ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

初めての山形 歯医者と足湯とイタリアン

2015-09-09 | お出かけ

週末、山形に2泊3日で行ってきました。
わたしは関西生まれのせいで東北には数えるほどしか行ったことはなく、
山形と福島には一度も足を踏み入れたことすらなかったのですが、
この度ひょんな用事ができたからです。

それは、歯医者。

歯科衛生は、実は体の健康そのものを左右する重大時であると知ってから、
我が家では歯のケアには最大限の注意を払ってきました。
保険適応はしない代わりに、1日ですべての治療を終わらせてくれる歯医者を見つけ、
ずっとお世話になってきたのですが、その先生が心臓病で倒れ、復活してきた後に
自分の体がうまく動かないことへの苛立ちか、スタッフを怒鳴ったり、
あるいは治療にミスをするなどということが相次いだため、
そろそろ医院を替え時かなと家族で話していた矢先、見つかった先生は、

「悪くなってからくるのではなく、悪くしないための治療」

をすることで全国的にも有名になった山形の歯科医院でした。

TOが見つけてきてわたしも共感したこの先生のポリシーについては
もしご興味があればこちらを見ていただくことにして、

予防歯科 日吉診療所

とりあえず最初の診察のために、わたしは一人で東北新幹線に乗りました。

 

東京駅から東北新幹線「とき」で終点新潟まで。
実はわたしはこの路線に乗ったのも生まれて初めてです。
越後湯沢ってここだったんだーと思いながら日本列島を横断し、
新潟からは「いなほ」に乗り換えます。
「いなほ」はご覧の通り、大変ゆったりしたシート。



しばらく走っていたら日本海が見えてきてびっくり。
山形に行くのに、まず日本海まで突っ切るとは知りませんでした。
やはり太平洋とは海の色が違う気がします。



山形県の酒田駅に到着。
台湾の台南駅に佇まいがそっくりです。
というか、向こうがこちらにそっくりに作ったんですね。




酒田駅前には駅モールはもちろんスターバックスなどありません。



タクシーの運転手さんは「日吉歯科」と言っただけで連れて行ってくれます。
それだけこの歯科医院のために酒田まではるばる遠くからやってくる人が多いのです。



まず診察に入る前に、20分くらいのビデオを見せられます。
おもに虫歯と歯周病になる原因について、そして口中にどれくらい菌がいるか、
調べることから治療は始まるということを説明します。

ミュータンス菌は知っていましたが、このラクトバチラス菌は知りませんでした。



第一回目は治療らしきことはしてもらえません。

「歯が痛いのに何もしてくれなかった」

と昔は怒る患者さんもいたそうです。
この日にするのは、レントゲンを撮り、詳細な歯の写真を撮り、
(専門のカメラはニコン製で、黄色いNikonロゴ入りのカメラケース入り)
検査のために唾液を採取します。



唾液が多ければそれだけで虫歯になりにくいそうで、小さなビーカーに
パラフィンの味のないガムを噛んでは唾液を吐きだしては溜めてゆき、
その量、pH、そして菌の有無を測るためにそれをしてこの日は終わりです。

それだけのために、というか、そもそも山形まで歯医者のために通うというのは
大変なことですが、来年には汐留に診療所分院ができる予定であることで
この医院にお世話になることを決めました。

先生がレントゲンと写真を見て初診をしてくれたのですが、ショックだったのは
虫歯の治療のために神経を抜いてしまい、セラミックの歯を被せるというやり方は、
うまくいっていればいいけれど、わたしのはレントゲンを見る限り形が合っていず、
そこから新たな虫歯になる可能性がある上、神経を抜いてしまっているので
もしそうなったら痛みもないまま進行してしまうかもしれないという言葉でした。

今のところわたしには一本も欠損した歯はないのですが、
このままでは将来どうだろうかといったところです。

かぶせたブリッジのやり直しを含めて見てもらうことになり、次の予約を取って、
近くのビジネスホテルに泊まりました。



ホテルの窓から見た周りの景色。
いやー、本当に何にもないっす。
街並みも、わたしが子供の頃の神戸の住宅地そのままの懐かしさを感じさせます。



次の日、前日深夜に到着した家族と合流しました。
息子の診察予約時間まで、郷土出身の写真家、土門拳の美術館を見学です。



まるで水の上に浮いているかのような美術館の建物はおそらく安藤忠雄。



本当に田舎、という酒田ですが、それだけにこんな素晴らしい景色が広がっています。



土門拳の作品、ことに戦前の海兵団や従軍看護婦、出征兵士たち、そして広島の原爆被害者、
そんな写真を見ていると、戦前の日本人の方が人間が上等だったというか、
一人一人が貧しいけれど美しい佇まいをしていた気がしてなりません。

