ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「白バラの祈り ゾフィー・ショル 最後の日々」~彼らを取り巻く人々

2011-12-11 | 映画

  

パイプを咥えたクリストフ・プロープストがあまりにも絵心を刺激するので最初に描いてしまい、
なし崩し的に肝心のショル兄妹を二人とも描かないわけにいかなくなりました。
三人とも絵になる写真を残しているので、苦ではありませんでしたが。


「白バラ事件」をご存知でしょうか。
第二次世界大戦中、ミュンヘン大学構内で反ヒトラーのアジビラを撒いた学生が、
簡単な裁判の末その日のうちに斬首刑になった事件です。

白バラ抵抗運動のことは、近代史に興味を持っていた高校時代から本を読んで知っていました。
学生が、しかもビラを撒いたと言うだけのことで即日処刑されてしまうというような弾圧が、
ヒトラー政権下では行なわれていたということに対する驚き。
そのうち一人が21歳の女性であったことはさらに衝撃でした。
もっと簡単に言うと「ビラまいただけで敵国人でもない女の子をギロチンにかける」世界が、
わずか数十年前に存在したということに対する言いようのない不安と恐怖でしょうか。



映画「白バラの祈り ゾフィー・ショル 最後の日々」は、
ビラをまく日から尋問を経て裁判の末、その日のうちの処刑に至るまでを、
時系列で淡々と描きます。
フラッシュバックもなければ幼き日の回想シーンもありません。

焦点をずらさずこの5日間だけを描いたこの手法は、端的に彼らを取り巻く事共を浮かび上がらせ、
どのような人々が彼らの「犯罪」にどのような態度で当たったかを表現することによって、
映画の目的でもある、独裁下ドイツにおけるこわばった空気を伝えることに成功していると言えましょう。

この事件そのものの不条理さについてはいろんな意見がもう百出していますので、
今日は視点を変えて、彼らをその5日間に取り巻いた人々について語ろうと思います。



まず、一人目。
ショル兄妹がビラをまいていたところを目撃し、取り押さえ警察に引き渡す、ミュンヘン大学の用務員シュミット

この人物は、昔読んだ本でもかなり批判的な口調でその行動や、戦後を語られていた覚えがあります。
映画でも「こいつらをぶん殴ってやる」などと興奮して叫び、
証拠を隠そうとしたハンス・ショルに飛びかからんばかりに激高する様子が、
いかにも小物臭を漂わせていました。

彼はこのときの報償として3千マルクを与えられ、さらに大学では昇進しています。
さぞ得意のうちに自分の告発した若者たちの処刑死を知ったのだと思われますが、
戦後連合国に逮捕され、釈放後も公職から追放されました。
しかし、彼にとっては何の後悔もなかったものらしく、「義務を果たしただけだ」とうそぶき、
さらに獄中から二度にわたって恩赦の嘆願をしています。

二人目。
「見張り役」としてゾフィーのそばにいた囚人女性、エルゼ・ゲーブル
彼女もまた反ヒトラーの罪で収容されているだけに、ゾフィーに対しては並々ならぬ同情を寄せます。
夜も一緒にいたため、ゾフィーの告白を聴くことになり、戦後この日々を描いた本を著しています。
この映画のエピソードはこの著書から取られています。

三人目。
ゾフィーを取り調べる尋問官、ロベルト・モーア
為政者ヒトラーに疑問を持たず、総統とナチス政権の正当性を彼女にかなり興奮して説き、
自分の信念を開陳するのですが、同時に彼女に一人の人間として、
あるいは同年代の息子を持つ父親として、同情と「何故こんな馬鹿なことを」という憐憫を見せます。
実際に彼女を取り調べたモーアも、そのような人物であったようです。

しかし、厳しい追及の末ゾフィーが自白し、さらに彼女が堂々と自分の信念の赴くところを述べてからは、
はっきりと彼女に対して尊敬と畏怖すら感じていた様子を、
名優アレクサンダー・ヘルト(シンドラーのリストに出演)が演じています。

四人目。
人民裁判の裁判官、ローラント・フライスラー
もし、この人物を描写する部分が無ければ、わたしはこの映画について語らなかったと思います。

「愚かな売国奴め!おまえのような奴はドイツの子供の父親になる資格など無い!」
「学生がくだらんたわごとをまき散らすために、貴重な紙を使ったのか、馬鹿者が!」

(何か言いかけたのをいきなりさえぎって)
「ヤーかナインかではっきり答えろ!」
(最終弁論で『わたしを罰して子供のあるプロープストに寛大な処置を』と訴えたハンスに)
「自分を弁護する気が無いなら黙ってろ!」

・・・・・・・・・。

な、なんなんだこの○○○○裁判官は?

開始時、この裁判官始め全員で「ハイルヒッタラッ」をやる裁判ですから、
弁護人など形だけ、被告の弁護などする気もなく弁明を聴く気も猶予する気もありません。
最初から反ヒトラーの人物を見せしめに処刑にすることが決まっている裁判です。
それにしても、酷い。酷過ぎる。

そこで調べたところによると、この人物は
あなたの政治的兵士・ローラント・フライスラー」
という手紙をアドルフ・ヒトラーに送っているように、ナチ党員の「殺人裁判官」です。

稿末に被告を罵るフライスラーの映像が観られるyoutubeのアドレスを挙げておきましたので、
観ていただければ、この映画の裁判シーンが決して演出でも創作でもないことがよくわかっていただけるでしょう。

わたしはこれを観たとき、即座にフランス革命裁判においてやはり「殺人マシーン」の異名をとった
裁判官フーキエ・タンヴィルの名を思い出しました。
ルイ一六世やマリー・アントワネット始め多くの貴族を、
でっち上げや人違いすらものともせずギロチン台に送ってきたこの悪名高い裁判官は、
その後自分がその革命裁判にかけられ、自己弁護を許されないまま自らが斬首されています。

そのタンヴィルの末路を知っていたのかどうか。
ゾフィーは最終弁論でこの言葉をフライスラーに投げつけるのです。

「今にあなたがここに立つわ」

フライスラーが連合国の裁判に立ち、その命で自らの暴虐の贖いをすることは許されませんでした。
終戦前、連合国軍の爆撃が裁判所を直撃し、がれきの下からその死体がみつかったのです。
これを「天の裁きが下った」「因果応報」と言っても、おそらく本人以外からは何の文句も出ないでしょう。


こうしてみると、

「政治に何の疑問も持たず、大勢(たいせい)に自分の思想や善悪の判断すら委ねる小市民」
(シュミット)

「自分の思想に忠実に反体制を実行に移し迫害される者」(ゲーブル)

「為政者の組織に属し、その体制に与するがゆえに任務を忠実に果たすが、
必ずしもその良識と良心まで売り渡しておらず、したがってときに体制への疑問を持つ者」
(モーア)

