ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

中国共産党の「三戦」と「アンネの日記切り裂き事件」

2014-06-13 | 日本のこと

久しぶりに国際情勢についてです。

わたしはこの2年の間に自衛隊の元幕僚長二人、現役海将一人が
中国問題について講演したのを聞きました。
自衛隊の上層部だった演者によく求められる演題のようです。
現在の対中国情勢については、特に自衛隊のトップならではの
情報を聞きたいと社会が望んでいるということでしょう。

その講演内容には中国共産党の
「三戦についての実態」
が必ず盛り込まれていました。

三戦は、平成21年度防衛省の「防衛白書」、
「我が国を取り巻く安全保障環境」のなかの
「諸外国の国防政策第3章中国」にこのように解説されています。

中国は03(平成15)年、「中国人民解放軍政治工作条例」を改正し、
「輿論戦」「心理戦」および「法律戦」の展開を政治工作に追加した。

「輿論戦」
  中国の軍事行動に対する大衆および国際社会の支持を築くとともに、
  敵が中国の利益に反するとみられる政策を追求することのないよう、

  国内および国際世論に影響を及ぼすことを目的とするもの。

「心理戦」
  敵の軍人およびそれを支援する文民に対する
  抑止・衝撃・士気低下を目的とする心理作戦を通じて、
  敵が戦闘作戦を遂行する能力を低下させようとするもの。

「法律戦」
  国際法および国内法を利用して、国際的な支持を獲得するとともに、
  中国の軍事行動に対する予想される反発に対処するもの。 



いきなりですが、少し前に日本の公立図書館や書店などで、
抑圧されたユダヤ人の象徴となっているアンネ・フランクの(とされている)
著書「アンネの日記」が相続いて破られるという事件がありました。

いずれもこの書が特定されており、しかもアンネの写真の部分は、
写真に撮られたときにわかりやすいようにわざわざ残されていることから、
わたしはすぐさまこれを

「日本人がユダヤ人を嫌って迫害するような民族である」

ということに見せたがっている者、あるいは団体の仕業だと疑いました。
おりしも韓国の朴大統領がアメリカやヨーロッパで
「日本の軍国化」を訴える「告げ口外交」の最中でしたから、
それを後押ししたい民族団体か、と当初思ったからなのですが・・。



そうしたら、続いて同時期にこんなことがありました。

習近平のドイツ訪問です。
これはおそらく2月以前には決まっていた話でしょう。
実際の訪問は3月末だったそうですが、習近平はそれに先立ち、
ベルリンのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)記念碑を訪問して
記者会見を開きたいと要求したのです。

ドイツはこの申し入れを拒否しました。

中国の狙いはナチスの暴虐についてドイツを非難することではなく、
むしろ戦後「謝罪した」ドイツを褒めちぎり、「それに比べて」と、
日本を執拗に批判することにあるというのは明白でした。


ともあれドイツがマトモな国だったので近平の野望は潰えましたが、
そこで思い出していただきたいのが「アンネ切り裂き事件」の時期。

事件は、2月に急激に都内で発生しています。
一番多かった杉並区内では被害館・被害店数は11。損害した本は総数300冊余。
いずれも東京都下に集中しており、同一犯、同一団体の犯罪であろうと思われますが、
わたしは、「この時期に何者かがその指示を受けてそれをすること」によって、
誰が得をするだろうか、と考えていました。

習首席の訪独が決まり、

「ホロコースト記念碑の前で日本の軍国主義を非難する」

という素敵なアイデアが決まったら、次は日本がかつてのナチスのように
ユダヤ人を嫌悪する民族主義が先鋭化している、という空気を
醸成するとなお一層効果的ですね。(中国共産党的に)


とにかく事件をでっちあげ、日本のマスコミに騒がせることができれば
世界に飛び火し、取りあえずは


「ネオナチによる犯行」=「日本の右傾化が背景」

が一丁上がりです。
(現にメディアは犯人が捕まる前からこの調子で画一的な報道を行った)

わたしがこの件は朝鮮半島ではなく、共産党から指示が出ていたと見るのは

こういった流れが「仕組まれていた」ように見えるからです。

習近平と中国共産党の思い描いた美しいストーリーは

「ホロコースト記念碑の前で、ドイツの『反省と謝罪』を褒めちぎり、
アンネの日記を破ることに象徴される、日本で勃興している軍国主義と、
ネオナチの台頭を助長しているのが安倍晋三であると非難する」

というものだったのではないでしょうか。
つまり

戦争中の日本の残虐行為に焦点を当てることで、
安倍政権の軍備増強や地域の覇権国家を目指すという野心を打ち砕きたい。
日本の戦争犯罪について語れば、中国の軍事力拡大と
地域の覇権に対する野望を正当化し、注意をそらすこともできる。
(ニューズウィーク紙)

これが中国の狙いだったのです。

それにしても。

中国の外交は老獪で先をているというのが定説になっていましたが、
言わせてもらえば案外たいしたことないですね。
なぜならこの件で中国は二つの点を全く読み違えているからです。

第一に、ヨーロッパでは

「第二次世界大戦について語るな」

というのが、外交を巧くやるための不文律になっているというのに、
たとえそれを褒めちぎるためであってもドイツ人に取って触れられたくない
(下手な言動をすると大変なことになる)古傷であるナチスを引っ張り出そうとしたこと。
これだけでも何とも外交センスがないといえます。

第二に、日本にはユダヤ人を迫害するどころか、嫌悪する土壌もないということ。

迫害どころか日本は当時のナチス政府とやりあってまでも

「人種の迫害は八紘一宇の精神に反する」

といってユダヤ人を匿ったというのは歴史が証明するところです。
当時亡命してきたユダヤ人は

日本では国を挙げての同情を集め、小さな子供が

「自分のおもちゃをユダヤ人の子供にあげてほしい」

と寄付をしたことが美談として記事になるような国だったのです。

中国共産党の情報部は、もう少し歴史を勉強した方がいいですね。

「歴史を忘れた民族に未来はない」でしょ?


ここでまた冒頭の話に戻りますが、「三戦」です。

こういった我々日本人には道義的にどん引きしてしまうような作戦を

中国共産党とは真剣に現在進行形でやっているわけで、それでいうと
この「切り裂き事件」が「三戦」のうちの「輿論戦」、つまり

「中国の軍事行動」(日本に対する現在進行形の侵略)に対し、
「 中国の利益に反するとみられる政策を追求することのないよう」
(自国の侵略行為を非難される前に相手が侵略してきたと主張する)
「国際世論を味方につけ」(ドイツと比べて日本を非難し)

るという作戦のための「ムード醸成」であった可能性もあります。

2月に急に始まり、しかも一人や二人の手では不可能な件数発生していること。
事件が公になり監視体制が各施設にできたこともありますが、
「犯人」として逮捕されたのはたった一人で、しかもその供述が
民族主義とも何とも関係なく、非常にあいまいであること。
そして習近平の「ホロコースト施設慰霊」がドイツに拒否されたのと、
事件の発生が途絶えたのがほとんど同時であること。

これがそう考える理由です。

その後38歳の男性が逮捕され、その情報も詳らかにされませんでしたが、

「マスコミが逮捕された犯人の名前を報じない」

ときは、それが朝鮮人・中国人のどちらか、あるいは中国か韓国に
都合の悪い結果であったというのは前例の示す通り。

だから勿論これが韓国の指示で行われた可能性もあり、
ネットではほぼ心証的にそのように言われているようです。

片山さつき議員も、この事件に関して

アングレームに乗り込んだ韓国チョ女性家族部長官は、
ユネスコ事務局長に、2月2日
『アンネの日記は世界遺産登録されている』

と従軍慰安婦の被害記録の登録を主張したそうです。
そして、都内でアンネの日記が図書館被害」

とツィートしています。
つまりこちらに対する「掩護射撃」の可能性も捨てられません。

いずれにしても中山成彬議員がツィートしたように

「瞬間日本人の感性ではない、日本人の仕業ではないと思った」

というのにわたしは賛同します。
さらに中山議員は

「ディスカウントジャパンに精出す国、安倍総理をヒットラーに例える国もある」

と、暗にこの両国のどちらかが事件の影にあることを指摘しています。



この切り裂き事件に対し、イスラエル政府は当初不快感を示しましたが、
すぐに菅内閣官房長官が

「わが国として受け入れられるものではなく、
極めて遺憾なことであり恥ずべきことだ」


と言う声明を出し、安倍総理は欧州訪問に際し
アムステルダムの「アンネの家」を実際に訪れ、

「大変残念で、二度と起こらないように希望する」

と事件の収拾に努めました。

そして、何よりも事件が世界に「日本の軍国主義の台頭」という、
中・韓の期待するイメージを伴って広まらなかったのは、即座に図書館に
本を寄贈する者が現れるといった日本国民の対応のおかげでもあります。

とりわけ亡命するユダヤ人に6000人分の「命のビザ」を与えて
それを幇助した日本の外交官、

「杉浦千畝」

の匿名で図書館に「アンネの日記」の寄付があったことは、逆に
このような人物が日本にいたことを想起 させることになりました。


日本はこの件ではいつの間にか勝利していたというわけです。
どちらにに対してかはわかりませんが。




 


佐世保探訪~佐世保バーガーと護衛艦「きゅぴしま」

2014-06-12 | 自衛隊

さて、佐世保探訪シリーズも最終回となりました。
コメント欄では佐世保を知る読者の皆さん(二人だけど)から
連日熱ーい「佐世保で押さえておくべき情報」が寄せられています。
というわけで、わたしなりに

「佐世保ネイビーツァー」

を計画してみました。

1日目、ハウステンボス泊。
   到着と同時にハウステンボス内観光。
   海軍兵学校針尾分校跡の見学。

2日目、朝ハウステンボス、昼は針尾通信塔の見学
   夜は佐世保に移動、弓張の丘ホテルチェックイン。
   夕食、皿うどんorレモンステーキ
   自衛官のエスコートがあれば基地内「ギャラクシー」で一杯
   なければ基地の外のその手のバー
   米海軍の軍人が良く来る、いわゆる「外人バー」はたくさんあるらしい。

3日目、朝10時から一般公開の艦艇見学
   昼は「ふくろう」のカレーor佐世保バーガー
   セイルタワー見学(時間は好きなだけ)
    佐世保駅利用者は、ログキットの佐世保バーガーを食べてから出発

なお、余力があれば有田の深川製磁本店で海軍関係の陶磁器見学
本店の二階は(揮毫壷のあったところ)は一般公開しているので、
(たぶんですけど)誰でも見られます。 
水族館と九十九島も入れたいところですが、そうなると三泊コースですね。 




さて、今日は佐世保で購入した記念品のことをお話しします。

まず、佐世保地方隊の倉島岸壁にある厚生棟売店。

ここで買ったものは、


1、海上自衛隊礼式参考書(300円税別)



このコーナーには、自衛官の試験のための問題集など、
確かにここでしか買えないものがたくさんあって、どれも欲しかったのですが、
どれもせいぜいブログネタにするくらいしか用途がないので、一つにしぼることにし、
その中でも最も汎用性があると思われるこの「礼式参考書」を購入しました。

この旅行のときには、晴海埠頭で行われた練習艦「かしま」での
艦上パーティの予定はすでに決まっていましたが、まさかその後の
練習艦隊出港式まで参加が叶うとは夢にも思っていなかったのです。

礼砲に始まって、と列員のことや自衛艦旗掲揚降下のこと、
この後にお話ししたことは皆これに書かれていました。


因みにその後、この参考書に「帽振れ」が書かれていないのは、

「帽振れ」は礼式に規定されたものではなく、伝統様式であるから」

だったということが分かりました。
このとき、小説「帽振れ」があるということも教えていただいたのですが、
ほとんど同時にM24さんに全く同じ小説を紹介して戴いたので驚いたものです。

礼式参考書を買ったこともそうですが、一つのことに意識をフォーカスしていると、
情報が時々線を結ぶのかこういった偶然が多々起こって来るようです。



皆さんにはもうご紹介済み、2、サイドパイプ。(1400円くらい?)
1回だけ吹いてみましたが、その後放置してあります。




3、佐世保基地パッチ

この手のもの、ついつい見るとなにかしら買ってしまうのですが、
増える一方で何かに付けたためしがありません。


そもそも取り付け方が分からないんですけど、

やっぱり糸でちくちく縫い付けるんでしょうか。

そういえば曹・士が自衛官になって最初にする仕事はお裁縫らしいですが、
やっぱりこういうものも、もれなく縫い付けたりするんですか?



4、「しらせ」のバッジ

2センチくらいの小さなものです。
「しらせ」は護衛艦ではないけど、仮にも海軍所属の艦艇が
こんなかわいらしいペンギンをマークにしているとは・・・・・。

海上自衛隊の萌え攻撃力恐るべし。


「しらせ」と言う艦名ですが、これを日本の陸軍軍人であり、
最初に南極に足を踏み入れた

 白瀬 矗(しらせ・のぶ)中尉

の名前にちなんで付けられたと思っていたあなた、実はこれ、違うんですよ。
自衛艦は人の名前を付けることはしません。
たとえ南極大陸に最初に到達した人間であっても、軍人ならなおさらです。


「自衛艦の名称等を付与する標準」において砕氷艦の名称は、
「名所旧跡の名」とされています。
したがって、砕氷艦の「しらせ」は、

「白瀬中尉ではなく、白瀬の名を取って付けられた南極の
『白瀬氷河』から取ったものである」

と海上自衛隊では言い張っているのでした。(笑)
氷河が名所旧跡なのか?という疑問はともかく、
これで規則に準拠したことになり、例外を設けずにすんだわけです。

5年前の2009年に就役した「しらせ」は、当初艦名を公募したところ
対象から外されていたにもかかわらずこの名が2位になり、
秋田県にある白瀬中尉の出身村から嘆願書が届いたため、
「国民の熱意と受け止めた」として、この名前に決定されました。


自衛隊も実は「しらせ」にしたかったんじゃないかという・・・。

 



「着きましたよ。佐世保バーガーはあそこです」

というわけで、来たぜログキット。
この右側の看板は、故やなせたかし先生の作品だそうです。

タクシーの運転手が指差す方に行ってみると、飲食スペースはなく、
カウンターで作ったものを売るカウンターになっています。

立って食べろというのか。
お店の人に聞くと、

「向こうにショッピングモールのテーブルがありますよ」



シアトルコーヒーで飲み物を買い、ベーコン抜きのチーズバーガーを
テーブルに座って味わってみました。

美味しい!