昔の人にはあって、今の日本人が失ってしまったものって、それではなんなのだろう・・。
そんなことを、帰ってきた時東京駅の雑踏でも思わずにはいられませんでした。



土門拳の作品の中でも「子供」は重要なモチーフです。
炭鉱街で遊ぶ子供達、着物を着て傘を回す子供達。
子供の持っている目の輝き、これだけは現代も同じであると思いたい。

お母さんと池の鯉のためにわざわざパンの耳をやりにきた姉弟。




彼らがやってきただけで全鯉が集まってきました。
ここに落ちたらピラニアのように食われるのではないかというくらいの勢い。



ここの鯉に餌をやるのは、近隣の子供達の楽しみの一つのようで、
いくつかのグループが現れては餌を与えていました。




お昼ご飯は、地元銀行の方に酒田で一番美味しいフレンチをご紹介していただきました。
サザエのつぼ焼きがある!とおもったら、これはエスカルゴ風に、
バターとブイヨンで味付けしてあり意外なおいしさでした。



メインはマトウダイを選びました。
さすがにグルメな方の推薦だけあって、なかなかのお味でした。



息子の診察が終わり、わたしたちは本日のお宿に向かいます。
これから何度となく来ることになる山形ですが、この日は初めてのため、
家族旅行をついでにすることにしたのです。

まず、酒田からあつみ温泉(温海とかくらしい)に移動。
このときに乗ったのがこのとおり超カラフルな列車。



カフェ付きの列車で、カフェ車両にはこんなコーナーがありました。
「きらきらうえつ」というのが、驚くなかれこの列車の名前です。
 テーブルでお茶のセット500円など頼み、田園の景色を見ながら行くこと40分。 



THE日本の温泉街、という感じの、どこかで見た景色。
お宿もどこかで見たことのあるような大きな温泉ホテルです。



街中には無料の足湯と、



このような足湯カフェがあります。



足湯カフェで足を温めながら(というか、ずっと浸けていられないくらい熱い)
お茶を飲んでいると日が暮れてきました。

 

どうせ巨大温泉旅館の料理なんてどれも同じなので、 今回は夕食は頼んでいません。
足湯カフェでロコモコプレートやお子様ランチならぬ「大人様ランチ」
といったノリのもので済ませました。



温泉街の夜は風情のあるものです。



こちらは街の無料足湯。
足湯というものができたのは割と近年のことだと思いますが、
このちょっとした楽しみがあるとないのでは、若い人の集客が
全く違ってきそうです。

カフェの物販コーナーでこんな素材のバッグや小物を売っていました。



これらは「しな布」といい、シナの木の樹皮を使って作った日本最古の布でできていて、
手織りしかできないため大変高価です。
写真のバッグはどれも3万円!

わたしはバッグではなくシナ布で作った小さな花のブローチを記念に買ってもらいました。




ホテルの売店で見つけた「つや姫」のパッケージ、これは!

今大変巷を騒がせているデザイナー、佐野研二郎さんのデザインではありませぬか。
このデザインの良し悪しはさておいて、これは代理店に依頼したら
佐野氏が代理店経由で「勝手に」デザインしたもの、ということらしいですね。



さて、次の日、あつみ温泉から2両のローカル線に乗ります。
この写真を撮っていたら大きな汽笛を鳴らされました。
こういう路線の運転手さんは、さぞ日頃「鉄オタ」の行動に悩まされていると思われ。



目的は鶴岡。
徳川四天王の筆頭、酒井忠次の酒井家が約250年にわたり統治した城下町です。



駅前に米を担いだ男性とその家族、的なモニュメントがありました。
それが、このほとんど人通りのないロータリーで、(左のモールらしき建物は使われておらず無人)
大音響の民謡みたいなのを鳴らしながら回転しています。

「あの・・・うるさいんですがこの音は」

しばらく我慢していましたが、あまりの耳障りさに呟いたとたん音楽は止みました。

「あ、止んだ」

「時報かな」 

周りに住んでる人から文句が出ないのかと心配するレベルでしたが、後から調べると
どうも電車が来るたびに鳴っているとのこと。



駅前から目的地までタクシーで向かいます。
ブティック「ジョン・デリンジャー」、閉店セール。
稀代の強盗、パブリックエネミーNo. 1を店の名前にしてしまいますか。
まあ、パスタ屋に大泥棒の名前をつけてる例もありますが。



わたしたちの目的地はここ。
山形のみならず美味しいことで有名という話のイタリアン、アル・ケッチァーノ
・・・・のデフュージョンライン、イル・ケッチァーノ



こちらが第一号の「アル」の方ですが、予約多過ぎで、
並んで待つ「イル」に挑戦することになったのです。

ちなみに、ここの物販は「ウル・ケッチァーノ」といいます。 
・・・・物販だから。 



山形の新鮮で美味しい食材を使ってのイタリアン、という触れ込みの割には、
周りの環境はこんな感じ。
産廃工場が目の前にあるのに地元のNo. 1イタリアン店とは、よほど実力があるのでしょう。
立地条件には全く頼らず味だけで勝負!ということですね。