「為政者の組織に属し、その思想に心酔し、任務に忠実に、
さらにその大義名分の上で得た己の権力に陶酔しこれを濫用する者」(フライスラー)


という、ある社会体制には必ず一定数存在するタイプの人間が、描かれていることに気付きます。

尋問のとき、モーアがゾフィーに煙草を勧めながら聞きます。
「喫煙はしますか?」
ゾフィーは
「時々吸いますが、今は結構です」とこのときは煙草を断ります。

三人の処刑が決まった後、偶然のように通路に佇み、ゾフィーを無言で見送るモーア。
そして、それまで無表情に彼女に接する処刑場の女看守が、
「規則違反だけど」
と言いながら、三人をこっそり会わせて、一本の煙草を渡し、姿を消します。
これは事実で、昔読んだ本でも印象的な部分でした。

無言で一本の煙草を回し飲みする三人。

この計らいがモーアのものだったのだと思わせる伏線です。


ところで、映画について書くとき、わたしは必ず一通りの感想に眼を通します。
自分の感想や意見が、どの程度一般的なものと一致しているのかを確認する作業なのですが、
今回、こんな意見を目にしました。

「感動どころか怒りすら覚えた。
ナチスの費用で大学に通う身分なのにビラくばりをするゾフィー達には全く共感できない。
ビラ程度で世界を変えられると思っている彼らが正義の象徴を描かれていることに納得がいかない。
人間の本質も戦争の恐ろしさも、自由の大切さも何も伝えてはこない」


同じ政権下にもいろんな人物がいるように、同じ映画を観てもこんな見方をする人もいる、
ということですね。
二行目からは、フライスラーが被告に投げつけた糾弾と、全く同じです。

「レジスタンス運動としては計画がずさんすぎる」

というのが感想の全て、という人もいました。
この人たちはどうやら白バラの活動そのものがお気に召さない模様です。

その「ずさんな計画」しか起こせなかった程度の学生が、
正式な裁きの場で罵倒され、人格を否定され、その日のうちに命を絶たれてしまったという事実は、
彼女ら(どちらも女性)にとって、異常でも、自由の侵害でも、戦時下の弾圧でもないというのでしょうか。

とくに前者は、映画のストーリーに100点満点の20点つけているんですが、
三文脚本家が書いたストーリーじゃなくて、本当にあったことなんですよ?




被告を罵倒する裁判長フライスラー






哀しきライトウェイト・ダウン

2011-12-10 | つれづれなるままに

以前、ある人とブログと言うものについて話をしたことがあります。
その人は、
「僕はブログと言うものなど読まない」と言い、またその理由についてこう言いました。
「所詮、自分はこんないい暮らしをしている、いいものを食べてこんな旅行に行って、
つまり、それだけの財力があるということの自慢。人の自慢など興味なし」

確かに、それが自慢を目的にしてブログ主がアップしているかどうかはともかく、
他人が何しようと、どこへ行こうと、何を買って何を食べようと全く関心が無い人は、
そのような情報をわざわざクリックする必要はないわけですね。

ブログを「自慢の場」と一概に決めつけることの是非はさておき、
それを目にすることで不快になると想像できるような情報にはわざわざ立ちよらないという、
この人の考え方にはわたしは全く同意します。

問題はそのような情報をわざわざクリックしたうえで、
何故かその情報を一般的な「生活レベルランク」に当てはめ、
さらに勝手に社会的ランク付けしたうえで「セレブ気取り」などと誹謗する人、
これは何なんでしょうか。

たとえばこのブログ、タイトルにたまたまバーキンとついているのですが、
ブランドバッグを持つことなど、いまどき特権階級の印でもなければ自慢にもならないわけです。

それではなぜタイトルでそれを標榜するかと言うと、
それを持っていることを世間に吹聴するのが目的ではなく、バーキンが
「(こういうことを語っている人間は)私的にはこういう趣味傾向の人間である」
ということを良くも悪くも分かりやすく一言で表すアイテムであったという、
ただそれだけのことです。

プロの音楽家が仕事で使う弦楽器などは家一軒買えるほどの値段であるのが普通です。
趣味であっても凄い値段の釣り道具やカメラ、車に、あるいは宗教にお金をつぎ込む人はいましょう。
その生き方や興味、信念や考え方によってお金の使いどころは様々。
当然のことながら、十人いれば十通りの方法があるわけで。

そんなことをハナから無視して、情報の断片だけを意地悪く捉えてさらにそれを非難するのは、
もしかしたら僻みを装った「個人的な恨み」だったのかなあ?

と、以前タチの悪い人に絡まれたときにふと思ったことを書いてみましたが、
このブログを楽しんで読んで下さる方には関係ないお話ですので読み飛ばして下さい。

冒頭のダウンコートとダウンブーツは、何年か前、寒い時に寒いところに行くことが決まったときに購入。
寒いところにダウンコート、というのは、毛皮しか防寒具が無かった昔と違ってごく自然な選択。
軽くて、暖かく、手入れが簡単でなおかつ安い。
そして何と言っても一般的には「ノー・ギルティ」。
グースやダックの生きて行く権利さえ無視すれば、動物愛護団体的にもOKのアイテムです。

しかし。
皆さん、ダウンって、お洒落だと思います?
世の中に、このダウン的な服が登場したのは、20年くらい前のことだと思いますが、
そのときのわたしはこのダウンジャケットを「なんだかかっこ悪い」としか思いませんでした。

みんな同じような寸胴体型のもこもこしたシルエットになってしまい、細い人でもデブに、
もともと太い人はさらにデブに見えてしまう、当時の実用一本やりのデザインには、それゆえ
断固手を出さなかったのですが、近年「お洒落なカッティングのダウン」と謳った
「モンクレー」や「エルマンノ・シェルビーノ」などが登場し、
他にもそれを倣って許せるデザインがでてきました。
ですから、極寒の地を訪ねることになった機会に、この写真の(モスキーノ)コートを、
購入したというわけです。
ダウンのブーツは、全く同じ色ですが、こちらはモンクレーのもの。いつもセットで着ます。

スキー場だけでなく、冬場のテーマパークや高原、雪が降ったとき等々、毎年必ず重宝するので、
収納場所がかさばることを除いては、買ってよかったと思ってはいるのですが、残念ながら
「とても気にいっていて、たとえ寒くなくても着たい」というほどではありません。


ところで今年寒くなり出した頃から、実に不思議なダウンジャケットを街で目にするようになりました。
ダウンらしいのですが、妙に薄くて、ダウンを縫い込んでいるキルティングの幅がやたら狭い。
そして、どれも一様にテラテラ、ぬめぬめした独特の光沢を放っています。

何かに譬えるならば、まるで・・・・・爬虫類みたいな?