かねてから名前だけは聞いていたけど、これほど美味しかったとは。
店舗の前にパネルがあって「まいうー」の人が満面の笑顔で写っていましたが、
この際全く同じことを今叫んでもいい、とわたしは思いました。

「佐世保バーガー」とは決まったスタイルがあるわけではなく、
それこそ店舗によって味も色々だし、お店のメニューも非常に多いもので、
つまり、

佐世保で食べる手作りバーガー

これを即ち佐世保バーガーと称するらしいです。
だから、高円寺にあったりするのはすでに佐世保バーガーではないのです。

何か特色があるとすれば、巷のハンバーガーチェーン店と違い、
注文を受けるごとに一から作って、作り置きをしない、という新鮮さにあるようです。

佐世保バーガーは横須賀バーガーと同じく、進駐軍のアメリカ人からもたらされ、
1999年、横須賀で旧軍港町(呉・舞鶴・佐世保・横須賀)による物産会が行われ、
佐世保から郷土料理として市内のハンバーガーが出店したところ、
佐世保勤務経験のある自衛官のあいだで「懐かしい」とこれが大好評。

この人気ぶりを見て、佐世保市が 郷土料理としてのハンバーガーを
見直し、広めていこうと「佐世保バーガー」という名称を公的にも
使用するようになったのは2004年のことだそうです。 


2007年には「佐世保バーガー認定制度」もできました。

アメリカで「日本の正しい寿司を広める」ことを目的に日本政府が制定しようとした
「スシポリス」みたいなもんですかね。

この認定制度は「独自性・主体性」「信頼性」「地産地消」「手作り」
等の項目を審査し、合格した佐世保市内の店舗に限り
「佐世保バーガー認定店」の印が与えられるのだとか。
認定店には「バーガーボーイ」のシールが貼ってあるそうです。

各店の品質向上のためにいい制度だと思うのですが、これに照らすと、
ファミリーマートで展開していた「佐世保バーガー」は、
佐世保バーガーではない、ということになります。

ちなみに「スシポリス」は、LAでインチキジャパニーズ寿司を経営している
コリアンのシェフ団体が「大反対」したため、実地には至りませんでした。

 

食べ終わった頃、息子とTOがハウステンボスから到着しました。
わたしが奨めるままに彼らも一つずつ注文し、案の定二人とも
美味しい美味しいと大騒ぎ。

「もう一つ食べたい」

と息子が言い出し、もう一度買いに行くという熱心さです。



息子は急遽気が変わってタコスにしたようですが。
これも「無茶苦茶美味しい」とのことでした。

因みに先日、わたしが

「もう一度佐世保行きたいなあ。
弓張りの丘ホテルに泊まって、窓から佐世保港の夕焼けを見たい。
ハウステンボスも行ってみたいし、針生の通信棟も・・・」

というと、彼は

「俺も。佐世保バーガー食べたいから」

と言っていました。
彼に取っての佐世保はこのバーガーだったようです。



セイルタワーで買っておいたお菓子をついでに味見してみました。
5、佐世保ボーロ
柔らかい食感のたまごボーロという感じのお菓子です。



そうそう、セイルタワーではこんなものも2揃え買ってしまいました。
6、今や珍しくなった金属製の海軍マーク入りカレー皿。




錨のマークがお皿とスプーンに付いています。

帰ってから一度これでカレーを食してみました。
物珍しいから買ったものの、あまり実用には期待していなかったんですが、
思ったよりもスプーンの当たり具合が良く、悪くない使用感です。




そして、これ。

THE SELF DEFFENCE FORCE

という、正しいような正しくないような表記が付けられた

7、海上自衛隊限定キューピーGROBAL PEACE

グローバルピース、ってのがこの護衛艦の名前なのかしら。
よくわからないけど。

一目見てこのキュートさにしてやられ、買ってしまいました。



なぜ護衛艦がキューピーなのか、キューピーが護衛艦なのか。
全てがシュールです。

艦橋の中央に見える白いのは、おそらく航海用レーダー、
キューピーの額はにあるのが・・・・・なんだろう。

もしかして、CIWS?




そして見よ。

ちゃんとイージスシステムである証拠にSPY-1Dレーダーの、
パッシブフェーズドアレイタイプが4枚あるのです。 

黒いのはおそらく第1、第2煙突であろうと思われます。



これ・・・・・こんごう型ですよね。
 
 

そう思えば、きりしまに似ていなくもない。後甲板ないけど(笑)

それではこのキューピー搭載型護衛艦を、

「きゅぴしま」JS−KYUPISHIMA DDG- 0.0000174

と(たった今)名付けることにします。
艦番号の縮尺サイズは適当です。 

 


というわけで佐世保の旅が終わりました。



ハウステンボス号で、空港のある福岡まで行きます。



帰りはグリーン車にしました。



一つ一つの席が新幹線のより大きくて広く、とても楽でした。

初めて行きましたが、佐世保、さすがは海軍の町だっただけあって、
あらゆる点で当方との相性は抜群。

また、必ずここには行きたいと心から思いました。
カレーに皿うどん、まだ味わっていないものもいっぱいあるし。

それまで待っててね、佐世保。




 


佐世保探訪~セイルタワー見学

2014-06-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、護衛艦「あさぎり」の乗組員のさわやかな敬礼に送られて
(実は写真を撮るために無理矢理敬礼させたんですけど)
わたしは岸壁を後にしました。



さすがは元軍港佐世保。
自衛隊の基地も余った土地をふんだんに使えると見えて、
隊員の厚生棟ビルはわざわざこんな見晴らしのいい高台に建っております。

屋上に自衛艦旗が翻っておりますが、これもまた朝8時に掲揚し、
日没と共に「君が代」の喇叭譜に合わせて降納するのでありましょう。
そのとき、このビルの屋上から見る佐夕日はどのように美しいことか。

この1階には一般の人も利用できる売店があります。
見学の後はぜひ立ち寄ってお土産をどうぞ、とどこかに書いてあったので、
記念品を買うために行ってみることにしました。



写真を撮ってもいいのかな、と少し迷いましたが、
何も言われなかったのでたぶん大丈夫でしょう。
(セイルタワーの売店は写真撮影禁止になっていました。
ネタにするため撮るだけとって買わない人が多いのに業を煮やしたのかも)

それにしても、誰が買うのか。

「鬼監督」「鬼会長」「鬼船長」「鬼艦長」

の「鬼」シリーズ。
これは・・・あれだな。
乗組員一同が艦長にプレゼントしたりするためにあるのかもしれない。

さらにわからないのが

「副会長」「副団長」「副艦長」「副隊長」「副船長」「副監督」

の「副」シリーズ。
だいたい「副艦長」という役職が自衛隊にはあるのか。
「鬼」ならまだ体を張ったギャグで着用する人もいるのかもしれないけど、
「副」は謎だわ。 

でも、ここにあるってことは需要もあるってことなんだろうし・・。



「熊本に海自の基地はないからくまモンの海自バージョンは無い」

とカレーグランプリのときにコメント欄で断言されていた通り、
陸自バージョンのくまモンがここ海自基地でも売られております。
迷彩柄のくまモンバンダナがちょっとオシャレ。

どう転んでもわたしにはこういうの似合わないので買いませんが。



自衛官対象の厚生施設ですから(あやうく更生施設って書くところだった(; ̄ー ̄A )
制服やネクタイなど一切合切売っています。
マネキンがかぶっているのはヘルメットの下に付けるクッション。
かぶり心地を少しでも良くしようとする隊員向け。

ガラスケースの中に黒字に金の自衛艦旗模様のパッチがあるけど
これは何のためのものなんでしょうか。
これかっこいいなあ。次に見たら買おうっと。(何に使うんだ)




買い物を済ませ厚生棟を出ようとしてポスターに気づきました。
省エネ啓蒙、飲酒運転の危険を説くもの、さわぎりカレーが発売されたというお知らせ、
(これ、買って帰りたかったけど、どこに売っているのか分かりませんでした)

そのなかに・・・・・・。

「あなた 見られてますよ」


双眼鏡を覗く自衛官にあなたは今見られていますよ、って?


自衛艦の使用双眼鏡はかなりの高倍率。
見張り任務の際、偶然人のうちの中とか、特にシャワー中の女性とかが見えたら、
ついつい目を凝らして見てしまうのが男性の性。
いや、もしかしたら女性だって好奇心で見てしまうかもしれない。
だからといって覗きは犯罪よ、ってことなのですが、
見られている人に呼びかけてもしょうがないのではないかと思うがどうか。




と相変わらず細かいことを気にしながら外に出ようとすると、
本日休業の理容室に貼られていたポスターが目につきました。

「白髪ぼかし」

ほおお、たった4分で・・・。
たった4分でシャンプーしても落ちない色に染めるんだ。大丈夫か。
(いろんな意味で)

写真の人はとりあえずあごひげも同じようにぼかしてもらった方がいいと思う。




建物の前のパーキングスペースに停まっていた公用車。
ちゃんと錨のワンポイントが付いているのがさすが海自。
車両ナンバーがなんだか一般のものとは違うような。
確か道交法ではナンバープレートは後ろだけちゃんと付ければいいらしいので、
もしかしたら後ろ側のプレートは一般道用なのかもしれません。

さて、見学も買い物も終わりゲートに向かったのですが、
わたしはこの場をお借りして、倉島岸壁で当日受付にいた自衛官の皆さんに
心から謝りたいことがございます。

わたしが現地に着いたのはたしか10時頃だったかと思います。
写真を撮りながらちんたら歩いて行って、さんざん時間をかけて「あさぎり」を見学し、
そのあと厚生棟であれやこれやと品物を見てお買い物もし、
タクシー会社に配車の手配をするなどしているうちに、
ゲートに着いたとき時間は12時10分になっていました。

そこで初めて、「あれ、これもしかしてわたしを待っていたの?」
と、自分が時間に遅れたことに気づいた次第です。

後からよくよく案内を読むと、「時間内に退出して下さい」と書いてある・・・。

貴重なお昼休みを10分も奪ってしまってすみませんでした。
これから気をつけます。



さて、行きに乗った「ハッピータクシー」をゲートのところまで呼んで、
次は、セイルタワーです。



セイルタワー到着。
って言っても今日来るのは訳あって二度目なんですけどね。

ここは昔佐世保の水交社があったところだそうです。
水交社は明治31年(1981)ここに移転してきました。
海軍士官の懇談、外国士官の接待、及び艦隊乗組士官の宿泊等のための施設で、
当時は三階建ての洋館だったということです。

この写真に見える1階、2階の部分は、当時の建物を一部利用しています。
丸の内や横浜、神戸にも見られる

「当時の趣を残しつつ上に高層ビルを積む」

というあの方式を採用しているんですね。
古いものを遺したい、しかし老朽化したので建てかえなくてはいえない、
そんな願いを一挙に叶える大岡裁きのような建築法です。


水交社の建物は戦後アメリカ軍に接収されていましたが、返還後、
海軍、海自に関する資料を集めた資料館となりました。

ここは・・・・すごかったですよ。

7階建ての建物全てが展示で、今まで行った海軍・海自関係の資料館では
文句無しに最も充実の内容だと断言します。
興味のある方なら丁寧に見て行けば、まる一日過ごせるところです。

「セイルタワーまで」

と告げると、タクシーの運転手さんは

その後はどうするんですか」
「?」
「せいぜい1時間もあれば見られますから後は観光すればいいですよ」

そして佐世保の見所について懇切丁寧に教えて下さったのですが、
わたしはそれを聞きながら心の中で力強く
いや、わたしはおそらく待ち合わせ時間までの4時間、
たっぷりここにいると思います、と反論していました。

そして、その通りになりました(笑)

それほどここの資料は凄かったのです。


それにしてもこのセイルタワー前面の写真ですがね。
重箱の隅をつつくようだけど、海軍海自の資料館だというのに、
どうしてここには
日本の国旗しか掲揚されていないのか。

なぜ旭日軍艦旗が揚げられていないのか。

もしこれがわたしの最も憂慮するところの

「中国人韓国人観光客並び左翼への要らん配慮」

の結果そのようになっているのだとしたら、即刻明日から
旭日旗を高々と揚げていただきたい。

海軍の、そして海自の歴史を紹介する施設だというのに
旭日旗を揚げないとは一体どういうつもりなのか。



と相変わらずこういうことには厳しいエリス中尉です。
これを右翼と云うならいくらでもそう呼んでくれ。
世界ではこれが中道であり常識でもあります。
現存する軍の資料館でもあるのにその軍旗を揚げないなんて国がどこにありますか。


それにしても昔の建物は風格がありますね。
おそらく昔はここは車付けになっていたはず。
今は車いす用のスロープが付けられています。



「セイルタワー」というのは建物の形状(ガラスが波を表しているらしい)
から来た愛称で、正式名称は

「海上自衛隊佐世保資料館」

といいます。
つまりここは防衛省の組織が運営しているんですよね?

しつこいようだけど、誰かここに自衛艦旗を揚げられない理由をご存知ですか?