幸い全く待たずに席に着くことができました。
ここの売りは「野菜がとにかく新鮮で美味しい」こと。




家族で1つ注文したピザ。



アンチョビとキャベツのパスタ。



辛めのペンネ・アラビアータ。
どれも大変美味でしたが、わたしの住んでいる地域はイタリアンの激戦区で、
これは美味しい、というピザを食べさせるお店がたちどころに数カ所挙げられるほど。
ここがそれらのどこよりも勝ると言う風には思えませんでした。



一番感心したのがジェラート。
山形ならではの「ずんだ」を使ったジェラートは絶品でした。



鶴岡は城下町ならではの遺跡を多くのこす趣のある街です。
そんな史跡が移築され一堂に集められた致道博物館に行きました。
庄内藩主酒井家の御用屋敷だったものを博物館として公開したものです。
重要文化財の西田川郡役所。中は博物館になっています。




指定重要文化財の「田麦俣の多層民家」。
豪雪地帯特有の「かぶと造り」と言われる建築様式で、
1822年に建てられたものであることがわかっています。



中の写真は暗かったのでほとんどが失敗でした。
「長話無用」とあるのは電話台でしょうか。
昔は公衆電話も10円で何時間でも話せた時代があったそうですね。



家の主人夫婦が寝ていた部屋、と言うことですが、冬は寒そうです。



ここには酒井氏入国前の最上家時代から高級武士の屋敷がありました。
旧藩主御隠殿北面には庭園があります。
庭園脇に立っていた松の木がどう見ても何かの顔。




致道博物館には和風お食事処があり、なんと偶然にも

「庄内藩 しるけっちぁーの」

であることが判明。
アルケッチァーノの一味?で、ラーメンなどの汁物を出すので「汁」けっちぁーの。
お茶をいただいてついでに名物らしいロールケーキを三人で一つ頼んでみました。
まるで厚焼き卵のようなスポンジケーキは味にコクがあって滋味深かったです。



というわけで二泊三日の旅、帰りはMAXとき(二階建て)に乗って帰ってきました。
これから歯医者のために何度か通うことになる山形にご挨拶といったところです。

 


ハリアーとシュペル・エタンダールのフォークランド紛争~イントレピッド博物館

2015-09-07 | 航空機



イントレピッド航空宇宙博物館について順番にお話ししていますが、

今日は2機の飛行機についてです。


British Aerospace/McDonnell-Douglas AV-8C Harrier 1969

これは珍しや、迷彩塗装のハリアーです。
垂直、バーティカルに上がることができるという艦載機にとっては願ってもない
便利な機構を持ったこのイギリス製の航空機、インピッドによると

「ジャンプジェット」

とその機能を一言で説明しています。

最初のハリアーは1967年の12月には初飛行を行なっており、それから15年後には
ブリティッシュロイヤルネイビーが、フォークランド紛争にも投入しています。


海兵隊は1991年の「砂漠の嵐作戦」(湾岸戦争において、アメリカ始めとする
多国籍軍の航空機とミサイルによるイラク領南部とクウェートへの空爆作戦)
において、アメリカ軍としては初めて、ハリアーを実戦投入しました。

ここにあるハリアーはアメリカ海兵隊が注文したオリジナルで、
マクドネルダグラス社によってよりパワフルなエンジンに換装し、
アップデートされて「リ・デザイン」されたAV-8Cモデル。

国立海兵隊博物館(っていうのがあるんですね)から貸与されています。


ハリアーはそのユニークな能力ゆえ、数々の「blockbuster」に登場しています。
007、ジェームスボンドの「リヴィング・デイライツ」(1987)では
西から東に要人を脱出(?)させるため使われ、またシュワルツネッガー主演の
「トゥルー・ライズ」(1994)では、戦闘機の着陸シーンのために、
海兵隊から借りたハリアーIIを使って撮影が行われています。


ちなみに「blockbuster」という言葉ですが、これそのものは大型高性能爆弾のことで、
転じて映画で大ヒットした作品のことをいいます。
昔はアメリカには街のあちこちに「blockbusters」というレンタルビデオ屋があり、
わたしも会員だったものですが、今アメリカは本屋ですらなくなってますからね。
って関係なかったですか。
 
ところでこのハリアーは、砂漠の盾作戦の際、わずか31歳で殉職した

Captain Manuel Rivera Jr.