最初に見たのが、うちの駐車場の昇降ケージを修理に来て、とんでもない対応をしていった、
何だか日本語の怪しいおじさんだったので、余計に印象が悪いのかもしれませんが、
いよいよ季節が冬にきて、あっちでもこっちでも、このぬめぬめダウンを見るようになってくると、

これは、中国に大工場を持つ大手安売りメーカーが、軽くて安いことをウリに大量に放出し、
何かそれらしい名前を付けて、世間的に流行らせようとしているに違いない。


そう観察の結果思っていたのですが、やはり。
某安売りメーカーが「ウルトラライトダウン」と名付けて、何と五千円台で販売しているのが判明。
そして、最近急に寒くなってきたので、注意してみれば、あらまあ、このハ虫類ダウン、
思ったより市民権を得ているではありませんか。


そこで、リサイクルブティックで買った新古品とはいえ、モスキーノのダウンを持っているような、
かのブログ荒らしのいうところの「セレブ気取りの」エリス中尉が、
安物を購入するしかない人々の経済事情に思いも馳せず、
上から目線で文句を言うと思っているあなた、違います。
いくら美的に許しがたいセンスの洋服であろうが何であろうが、それを買うのは人の勝手。
バーキンを買うのも人の勝手であるように。

このさいわたしが文句を言いたいのは、こういう、安さと機能ばっかり優先して、
着てその人がどう見えるとか、素敵かどうかとか、センスがいいかとか、言わば
「その人が何たるかを分かりやすく伝える記号としての」洋服というものに、
何の希望も持てない、作り手の志が全く見えない代物を薄利多売するこのメーカーに対してです。

純粋に美的観点から見れば、たとえとんでもない代物であっても、人気のメーカーが
「これ、いいでしょう、機能的だし、着心地いいんですよ。そしてお洒落なんです」
みたいな宣伝文句を付け加えて売れば、買う人はいくらでもいます。
なんたって安いんですから。

ましてや機能的で安ければ何でもいい、ということになりがちな子供用に選ぶ親は多いでしょう。
「自分は(こんな安物)着ないけど子供のならいいや、どうせすぐ着られなくなるんだし」
みたいな。

事実、そういう親は多いものらしく、今朝目撃した小学生の集団登校の列によると、
全員がダウン着用、そのうち4割がこの爬虫類ダウン、という我が家の近所の進捗状況?。
凄まじいこのエピデミック状態。いや、全国展開でパンデミック?
思わず目頭を押さえてしまいました。

これは、なんというか、罪ってやつだぜ・・・。


着る、ということは、ある意味文化であり、自己表現。
子供だからって親の都合と財布優先で、あまりにもチープな格好をさせるというのは、
大手メーカーの戦略に乗せられ過ぎではないでしょうか。
五千円しかコートにかける予算がないのなら、わたしならリサイクルショップでもいいから、
ちゃんと仕立てられたコートか、もう少しましなダウンジャケットを買うと思います。

それに、一応おおざっぱにノーギルティってことになっているダウンですが、
実は、それはそれは残虐な方法で鳥から羽をむしり取っているようですね。
とくに、このヌメヌメダウンの工場がある中国では特に。
だからダウンなら動物愛護的にも大丈夫、っていうのはまったく説得力ないかもしれません。
(鳥だから殺戮してもOK、なんてまさか言わないよね?)
つまり、ダウンでなきゃ駄目、って理由はどこにも無いわけです。


いずれにしても、他にいくらでも選択肢があるのに、いくばくかのお金を払って、
わざわざ、かっこ悪いものを選択する必要はないのではないか?と、言うことです。
増殖具合が酷いのもあって、あれ、街の景色さえ、醜くしている気すらするんですが。
街を歩く人の服装は、その街の印象にすら影響を与えるという現実を、
アパレルメーカー(特に安売りの)は、もう少し認識すべきです。

しかし、不幸にしてこのダウンを買ってしまった人、悪く言ってごめんなさいね。
センスの良いあなたであれば(そういう人が買っているように思えないのも問題だけど)、
まあせめて、あの難物を最大限お洒落に着こなして、爬虫類のイメージを変えてくだされ。






藤田怡与蔵の戦い(日航就活編)

2011-12-09 | 海軍人物伝

「零戦隊長藤田怡与蔵の戦い」という本は、兵学校73期の阿部三郎氏によって書かれました。
真珠湾攻撃に参加し、ウェーキ、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンの各作戦に参加し、
硫黄島の迎撃作戦にも従事。
第二次世界大戦の戦闘機パイロットそしてそれこそすさまじい修羅の戦場をくぐってきながら、
戦後その体験を本に著すこともしなかった藤田氏に、阿部氏が
「あなたが書かないなら私が書いてもいいか」
と声をかけ、その戦歴を書いたものです。

戦闘機パイロットとしての藤田氏の戦いについては、この本を読んでいただくとして、
本日ここでお話ししたいのは、戦後、民間機パイロットとして空を飛び続けた
「日航パイロット藤田怡与蔵の戦い」です。


終戦。
海軍が消滅し、軍という組織に職業として生活を依存していた全ての人々は、
全てゼロからの出発を余儀なくされました。
占領国による「旧軍パージ」の嵐が吹き荒れ、
「職業軍人」イコール「戦犯」と後ろ指をさす日本人さえいた当時、
元軍人たちにとっては、実際はゼロではなくマイナスからの出発だったと言えましょう。

藤田氏にとってもその道は決して平たんなものではなかったようです。

農業や土建屋の労務係、米軍キャンプの機械工を経て起業。
紆余曲折の職歴で糊口をしのいでいる頃、日本航空が設立されました。
設立当初の日航では、アメリカ人パイロットだけが勤務していました。

「日航が邦人パイロットを募集することになったそうだ」
ある日、同級生からそれを聞いた藤田氏は、その足で日航本社を訪れ、
その翌日には履歴書を携えて入社面接に赴きました。

しかし、ここで問題発生。
藤田氏の飛行時間に「2500時間」とあるのが問題になりました。
今回の募集は3000時間以上なので、受験資格がない、というのです。

「私は戦闘機に乗っていたから時間が少ないのです。
同期の大型機の者は皆5000時間に達しています。
時間より離着陸の回数を見てくださいませんか。技術はだれにも負けないつもりです」

藤田氏は懸命に説明したのですが担当者は首を振るばかり。
なんと、この押し問答は10回にわたって行われました。

その10回目。


「2500時間ではどうしてもだめですか」
相手の頑固さも普通ではない気がしますが、このときの答も
「だめです」

「・・・・・では私の履歴書を返して下さい」

引き出しから出された履歴書を受け取るやいなや、藤田氏は履歴書を広げ、2500をペンで消して、
その横に3200と書いてこう言い放ったそうです。
「これならいいでしょう」