と思ったらここにあった(笑)

うーん、なぜ外に掲揚しないんだろうなあ。

ここは館内で唯一写真を撮ってもいい場所で、
舵輪と時鐘と海軍旗が置かれ、海自の制服を着て写真が撮れます。

つまり・・・・写真撮影のためにこの旗はここにある、と・・・・。(♯)



入館料は無料。
あのレンホーの行政刷新会議、いわゆる「事業仕分け」の後、
朝霞の「りっくんランド」もその毒牙にかかったことを説明したことがありますが、
このセイルタワーも他ならぬレンホーの指導により、入場料を取るように指導され、
実験的に大人400円、子供200円の入場料が設定されたのだそうです。

その後、入場者が激減したため、3ヶ月でそれは廃止になりました。
そうなることは最初から火を見るより明らかなのに。


だいたい歴史資料館なんてものはどんなに努力しようが

「ディズニーランドのようにリピーターが後を絶たない」(by仕分け人)

というような賑わいを見せるようなものではないことくらいわからんのか。


と、あの帰化議員の話になると血圧が上がってしまうエリス中尉。
超低血圧なので(上が100あるかないか)多少上がった方がいいんですけどね。
それはともかく、この日も日曜でしたが館内は静かなものでした。

何人かでわいわいやっているかと思うとそれは日本人じゃなかったり。
中国人のグループ、韓国人の家族、そしてなぜかインド人がいました。

ちなみにわたしはこのインド人に声をかけられ展示物についての質問をされましたが、
それはもしわたしがこのブログをやっているような人間でなければ
答えることが出来ないような、ある意味ディープな内容でした。

聞かれた内容は時間が経ってすっかり忘れてしまいましたが(; ̄ー ̄A 


展示はたとえば一部屋がまるまる旧海軍の軍服や装備だったり、
先日お話ししたm深川製磁製の聯合艦隊用食器セットを並べていたり、
遺墨や遺書あり、写真、パネル、模型、音声やゲームなどで、
完璧に海軍と海自について、そしてそれらが係ってきた歴史を知ることが出来ます。

一番上の階は映画館になっており、エンドレスで二本の映画をやっていて、
それを見て予習をしてから見学を開始するという仕組みになっています。

映画のうち一本は、三宅由佳莉3曹のデビューの頃の映像が見られました。



ところで、映画を見終わって6階に下りてきたとき、
(観覧者はまず7階に上がって、階段を下りて行くきまり)
わたしに声をかけるおじさんがいました。
なんと、さっき倉島岸壁からここまで乗ってきたタクシーの運転手です。

「シートに忘れていたので持ってきました」

彼が手にしているのはわたしの帽子ではありませんか。
なんと、客の忘れ物をわざわざ届けてくれたのみならず、
エレベーターで上がってきてわたしを探し出し渡してくれたのです。

「わざわざここまで持ってきて下さったんですか・・・・」

驚きと感激で絶句するわたしに

「この後も楽しんで下さいね」

と言い残して去って行った運転手さん。
その後ろ姿はロバート・デ・ニーロより素敵に見えました。
皆さん、佐世保に行ったらハッピータクシーがおススメです。
たとえ忘れ物をしてもちゃんととどけてくれます。


というかタクシーに忘れ物はしないようにしましょう。




セイルタワーから下を見下ろした景色。
前の敷地も自衛隊なんですね。



ところで。


旧海軍の軍服が飾られている部屋の前で一人で展示を見ていたとき、
左手に人影が見え、軍服の部屋に入っていくのを目の端に認めたのですが、
その直後その部屋に入ってみるとそこには誰もいませんでした。

たぶん・・・気のせいだとは思いますが。



敷地内には旧軍の銃も展示してあります。
これは

山内短五センチ砲


礼砲については先日練習艦隊のエントリで説明しましたが、
あの、礼砲です。

これは、平成22年と言いますから4年前、佐世保の三浦地区で、
工事現場から発見されたものだそうです。



自衛隊の父兄会とコンパス21という団体が一緒に植樹をしたようです。

コンパス21
とは、佐世保の若手経営者と佐世保勤務の若手自衛官の交流会で、
他の自衛隊のある地域でも珍しい、歴史のある交流グループなのだそうです。



そうこうするうちに、佐世保駅での家族との待ち合わせまであと1時間となり、
またまたハッピータクシーに配車をお願いしました。
(その電話のときに先ほどの運転手さんへの感謝の意を伝えておきました)

ところで、車に乗るときに入り口を見たら受付のおじさんが二人とも出てきて、
わたしが車に乗り込むのを見ていましたが、あれはなんだったんだろう。

「1時間もあれば十分」とされるセイルタワーを一人で4時間も見学したので、
もしかしたら何者かを怪しまれたのかもしれません。

そういえば見学しているとき、何度も係員が館内見回りにきてたなあ。


実際に貴重な歴史的資料がふんだんにおさめられていて、金銭的価値はなくとも
マニアには垂涎の、つまり盗難の心配のあるものもたくさんあるわけですからね。
人目のない空間でマニアが宝の山に出来心を起こさないとも限りませんし、
そこまでいかずとも写真撮影をこっそりする輩もいないともかぎりません。


展示内容が内容だけに、火をつけられる可能性もゼロではないでしょう。

彼らから見たら一人でやってきて長時間滞在する見学者は一応
「疑ってかかれ」というマニュアルがあったりするのかもしれません。


さて、わたしは疑われたとしてもある意味当然、倉島岸壁からここに来て
夢中で色々見たりゲームしたりしてお昼ご飯も食べていなかったんだった。

ちなみにこのテレビゲームですが、海軍バージョンと海自バージョンがあって、
三択質問に全問正解したら、海軍版では大将、海自ゲームでは海将になれます。
大将、海将になれると

「驚きました!」

というコメントをくれるのでつい嬉しくなってつい何度もやってしまいました。
このクイズで初めて知ったこともいくつかありましたよ。

それはともかく、そういうことなのでお昼食べてません。
お腹空いた。何か食べたい。佐世保らしいものを。

「佐世保駅周辺で佐世保らしいものを食べたいんですが」

運転手さんに相談してみました。
さすがはハッピータクシーの運転手、即座に

「それなら佐世保バーガーだね。有名なところが駅にも店を出してますよ」
「じゃ佐世保駅に行って下さい」

 

この運転手さんも

「どこから来たんですか」

に始まり、色々と町中の説明をしてくれます。
ハッピータクシーに限らず、観光地の運転手はそういうものなのかもしれませんが。

「これが佐世保鎮守府だったところです」

佐世保地方地方総監部の建物はレンガの塀が実に立派です。
佐世保総監は先日地方総監が交代しました。



離任した吉田正紀海将が深川製磁で揮毫した壷も、
ほら、本ブログにはすでに
アップされているんですね。


吉田海将の後任である池田徳宏海将の壷が並ぶのもすぐでしょう。



佐世保駅に到着。
運転手さん曰く、人気の佐世保バーガー店がここに出店しているとのこと。

いざ試さん、佐世保バーガー!


続く 。




護衛艦「あさゆき」見学~「せきくん」

2014-06-09 | 自衛隊


佐世保で一般公開されていた「あさゆき」の見学記をお届けしています。

笹井中尉が怒りのあまり足を踏み外した(らしい)のと同じタイプの
舷梯を渡ると、そこには何人かの乗組員が待機していました。

一グループに付き一人が解説のためエスコートしてくれる仕組み。
勿論わたしは一人で行きましたから、エスコートと二人で回ることになります。

ふむ。

合コンもいいけど、自衛官との出会いを望むおぜうさん方、
週末の海自基地ではこのようなイベントも行われているのよ。
あんまり露骨なのは向こうにも退かれると思うけど、
艦内を一周しながら説明したり質問したりしているうちに、
ピンと来るタイプだったら思い切ってアプローチしてみればどうかしら。


とはいえわたしも別に、隊員を絶句させたり、答えに窮するような
質問を繰り出すほど
詳しくも何ともないんですけどね。

わたしの興味はほら、常にハードではなくソフトにあるわけですから。


さて、エスコートのデルタ2曹(仮名)がまず連れて行ってくれたのは後甲板。
ここには 

 GMLS-3型A シースパロー短SAM 8連装発射機

があります。

(間違ってアスロックと書いたらご指摘いただきまして訂正しました) 



艦尾側に立ってランチャーを撮ってみました。
向こう側はすぐはしご段のついた一段高い甲板です。
この一段上の甲板にヘリポートがあり、格納庫もその奥に設置されています。



さらに、この輪転機みたいなの(これ何だっけ?デコイ曳航機?)の

向こうがわはさらにここより一段低くなっています。
つまり後甲板が三段階段状になっているわけ。


これはどうも「はつゆき型」護衛艦の最大の特色のようです。
ちなみにこの「あさゆき」は「はつゆき型」の11番艦。

11番艦?そりゃまたたくさん作ったものだ、と思われた方、その通り。


この「はつゆき型」は海上自衛隊発足後最初に作られた「はるかぜ型」
(『ゆきかぜ』はその2番艦)などの退役が迫っていたので、
その後継シリーズとしてわずか5年の間に12隻が建造されたものです。
準同型艦も含めると何と20隻の同型艦が建造されたことになります。

1979年からの5年間といいますと、バブル前夜でプラザ合意の1985年までは
日本経済はかなりの不況だった頃です。
この時期の大量護衛艦建造のわけは、先ほども述べた

「自衛逮捕発足当初の艦が老朽化し後継艦の建造が急がれた」

ということが最も大きな理由でしょう。



自衛艦旗ごしに向こうに見えているのは


掃海艇「やくしま」MSC−602。

「えのしま」などの新型掃海艇はFRP素材(繊維強化プラスチック)でできていますが、
これはその前の建造で、やはり機雷に感応しないように木造の船体をしています。

素材がFRPになったので木造製の掃海艇は生産が打ち切られ、この
「やくしま」を2番艦とする「ひらしま型」(ひらしま、たかしま)の
三隻は、海上自衛隊最後の木造製掃海艇となる予定です。

デルタ2曹も「これは前の形なので木製です」と言っていました。



対岸からスピーカーで気勢を上げている一団があります。

「あれ、なんですか」
「さあ・・・・何なんでしょうね」
「こっちにむかって言っているんですか」
「わかりませんね~」
「基地反対とかいってるんでしょうか」
「かもしれませんけど・・・・」

「政治活動に関与せず」という自衛官の宣誓に忠実に、
このデルタ2曹もまた、全くそのようなことには関心もない様子。

というか、彼らには心底どうでもいいことなんだろうなあ。
いちいち気にもしてられないだろうし。 



そういう意味では日曜日の朝っぱらからわざわざマスクで顔を隠して、

ご苦労さんなことである、何の効果もなさそうなのに、と思っていたのですが、
写真を拡大してみると・・・。

彼らの持っている旗には「築港」とあります。
読み難いですがその下には「福岡」「組合」とあるので、
福岡の築港というところからわざわざ佐世保に来ているようです。

「福岡」「築港」「組合」で検索しても、
「日雇い労働組合」しか出て来ないのですが、このときのシュプレヒコールも
何を言っているのかさっぱり分からなかったので、正体はわかりません。
そもそも海自に向かって叫んでいたのかどうかも不明です。

つまりこの行為、全く意味も効果もないと思われますが、そんなのでいいのか。



このブログ的にはおなじみ、「X」の印のついたドア。
この「X」は艦内閉鎖記号で、合戦準備つまり哨戒配備になると常時閉鎖となります。



これは、ランチャーを撮ったのではなく、他に見学者がいたので

(しかも女性だったので)ちょっと撮らせていただきました。



この一団。

若い女性二人、男性一人の三人組でした」。
なぜか案内が付いていないように見えましたが・・・。



大抵の装備に付いては初耳でない、というところまでは

わたしも知識があるものの、やはり実際にそれを毎日のように扱い、
訓練している現場の人の話というのは全く違った意味で価値があります。

すぐにエントリを作成しなかったので忘れてしまったこともありますが、
なかでも印象的だったのが、デルタ2曹が

「現代の艦隊戦は接近して相手を見ながら戦うことなどない。
モニターの上で狙いを定め、まるでゲームのようにその結果を知る」

とその様子をリアルに説明してくれたことで(デルタ2曹は砲員?)
それはつまり「バトルシップ」で浅野がやっていたあれか?

と大変納得がいったわけですが、彼に聞いてみると

「まさにあの映画の通り」

だそうで、一般人としては、そういう現場の人の声を聞くと、
なんかパズルの答えが一致したときのように嬉しくなるものです。



岸壁から撮った艦首旗。(艦首旗ですよ。国旗ではなく)

話しながら前甲板に出てきました。

「艦船乗り組みの方はどこに行くか家族にも言わないんですか」
「建前は言わないことになっていますが、やっぱり結婚してたりすると
全て秘密というわけにもいかないでしょうねえ」
「潜水艦乗り組みほど何もかも黙ってるってことはない、と?」
「ああ、潜水艦はね、本当に言わないみたいですね。
わたしたちですら、なんでここに海自の潜水艦いるの?
と思うようなところにいてびっくりすることがあります」





74式C アスロック8連装発射機

(当初シースパローと書いていたら間違いだと略)

アスロックと言えば「ひゅうが」や「あしがら」「さみだれ」など、
床設置型のVLSから発射されるVLAは見たことがありますが、
このタイプを見るのはもしかして初めてだったかもしれません。



こちらはシースパロー。
発射の瞬間が鮮明に写っています。
アスロックのこういう瞬間の写真が艦上にも掲げてあったのでそれを見ながら

「すごいシャッターチャンスですね」

というと、

「そんなにスピード速くないんですよ」

とのことでした。
そんなもんですか。



62口径76mm速射砲(の後ろ姿)。

ファイバーグラスの砲殻なので、計量だということですが、
オトーメララ社の宣伝ビデオなんかをみてもこの砲殻、
地面に遠慮なくゴンゴン落ちまくってますよね。

「自衛隊は自分たちで全てメンテナンスを完璧にするので、
ペンキもしょっちゅう塗り替えるんですよ」

という話をしていたとき、床を指差して、

「これなんかも砲殻が落ちてペンキが剥げるから上から塗るんです」

いくら軽量小型でもあの調子でばらまかれたら、傷がつくんですね。

ちなみに、自衛隊では100%隊員が掃除もメンテもやりますが、
米海軍は「自分でやらないことも多い」ということでした。

アメリカの学校って、子供に掃除をさせず、清掃員を雇うんですが、

「掃除して居場所を清めることで精神も清められる」
みたいな考え方って、もしかしたら日本独特じゃないかと思います。

横須賀に停泊している米軍艦艇が遠目にもメンテが行き届いていないのは
自分たちの艦は自分たちで綺麗にする、というカルチャーがないからなんでしょう。

「自衛隊はやり過ぎじゃないかと思うことも時々あります」

とデルタ2曹は言っていましたが、いやいや、それは誇るべき海軍伝統の文化ですよ。




説明を受けながらもわたしはとなりの「いそゆき」が気になります。
これは・・・・・何か乗ってたんですよね?