をでディケートしているという説明がありました。

 

名前からもわかるようにプエルト・リコ系アメリカ人であるリベラ大尉は、
移民の両親の元、ニューヨークのサウスブロンクスで生を受けました。
学業優秀で、大尉に昇進したときにもNASAの宇宙飛行士として候補に挙がるほどでしたが、
彼はそれを断り、砂漠の盾作戦に参加する部隊に行くことを選んでいます。


1991年、ペルシャ湾オマーンでの訓練飛行において、リベラ大尉は、
乗っていたハリアーが強襲揚陸艦「ナッソー」にクラッシュして死亡しました。

キャノピーの結露のせいで、水平線を見失ったのが原因ではなかったかと言われています。

ハリアーの初期型は特に操作が難しかったということですが、
リベラ大尉の事故原因なども、これに続くハリアーIIの安全対策に生かされ、
同じ事故を起こさないための教訓が生まれたに違いありません。


死後、リベラ大尉はパープルハート勲章を始め数々のメダルを叙勲され、
出身のサウスブロンクスの学校にはその名前が冠されています。





外国機つながりでこれ。
みなさん、この飛行機ご存知でした?
わたしも結構いろいろとアメリカの航空博物館を見てきましたが、
フランスの戦闘機をアメリカで見たのは初めてのことです。

Dassault Étendard IVM 1962

ダッソーのエタンダール。
エタンダールとはフランス語で「軍旗」を意味します。

フランス海軍が艦載のための軽戦闘機を要求し、98台が生産されて
1962年から2000年まで運用されていました。
フランス海軍にとってこれが最初の国産艦載機となりました。



レバノン内戦(1983~4年)では地対空ミサイルに被弾して被害を受け、
ユーゴスラビア紛争(1993年)、コソボ紛争(1999年)にも投入されています。

このシェイプから容易に想像されるのですが、エタンダールは低空での高速飛行が得意でした。
1978年以降には「シュペル(スーパー)エタンダール」が開発され、
イラクーイラン戦争、(1980-88年)、
そしてフォークランド紛争(1982年)にも参加しました。



マリーンと書いてあるので海兵隊かと思ったら、これはなんのことはない、
フランス語で「海軍」、つまりフランス海軍のサインなんですね。

このエタンダールは当博物館が、フランス退役軍人会を通じて
フランス政府から直接貸与されているものだそうです。



ところで、ハリアーとエタンダールが並べて展示してあるのには、
キーワード「フォークランド紛争」つながりではないかとわたしは思いました。


どちらの機体もフォークランド紛争に投入されており、

もしかしたらここに展示されている二機は、一緒に飛んだことがあったかもしれませんし、
さらにはNATO(North Atlantid Treaty Organization)か、あるいは
同盟国の関与した任務において、同じ任務を果たしていた可能性もあります。

しかしそれだけではなく、この両機の派生形が、フォークランド戦争において、
実質互いに敵味方になっていたと聞いたら、皆さんは少し驚かれるでしょうか。




ここでフォークランド紛争について簡単に説明しておきましょう。

アルゼンチンは、自国で「マルビナス諸島」と呼ぶフォークランドの島を巡り、
長年イギリスと領有権を主張し合っていました。

この均衡が破れたのは、1982年にアルゼンチンが国境の南端を超えて
サウス・ジョージア島に軍隊を侵攻させ、民間人を上陸させた時です。
(アルゼンチン政府の内政の不満そらしのためだったという説濃厚)

アルゼンチンはすぐさま実効支配に入ったのですが、イギリスはこれに対し、
自国の領土を守るため軍事力を発動することを選択し、戦争が始まりました。

イギリス海軍のハリアー部隊は、派兵が決まったとき、まずフランス軍に支援を依頼しました。
敵であるアルゼンチン軍はフランス製のシュペル・エタンダールを運用していたので、
製造元でありその長所短所を知り尽くしているフランス空軍に、
エタンダール必勝法のためのトレーニングをしてもらったのです。



ルゼンチン軍のシュペル・エタンダールは、その当時アルゼンチンが
フランスのダッソー社から購入したばかりで、ついでにこれもフランス製の
エグゾセ(Exocet)ミサイルAM39(MBDA社)を5発搭載していました。

このシュペル・エタンダール2機が放ったエグゾセ・ミサイルのうち1発が

イギリス海軍の駆逐艦「シェフィールド」HMS Sheffield,D80に当たり、
「シェフィールド」はその後沈没しています。


そして一連の戦闘において、イギリス軍のハリアー(シーハリアー)は
爆撃中に対空砲火によって、ハリアーとしては初めての戦没となり、
さらにはその翌日、悪天候の中、シーハリアー同士がおそらく空中衝突で
一気に2機が失われることとなりました。

フォークランド紛争は、第二次世界大戦後に起こった初めての西側諸国同士の
戦闘であったため、このハリアーとエタンダールのようなことがいくつかこりました。

アルゼンチンは当のイギリスから兵器を一部輸入していましたし、
エタンダールの例のように、両軍ともアメリカ、フランス、ベルギー
などの兵器体系を
多数使用しており、同一の兵器を使用した軍同士の戦闘になったからです。

つまりそれだけ相手の兵器について知悉しながら戦っていたため、
少なくともハード面において、両軍は「同じ条件」で戦ったことになります。
しかし、ご存知のように、結果はイギリス側の圧勝でした。


なぜだったと思われますか?

