領としては、空母の方に向かって取舵回頭する時に思いっ切り加速して、空母と反航態勢になった時点で減速。やり過ごしてから(ここ大事)取舵回頭で、空母の左斜め後方に就きますが、空母の前方で取舵回頭しているのが致命的です。

空母の方に向かって「面舵回頭」でした。済みません。
返信する
「フランク・E・エバンス」 (お節介船屋)
2021-01-05 13:40:28
アレン・M・サムナー級70隻(高速敷設艦として完成した12隻を含む)の1艦でした。1942~45年度計画でフレッチャー級の改良設計でしたが127㎜砲を連装とし、前部に2基搭載したため荒天時、艦首が没しやすい傾向で高速化した艦隊随伴が困難となり当初の100隻建造から30隻も減少しました。4隻が戦没。
戦後FRAM改造で対潜艦として1970年代初めまで使用されました。
台湾、ギリシャ、アルゼンチン、ブラジル、トルコ、韓国等に譲渡もされました。
要目
基準排水量2,290t、全長114.76m、幅12.45m、吃水4.32m、主缶4基、蒸気タービン、2軸、60,000馬力、速力36.5kt、兵装127㎜38口径連装両用砲3基、40㎜4連装機銃2基、40㎜連装機銃2基、20㎜単装機銃11基、533㎜5連装魚雷発射管2基、爆雷投射機6基、爆雷投下軌条2条、乗員336名

「フランク・E・エバンス」はベツレヘム社で1945年2月竣工ですがFRAMⅡ改造で後部を改造し、魚雷発射管、機銃等撤去しダッシュ格納庫、飛行甲板とし、ダッシュ搭載、爆雷関係を撤去し、VDSを装備していることが写真から分かります。
参照海人社「世界の艦船」No496
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何度も済みません (Unknown)
2021-01-05 14:22:41
左斜め前方のエバンスが空母のうしろに就く運動を自衛隊では「反転入列」と言って、各艦で、時間を競います。こんなことをやっても、実戦では役立たないのではないかという人もいますが、エバンスの事故を見ても、こういう素養があるとないとでは違うと思います。

空母と反航態勢ですれ違う時、互いの相対速度はかなりになり、緊張しますが、ゾクゾクします。やり過ごして、取舵を取って、一度でピシッと所定位置に就くと、自分に拍手したくなりますが、的外れな位置だったら、艦長の罵詈雑言を浴びることになります(笑)
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