「シースパローですね」
「再利用するんですか」
「いや、単に金属を利用するだけだと思います。
このはつゆき型というのは退役していく艦ですから、搭載武器を再利用することはありません」
「この艦も近々退役するんですか」
「この艦は補修されましたから、あと10年くらいは現役の予定です」



速射砲は砲身だけ取られてしまい、なんとも情けない姿になっております。


「砲身は消耗品なのでリサイクルします」

そういえば「あしがら」で、筒の内側が摩耗するのでそれをしょっちゅうチェックする、
と言う説明を聞いたなあ。

「ちょっとの摩耗でも何キロも先の目標地点では凄い誤差になってしまいますから」



「退役したフネはどういう扱いになるんですか」
「スクラップにならなければ標的艦になることが多いですね」
「訓練で沈めるんですね。どこでやるんですか」
「訓練海域があるんですよ。そこに艦隊で行って行います」
「実際に艦を攻撃して沈めるなんてことそうそうあるわけじゃないから、
実際に標的艦攻撃の訓練のときって、皆さぞかし燃えるでしょうね」
「燃えますねー(笑)」

会心の一撃でしとめたフネは「やったあああ!」ってなるんだろうな。
海自に入って護衛艦に乗ってよかった、ってそういうときは思うかもしれない。



今日は週末なので艦長はいません。だそうです。



救命筏の下の通路をくぐれば一周です。




ハープーンを真下から。



元のところに帰ってきてふと思い出し、

「救助訓練用の人形はどこにあったんですか」

と聞くと、

「あ、お見せしますよ」

といってわざわざ戻ってくれ、立ち入り禁止用のロープがあるのに

「いいですよ、中にどうぞ」

と通してくれました。

 

怖い(笑)


せっかくわざわざ戻って見せてくれたので、あまり時間をかけては悪いと思い、
急いで写真を撮ったら、暗すぎて画像は実は真っ黒でした。
極限まで明度と最密度を上げてなんとか分かるようにしたのがこれ。

なんとか描かれた目鼻立ちは判別していただけるでしょうか。
くっきりした目鼻、ゴルゴ13のような太い眉。

「誰が描くんでしょうね、こういうの」
「誰でしょうね~(笑)」
「名前ついてますか」
「え~(胸の名札を見て)せき、だそうです」
「せきくん、ですか」
「せきくんです」

せきくんって、誰。

 

せきくんに納得してすっかり満足しながら「あさゆき」見学を終わりました。

デルタ2曹は当たり前かもしれませんが説明が上手で、何でも良く知っており、
実に充実した艦艇見学の時間をすごさせていただきました。

ありがとうございました。とっても楽しかったです。



二度と乗ることのない退役艦「さわゆき」を通り抜け、ラッタルを降りたところで

見張りの海士くんが元気に挨拶してくれました。

任務中の自衛官というのは、どうしてこう皆爽やかなのでしょうか。




というわけで・・・・・・まだだ。まだ終わらんよ(笑)


 

 

 

 


護衛艦「あさゆき」見学~艦首旗と日の丸(と笹井中尉)

2014-06-08 | 博物館・資料館・テーマパーク

有田での深川製磁本社見学、そしてハウステンボスと、ここ北九州における
「海軍ゆかりの地を訪ねる旅」は二日目となりました。

え?

「何が海軍ゆかりの地だ、ハウステンボスを海軍兵学校跡と知らないときは
日本にこんなヨーロッパの街並を再現するコンセプト自体が意味がない」

とかなんとか批判的に思っていたくせに、って?
はい。

「兵学校跡であることと、開発に際して渾身の環境技術が投入されたこと、
そして、その後18年間不振だった事業をV字回復させた現在の経営陣」

この三題噺を知ったとたんすっかりそれまでの見る目を変え、
今やハウステンボス支持派に鞍替えしたお調子者、エリス中尉でございます。

というか、自分で全く知らないうちに「全編海軍ゆかりの旅」になっていた、
これがかつての軍港町
を訪ねるということなんですね。


佐世保恐るべし。 


さて、ハウステンボスで朝ご飯後一人でタクシーに乗ったエリス中尉。
何しろ初めてのことで、現地の様子は全くわかりません。
従って、セイルタワーと艦艇見学を実地している倉島岸壁が離れたところにある、
ということも全く知らなかったため、タクシーの運転手さんにはとりあえず

「セイルタワーに行って下さい」

と告げました。
ハッピータクシーという実にストレートな名称のタクシー会社の運転手は、

「どちらから来られました」

に始まって、車窓から見える風景の説明や有名な観光地の紹介、
ちょっとした観光のサジェスチョンをしてくれました。

「下を見下ろしたら佐世保を一望でき天下取った気になれる」 

という山腹のホテル、「弓張の丘ホテル」も教えてもらったり、
(次に佐世保に来ることがあれば必ずここに泊まろうと思います)
今まで「つくもじま」だと思っていた「九十九島」が 、じつは
「くじゅうくしま」だということも(ご存知でした?)初めて知りました。

楽しく車中でおしゃべりしながらセイルタワー前に着いたのですが、

「倉島岸壁はどの方向ですか?」

と車が止まってから現地の人にとっては全く見当違いのことを言い出す客。

「え、お客さん倉島岸壁行きたかったの?」
「はあ、セイルタワーと一緒になっていると思っていたので・・・」
「歩いて行くのは無理だね。少し戻ることになるけどどうします?」
「・・・・・倉島岸壁行って下さい」

さすがは軍港佐世保、規模が大きい。
歩いて行けるところに全てが集まっているというわけではなかったのね。
まあそりゃそうか。ハウステンボスじゃないんだから。

海上自衛隊入り口で降りたとき、運転手さんは端数を受け取りませんでした。
こちらの勘違いだったのに・・・。

皆さん、佐世保に行ったらハッピータクシーがおススメです。(宣伝)


さて、入り口で入門手続きをして、見学者のタグをもらい首にかけて、
艦艇のある岸壁まで歩いて行きます。
いつもこんなものかもしれませんが、人はまばらでした。 



岸壁までの道すがら目につくものを片っ端から撮りまくります。
自衛隊専用の岸壁ではないらしく、海保の巡視船もいくつか見えました。

写真は「ちくご」
2010年、民主党政権下で尖閣での状況が緊張化したときには、
なんとこの「ちくご」が尖閣に出動してニュース映像にも写ったのです。

当時緊張化が長期化したため、佐世保から急遽ローテーションに組まれ、
現場に出動していたということだったようです。

海保のことについては当方あまりくわしくないのですが、この「ちくご」は
警備実施等強化指定を受けた「特警船」で、
乗員は「特別警備隊員」でもあるらしいことがわかりました。

機会があれば一度海保の船についても乗船見学してみたいです。




こちらの岸壁は海自の・・・・これ、何だろう。
初めて見るなあ。
小さくて、艦番号も二桁・・・。

と思って調べてみると、この艦首のYTというのは

「Yard Tugboat」

つまり曳船(えいせん、で一発で変換できました)です。
見るのは初めて、じゃなかったんですね。

大きな船が出港するときに1隻あるいは2隻でその補助をする艦艇。
いつもこの小さな力持ちはあまり注目されませんが、
操艦にはかなりの熟練が必要なんだろうと、観艦式のときに思いました。
その働きぶりを一度でも見たらきっとあなたも思うはずです。

この曳船や給水、給油を行う水船、油船(あぶらぶね、と呼ぶらしい)、
廃油船(廃油回収)、運貨物船(艦艇への物資補給)、
交通船(人員運搬)、消防船(読んで字の通り)、
起重機船(艦艇に荷物を上げ下ろしする)・・・。


こういった働きをする船を「支援船」といいます。

どれも小さな船ですが、どんな大きな護衛艦も彼女らがいなくては動きません。
まさに縁の下の力持ちというべき大事な役目を担っているのが彼女ら支援船です。

艦艇公開には護衛艦だけでなく、ぜひこういう支援船も対象にしてほしい。

と、防衛省広報課にこの際お願いしておきます。



門そのまま歩いて行くと、グラウンドの向こうに艦艇が見えてきました。
ポールが三本発っていますが、ここで何かセレモニーが行われるのでしょうか。



グラウンドの手前は地面にロープを張った駐車場でした。
・・・・?何かが書いてある。



おお、常時繋留してあるフネの乗組員専用駐車場がある。
これは「あさゆき」用。
そういえば今日見学するのは「あさゆき」だったっけ。

勿論日曜日なので車は一台も停まっていませんでした。
さすがに土地が広いだけに車の通勤が許されているのですね。
おそらく幹部だけだとは思いますが。



「じんつう」JS Jintsu, DE-230

の艦長専用のパーキングロット。
「じんつう」は旧軍の軽巡洋艦「神通」の二代目艦となります。
今まで舞鶴、大湊、そして佐世保と定係港を変えてきたそうです。
フネが引っ越すときには当然乗組員も一緒に引っ越すんですよね。

「2年おきに転勤は普通」

と艦上レセプションで実習幹部に聞いたけど、この人事異動というのは
「組織が硬直しないように人を動かす」ということが目的だったりするんでしょうか。



空が・・・・・広い。

二台の自転車は折りたたみ式のようですが、隊員の移動用でしょうか。
それともこのとき来ていた家族連れのもの?



まずは前面から写真を撮ってご挨拶。
艦番号132が本日見学する予定の「あさゆき」です。
手前の艦を通り抜けて行くんですね。

この週末は「じんつう」が一般公開されていますが、写真によると
さらにこの外側に繋留してありました。



停泊中なので艦首旗が艦首に掲げられています。
ころでこの艦首旗竿の旗を前回練習艦隊の出港時に

「艦首に日の丸が」

と書いたのですが、じつはこの“日の丸”はあくまでも「艦首旗」と呼ばれ、
艦艇の常識では国旗であるものの国旗ではない、という扱いなのだそうです。

軍艦においては艦尾旗竿またはメインマストに掲げられるのが最上位の旗とされ、
一般的にはそこに
海軍旗を揚げることになっています。

海軍旗が制定されていない海軍もあるので、その場合は国旗がそこに揚げられます。

つまりこれは

「一見日の丸に見えるが実は艦首旗であり日本国旗ではない」 

ということでもあるのです。
なぜこういうことをわざわざことわるのでしょうか。

これは、わたしが海自の慣習である自衛艦旗の扱いを見ていていつも感じる
ある「疑問」への答えが、すなわちその答えでもあるらしいことがわかりました。




艦上レセプションでは、日没前から待機して自衛艦旗を降納していました。
晴海の練習艦隊出航行事の朝は、8時に掲揚する自衛艦旗を見ました。
そこでは自衛艦旗が喇叭譜「君が代」と共に扱われます。

そこでわたしの感じた疑問というのはこういうことです。

「これをしている間、国旗であるはずの艦首旗はどうなっているんだろう」

はたして艦首旗は自衛艦旗のような揚げ下げをするのか。
そもそも、自衛艦旗がこうやって第一義に扱われているということは

自衛隊では国旗より自衛艦旗を尊重している

ということになるではないか・・・。 

はい、もうおわかりですね。

いかなる軍隊も、国旗の下にその存在を初めて認められているのですから、
国旗より軍艦旗を優先したり尊重したりすることは許されません。
しかし、艦首には識別のために国旗を揚げねばならない。
つまり

「これは国旗と同じ模様をしているが、艦首旗といって国旗ではない」

と言い張ってしまえば、この矛盾が解消できるというわけです。

・・・・・・と思ったんですが、本当はどうだか知りません。

しかしそれが証拠に、今より国旗に対する扱いに厳正を要求された旧海軍時代には、
国旗と類似の、縦横比が国旗とは異なる、艦首旗たる日の丸が制定されていたそうです。

しかし海自では国旗と同じものを艦首旗と言い張って使用しています。
そのためにわざわざ特別の国旗を用意するほどでなくてもよくなったんでしょうか。

朝日新聞が社旗を「これは旭日旗ではない」と言い張るみたいなもんですかね。
たとえが悪すぎてすみません。 


「艦首旗」≠「国旗」は米海軍ではちゃんと具体的に行われており、
星条旗の左上部の青地に星の部分だけを艦首旗として使用しています。
他の艦船から見てアメリカの軍艦であることが分かればいいからですね。