はい、これはいわば集団的自衛権の勝利”だったんですね。
英陸軍特殊部隊の経験が豊富だったことや、長距離爆撃機の運用が成功したことが、
イギリスの勝利に大きく寄与したというのはもちろんですが、
なんといっても、最大の勝因は、

同盟国アメリカやEC及びNATO諸国の支援を受け、情報戦
を有利に進めたから

だったのです。
衝突が起きた時、南米諸国は、相互に領土問題を持つチリを除き、
一応口ではアルゼンチン支持を表明しましたが、
実際に軍隊を派遣した国は一つもありませんでした。

「メスティソ」、つまり”白人の国”として自らを「南米のヨーロッパ」と称し、
内心、他の南米諸国を蔑視する傾向のあったアルゼンチンは、
こんなところで
人望のなさ(つまり嫌われてた?)が露呈してしまったということだったのかもしれません。


しかし、比較的親アルゼンチンであるペルーからは、この戦争を
「帝国主義との戦い」と位置付けた
義勇軍も参加しましたし、ペルー政府からも、

ミラージュIII(フランス製ですね)

が10機、有償にて調達されました。(結局間に合いませんでしたが)
アルゼンチンは、こういう事態になって、自分が南米諸国の一員であることを
改めて自覚せざるを得なかったのではないかとも言われています。


何かと「日本が孤立する!」と叫ぶみなさんは、本当の孤立というのは
フォークランド戦争におけるアルゼンチンのことをいうのだと認識していただきたい。

たとえ中国と韓国と北朝鮮から孤立しても、中国と韓国と北朝鮮との間にしか
領土と拉致の問題を持たない我が国としては、何の問題もないということもねっ!




さて、戦争は終了し、イギリスとアルゼンチンには国交が再開しましたが、
じつはフォークランド諸島における領有権問題はいまだに


未解決のままなのです。

驚きましたか?今わたしも驚きました(笑)
つまり、アルゼンチンは今もフォークランド諸島の領有権を主張しているんですねー。

映画「マーガレット・サッチャー~鉄の女の涙」(だったっけ)で、
サッチャー首相が、戦死した一人一人の家族に宛てて、自筆で
お悔やみの言葉を書き綴るシーンがありましたが、英国首相として

「イギリスは決して決して決して奴隷にはなるまじ」

という「ルール・ブリタニア」の歌詞通り、自国の領土を侵されたときには
いかなる状況であろうとこれを取り返す、という国是のもとに派兵を決意し、
大勢の若者たち(戦死者256名)の命を実際に犠牲にもしたというのに、
結局領土を完全に取り戻すことはできなかった、ということになるのです。

これは虚しい。虚しすぎる。
今現在の英国民のフォークランド派兵に対する評価を知りたいものです。



さて、ハリアーとエタンダールの話題ですので、最後にフォークランド戦争が

各国の兵器に与えた影響についてひとことだけ付け加えておきましょう。

この戦争の後、実戦を経験していなかったほとんどの兵器が
実際に使用されることによって、
評価すべきは評価され、欠点の見つかったものは
欠点を改善すべく軌道修正されることになり、
結果的に、世界の軍事技術は飛躍的発展を遂げることになったと言われています。


実際の戦争が、人類の科学技術そのものを発展させる原動力であるという説は、

フォークランド紛争においても、正しいと証明されることになったのでした。



続く。

 


エリック・シンセキ~日系アメリカ人三世将軍

2015-09-06 | 博物館・資料館・テーマパーク

空母「ホーネット」は現在海軍博物館として、そのものだけでなく
広い艦内にたくさんある区切られたスペースを利用して、海軍軍艦をトリビュートした
メモリアルルームのような展示がなされています。

「ベニントン」「ガンビア・ベイ」「フランクリン」

など、だいたい一部屋ごとにテーマが一つづつまとめられているわけです。
それはセカンドデッキといってハンガーデッキの一つ下の階ですが、
立ち入りを禁じられていたさらに一つ下のサードデッキには、後から調べたところ

  • Brig – the ship’s jail
  • Special Weapons – HORNET carried nuclear weapons
  • Port Catapult Room – houses machinery that operates the catapults
  • Dental
  • Bakery
  • Crew's Mess / Crew's Galley – used by the museum youth Live-Aboard Program
  • Crew's Berthing Spaces -