面接担当「・・・・・・・・・」(-_-メ)

藤田氏「・・・・・・・・・」(^^)v

以前「海軍就活必勝法」という項をアップしたのを覚えている方はおられるでしょうか。
履歴書や経歴に書かれていることより、
「この人物と仕事をしてみたい、この人物の、履歴書に書けない部分を見てみたい」
と担当者に思わせたら勝ち、ということを書いたのですが、
まさに藤田氏のこの「暴挙」はその見本のような好例だったと言えましょう。

だからって、この藤田氏のマネをして、面接官に
「この空白の三年間に何をしておられたのですか?」
と聞かれ、
「履歴書を返して下さい」
といってさらさらと
「自己啓発と自己の可能性探求を目的した自宅待機、
あるいはインターネットによる情報収集と匿名掲示板における討論術のスキルアップ」

なんて書いてもだめよ、とそのときと同じことをここでも言っておきますね。


さて、日航の面接会場に話を戻して。
しばしにらみ合うのち、吹き出す担当者。(AA省略)
「負けたよ。受験しなさい」

そして最終面接。
大戦の戦闘機パイロットと聞いて社長も興味を持ち、
戦争中のことについてのいくつかの質問があったそうです。
しかしなんといっても合格の決め手は

「私は戦争中に人生を終わったものと思っていますので、これから日本航空で余世を送らせて下さい。
また実戦の体験から見ると、わたしは戦争の骨董品のようなものです。
日本航空ともあろう会社が、骨董品の一つや二つ持ってもよろしいのではありませんか」
という、一同が大笑いしたこの最後の言葉だったかもしれません。



後半は藤田氏の日航入社後の戦いについてです。

 


どうやって絵を描いているかその3 モノクロ編

2011-12-08 | つれづれなるままに

昨日、カラーのイラスト製作過程をアップしましたが、今日は白黒と参りましょう。
軍人さんなどの写真はほとんどモノクロなので、この方法で描きます。
今日のお題は、若き日の(とはいえ36歳)丹波哲郎です。

本日画像は、ウィキペディアにも載っていず、勿論のことDVDも存在しない映画、
「不如帰」(1958)で、千々岩安彦を演じているらしい丹波。
原作は日清戦争が舞台ですが、どうやらこの映画では大東亜戦争に設定を変えたようですね。

「ネーヴイに惚れちゃってどう仕様もない」
という稿で、「川島武男さん」に憧れてネービー・エスになった芸者さんの話をしましたが、
この千々岩は、その川島武男の妻浪子に独身時代から横恋慕する陸軍中尉。
つまり「悪役」です。

歳を取って貫禄が出てきたら海軍少将や大将がよく似合った丹波哲郎ですが、
若いころはこういう役をよくしていたようですね。
この千々岩という男は、確かとてつもなく陰湿で卑怯な男だった覚えが・・。
それにしても海軍軍人の主人公に陸軍のわかりやすい悪役。
徳富蘆花には陸軍側から文句が出なかったのかしら。

それでは参ります。
まず、レイヤー機能を使って下絵を描き、
(画面を6~12等分に区切って配置を誤らないようデッサン)
本キャンバスに線を入れます。
 

レイヤーはアップロードすると一緒に画面に残ってしまうので、もうこの段階では削除済み。
だいたいこのような人物画像は、眼から始めます。(単なる好みの問題)
髪の毛は塗りつぶし機能でいきなり黒くしてみました。

 

デジタル絵画のいいところは、濃い色を入れても、後から修正できること。
顔以外は、基本的に画面の後ろから描いていきます。
バックの景色はボケているのがほとんどなので、後でもOK。
バックに描きたい景色があるときには、そちらから先に描きます。

 

そして、この方法の素晴らしいのは、画面を拡大できること。
極限まで拡大し、拡大したら一体何か分からないレベルまで大きな部分を見える通りに描きます。
しかし、それをしたら、一度は小さくして、元画像と見比べる作業をしないと、
焦点のおかしな絵になってしまうので、何度もそれを繰り返します。

髪の毛に当たる光を描きこんでいるのがお分かりでしょうか。

左と右画像の大きな違いは飾緒(ちょくちょ、かざりお)なのですが、
これを見て、というか、冒頭の写真の段階で
「これ、おかしいぞ」
と思った方、あなたは素晴らしい軍装オタク、じゃなくて観察眼の持ち主。

なんと、飾緒が左肩、つまり逆なんですねー。
もしかしたら衣装部の間違い?
しかし、この作品は1958年作品。
いくらなんでも関係者全員がこの間違いに気付かないわけがありません。
丹波さん自身も、学徒動員で軍曹どまりだったとはいえ、一応陸軍にいたことがあります。
というわけで、これは
「写真のネガが裏表逆なのではないか?」
っちゅう想像が成り立ちます。
そう言えばお猪口を持つ手も左。
お猪口はあまり逆手で持たない気がします。(丹波は右利き)
丹波哲郎の顔があまりにも左右対称に近く完璧なので(男前ですよね~)、
逆でも誰も気づかなかった、ってことでよろしいでしょうか。
 

後ろの床の間を描きこんだ後、左右逆転させてみました。
こういうことができるのもデジタル画像ならでは。
うーむ、こうしてみると右画像の方が丹波哲郎らしい。
やっぱり逆だったのかな。

でも、サインを入れてしまったのでこれで完成。
丹波哲郎について記事を書くときには、裏返しておきます(笑)






どうやって絵を描いているかその2 カラー編

2011-12-07 | つれづれなるままに

決して自分で上手い絵だと思って載せているわけではないですが、
イラストにも興味を持って下さる方が一定数おられることが最近分かってきました。
以前、加山雄三扮する新名記者の絵を製作する過程をアップしたところ、
結構な数の方が今も見てくださっているのです。

ところが、何の不具合か、製作過程がいくつか再生不可能になってしまっているのです。
あらためて抜けてしまった部分をアップロードし直そうと思って画像フォルダを探したのですが、
何故か自分で削除してしまっていた模様。
画像フォルダから削除してしまうと、アップロードされたブログからも消えてしまうんですね。

それを知っていながら、なぜ、消す。
こんなときには、心底自分が情けなくなるのですが、
気を取り直して今日はもう一度、絵の制作過程を、ここにご紹介することにします。

冒頭写真は「エリート養成機関ナポラ」(何て邦題・・・・)から、クライマックスシーン。
主人公フリードリッヒとアルブレヒトが、色々あって抱き合うシーンです。
この映画についてまた書く予定ですので、詳細はそのときに。
パソコンで再生した画像を写真に撮りました。
何から何まで鮮明さとは対極の画像。
これをもとに、さあ、どんな絵ができるでしょうか?