ところで先日、羽田空港が床の皆が通行するところに東京オリンピックの

「ガンバレ、ニッポン!」

というディスプレイを貼付けて、それになぜか高円宮典子女王の婚約者である
出雲大社の千家国麿氏がツィッターで

「何を考えているんだ羽田空港は!」

と激怒し、それが話題になったということがありましたね。

日本の国旗をわざわざ足拭きマットにして入館者に踏ませるという、
大変斬新な意向を持つ抗日博物館もお隣の国には現存するそうですが、
そういった人智の及ばぬ常識を持った国の話はさておき、
文字通りの確信犯でこれをやっていたとすれば、羽田空港は、
世界的常識というものについて少し考え直した方がいいと言う気がします。

アメリカ人という連中は何しろ国旗が大好きで、Tシャツを始め衣類は勿論、
ケーキやクッキーなども特に独立記念日には星条旗柄で作ってしまうのですが、
(紺色と赤のクリームを乗せたケーキです。一応念のため)
その愛国ぶりは身の回りのもの全てに及び、さまざまな身の回り品におよびます。

・・・・そう、つまり、あるのですよ。星条旗柄の足拭きマットも。

しかし、そこはおおざっぱなアメリカ人も羽田空港よりは少しは考えていて、
星条旗の☆の数を変えるとか、ストライプを少なくするとか、
とにかく本物と全く同じ柄は決して使わないのだそうです。

普通の国では国旗に対する扱いは「フラッグコード」という法律で決められています。

国旗は国体や国民の象徴であり、
旗が倒されるということは国を、ひいては領土を失うこを示す。
 
という理由から、国旗は絶対に地面につけてはいけないというのが基本です。
日本では国旗を日の丸と定める法律が決まったのはなんと1999年のこと。
日本の国旗以外を損壊すれば犯罪ですが、なぜか日本国旗を
破って継ぎ合わせ党旗にしても、落書きしてデモをしても法には問われません。

こういうのをリベラル国家っていうのでしょうかね(嫌味)


それともたまたま隣に普通でない国が3つあるので
日本人は日の丸を燃やされたり破かれたり食われたり(笑)
国際放送でモザイクをかけられたりすることに慣れてしまい、
国旗の誇りを死守しようとする気概が麻痺してしまったんでしょうか。

まあ、教育現場の人間が断固日の丸には起立しないなんてことが
決して犯罪にはならない国ですからね。


海自が艦首旗を「これは国旗ではない」と言い張るだけで、現行の国旗と
全く同じものを使用しているというのも、厳しく言えば国旗に対する
敬意そのものが「緩いから」という気がしなくもありません。

羽田空港の一件にもあるように、自衛隊の、というよりこれは
現代日本人全体の国旗に対する感覚に若干問題があるのではないかととも思えます。

私見を述べるなら、国旗の扱いが無神経なことはリベラルではありません。
それはアナキズムに通じる無秩序です。



まあ、そういいながらわたしも両旗の写真を撮るのに場所がないので
このときは床に置いちゃっているんですけどね。
うちはしょうがないんです。テーブルの上がいつも物満載になっているので。


ちなみに英海軍やロシア海軍は独自の海軍旗が制定されています。





さて、艦首旗の写真を撮りながら、さっきから何か感じる違和感に気づきました。

手前に繋留している同型の護衛艦に、まず護衛艦旗が立っていない。
そして、なんだか変だと思ったら・・・・・・・・・

そう、この部分、艦番号が上から塗りつぶされているではありませんか。

「退役艦」だ。

わたしはその場でiPadminiを出して検索を始めました。
この写真では分かりませんが、塗りつぶされたナンバーははっきり見えます。

127番。

二ヶ月前の2014年3月13日に除籍になったばかりの 「いそゆき」です。
この日付にピンと来た方はおられませんか?
ほら、そこのあなた、ピンと来たでしょ?
あ、そこのあなたって、わたしのことか。

そうです、2014年3月13日、わたしは岡山の三井造船所で
「ふゆづき」の引渡式並びに自衛艦旗授与式に出席したんでした。

そして、その前日、3月12日には佐世保の三菱造船で、「すずつき」が就航。

つまり、この「いそゆき」は、「すずつき」の就役と同時に、
同じ佐世保を母港とするフネとして退役したということなのです。
一日日付が重なっているのは、やはり退役するフネも自衛艦旗返納などの
儀式をしなくてはいけないので、同時の就退役が無理だからなんですね。

自衛艦旗返納のときにも、儀礼曲「海のさきもり」が演奏されます。 



それにしても、退役したフネというのは、どうして遠くから見ても
なにか「魂の抜かれた」ような生気のない様子になってしまうのでしょうか。
甲板に人が見えていなくても、就役中のフネというのは「生きている」
という気配がするものですが。

これは細かいところ、たとえば旗の有無とか、喫水線とか、武器とか、
現役とは違う風体になってしまっているわけですから、勿論自衛官には
一目瞭然なのでしょうが、全く門外漢から見ても感じるものはあります。

それを一目で察知できるようになったというのは、わたしがそれだけ自衛艦を
数見てきたということなのかもしれませんが・・。



抜けるような青空の下、男の子二人とあかちゃんを連れた
家族が艦艇見学に来ていました。
こんな小さな子供たちに自衛艦を見せにわざわざ連れて来るなんて、良く出来たご両親だなあ。

まあ、わたしと一緒でお父さんかお母さんがお好きなだけなのかもしれませんが。



さて、まずは接岸している退役艦「いそゆき」の中を通り抜けて行きます。
舷門には一人海士くんが立っていましたが、
「いそゆき」の側には人っ子一人いませんでした。

今気づいたのですが、「いそゆき」から「あさゆき」をつなぐラッタルの下には
ちゃんとネットが貼ってありますね。
これは、一般人が訪れるから念には念を入れて、ということなのでしょうか。

それともときどき乗組員が落ちることもないではない・・・・・・・?


そういえば、こんな話をわざわざ暴露するのもファンとして心苦しいのですが、
この落下防止ネットを見て台南航空隊の笹井醇一中尉の話を思い出しました。

笹井中尉が少尉候補生、今でいう実習幹部、つまり練習艦隊乗り組みであったとき、

「舷門番兵を怒鳴りつけんとし
舷梯を踏み外しぶら下がったりするのは

彼の最も得意とするところであった」

なんてことをクラスメートに書かれてしまっているんですね・・・。

舷門番兵が何をしたのかは知りませんが、笹井中尉、怒りに我を忘れ、
ついでに足元を踏み外してしまったと・・。

さすがあだ名が「軍鶏」というくらい気が強くて、教官とでも
気に入らなければやりあったという人物だけのことはあります。

この話を最初に読んだとき、イマイチどういう状況かわからなかったのですが、
このようなラッタルのことだったとすれば合点が行きます。
舷梯を踏み外してもとっさに手すりをつかみ、海に落下するような無様な姿を
部下や同僚に見せなかったのは、さすが後の戦闘機乗りといえましょう。


まあ、笹井中尉だって落ちたことがあるくらいですから、
猿も木から落ちるように()怒りに目がくらんだり、
二日酔いで上陸から帰ってきた乗組員が足元がおぼつかずラッタルを踏み外す、
という事故も決してないわけではないのでしょう。





というとんでもない話を思い出しながら、いよいよ「あさゆき」乗艦です。
退役艦とちがってこちらはここから見ただけでも活気にあふれています。

舷門では舷門番兵が、じゃなくて、えー、今はなんていうのか知りませんが、
舷門番?が、暗くて分かりませんが、爽やかに微笑みを湛えてお迎えしてくれてます。



しかしなんだろうなー。
舷門番に対してそこまで怒るって、何があったんだろう、笹井中尉・・・・。


というところで、次回に続く。



 


佐世保探訪~海軍兵学校とハウステンボス

2014-06-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

深川製磁本店を訪ねるのが目的の旅は、わたしの強い希望により
佐世保の海自基地で週末行われている艦艇公開と、
セイルタワー見学を無理くり盛り込みました。

ただし、行くのはわたし一人だけです(笑)

TOと息子は普通に宿泊先のハウステンボスを見学することになり、
またしても我が家は別行動で観光をしたのでした。

有田の深川製磁本社を辞した我々は社長に駅まで送っていただき、
そこからタクシーでハウステンボスのホテルヨーロッパに行きました。



ふおおおおお~。

なんかいきなりベルサイユ宮殿みたいになってるし。
いや、わたしはベルサイユには行ったことがあるけどこんなじゃなかったな。
見てないけどルイ王朝当時の昔もこんなじゃなかったと思う。



なぜベルサイユを想像したかというと単純に薔薇だらけの空間だったから。
小さいときの刷り込みって怖いですね。

それにしてもこの薔薇だらけの空間、これはただ事ではない。
何かと思えば、このときハウステンボスでは薔薇が満開で、
「ローズガーデンフェア」なるものを開催していたため、ここ
「ホテルヨーロッパ」もロビー中を薔薇で埋め尽くしていたというわけ。

これを見ていただくだけでもおわかり戴けるかとは思いますが、
とんでもなく手間とお金がかかっているデコレーションです。

連休明けでそんなに暑くもない頃でしたが、薔薇を保たせるために
ロビーの温度を低く設定していると断りがありました。 




これは時計ではなく、巨大なオルゴールです。
真ん中の金属板を時計の針のような爪が掻いて音を奏でます。
このときロビーではヨーロッパ人らしいアコーディオンとバイオリンのデュオが
真っ昼間だというのに生演奏でタンゴを奏でておりました。

こういう空間に身を置くと、何より費用対効果が気になるもので、

「あんまり宿泊客もいないみたいだけど、大丈夫なのかな」

などとつい思ってしまう貧乏性のわたし(笑)
TOから聴いただけで詳細は不確かながら、一旦経営不振になったものの
旅行のHISが経営に加わったので最近はかなり調子もいいとか。



なぜここに泊まることになったかと云うと、ここは金美齢さんの定宿で、
金さんは九州地方に来る用事があるとここに泊まる、と聴いていたからでした。

いい意味での贅沢好きの金さんが気に入っているのならきっと、と思ったのです。

雰囲気としてはディズニーシーに隣接した「ホテルミラコスタ」のような感じ。
ふんだんに土地はあったらしく、人口の運河ぞいに建物を建て、
まさにベネチアの雰囲気です。
ホテルからは船でチェックアウトすることもできるとかできないとか。



部屋から窓の下を見下ろすと、船が行き来しています。

ベネツィアのゴンドラに乗ったことがありますが、あれは観光用なので
手漕ぎでモーターはついていません。
ここでは大量に観光客を乗せるという設定なので勿論モーター付き。

しかし、完璧なこの舞台装置なのに何かしら、言っては何ですが
違和感を感じる眺めでもあります。

たとえばこの船でも船尾に乗っているのはバッグを斜めがけにし、
お揃いのようにちゃんちゃんこ状のベストを着て黒い運動靴とも革靴とも
つかない中途半端な中高年女性の良く履いている靴を履いた
おばちゃんの団体と、ピンクのトレーナーにピンクのパンツをはいた
女児を連れた家族連れだったりするわけ。

勿論ここは日本だから当たり前の光景ではあるんだけど・・・・
ベネツィアでゴンドラに乗ることになったときも、ツァーだったため、
船に乗っているのは当然ながら全員が日本人。

リタイアした老夫婦や子供連れ、つくづくその陣容を見て、
まるで長良川の渓流下りの船に乗っているような気さえしました。
そして自分もその一員でありながら

「似合ってねえ・・・」

と日本人団体と周りの光景のミスマッチに苦笑したものですが、
それと同じ現象がここでも起こっているようでした。


ちなみにベネツィアのゴンドリエは、日本人ばかりの客を甘く見たのか
それはわかりませんが、制服の上から着込んだジャンパーを最後まで脱がず、
しかもポケットに手を突っ込んだまま歌を歌っていました。

そんな競馬場のおっさんみたいなゴンドリエ、写真に撮りたくもないっつの。

わたしは結局園内に入らずに佐世保に行ってしまったので聴いた所によると、
園内はそれこそ中国人韓国人だらけだったとか。
さらにこの光景とそこにいる人間とは空間にねじれを生んでいたことでしょう。




ホテルの窓からの眺めはまるでヨーロッパ。
ただし夜になると雰囲気は一転します。
この巨大な教会の塔はライトアップされるばかりかそのものが
赤やら紫やらの禍々しい色が交互に点滅するのではっきり言って逆効果で、
うちの息子とTOは

「この教会イーブル(邪悪)すぎない?」

と二人でいちいちネタにして盛り上がっていました。
ヨーロッパの教会は普通7色に点滅はしないだろうな。



こうして写真に撮ると、確かに「良く造ったなあ」と思います。

しかしわたしはこの「日本にあるヨーロッパ」というコンセプトそのものに
天の邪鬼かもしれませんがこのときあまり意味を見出せませんでした。
実際にヨーロッパに行ってその非日常的な空間に身を置くからこそ意味があるのであって、

「その町並みをまねただけの人工的な空間」

にわざわざ行くことに果たして意味はあるのだろうかと・・・。

このときは明治村の方がよっぽど価値があると思ったんですね。
このときはね。(伏線)




客室はミラコスタよりもすこし田舎風で、ニースで泊まった
海辺の小さなホテルに似ていると思いました。



中庭に当たるところは壕になっており、まるでベネツィアのホテルにいるようです。
ここでわたしたちは何をするでもなく部屋でルームサービスのご飯を食べ、
夜になったら夫婦でスパでマッサージしてもらい(他に誰もいなかった)、
勿論テレビなど一度も付けずに全員がパソコンに向かい(笑)、
淡々と時間になったら寝るといういつも通りの夜を過ごしました。



次の朝、爽やかに目覚め、人がごった返すバッフェ式ではなく
サーブ式のレストランで朝食をいただきました。
うちの息子はホテルにしょっちゅう泊まるせいで朝のバッフェが大嫌い。