などがあったことがわかりました。 
艦内監獄、特別兵器室、カタパルト機械室、歯医者、ベーカリー・・。
ぜひ見てみたいのですが、これは「一泊プラン」にでも参加しないとだめかな。

ちなみに、以前少し触れた「ホーネットの幽霊」ですが、英語のサイトだけに

「ホーネットは幽霊が頻繁に目撃されることでも有名」

なんて書いてあったりして、それがテレビ番組などでも取り上げられたり、
「ゴーストハンティングツァー」なんかが企画されているらしいこともわかりました。 

こちらも一度くらいここでお伝えするためだけに参加してみたいんですけどねえ・・。


さて、他の軍艦などについての展示はだいたい艦内でも下の方にあったのですが、

ハンガーデッキから細い階段を上がっていった一段上に

「ジャパニーズアメリカンコーナー」

というのがあるのに気がつきました。
車椅子では物理的にたどりつくことすら不可能な場所にあるのがなんですが、
上がってみてびっくり、そこには日系アメリカ人、特にあの「世界最強」と言われた
日系人部隊「442大隊」にまつわる資料が網羅されているではありませんか。

昨年夏、「ジャパニーズアメリカンセンター」で日系人の歴史を学びましたが、
日系人部隊の資料については、ここが軍艦博物館であることからか、
たいへん充実しているように思われました。



このコーナーの入り口にあったフラッグには、

「アメリカ陸軍情報部」

「第442連隊戦闘団」

「U.S.S. ホーネット」

と記されています。 
アメリカ陸軍情報部というのは第二次世界大戦のときにアメリカ陸軍が設置していた
日系人中心になる情報部隊です。
対日戦における翻訳や情報収集、文書の分析、投降の呼びかけ、捕虜の尋問のため、
太平洋戦線に投入されました。

このMISについてはまた詳しくお話しすることにして、今日はこのコーナーができたとき、
ここを訪れたある日系退役軍人についてです。

冒頭写真のアメリカ軍人がその人、

ERIC KEN SHINSEKI (エリック・シンセキ)。

日系人で初めて星4つのジェネラル、陸軍大将にまでなった人物です。
それにしてもみなさん、この写真を見て、アメリカ国旗があるにもかかわらず

「あーこんな自衛官っているよね~空自とかに」

と思ってしまった人はいませんか?
見れば見るほど自衛隊タイプじゃないですか?この人。



エリック・シンセキは日本が真珠湾攻撃を行ったハワイに、
それからおよそ1年後の1942年11月28日、生を受けました。
祖父は広島県広島市江波から移民としてハワイに入植した一世で、
苗字は漢字で書くと「新関」です。

彼が生まれた時、彼の両親はアメリカ国民にとってまごうかたなき

「enemy alien」

に属する人種でした。
この「ジャパニーズアメリカンコーナー」でも縷々語られているように、
442部隊やMISなどの日系人部隊の日系人たちの多くは、
移民しその市民となったアメリカ政府への忠誠を証明するために入隊しました。

シンセキの叔父もまたハワイにあった第100大隊、
そして第442戦闘団の一員として欧州で戦った一人です。
何度かお話ししているように、敵国の血が流れている兵士たちへの懸念は
当初アメリカ政府に色濃くあったわけですが、彼らは比類ない勇気を発揮し、
その捨て身の戦いは賞賛と多くの勲章を得ることで歴史に残りました。



エリック・シンセキが軍人への道を選んだのは、この叔父の存在があったためで、
彼はウェストポイントの陸軍士官学校を卒業し、ベトナム戦争に参加しました。
同時にエンジニアリングの学位も取得しています。

ベトナム戦争に参加した彼は戦地で地雷を踏んで右足の半分を失うという負傷をし、
パープルハート勲章とオークリーフ・クラスター賞を授与されました。
負傷後たった一年休養しただけで、彼はまた現役に復帰したそうです。

シンセキはウェストポイントでの教官職のためにデューク大学で英語の修士号を取得し、
その後も順調にキャリアを積んで米国国防総省、ペンタゴンでのポストと
西ドイツにおける第3歩兵師団を経たのち、准将に昇進を果たしました。
1996年、54歳の時にはヨーロッパにおける米陸軍部隊の最高司令長官となり、
「三ツ星」となっていますが、これも日系米人としては初めてのことになります。


この期間に彼は中央ヨーロッパに展開するNATO軍の司令官も務め、
ボスニアヘルツェゴビナでの地域安定化の指揮を執るなどの活躍をしました。

ビル・クリントン政権のとき彼はついに陸軍参謀総長のポストに推挙され、
このときに名実ともに日系米人のみならずアジア系で初めての4つ星将官、
つまり制服組のトップに上り詰めることになります。