例によって下絵から。
パソコンのせいかもしれませんし、二人の着ているカーキの制服のせいかもしれないのですが、
やたら画面が・・・人の顔ですら緑っぽいのです。
ですが、人間の肌の色を最初に入れておかないと、死人のような顔色になってしまうので、
とりあえずオレンジがかった色をつけておきました。


色を選ぶのは、例えばカーキなら、カーキをパレットに出して、濃度を上げ下げしていくと、
「カーキ延長線上の黒」「カーキ延長線上の白」が作れます。
フリードリッヒの金髪も、結局カーキっぽい色調に見えているので、下地はやはりカーキ系。




いきなり過程が進んでしまいました。
というか、描いているときに我を忘れて(最近とみに我を忘れがち)、過程を保存するのを忘れてしまったのです。
金髪は、下にブラウンを一旦かけて、やはりカーキの延長線上の白と、クリーム色の明度を、
マックスにしたり、透明度を下げたりしながらタッチを変えて一本ずつ描きます。
基本的に濃い線はブラウンなのですが、それでは全体的にボケてしまうので、
ところどころ黒を入れて引き締めました。
唇も、少し紅すぎるかな?くらいに一旦塗っています。



何が違うんだ、って?
この段階では、耳、唇、手の影などの細かいところを描いていますから、あまり変化はありません。
一旦筆を置いて、ソフトフォーカスをかけました。
いつもはやらないのですが、今回は、元画像があまりに不鮮明で、タッチが強いと全く別のものになってしまうということから、あえてやってみました。
後ろのタイル(ここは洗面所の床)を描き込みました。

 

これも何が違うんだ状態ですが、実は3枚目からあたりの方がかける時間が長いのです。
ですから、耳の形とか、しわの出来具合とかがよく見ると違っています。
拡大して、粗い線を描き直したりし、サインをいれました。

アラが目立つので実はやりたくはありませんが、参考写真と並べてみました。
所用時間は約一時間半です。

明日はモノクロ画像の制作過程をアップします。




パリの憂鬱~「エディット・ピアフに捧ぐ」

2011-12-05 | 音楽

アメリカに住んでいたときに向こうで買ったPCのコードを引越しのどさくさで紛失してしまいました。
写真データを救出する為に海外に注文し、先日それがやっと届きました。
久しぶりに昔の写真を見ていたのですが、パリ滞在のときの写真を見ていると、自動的に脳内に再生される音楽が・・・。

フランシス・プーランク作曲、「15の即興曲」第15曲『エディット・ピアフ讃』

フランス5人組の一人、プーランク(1899-1963)については、
クラシック、純音楽という範囲にいる作曲家でありながら、
なぜか「プーランクw」と思わず小さいwを付けて語ってしまう「けれん味」のようなものがあって、
(わかってくれますよね、演奏家の方たち?)実はみんな大好きなのに、
大声で好きと言うのに気恥ずかしさが伴う作曲家です。

そう、ラフマニノフの交響曲第二番のときにも似たような話をしましたが、
音楽として非常に耳触りがよく、一般受けする、という長所が演奏家にとっての
(照れ笑い)にもなっているのかとわたしは想像します。

そのプーランクの中でも、もうプーランク節大爆発!のいい曲、それがこの曲。
本人、開き直って「エディット・ピアフに捧ぐ」なんて題を付けてしまいました。
youtubeでも聴けますので一度お聴きくださればお分かりかと思いますが(お薦め演奏は稿末に)
前奏後出だしからゼクエンツが炸裂しています。

本人も、
「シャンソン風のもの凄いいい曲作ったんだけど、またなんか『俗っぽい』とか言われるから
タイトルに『エディット・ピアフに捧ぐ』って先手を打って付けちゃえ」
なんて思ったのではないかと、ほぼ断言します。


アメリカ滞在中、夏の3カ月の休みを利用して、二夏連続でパリにすみました。
やはりヴァカンスで家を空け、その間人に貸すことをしている人と個人契約をする方法で長期宿泊をしたのです。
こういう個人のまた貸しをサブレットと言います。
契約書を送ってきたと思ったらそれがフランス語で、TOが
「フランス語じゃ読めないから英語でプリーズ」というと、さすがフランス人。
「英語できないから無理。変なこと書いてないから適当にサインシルブプレ」
なんてケセラセラな返事が返ってきて、TOはほとほと困っていました。

美しい、お洒落な哀愁の都、ばかりではない部分を思い出したので、写真と共にご紹介。

 

借りていたアパルトマン室内。行ってみると驚いたことにゲイカップルが住んでいました。
彼らは一つずつ寝室を持っていましたが、最終の夜旅行から早く帰ってきてしまい、
「悪いけど寝室一つ譲ってくれない?」
と恥ずかしそうに電話してきました。
私たちは一方の寝室に親子川の字で休み、彼らは男二人で小さなシングルベッドで寝たようです。
まあ、初めてのことでもなかったでしょうが、狭かっただろうなあ・・・。
何をしているか分かりませんが、芸術家っぽい雰囲気、演劇関係かな?という二人でした。
サンフランシスコから行ったので「世界はゲイが溢れている」との感をここでも持ちましたが、
ここだけにあらず。

 

デパートの子供服売り場にあった子供専門ヘアサロンのこの美容師さんは、
「サンフランシスコからきたの」というと異様に眼を輝かせて反応していました。
見た目もそうですが、しゃべり方も全くそういう人でした。
フランス語でも英語でも日本語でも、万国共通で分かってしまうんですよね。ゲイの人って。

しかし、この美容師さん、子供のカットといえども全身全霊でやってくれました。
この真剣な表情、わかります?
これまで息子のカットで心底「巧い!」と唸ったのはこのパリのゲイ・コワフィエだけです。
バーバパパの絵本を持っているのはわたし。
このとき、通りがかりのフランス人が次々とカットされている息子の写真を撮り出したので、
写らないようにどこうとしたら
「あなたが入っていないとだめ!」と押し戻されてしまいました。
何が珍しかったんだろう・・・?