わたしも最近のホテルではあまりなくなってしまったサーブ方式の方が好きなので、
どちらでも好きな方を選べるこの方式はありがたかったです。


さて、このあとわたしはタクシーで佐世保に、二人はハウステンボスに。

わたしは自分の「海軍欲」を満たすために何の未練もなくここを発ったのですが、
後からたまたま一夜を過ごしただけのここもまた、
海軍に大変縁が深い地であることを、わたしはそのとき知りませんでした。



まずこれです。

ここから車で15分ほど行った、同じ針尾島内には、重要文化財である

「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」

があります。
海軍の佐世保鎮守府隷下の通信施設で、1918年(大正7年)完成しました。

この写真には「トラトラトラ・タワー」とインデックスがあります。
真珠湾攻撃の際「ニイタカヤマノボレ」を打電した塔とされていますが、
wikiによるとそれは千葉県の船橋送信所の間違いで、ここからは
長門からの打電を受け取り中国大陸に送ったとされるも詳細は不明だそうです。

戦後はアメリカ軍の接収後、海保と海自で共同運用していたそうですが、
1997年に後継の施設が完成してからは使われていません。

このことは行ったときから「時間があったら見に行きたかったね」
と話したりして知っていたのですが、それよりも後から聞いて驚いたのはここ、
ハウステンボスそのものが

「海軍兵学校針尾分校」「針尾海兵団」跡

であったということです。
そもそもハウステンボスが針尾島にあるということを知らなかったのですから、
さしものの海軍オタクもこれにはまったく気づいていませんでした。

わたしがハウステンボスに行ったことを前のエントリに書いたら、
メールでこのことを教えて下さった方がいてそれで初めて知ったという次第です。

滞在しているときにそれと知っていたらせめて

海軍兵学校 針尾分校之碑

を見に行ったのにな。
このページには「最後の海兵生徒」である78期生であった方が
碑を訪れた様子とともに針生分校の碑に書かれた文言を記しています。

これを読んでいただくと文中に

同年7月防府分校へ移転した後 
同年8月太平洋戦争の終結により海軍兵学校は閉校となった」

とあります。
78期生徒がここに入学してきたのは昭和20年4月3日のこと。

「海兵生徒小沢昭一~最後の兵学校生徒」

というエントリでこの78期生(正式には予科生徒という名称の
中高生であった)であった故小沢昭一氏について書きましたが、
その文中、

 一瞬の気の休まる間もない訓練、江田島ではなく防府分校の急ごしらえ校舎の
ノミ・シラミ、得体の知れない皮膚病を始め
赤痢や流行性脳炎すら発生する衛生環境の悪さで入院患者続出。

そんな中で毎日のように米軍艦載機の来襲を受け、のべつ裏山に逃げ込む毎日。

と78期生の学生生活について触れています。
ここ針尾に分校を作ったのは、この予科生徒だけで海軍は4000人もの人員を
この年採用したため、本科の生徒で既に手一杯の江田島だけでは全員を
収容できなかったという理由によるものでしたが、この針尾には前述の通信塔、
佐世保の軍港があったため、連日空襲に見舞われることとなりました。

犠牲者も出たため、兵学校は山口県の坊府に移転することになり、
7月上旬から空襲の相次ぐ北九州を4000名の生徒、教員、下士官など関係者は
臨時運行させた汽車での決死の移転作戦を決行します。

この決断は沖縄の玉砕を受けてのことで、海軍はこのとき

「次は九州全土が攻撃対象になる」

と読んでいたらしいことがわかります。
それで本州最端の山口への移転を決定したのでしょう。

しかし、このような事情で移転したため、設備らしい設備もなく、
九州ほど食品も豊かでなかったことから、予科生徒たちは、
上記のような酷い兵学校生活を送ることになるのです。

終戦の勅を聞いたときには「シメタ」と思ったという小沢氏のような
予科生徒がいても当然だったかもしれません。


しかし、残された手記をいくつか読むかぎり、ここ針尾島の分校は
空襲に見舞われる以外はそう劣悪な環境ではなかったようです。


戦争の推移に鑑み、海軍は兵力の増強のため、昭和19年、全国に
8つの海兵団を新設しました。

海兵団とは、海軍4等兵である新兵、海軍特修兵となる下士官教育のために
全国の各鎮守府に設置されていた教育機関のことです。


呉にもあったこの海兵団跡は現在「呉教育団」となり、海兵団と同じく
初等海士教育の場となっていて、わたしも2年前見学に行ったものですが、
ここ針尾には昭和19年5月、つまり兵学校予科の新設と同時に、
佐世保海兵団も併設する形で設置されました。

兵学校が移転したとき、海兵団はどうなったのかはわかりません。


海軍はこの針生分校で行う予科生徒たちへの教育に期待していたらしく、
(戦争が負けそうだから戦後の人材教育に資金をつぎ込んだという説も)
教育体制には万全を期していたようです。

たとえば教頭は7月15日付けでキスカ救出作戦でその成功を謳われた名将、
木村昌福(まさとみです。しょうふくではありません)少将



 海軍兵学校教頭兼防府分校長 兼監事長 兼海軍防府通信学校長

という辞令を以て当たらせていますし、教官兼先任部監事として
メナド降下作戦で一躍名を挙げた堀内豊明大佐を任命しています。



いわゆる秀才タイプではなかった木村教頭に教育を任せたのですから、
ここでの教育方針が

出来るだけ腹一杯喰わせて、体力作りを重視する」

というものになったのは当然の成り行きというものです。
堀内大佐はなんどもお話ししているように「海軍体操」の発案者で、
針生では生徒たちに自分の考案した海軍体操を指導し、成果を上げました。

海軍軍人として必須である水泳の教師には、



鶴田義行(アムステルダム大会200m平泳ぎ金メダリスト)



遊佐正憲(ロスアンジェルス大会800mリレー金メダリスト)

があたるという何とも贅沢な授業だったそうです。
鶴田のバイオグラフィによると1943年に海軍に応召されたとありますから、
どこか別の所で一般の応召任務に当たっていたメダリストを
海軍が見出してここに連れてきたと考えるのが良さそうです。

 

それにしてもこの終戦ギリギリの時期に、海軍というのはどこまで
「人材教育」に力をいれていたかということです。
その海軍側の意向は、人にもよりますが生徒たちにもある程度伝わったはずです。

何と言っても彼らにとって幸福だったことは兵学校生徒に取って最大の恐怖だった

「怖い上級生の修正」

が第一期生である彼らにはなかったことでしょう。
こんなのびのびした兵学校生活があるでしょうか。

万が一開校がもう少し早いか、終戦が遅かったら、組織の常として
そういった悪習ともいえる慣習も根付いていくことになったのかもしれませんが、
幸か不幸か、ここで兵学校生徒が過ごしたのはわずか三ヶ月間のことでした。

小沢生徒がそうだったように「国を護る覚悟」も「死ぬ覚悟」も、
つまり海軍精神を身につけるまで至らなかった生徒も多かったでしょうが、
いわば組織が硬直する前に全てが終わってしまったのですから、
その点だけは悪くなかったといえないこともありません。


ところが、この後移転した防府では、ある意味針尾より酷い生活が待っていました。
空襲の頻度はほとんど変わらず、校舎は殆どが焼かれて生徒館での仮暮らし。
そして食物が足りず栄養状態はたちまち悪化、おまけに集団赤痢が蔓延し、
軍医や教頭の木村少将までが罹患して倒れ、終戦までに死者12名を出したと云います。

わずか4ヶ月前、真新しい軍服にガワだけとはいえ短刀を吊って、
若々しい顔を期待と誇らしさで輝かせていたに違いない紅顔の前途ある少年が、
失わなくても良い命をこんな形で散らせて行ったという事実があったことを
わたしたちは記憶に留めておくべきでしょう。



さて、昭和20年7月から生徒の姿が消えたここ針尾分校は、戦後、
米軍に接収され厚生省佐世保引揚援護局として機能していました。

針尾島西部の浦頭港に帰着した船舶から上陸した引揚者は、
ここまでを徒歩で移動し、休息救護を受けたそうです。
そしてこの地で休息後、もよりの国鉄南風崎駅
から故郷への帰宅の途につきました。


1950(昭和25)年9月からは警察予備隊針尾駐屯部隊が使用しています。

余談ですが、現在の自衛隊の階級も旧軍ととにかく変えることを目的に
「尉、佐」官には大中小の代わりに数字の「1、2、3」を充てるという
「珍案」(個人的感想です)を編み出し現在に至るわけですが、
警察予備隊時代の階級ってどんなだったか知ってます?

尉官に相当するのが「警察士」
これに「1、2、3」がつき、たとえば1尉相当は「1等警察士」といいました。

うーん、なんだか犬の訓練士、みたいですね。
略称は何だろう。「1士2士3士」かな。


佐官は「警察正」、
将官は陸将相当が「警察監」、
陸将補が「警察監補」。

1948年には警察法でいわゆる警察組織もちゃんと存在していたわけですが、
こんなに紛らわしい階級で不便じゃなかったんだろうか。

まあ不便とまでは行かずとも皆イマイチだと思ってただろうな。
陸将が「けいさつかん」だもの。

しかしご安心下さい。

ポツダム宣言の受諾に呼応してその2年後この名称も消えてなくなり、
この階級が日本に存在したのはたった2年間のことでした。



さて、ここ針尾の地はその後昭和30年、警察予備隊が発展的解消した組織、
保安隊の駐屯地となっていましたが、それが相浦に移転した後は国有地となります。

ちなみに保安隊の階級は先ほどの「警察」を「保安」に変えたもので、
たとえば1尉相当は「1等保安士」(これも略称1士?)と称しました。

うーん、なんか「1等保育士」みたいですね。


その後ここは1969年着工、1975年完成の針尾工業団地となりました。
192億円のお金をかけて埋め立て地を含め長崎県が造成したものです。
しかし、工場誘致はまったく失敗に終わりました。

ちょうどオイルショックが席巻したこともありますし、
工業用水の供給がうまく行かず、もともとヘドロで埋め立てた土地は
雨が降ると地面に染みこまずに巨大な水溜りになり、乾燥するとひび割れを起こすような
最悪の土壌だったということもその理由だったようです。

ハウステンボスはその土壌を入れ替え、
樹木林を形成させることからスタートしました。
土地購入費以上の投資をして土地を掘削し、堆肥
を混入する有機的な土壌改良を実施し、
綿密な周辺調査に基づいて植栽を行い、約40万本の樹木と30万本の花を植え・・。

ここが、テーマパークというわりには派手な絶叫ライドもなく、
メインは街並と植物園であるということに、この造成のエピソードを知って
初めてわたしは合点の行く思いをした次第です。

道理で町並みにもアメリカ発祥の在阪某テーマパークのそれのような
書き割り丸出しの嘘くささがないわけです。
運河も、船が航行するところ以外は深さ30センチで、水には着色している、
というアメリカ発祥の在千葉テーマパークとは違い、本物です。

ここが工業団地としてもし成功していたら、この辺りは確実に
今の中国のような環境問題がその後起きてきたでしょう。
ヘドロで作った土壌の上に環境に配慮した工場が建てられるはずがありませんから。

そして、その後、そんな工業地として使われた跡地にテーマパークができていたら?

・・・・・・あ。思い出した。

そういえば「書き割りの街」のテーマパークは元工場地だったため、
環境汚染があるとかないとかそこの法務部の人が(ゲフンゲフン)



つまり将来の環境に巨額を投資するような日本的な企業が買い取ったからこそ、
今のハウステンボスは「舞台裏のない街」を実現させているのです。
(ハウステンボスにはテーマパークにありがちなバックステージがない)

かつての針尾分校が、終戦直前でありながら人材教育に力を入れたのと、
その後同じ地にできたハウステンボスの経営姿勢というのは
こじ付けかもしれませんが通じるものがあるなあと感銘を受けたエリス中尉です。

ハウステンボス、きっとまた行くと思います。
こんどはちゃんと入園して街並を楽しもうと思います。


・・・・・と、いきなり掌返しをするエリス中尉である。 



(佐世保見学編に続く)
 



 


ボビ・トラウトとエリノア・スミス「サンビーム・ガールズ」~女流パイロット列伝

2014-06-03 | 飛行家列伝

 


前回に引き続き、飛行黎明期の二人の女性パイロットについてお話しています。
前回のタイトルでエリノア・スミスのキャッチフレーズを

「フライング・フラッパー」

としたいきさつからお話ししましょう。

フラッパーFlapperとは、もともと

「羽をパタパタさせる(鳥)」

のイメージからの造語で、1920年代に髪をボブカットにし、
短いスカートをはいてタバコやお酒を嗜み、

退廃的な雰囲気でジャズに耳を傾ける若い女性を揶揄する言葉でした。

濃いメイク、自動車の運転、
そして当時の保守的な人々が眉をひそめる奔放な性道徳。

決して肯定的な響きではなかったにもかかわらず、
そこは大衆に膾炙する
「流行」の威力とでもいうのか、
いつのまにか彼女たち本人が「フラッパー」を自称するようになり、

やがてファッションにも、ヘアスタイルにもその名が使われました。

この二人が飲酒喫煙をしていたかどうかは知りませんが
(していそうですが)、
フラッパーの条件である

「ボブカットに自動車ならぬ飛行機の操縦」

を満たす二人は「飛ぶフラッパー」と世間に呼ばれる資格があったわけです。

実際に「フライング・フラッパー」というあだ名があったのは
彼女らのうちのエリノア・スミス

彼女は前回もお話ししたように、まだ10歳の時に操縦を始め、
史上最年少で飛行機免許を取得した人間(女性、でなく)と なりました。

彼女の父親は俳優で、彼女に真っ赤なWACO9を買い与え、
パイロット兼インストラクターを雇って、彼女には
安全のため決して離着陸はさせないこと、
とインストラクターにも厳命していたのですが、
彼女が15歳のある日、
ーそれは父親が不在のときでしたがー
母親がインストラクターに許可をだし、