アメリカ軍ではこういうときに上院軍事委員会で適性を審査されたのち、
上院本会議で議員の賛成多数を得ることが慣習となっています。

このときの上院では、あのダニエル・イノウエ議員が
意見を取りまとめ、シンセキは全会一致で承認されています。


ジョージ・ブッシュ政権では陸軍長官として留任したシンセキでしたが、
ペンタゴンの文民指導者との間に齟齬が起こります。
それは、陸軍参謀総長として出席した2003年の公聴会で、

『イラク戦争における戦後処理は数十万人の米軍部隊が必要』

と述べたことでラムズフェルド国防長官ポール・ウォルフォウィッツ副長官らの
少数精鋭論と対立して表面化し、シンセキは彼らに退任・退役に追い込まれました。

一部報道には、この解任劇にはラムズフェルドの人種差別・偏見、つまりアジア系
(というよりおそらくかつてのエネミー・エイリアンの血を持つ日系)であるシンセキが
アメリカ陸軍のトップであることが許せなかったためである、とも報じられました。

それが本当にそうなのかどうかを立証することはできませんが、
シンセキ陸軍参謀総長の退任・退役式典にに際しては、長官・副長官がどちらも欠席するという
露骨な非礼を働いたのを見ても、信憑性のある意見ではあります。



対立の原因もおそらく「奴がこう言ったからその逆」という理由でラムズフェルド側は
少数精鋭を主張したにすぎないのではなかったでしょうか。
というのも、問題となったイラク情勢は占領後に計画の不備が露呈され、
結果的にシンセキの意見が正しかったことが証明される結果となったからです。


シンセキ大将が追い込まれるきっかけとなった上院軍事委員会の公聴会で、
ある上院議員が

「多数兵力を投入すべきと主張したシンセキは正しかったか」

と質問したのに対し、イラク軍を管轄する中央軍の司令官であるジョン・アビゼイド大将が、

「シンセキ将軍は正しかった」


明言したのに始まり、何と言っても現場の制服組トップからも同意見が次々と出され、
2006年には逆にこの件でラムズフェルドが更迭されると言う結果となりました。

バラク・オバマはこの件についてのシンセキについて、

「シンセキ氏は権力に対して真実を述べることを決して恐れてこなかった」

と評価しています。
というか、わたしはこの件で「差別する側」の二人がどちらもユダヤ系であったことは
何かの悪い冗談のような気がしています。


 
「ホーネット」の日系アメリカ軍人資料室にはこのようなシンセキ将軍のパネルがあります。
右下の写真には元第442部隊出身のダニエル・イノウエ議員(右端)が見えますね。 

 シンセキ氏は軍退役後早々に、非営利団体「ゴー・フォー・ブローク教育センター」の
スポークスパーソン(全米広報担当)に任命されました。
"Go for broke"とはここで何度もお話ししている日系米人部隊第100歩兵大隊のモットーで
「当たって砕けろ」という意味の日系人英語です


 
2007年3月、シンセキ元将軍は「ホーネット」の「ニセイ・ベテラン」コーナーを訪ね、
自分のパネルの前で記念写真を撮っています。
ここでシンセキ氏は、ニセイ・ベテランたちが敷いた道が次世代の日系米人にとって
アメリカ軍での成功を可能にしたと改めて強調しました。

ところでこのときシンセキ氏 、65歳なのですが、妙に若く見えませんか?

オバマ政権が発足した2009年、オバマ大統領はシンセキ氏を

United States Secretary of Veteran's Affairs(アメリカ合衆国退役軍人長官)

に指名しました。
これはアジア系アメリカ人初で、閣僚就任したのはノーマン・ミネタ氏に次いで二人目です。
しかし4年後の2013年、CNNの取材で退役軍人病院の診療の遅れによる死者がでているという
問題点が明るみに出たため、オバマ大統領はその調査をシンセキ長官に命じました。

しかしこの不祥事に対しまず野党からシンセキに辞任を求める声が起き、
シンセキ自身が責任を取る形で昨年、2014年5月に辞任してしまいました。

この不祥事の原因は、退役軍人の医療費が膨れあがったので、その抑制のために
診療待ち時間を減らした施設の幹部にボーナスを出すことにしたことでした。
つまりこの報奨金のために「偽の待機者名簿」を提出する病院が続出し、
実際に診療の必要な退役軍人たちが自分の順番が来るまでに死亡してしまう、
ということが起こったのです。

いずれにしてもこの件は、オバマ政権に対して打撃となっていると言われています。

シンセキ氏は、退役軍人たちへの忠誠が、自らを辞任することへの推進力となった、
また、辞任が退役軍人たちの利益になると考えればこそ、これを決断したと述べたそうです。

この覚悟に日本の武士道の覚悟を見るような気がするのはわたしだけでしょうか。

 