息子と言えば、当時二歳。
クラプトンのギターを真似て歌うのが趣味でした。

モンマルトルのストリートミュージシャンを見たとたん異常接近。
じわじわ近付いていっています。
 楽器(カバン)をおもむろに外し、演奏準備。

楽器を弾きながら激しく縦揺れシェイクしているので画像がブレています。
このあたりから人だかりができ始め、このミュージシャンの友人のサクラは友達に電話して
「今日はサクラいらないみたい」と。(横で聞いていた)

人が集まってきています。この後またもや皆が写真を撮り始め、人だかりができました。
「ティアズインヘブン」が始まり、息子が一緒に歌い出すと周りのフランス人の間から
「おーららー!」「いるしょーんと!」(いやぁーあの子歌ってるでー)
とどよめきが起こりました。
「写真撮ってもいい?」「かれは将来楽しみですね」とたくさんの人に声をかけられました。
息子が演奏家としてブレイクしたのは後にも先にもこの時だけだったんですけどね・・・。



パリの観覧車。
軽い気持ちで乗ったら、このような剥きだしのかごに乗せられて、ものすごいスピードで回転。
おまけになんだかぐらぐらしてるし。
「息子しっかり抱いててよ!」息子「パパ―痛いよー」「止まるまで我慢しなさいっ」
「こわーーー!」「こえええよーーー!」「かっ・・・風がっ・・・・」「揺れてるうううう」
ある意味どんな絶叫ライドより恐ろしかったです。
おまけに時々サービスのつもりか急停止するし。
これ、過去に絶対落ちて死んだ人、いると思う・・・・・。

でも、基本「落ちるのは自己責任で」だからなあ、あちらは。



駅の配電盤にこの絵だけ;;
説明一切なし。感電も自己責任。
うーむ、これは確かに感電しておる。それにしてもやたらドラマチックです。

でも、絵で分かるようなことなのに、いちいち4ヶ国語の注意書きを並べる日本のような
「お節介国家」よりはこっちの方がまともだと思いません?

 

さて、パリと言えば遠目に美しく、近眼にはやたら不潔な街。
下を見て歩いていないといろいろ落ちているのでフンでしまいます。
壁だってうっかりしているといろいろついているので、油断はなりません。
そんな街ですから、食べ物の持ち運びには注意していただきたいのですが


フランスパンを公衆電話ボックスにじかに・・・・そこは汚いだろうがっ。
せめてパンを紙で包んでください。お願いします。
おまけにこのバケットの量・・・。
もしかしたらどこかのシェフ?このバケット、今晩の仕込み用?
これ、何処かのミシュラン星レストランで、お客に出すんだったりして。


そういえば犬養道子さんが
「バケットを運搬していた男が道で一つ落とし、犬のがついたけど、
彼は拾ってちょいと指で払って持っていった」

と証言してたなあ。
それに比べればましか。どっちもお断りしたいけど。


街のところどころにある公衆トイレ。
これ、最後までというか今でも謎の構造なんですよ。
中に入れば、便器(和式風)があるのですが、流れて行くところがないのです。
そう、陶器のお皿みたいなものですね。
思いっきり??????になりながら外に出ると中から自動で鍵がかかり、
しばらくしてごごごおおお~っと大音響が聞こえてくるのです。
「使えます」
の表示になってからドアを開けてみるとなんと!
何もなくなっているのです。
綺麗になっているのです。
床、便器、全てが。皆濡れた状態で。

これは、床ごとぐるりんとひっくり返って、そこにあるものを下に落としつつ、
水がごおおおーっと激しく噴き出して、
床と言わず便器と言わずきれいさっぱり洗ってしまうのではないか?


というのが今のところ想像しうる仕組みですが、
「これ・・・いったん鍵を開けて、外に出ず、中に残ってもう一度扉を閉めたらどうなるんだろう?」
「もしかして、床が回転して下にボチャン?」
「そしてもう一度床が戻って何事もなかったように・・・」
「こわああい」「こええええ」

ちなみに、この時再会したフランス大蔵省勤務の知人に恐る恐るその話をすると
「僕はそういうときはカフェに行くので使ったことないから知らない」
と鼻で笑われました。

 

・・・・フランス人って、こういうやつらなんですよね。

話が下に落ちてしまったので引き上げます。
ルーブル美術館の話。

 

幼き日、我が家にあったルーブル美術館の画集で見た
「フィリップ・ポットの墓」
その画集は今にして思えば間違っていてロダンの「カレーの市民」と書いてあったのです。
永年勘違いしていたのですが、実物を見てその間違いに気付きました。
かつて遺体の乗った台をを担ぐうつむいた人々がリアルで恐ろしく、食い入るように眺め
「この頭巾の下の顔はどうなっているのだろう」と想像したものです。
それを実際見る日が来て感無量だったのですが・・・。
こんな顔でした。
左目が溶け落ちている・・・・やっぱりこれもこええええ。

ところで、ルーブルの隅にある無名の彫刻に、こんな悪戯書き発見。

眼を描くな!それも猫目を。
 


という具合に、なにかとカルチャーショックの大きな街ではありましたが、
住んでいた計半年、これもまた何かと言うと脳裏を流れるのが冒頭の
「エディット・ピアフに捧ぐ」でした。

信じがたい不潔さと人類の産み出し得る最高の美が共存する街。
人もまたそのように複雑で、この夏なのに湿り気のあまりない影を帯びた空気を持つこの街。
その空気の匂いと明るい夕方にふいに街に響く教会の鐘の、何故か心を締め付けられるような響き。
人生について深く思索せずにはいられなくなるような、矛盾と混沌が不思議に一つの魅力となって、
このセンチメンタルなメロディがまるでこの街のテーマソングのように聴こえたものです。


http://www.youtube.com/watchv=GETFcTMU1JA&feature=related













ネーヴイに惚れちゃってどう仕様もない

2011-12-03 | 海軍

先日、呉に宿泊したときのこと。
駅前のホテルで朝食をいただきにレストランに入ったところ、粋な年増の「おかあさん」と、芸者さんの「おねえさん」、
そして「ハーフ」の半玉ちゃん、すこぶる別嬪ぞろいの三人が朝ごはんを食べておられました。

ほお、これからお座敷。どこかにお呼ばれでしょうか。
しかし、ここ呉といえば、海軍の街。
おそらく、この置き屋さんは、その昔にも「海軍エス」を抱えた歴史のある処に違いありません。

ああ、聞いてみたい・・・。
しかし、器用に朝食ビュッフェでスクランブルエッグやなんかを取って食べている忙しそうな様子を、横目で見るだけで終わりました。
それにしても、朝から白塗り日本髪、着物はだらりの帯。
プロ中のプロです。
「あの帯は、お手洗いではどうしているのだろう」
などと真剣に考えてしまった私などまったく足元にも及ばない、女のプロフェッショナル。

さて、その女のプロの本日画像、かつてのネービー・エス、今若さんの若き日のお姿。
いよっ、いい女。
先日、横須賀の「小松」が現在も営業中、と言う話をしましたが、その小松、通称パインで、
海軍士官のSプレー(芸者遊び)のお相手を勤めた芸者さんです。
コレスは四九期。
そも芸者と士官のコレス関係というのはなんぞや。

それは芸者がハーフから一本になるときに候補生から少尉になった期を同期、コレスと呼ぶのです。
コレスが戦果をあげたり出世すると、自分のように嬉しく、自慢し合ったりしていたそうです。
これぞまさにネービー・エス