彼女は離着陸どころか、初の単独飛行をやってしまいます。

・・・・・・・・・カーチャン・・・・・・(;・∀・)
 
この、当時にしてははっちゃけた母ちゃんあらばこそ、
飛行家エリノア・スミスは誕生したともいえます。


しかも母が母なら娘も娘。親の顔が見たい。

この強烈な初単独飛行の10日後、彼女はいきなり、
これまで誰も、勿論のこと
父親の雇ったインストラクターでさえも
達したことのない高高度を目指して飛び、
皆が息をのんで見守る中、
あっさりとその高度に到達して無事に帰還してきたのでした。


彼女と彼女の家族は、彼女の操縦スキルが一定のレベルに達するまで、
その広報活動を最小限に行ってきましたが、あるとき、勝負に出ます。

なんと、ニューヨークはイーストリバーにかかる橋のうち
有名な

ブルックリンブリッジ始め、四つの橋の下を飛行機でくぐる

というど派手なパフォーマンスを行うことにしたのです。

このあたりはさすがにブロードウェイの観衆を
体一つで納得させてきた芸人である父親の血という気がします。

事前に彼女が橋の上を飛んで偵察したときでさえ、
彼女はいくつかの船舶を避けて飛ばなくてはなりませんでしたし、
しかも彼女はその時まで知らされていませんでしたが、
各々の橋の上からは
ニュース映画のクルーが彼女の飛ぶのを
(あるいは失敗して事故を起こすのを)フィルムに収めようと待ち構えており、

人々の間では彼女が成功するかどうかで賭けが行われていました。

ほとんどが天候条件で彼女が挑戦をやめることに賭ける中、
この世にプレッシャーなど全くないかのようにウェイコ10を駆る彼女は、
完璧に愛機をコントロールし、このスタントを成功させました。

大衆は喝采しましたが、この無許可のスタントに対して
ニューヨーク市は市長名義で

「ニューヨーク市における飛行停止10日」

を命じる手紙をよこし、
米国商務省は15日の飛行免許の停止を彼女に命じています。

いずれにせよ、こんなお上のお沙汰は彼女にとって名誉の負傷のようなもので、
彼女はこの向う見ずな飛行スタントのおかげで一躍セレブリティの仲間入り。

この時に奉られたあだ名が「フライング・フラッパー」だったというわけです。




さて、今回のタイトルの一部「サンビーム・ガールズ」

これは、エリノアと前回ご紹介した彼女の同年代のライバル、
やはり流行のボブカットにした「フラッパー」のボビ・トラウト二人に
与えられたキャッチフレーズです。

光線少女ってなにかしら、とわたしも最初はいぶかしく思いました。

ヒラー航空博物館で二人の写真に付けられたこの「サンビーム・ガールズ」
というキャッチコピーには、しかしながら何の説明もなく、
何を以てこの二人を「サンビーム」と呼ぶのかが当初はわからなかったのです。

 
「うーん・・・・・・サンビームというと・・・・
『あれ』しかないけど・・・・・・」


Sunbeamというと、 アメリカに住んでいたりよく訪れる人には
「光線」よりぴんとくるものがあります。

キッチンに置いてあるコーヒー沸かしやトースター、あるいはフードプロセッサー。
そんな小物がSunbeam社製である確率は非常に高く、このロゴは
いつの間にか目にしているなじみの深いロゴなのです。

もしや、と思って英語で手当たり次第検索してみると、

ビンゴ。


Commercial C-1 Sunbeam


これがどうやらコマーシャル・エアクラフトという航空機会社製の
「サンビーム」。
間違いなく、このキッチン用品の会社の宣伝目的で作られた飛行機でしょう。 

この「サンビーム」に、ボビとエリノアが乗って耐久飛行と空中給油に挑戦し、
それでこの二人のあだ名が「サンビーム・ガールズ」になったと。


この話が来るまでの1929年、二人はそれこそ
「宿命」と言っていいほどのライバル関係で、
耐久記録をお互い破りあっていました。

そう、こんな風に。

●ボビ、女性初の耐久時間12時間を達成

一か月経たないうちにエリノアが17時間達成

すぐさまボビ、同じ17時間達成しタイにつける

エリノア、こんどは26時間達成

完全にお互いを意識して飛んでいたようです。

記録を見ただけでは何とも言えませんが、この「女の戦い」は
少なくとも純粋に『互いの技量を高めあう正しいライバル関係』
というものではなかったか、という気がしないでもありません。

しかし、余計なことに、この二人の熾烈なライバル争いを見ていた、
カリフォルニアのキッチン機器メーカーの一人のビジネスマンが
二人にスポンサーの申し出をしました。


「好敵手どうしての二人で協力して、
わが社の名前を付けた飛行機で耐久飛行記録を作りませんか?」

今まで耐久飛行で記録を競い合っていた二人を「サンビームガールズ」
として使えば、凄い宣伝になる、と彼は踏んだわけです。


そして1929年の11月、ロスアンジェルスのメトロポリタン空港から、
この二人の「宿命のライバル」同志を同じキャビンに乗せて、
サンビームC-1は離陸しました。 

このときの機長はエリノア・スミス。17歳の年下のスミスに機長を任せ、
23歳のボビは副機長を務めています。

「やるのはわかったが・・・・・どちらが機長になる?」

「ボビ、あなたがやってください。年もあなたが上だし」

「いやそうはいかない。耐久レースはいまのところ君の勝ちに終わっている。
レースで負けた私が君の上に立つのは私の気持ちが許さないんだ」

「ボビって、思っていたよりずっとオトコマエですね」

「な、何を言う。この後君を追い越すつもりだからな」

「ボビ・・・・」

「エリノア・・・・・」

という展開があったのに違いありません。
多分、というか全くの妄想ですが。


そして、このとき二人は女性で初めて空中給油を行いながら
滞空耐久記録(長時間飛行)に挑戦しました。 


空中給油の史上第一号の称号は、ボビに譲られました。

サンビームに給油のホースを伸ばしたのは同じく男性ペアの乗った
「カーチス・ピジョン」で、
エリノアが慎重に操縦する間、
ボビは カーチスからホースを受け取り給油をしました。


しかし、この二種類の航空機は、必ずしも同時に飛んで
このような作業をするのには
向いていたとはいえませんでした。

まずカーチス・ピジョンは貨物を運ぶのに使われていた機です。

このときも燃料を空輸できるというだけで選ばれたものの、
時代遅れのエンジンで
しかも、機体の構造上、
給油中のサンビーム号が見えず下で何が起こっているのかわかりません。


おまけに通信方法のない当時では全く意思疎通できないという始末。


対するサンビームも、これがなかなか安定しない機体で、エリノアは

「操縦中は一瞬たりとも気を抜くことができず、集中を強いられた」

とその不安定さをのちに述懐していたそうです。

給油の最中は、基本性能が違う二機の速度を合わせるのに、
カーチス・ピジョンが全速力で飛ばなければならず、逆にサンビームは
失速寸前まで速度を絞って飛ばなくてはなりませんでした。

一般に航空機はゆっくり飛ぶ方が難しいので、これは
卓越した腕を持つエリノア・スミスだからこそ

できたことだったといえるかもしれません。

最初の挑戦が12時間経過したとき、事故が起こります。

何度目かの給油中、突風によるタービュランスが、
ボビの手からホースを奪い、
彼女はホースから流れ出る燃料を
頭からかぶってしまいました。

ホースの逆側では給油機の副操縦士ピート・ラインハルト
切り口でけがをし、
出血するという騒ぎになっていました。

しかし両機とも無事で空港に戻り、次の挑戦では、
この時を大幅に上回る
42時間の滞空記録を作りました。


しかし二人同時の記録挑戦はこの二回だけです。

しかもこの時以来二人に交友が生まれた、とは
どこの資料も書いていないので、
もしかしたらお互い、
ビジネスライクに仕事を務めたけど、こんなことでもなければ

一緒に飛ぶなどまっぴらごめん、と思っていたのかもしれないし、
互いに技術的なことで軋轢もあったのかと疑われます。


二人はその後も順風満帆な人生を送り、ボビは2003年に97歳、
エリノアは2010年に99歳と、どちらも天寿を全うして
ほとんど同じような年齢で亡くなりました。



まるで最後までこの世の滞在時間を競ってでもいたかのようです。
かつてのフラッパー同士の長寿対決は、実際の滞空時間と同じで、
エリノアがわずか2年の差で勝利をおさめました。

 

 

 

 


ボビとエリノア「プレーン・クレイジーとフライング・フラッパー」女流パイロット列伝

2014-06-01 | 飛行家列伝

昔々のスポーツ根性マンガと呼ばれるものは、
主人公に対するライバルの存在なくして
話が成り立ちませんでした。

矢吹丈には力石徹、星飛雄馬には花形満。
鮎原こずえには早川みどり。朝丘ユミには椿麻里。
岡ひろみには竜崎麗香。一条直也には赤月旭。
ほかは、えーと・・・・・


とにかくその非現実的な戦いの世界では、平成26年現在、
どことは言いませぬが某テレビ局が、フィギュアスケートやサッカーの試合で、
「お隣の国」を持ち上げる以外、
実生活ではまず聞くことのない、
「宿命のライバル」などという言葉が乱舞していたそうでございます。

これらの「男の世界」に対し、女子スポーツマンガはその
「宿命のライバル」が、恋敵も兼ねていたりして、
それでなくても辛気臭い世界がより一層ドロドロしていたような
・・・・・偏見ですかね。


自分が女性であるからわかるのですが、女性というものは一定数集まると、
必ずと言っていいほど対立が生じるものです。
グループ対グループ、個人対個人、個人対グループとその形態は様々ですが、
時としてそれは陰湿ないじめにつながり、陰口や噂話はもちろん、
相手を陥れるための陥穽を弄したり、告げ口したり。

お掃除のおばちゃんたちであろうが大学病院の研究室であろうが、
不思議なことにその知的経済的レベルのいかんを問わず、

女性のグループの数だけ、そういったことは起こるのです。

女性というのはどんな場所にも「敵」を作らずにはいられない生物である。

小学校2年にして「親友」を装ったクラスの女子から陰に日向に苛められて以来、
そういう女の世界を今日まで渡り歩いてきたエリス中尉は断言します。

何が言いたいかというと、一般的に女性は「好敵手」というような
美しい敵対関係を
相手と築くことができないのではないか、ということなのです。

今までシリーズでお伝えしてきた、飛行機黎明期における女子飛行士界においても、
そうではないかと思われる事例が散見されました。

たとえば、ジャクリーヌ・コクランとナンシー・ラブ。

同じように陸軍に、しかも同じ人物に「女子航空隊」設立を提案し、

別の方向から働きかけて、できたらできたでどちらが隊長になるのか、
この成立の過程に、どうも飛行家としての二人のライバル心が見え隠れし、

「最初から二人で協力しあえばよかったのでは」

とわたしなどはつい思ってみていたものです。もちろん歴史をですが。


この二人がお互いをどう思っていたかを記す文献は一切ありませんが、
いずれにしても当時の女性飛行家などというごく少数の女たち、
しかも我こそは世界一を目指す気概と野心に満ちた「先駆者」同志が
美しい友情でも結ばれていたと考える方が不自然というものです。

・・・・偏見ですかね。



さて、本日冒頭に挙げた、マニッシュな雰囲気の女性。

イヴリン・”ボビ”・トラウト

あだ名の「ボビ」は、当時最新流行だったボブ・カットをトレードマークにしていたから。
このときはその髪をぴったりとポマードで撫でつけ、まるで男装しているかのようですが、
彼女が「コピー」したのは、当時の人気女優アイリーン・キャッスルの「ボブ」です。

ボビは16歳と、とても早い時期にその飛行家としてのキャリアが始まっているので、
航空史上、先駆とも言うべき飛行家の一人です。

彼女イブリン・トラウトがイリノイに住む12歳の少女であったとき、
当時珍しかった飛行機が彼女のまさに上空を通過しました。 
この偶然が、彼女に「いつか飛行機に乗りたい」という夢を与えます。

家族はその後、ガソリンスタンドを経営するのですが、家業を手伝うある日、
イブリンは、家業のスポンサーであるW. E. トーマスに、問わず語りに夢を語りました。


「トーマスさん、わたし、いつか飛行機に乗ってみたいの」

「ほう、どんな飛行機に乗りたいの」

「わたしが12歳の時に空を横切って行ったのは、カーチスJN-4だったわ。
ああ、あの美しい飛行機を操縦して、一度でいいから空を飛んでみたい!」

「偶然だね、イブリン。
君が今話している目の前の人間は、そのカーチス JN-4のオーナーだ」

「なんですって!トーマスさんが?」

「乗ってみたいかね?」

「ええ!乗ってみたいわ! おお神様(Oh,my God!)」


(以上エリス中尉の妄想による創作でした)

ってなありがちな展開の二年後。彼女は、シカゴ→ロスアンジェルス間を、
このカーチスに乗って初飛行しています。

その後飛行学校にも通うのですが、彼女はこの時事故を起こしています。
低空をに飛行していているときに45度のターンを若い教官から指示され、
それに従った彼女の機はコントロールを失い墜落しました。

しかし、この事故も、彼女を飛行機から引き離すことはできませんでした。
ますますその世界にのめりこんだ彼女は、おもに無給油耐久飛行の分野で、
いくつかの「世界初記録」を作っています。