今若さんは大正十年に横須賀で芸者をしていたお姉さんに誘われて横浜から横須賀へ。
そのときの誘い文句がこうです。
「横須賀へおいでよ。川島武男さんみたいな人ばっかりいるわよ」

この川島武男さんとは、徳富蘆花の小説「不如帰(ほととぎす)」の主人公で、若き侯爵でもある海軍少尉の名前です。
美男士官と美しい若妻とのロマンス、引き裂かれる恋、そして主人公が参加する戦闘シーン。
「勇敢なる水兵」で有名な黄海の海戦で定遠が沈む様子など小説に織り込み、リアリティを持たせて、この「不如帰」は当時のベストセラーとなっていました。
まさに一世を風靡したといってもいいほど、特に若い女性は夢中になったそうです。

今若さんもなかなかのミーハーさんだった模様。
当世流行りの悲恋小説に心ときめかせ、そこに描かれるスマートな海軍軍人に憧れて横須賀に行き、
料亭小松ことパインでネービー・エスの第一歩を歩みだしたのです。

ところが来てみると、若い今若さんには驚くことばかり。
「大きな声で私たちまで”貴様!”って呼ぶんですもの。
おっかなくて、泣いて帰ったことがありますよ」

・・・・あらら。

慣れないうちは「おっかない」海軍さんですが、もともと川島武男に憧れて横須賀に来た芸者さんたちですから

「・・・・でも、好きでしたね。士官さんはスタイルが好くて」
「詰襟でねえ」
「そう、詰襟に、短剣でしょ。素敵でしたねえ」


いやねえ、ネーヴイに惚れちゃって
どう仕様もない


なんだか、このブログのタイトルみたいになってきました。

さて、そういう「ネービー・エス」のお姐さん方、プロといえどもそこは若い女性。
憧れの士官さんたちとお仕事で触れあううち、「惚れたはれた」が皆、二度や三度は必ずあったそうです。
・・・そうでしょうとも。
そうなると「インチ」(インティメート=親密な)となり、言わばお座敷での公認の仲となり、
グループで来てもこっそり抜け出して好きな妓とさしで飲んだりするのです。

芸者さんはプロですから、お母さんからも「お客のえこひいきはしないこと」と厳しくしつけられますが、
そこはそれ、好きな人のところには「宴会用のお酒をこっそり運んでいく」。
それが一人二人ではないから、MMの士官さんの前には、頼みもしないのにお酒の瓶が林立していたそうです。

そして哀しいことに、年頃の若い娘でもある芸者さんは、年配の特務士官や、佐官以上のオジサマオジイチャマより、若い中尉や少尉の方が面白いし気も合うのでどうしてもそちらに行ってしまう。
(大尉クラスは結婚していることが多いのでこの辺りは一時遠ざかっているそうです)

海軍さんはその辺さばけた人が多く、というか、これもいつか来た道ということで鷹揚に
「おい、ちょっとこっちにも回さんかい」
などと言って和気あいあいだったそうですが。

置き屋のお母さんは「好きな人が来ていても上官からお酌をして」と言い聞かせるのに余念がなかったようです。

たいていは皆飲んで、歌って、愉快に過ごして、芸者さんの方でもお客というより友達のように思っている、という付き合いに終始するのが粋なエスプレイと言われていました。
例えばフネに招待されて遊びに行き、(山城とか赤城とか!)士官次室を荒らし放題。
五時までフネにいて、五時過ぎると一緒に上陸して、いわゆる「同伴出勤」。
士官室には芸者の名前が書いた「検番」があり「あれは良い女だ」とか「これはダメ」とかが書かれています。
フネに呼ばれるのはどうせ「いい女組」でしょうから、問題にはならなかったのでしょうが。

そして、そうやって「楽しくSプレイ」ですんでいるうちはいいのです。
が、いくら海軍がブラック(玄人)との遊びを推奨し、割り切っていてもそこは若い男と女。
どうしても真剣な恋愛に陥るケースはあったようです。
このあたりについては

「いろいろあっても、皆ネーヴィとは結婚できないとわかっていましたから考えたこともございません」

寂しく笑う今若さんです。

先ほど「コレス」の話をしましたが、例えばクラス会があるときに真っ先に呼ばれるのが
「コレスの芸者」なのだそうです。
クラス全体でコレスを贔屓にする、という伝統があったというわけです。

しかし、そのクラスというものは海軍士官にとって何よりも大切にすべきものでした。
個人の自由と思われる結婚に関しても、たとえ芸者ではない女性でも、クラスの半分が反対するとそれだけで皆結婚をやめてしまったというのです。

公的にも海軍士官の結婚には海軍大臣の許可が必要で、
一般人でも家柄の良い女性でないとまず結婚は許されませんでした。
どうしても一緒になりたければ、たとえ「町の人」でも、まず海軍の家に養女に行って籍に入り、それから、という手続きを踏まねばならず、芸者などは問題外だったわけです。

あるクラスで、どうしても芸者と結婚したいという士官がいました。
彼がどうなったと思いますか?
なんと、クラスを除名されてしまった、というのです。
「他のクラスへのメンツもあるから」といういかにもな理由です。


そういう厳しい、そして悲しい一線を決して越えないように、女のプロ、今若さんたちは今日も艦隊が寄港すると、港に旗を持って「惚れちゃったネーヴイを」お迎えにいくのでした。

どんなに心ときめかしても、
「皆”ハート・インチ”で。心の中でお慕いするだけで、ね」

 


海軍軍人のユーモア

2011-12-01 | 海軍

映画「雷撃隊出動」は、1944年敗戦色濃くなった11月頃に上映されました。
戦意を高揚させるというよりは、いよいよ国民に戦って死すべしの覚悟を説く調子になっており、
ユーモアを感じさせる部分はほとんどありません。

三人の兵学校同期の士官たちが冗談で笑いあうのも、取ってつけたようだし、
ネガティブな気持ちを振り払うように熱血漢の村上が
「おかしくもないことを涙まで流して泣く」といった調子です。

しかし「どんな状況下でも笑いを忘れていなかった」
と坂井三郎氏が述懐するような、搭乗員気質が垣間見えるのが本日画像の場面。

この南方の戦地がどこであるのかはっきりしないのですが、
ここでは「飛行機が無い」ことが今や最大にして最後の問題になりつつあります。

冒頭、雷撃の神様とあだ名された「三カミ」の一人、川上が
「オレ一流の弁舌で東京に行って飛行機を取ってきてやる」と勇んで帰国するもうまくいかず、
若い二飛曹(歌手の灰田勝彦が演じている)が
「飛行機乗りが飛行機に乗れないほど辛いことは無い」
と嘆き、しかし、その物資の不足を跳ね返すには
「雷撃精神=一死必殺の自爆精神」ならなんとか戦争に勝てるのだ、と三上は言います。