彼女が飛び始めたきっかけは、他の女性飛行家に同じく、

「男性のパトロンの助けがあったから」

で、実家が超大金持ちだったり、または富豪を捕まえたりした飛行家以外は、
当時は皆このような「パトロン」を募って飛行機を続けるのが普通でした。



彼女は中性的でボーイッシュな雰囲気をトレードマークにしており、
また生涯結婚しなかったということですが、これを見る限り、
中身まで男性的だったというわけでもなさそうです。

しかし、いくら凛々しい青年のように見えても、所詮は(当時の)女。
飛行機を続けるためにより多くのスポンサーを探さなくてはならず、
それは彼女にとっても容易なことではなかったようです。

そこで、

「中性的な彼女が若い美人女優と組んでペアで耐久飛行」


という、もし成功すればおじ様たちがさぞこぞってスポンサードしてくれるような
キャッチ―な挑戦を企画しますが、このときにペアとして組まされた相手の
エドナ・メイ・クーパーという無名女優が(おそらくですが)
箸にも棒にもかからない
『使えないやつ』だったため、
出発したものの、
即座に技術的な問題が発生し、
断念せざるを得なかったそうです。



彼女はまた、1929年の女性ばかりのダービー、
パウダーパフ・ダービーに出場して、
入賞はなりませんでしたが、
完走は果たしています。




それにしても、アメリカ人というのはどうして写真を撮るときに、
ポケットに手を入れるのか。

今まで見てきた中で、「ちょっとした演説」をするとき、アメリカ人は
必ずと言っていいほどポケットに手を入れていました。
どうも、手のやり場がないのかもしれません。

最初の画像におけるボビもわざわざ座っているのにポケットハンドですし、
このエリノア・スミスに至ってはご丁寧にも両方です。

二人とも、ズボンにネクタイという「飛行スタイル」で、
男性を気取っているので、
ポーズもこのようになってしまうのでしょうか。

エリノア・スミス

さて、こちらはボビよりさらに早く、
6歳で兄と一緒に自分の飛行機を持っており、
10歳で飛行機のレッスンを始めるという、超英才教育を受けた飛行家です。
父親は俳優でありボードビル芸人で、ブロードウェイにも出ていた芸人でした。

物心つくかつかないうちから乗っているのですから、
飛行機はまるで彼女にとって自転車のような乗り物だったに違いありません。
自転車代わりに飛行機に乗ってきた彼女は、その後も挑戦と記録を打ち立て、
世間では若いうちからすっかり有名人でした。



ところで冒頭に延々と「女同士の好敵手」というものが存在するかどうか、
卑近な例をあげてお話ししてきたわけですが、このボビとエレノア、
ちょうど飛行機黎明期、さらに1928年からしばらくの間は、全く同時期に
世間で騒がれていた女流飛行士同志だったわけです。

それだけでなく、彼女らは、耐久飛行について互いにしのぎを削っており、
記録をどちらもが破って破られてという熾烈な「女の戦い」を繰り広げていました。


はたして彼女らはどのようなライバル関係だったのでしょうか。


続きはまた次回。

 

 

 

 


空挺レンジャー~「階級略奪式」

2014-06-01 | 自衛隊


新しくレンジャー過程訓練を受ける隊員たちが、
「山に行く」、つまり転地訓練を行うための資格試験である
最後の耐久レースに生き残った、というところまで話しました。

このドキュメントでは障害コース15周を55分以内に終了する、
という資格試験で不合格だった隊員について触れていません。
この段階では元々体力があると云う前提で集まって来る隊員ばかりなので
落伍者はでないということなんでしょうか。

それとも隊員の将来のためにあえて触れないだけで、実は何人かは
ここで脱落してしまうものなのでしょうか。




房総半島を使って行う教育訓練は1ヶ月にわたります。



昭和33年に空挺レンジャー教育が始まった鋸南町には、
このような「発祥の地」の碑があります。

現地の人々の協力あってのレンジャー訓練なのですが、
なんといっても当時のこの地の神社氏子が、快く境内を提供したことが
ここを後に続くレンジャー教育の「聖地」にしたようです。

自衛隊の
だけではなく、警察、消防のレンジャーもここで訓練を行います。



発祥した昭和33年当時でしょうか。
朗らかなおばあちゃん達の隅で、銃を食い入るように見ている
わかめちゃんカットの女の子の目が真剣に怯えています(笑)



まずは山地潜入技術。



挺進訓練においてロープを使ったこれら訓練は
大変重要なものです。
50年以上ここで繰り返されてきた訓練。
おそらく訓練内容も長年の間により効果的なものへと変わって来たに違いありません。

体をロープで結んで、切り立った屏風岩の崖を走りながら降ります。

「怖がんないでもっと大胆に!」

などと言われていますが、これきっと怖いと思う。
地面に対して平行に駆け下りて行くわけですから。



山に行く、といいつつ勿論水上行動もあります。
これは水路潜入技術の訓練。
第一空挺団はやはりこうしてみると日本の海兵隊という位置付けですね。

わざわざ乗っているゴムボートを皆でひっくり返しております。
このまま皆でこっそりとボートの下に隠れて潜入する訓練かな。

山中の湖ならこの訓練も夏場はまあたまには気分転換になっていいか、
と思いきや、海でやっている模様。

これ・・・・冬もやるんですよね?



お次は第0想定。
なにが0想定なのかしら。
これは山岳総合コースといい、装備を担いだままロッククライミングです。
ハーケンの打たれたほとんど90度の岩を、ロープ一本に命を託して登ります。



垂直崖の降下。

「手離すなよ!」

と下から声がかけられます。
体はワイヤで吊るされていますが、ロープをガイドにして降りて来るため、
手を離したら態勢が安定しません。

体を時計の針のようにくるくる回転させながら降りてきます。



下では隊員が3人でがロープを支えています。

やっていることも大変だけど、こんな山の中って、たぶん虫とか凄いんだろうなあ。
多少の辛いことはその場になれば耐えられるかもしれないけど、
わたしはまず蚊とかブヨとか蛭なんかと触れ合う可能性がある、
というだけで情けないけど耐えられそうにありません。

家の中に一匹蚊がいるだけでパニックになってしまうなんて問題外?



こういう極限状況で訓練をしているからこそ、災害派遣では
命知らずの救助活動が可能となるのです。

渡したロープを片足かけて移動。
これは、駐屯地で前もって地上訓練をして臨んでいます。

この映画が取られたときはそんなに暑くも寒くもなさそうな季節でしたが、
空挺館でレンジャー隊員を目の前に聞いた話によると、
レンジャーの転地訓練は4月入校組と10月入校組があるため、

「だから、冬に当たったグループは大変です」

でもわたしはどちらか選べるなら冬にするかも。
寒いのと虫とどちらが嫌か、という選択肢だから断然冬。



さて、訓練の合間には教官と助教(教官の補助)の
ミーティングも行われます。
全員見事にクルーカット。
まるで判で押したような「陸自タイプ」です。



議題は練習生の健康状態についての報告になっています。

「だれそれが足を引きずっているので、同行する教官しっかり見るように」

想定訓練の内容は長年の歴史があるのでほとんど変更なく行われ、
その方法については新たに話し合うこともないので、
教官たちの報告はほとんど訓練生の健康状態が中心になるようです。

「全員無事で連れて帰ること」

がレンジャー過程の最大にして最後の目的だからです。
人間の体力の限界に挑戦するような訓練であるからには、最悪の、
隊員の命が失われるという可能性はつきまといます。

現実にレンジャー過程では過去死亡者も出ているそうです。



学生たちは黙々と小銃の整備を行っています。
無駄口を叩いたりする者は誰もおらず、沈痛な雰囲気です。

そして彼らのいでたちは、OD色の上着の下に青虫ジャージ。
これも陸自の「普段スタイル」としておなじみの、えー、
(ダサいという意味で)究極のコーディネートです。

当然ながらこのジャージは、大変隊員の間で評判が悪いそうですが、
古来から断固として変えられることなく使用され続けている定番なのです。

なぜいつまでも変えられな
いかというと、これを着るのはまず新兵ですし、
仮に制服を変えられるくらいその後出世したとしても、
そのころは
こんなもの着なくてもよくなっているからなのでしょう。

のど元過ぎれば、ってやつです。ちょっと違うかな。 


正式には「体育服装」というこのジャージ、別名「年少ジャージ」。
入隊と同時に貸与され、着用時期が終わると次世代へと、
その恥ずかしさとともに受け継がれて行くというわけです。

実際にこのジャージを着て一人で走っていた新兵が、
年少、すなわち少年院から脱走してきたと勘違いされて通報された、
というトホホな話もあり、どんなにやる気のある新隊員でも、
これを着るだけで士気が確実に何割か落ちるとまでいわれているそうです。

しかしここはレンジャー過程のやる気にあふれた隊員たち。
少なくとも彼らが青虫ジャージにやる気を失っている様子は微塵も見えません。


当たり前か。


服装や髪型などに士気を左右されるような甘っちょろいことでは
この先もこの地獄の訓練に生き残ることは出来ないのです。

入学式には空自の隊員は長髪にしていましたが、見る限り
全員が見事におそろいの、頭頂だけを少し伸ばす陸自カットにしています。
さすがに丸坊主にしてしまう人はあまりいないようですが。

さて、黙々と小銃の手入れをする彼らのところに教官がやってきて、
夜9時に点呼を行うこと、そしてその際カッターを持って来るようにいいます。

カッター?



理由は、この隊員が持っている固形燃料の乗ったトレイにありました。



「本日今以降階級はないものと思え!
今から階級の略奪式を行う!」


訓練に際し、なぜか階級章を切り取って、燃やしてしまいます。

「戦闘隊長の指揮下に入るんだぞ。階級ではない!」




元陸幕長とお話ししたとき、

「どんなに詳しくても(これはわたしの方を見て)
自衛隊のことは
自衛隊員でないとわからないことがある」

とおっしゃったのをふと思い出しました。

この「階級ではない」という言葉、
どう考えても論理的な理由はさっぱりわかりませんが、これはすなわち
一個の人間として素のままでこの訓練に耐えよ、ってことなのかな。

自衛隊員ならその理由が何か明確にわかるのかもしれません。


もしかしたら単純に覚悟を決め、士気を高めるための「儀式」
リチューアル、と言った方が当たっているかもしれませんが。

いかに非合理的なことに見えても、こういう儀式めいたことが重んじられる、
それを理解することもまたレンジャー訓練というものなのでしょう。

たぶん。

というか、彼らは訓練が終わったら階級章また買って、付けないといけないのか。
それはお気の毒。(お裁縫的な意味で)



以前の崖登り滑り降り訓練を「第0想定」としていたわけが分かりました。
ようやくここに来て「第1想定」が開始されたということです。
なんと0300の非常呼集です。
非常召集だけあって時間も非常識です。

皆起きたらすぐさま飛び起きていますが、つまり着の身着のままで寝てたのか。
歯は?歯は磨かせてもらえるの?



教官から「想定の付与」が行われます。
その後、皆自分の携行する地図と想定を真剣に照合。
ここでぼーっとしていたら自分一人山中に置き去りにされかねません。



付与された想定に従って、火器爆薬の選定なども行われます。
幹部である戦闘隊長の元に皆が集合して打ち合わせ。



しかしこれだけの人数がいるのに洗濯機がたった二台とは・・・。
しかも、今時珍しい二槽式という・・・。(T_T)



いよいよ状況開始。



隊容検査は装具点検と作戦の確認も含みます。
誰の顔にも緊張が感じられます。
一人として笑いを浮かべている者はいません。



各人の任務確認。

「敵のか、か艦船、補給路を破壊し、敵の補給活動を妨害します」

言い方は若干覚束ないけど、まあよろしいでしょう。
全般的にこの映画でインタビューを受けている隊員には、上から下まで
弁舌爽やかだったり立て板に水のごとく流暢な演説をする者はなく、
むしろ黙って行動しているときの重々しさからは不似合いなくらい
ぎこちなく訥々としゃべる傾向にあります。

海自で「副長や海曹長の条件」として「話が巧いこと」
つまり言語での伝達能力が重視されるということを書いたことがありますが、
戦う場所が違えば要求される能力もまた違うということでしょうか。

この山中でのレンジャー訓練に要求されるのは、まず体力であり、
極限下でも判断を過たない直感的な状況認識力かもしれません。




学生の装備一式はおよそ10キロの重さがあります。
それを背負って行動するわけですが、どこのレンジャー教育よりも
この装備は重く、かつ実践的なのだとか。

しかしそれだけではありません。
それに個人装具、89式小銃を加えると30キロ。
さらにそれぞれの任務によって爆薬や武器等が加わります。
小学生の子供一人背負ったままずっと行動するようなものですね。



彼らが歩いているのを見ると、軽く50キロくらいはありそうです。
一旦腰を下ろしたら自分では担いだまま立てないので、
周りが荷物を抱えて助け合ったりするくらいなのです。

そういえば、高山病にかかった高校生の女の子を二人抱えて、
常人が4時間かかる山道を1時間で走破するメディックがいるという、
そんな「陸自伝説」もありましたっけ。

加えてレンジャー訓練は意識的に個人的な要求を削除されて行われます。
水、食料、睡眠、全て与えられない極限状態を作り出すのです。

しかし 
教官や助教はその目標については

「学生にけがさせないこと」「はぐれさせないこと」

などと、案外小学校の先生みたいなことを言っていて、
なんだか肩すかしをくらったような気分にさせられます。



そして隊長が

「一人の脱落、落伍者もなく帰って来ることを期待しておる」

とだけ訓示をします。
あまりにも単純ですが、それがすべて。

別の教官は

「落伍者が出て当たり前なんですよ」

と軽ーく言ってしまっています。
これは、毎年結構な数か脱落するのだと見た・・。


そしていよいよ状況開始です。


続く。