そんな中、ある日の出撃。
搭乗員がみんなでスクラムを組むように円陣を組んでいます。
これは、草を引いてくじを作り、搭乗する者を決めているのですが、
円陣を組むのに出遅れて人垣によじ登って割り込もうとしていた一人の搭乗員、
これは駄目だと判断するや、若い士官のところに駆けていきます。

敬礼と同時に
「僚機お願いします!」
飛行機の争奪戦にあぶれたと見るや、士官の列機に加えてくれと直訴。
中尉と思しき士官は最初いやいや、と手を振るのですが、あきらめず
「いや・・・・うち・・・僚機お願いします!お願いします!」
士官が「よし来い!」


それを聞くやいなや、お調子者の彼は
「おーい!」人垣の外側の飛行機にあぶれた同僚を叩き、自分を指さし
「行くぞ!」
「♪たららったららった~♪たららったららった~」
(本当にこう言う)と踊ってみせる。


仲間は笑い、ひとりは確かに「あほや」っていってる・・・。
しかし、すぐに「集まれー!」がかかり、あわてて踊りをやめて走っていく。

実はこの場面がこの映画でたった一つ微笑ましい場面でした。




敵機来襲で飛行機に乗ればそれだけ危険も増え自分の命の保証もないわけですが、
戦線において誰ひとりとしてそんなことを考えるものはなく、そして使命とか、義務とか、
そんなことでもなく、ただ飛行機乗りだから飛ぶのだ、というのが搭乗員気質なのです。

もっとも天山乗りの肥田真幸大尉に言わせると
「地上で爆撃におびえ防空壕に駆けこむよりも機上の方がよっぽど気が楽だった」
と言う理由から搭乗員は争って飛行機に乗りたがったのだということですが。


肥田真幸大尉の「青春天山雷撃隊」には、この搭乗員気質のよく表れた、
命の瀬戸際でもそれを笑って見せる一流のユーモアが多々見られます。


グアムに着陸寸前、島の上空に五、六十機の機影が見えました。
編隊を指揮する岡本晴年少佐
「はるか彼方をながむれば、ウンカのごときわが味方、わが軍健在なり」
浪花節口調で「紀伊国屋文左衛門」の文句。
この期に及んで浪花節とは、と肥田大尉、恐れ入るのもつかの間。
その2・0の視力はそれがすべてグラマンであることに気がつきます。

魚雷を捨て低速で逃げ切り、空戦を零戦に任せて島に着陸した大尉は、
偵察員、電信員とともに転げるように指揮所に逃げ込みました。

とたんに、ガチャンと頭上で瓶の割れる音がしたと思ったら酒とビールを頭からかぶった。
指揮所に持ち込んであったものに機銃弾が当たったらしい。
全身に酒を浴びて、三人は互いに顔を見合わせて、にやりとする。

「これで死んだら本望ですね」
「まったくだ」





そのとき敵を味方と間違えて浪花節をうなった岡本少佐の零戦が着陸し、
少佐は小屋に避難しようとするのですが、指揮官機と見たグラマンは狙いを少佐に定め突っ込んできます。
辛うじて椰子の木の陰にたどり着いた少佐を2機のグラマンが機銃掃射で狙うので、
少佐は椰子の木をぐるぐる回りながら弾から避難し、なんとか無事でした。

肥田大尉は上官でも容赦なく(これも海軍ならでは)
「先輩、あのとき椰子の木の周りを周っておられたへっぴり腰はざまあなかったですね
とからかいます。



ところで、どうやら陽気で悪戯好きな肥田大尉、
「海軍伝統の悪戯」もちゃんと経験しておられた模様。

大尉は霞ヶ浦航空隊の飛行教官任務にあった同期(六七期)三人と「悪童四人男」と自称しており、
その仲間でよくレスに繰り出しました。
そのうちの一人、入谷少尉は貴族的な風貌をしているので彼を「偽華族様」、
つまり殿下に仕立て上げたというのです。

この
「偽殿下をレスにお連れする」
という悪戯とも待遇をよくしてもらうための方便ともつかぬ行為も海軍ならではで、
この手の話はしばしば他でも目にします。
上品な貴族風のクラスメートがいると、必ずこういうことをたくらむ海軍士官がいたようです。

しかし、この入谷殿下はかんばせこそ高貴でいらしたものの、
酔うといきなり「お下劣な歌」を歌い始めるので、
「殿下詐称は実はばれていたのではないか」とは肥田大尉の述懐です。

六八期の松永市郎氏は、こちらは「物資不足のおり待遇改善のための作戦として」
若様になりすまし、車まで手配して「おなり」になったそうです。
海千山千の女将に「若様なんて嘘でしょう、九州なまりがあるなんて」と見破られた松永氏、
「育ててくれた婆やが佐賀の人で、特別扱いを受けたくないときはその真似をします」
と咄嗟に返し、「へへえ~無礼をば~!」状態のさらなる接待を受けました。

ユーモアの有無は、こうしてみると「瞬発力」のあるなし、という気がします。

しかし、その後一向に衰えぬレスでの「伝説の若様フィーバー」に、お供の級友が僻んで、
「若様は戦死したよ」
と言ったことから、問題が起こります。

松永氏の父上は当時現役の司令官でした。
ある日件のレスに立ち寄ったところ、
お客様そっくりで佐賀弁をしゃべる若様が、この将官用の部屋で遊ばれましたが、
皆さんの話によると戦死なさったそうです」
と女中から聞かされます。

さすが父親、息子が若様偽装をしたのだとすぐに察したのですが、
女中から聞かされた「戦死」、それは父親にとって激しいショックでした。
その死を、戦死公報のあるまで妻にも内緒にしておこうと、一人で苦しみ続けたそうです。
戦死公報は(死んでいないわけですから)待てど暮らせど来ず、半年後終戦となりました。
生きて帰ってきた息子を見た父親の喜びはいかばかりであったか・・・・

・・・・・・・・・。

ユーモアもことによっては罪深いことになるという見本のような逸話といえましょう。


戦地で肥田大尉は「偽殿下」入谷大尉の戦死の報に接します。
肥田大尉の六七期の戦死率は非常に高く、248名中生存者83名。死亡率は66・6パーセント。
因みに、同期の陸士出身者の戦死率は30パーセント弱だそうです。

肥田大尉は何人かのクラスメートに戦地で会うたびに
「生きていたか」
と無事を喜び合うのですが、別れた直後にその友は戦死してしまう、ということが何度か繰り返されます。

次は今談笑しているこのクラスメートかもしれない。
いや、自分かもしれない。

しかし、
「貴様は死神に見放されたか」
「お互い様だ。貴様などが行ったら地獄の風紀が乱れるからな」

こうやって彼らは死すら笑いのめしてしまうのでした。