平成27年富士総合火力演習 装備展示と「ブラックホーク ダウン」

2015-09-04 | 自衛隊

平成27年度総火演が後段演習まで終了しました。

最後のフィナーレ、敵陣地に特攻、じゃなくて総攻撃を果たし、
見事我が国の領土に進入した敵勢力を壊滅に追い込んだというエンディングを迎え、
恒例に従ってフィールドに一般公開のために装備を並べる作業が始まりました。
車両部隊に先駆けてまずヘリ部隊がやってきます。

まずはAH-64D、アパッチロングボウ。

ヘリを撮るときにはシャッタースピードをできるだけ落として、
ローターが回転している様子を写すようにしています。



ヘリは必ず後輪から着地するものだとわかりました。

次にやってきたのはUH-60JA、原型はブラックホークのUH-60です。
 今回は偵察のオート隊が降りてくるシーンが見られなくて残念でした。

また、この日は曇天のせいで、空中にカメラを向けると画面が暗く、
それに合わせて明るさを調整すると地面に着いた時に明るすぎ、
といった風で、結構写真を撮るのには難儀な日でした。




ところでブラックホークといえば、ソマリア内戦を描いた映画、
「ブラックホークダウン」、みなさんご覧になったことありますか。


一言でにべもなく言ってしまえば、ソマリア内戦に介入したアメリカが、
作戦は一応成功したもののアメリカ兵士がたくさん死んだので撤退した、
という「モガディシュの戦い」を描いたもので、「Blackhawk down」とは、
このときにソマリア民兵のRPGに撃ち落とされたブラックホークの乗員が、

『We got a Blackhawk down, We got a Blackhawk down
(ブラックホークの墜落を確認、ブラックホークの墜落を確認)』

と墜落しながら交信した内容から取られています。


わたしはこれを観直したのが総火演直後だったので、
ヘリから新兵のオーランド・ブルームが落下したり、尾翼をやられて
ブラックホークが一機どころか二機までも同じような墜落をしていくシーンを、

あらためて食い入るように眺めてしまいました。

この映画では、戦闘に行かされる将兵たちが、軍人だから言葉には出さないまでも、
アメリカが他国の戦争に介入することと、自分たちがそのために死なななければならないことの
不条理に対する疑問を各々裡に秘めている様子が、淡々と描かれます。



CH-47も今日は全く出番なし。
最後の総攻撃の時だけ顔を見せましたが、地表に降りるのは初めてです。

本来、歩兵を乗せた車が出てきたり、ロープで降下したりするのですが。



アパッチの向こうに降りようとしているコブラ、AH-1S。



UH-1、ヒューイも今回初めての着陸です。
この角度からみると、ローターマスト前、操縦席のちょうど上と、
操縦席のちょうど下に、薔薇の棘状のツノが出ているのがおわかりですかね。

今回わたしは初めて知ったのですが、これ、ワイヤーカッターというそうです。
進路を妨げる電線やワイヤートラップなどを切断するためについているらしいんですが、
その前にローターが絡まってしまうのではないだろうかと(笑)


UH-60JAの向こうからやってきたヒューイ 。
ロクマルと呼ばれるUH-60にもワイヤーカッターはついているそうですが、
この角度からはわかりにくいですね。



OH-1は、降下前少しお辞儀をするように下を向いてくれましたが、
倒立とまではいきませんでした。



ここまで。気分が乗らなかったのでしょうか。 



ロクマルのパイロットがヘルメットを外して出てきました。
こ、このヘアスタイルは・・・・・・・!

大東亜戦争の頃、海軍飛行隊搭乗員はこんな風に頭のてっぺんだけ毛を残し、
人によってはそれを長~~~~く伸ばしていたそうですが、それとも違う。

そう、これこそ、「ブラックホーク・ダウン」で、ジョシュ・ハートネットが、
オーランド・ブルームが、ヨアン・グリフィズ(ファンタスティック4のゴム男)
が、その他大勢の皆さんがしていた、てっぺん残しヘアスタイル。


絶対に陸自のヘリ部隊の人もこの影響受けて真似していると思います。



上の人はわかるとして、下から顔を出しているのは
目視で運転しているってことでよろしいでしょうか。



戦車長は上?
で、たった今気づいてしまったことがあるのですが、
この隊員の左小指、見てください。
なんか指輪をはめているように見えますよね。

自衛官は結婚指輪をしている人が多い、という傾向について
以前お話ししたことがありますが、これは違うよね。
なぜピンキーリングを?



と思ったら、戦車用のゴーグルのようなのから、鉄兜に変えているこの隊員さん。
この人の左小指にも指輪のようなものが・・・。

全部の写真を確かめたところ、戦車隊の隊員で左手が写っている人は
この二人しかいなかったのでなんとも言えませんが、これはもしかしたら
業務上必要な何か?
それともたまたまこの二人だけがピンキーリング愛用者?

気になったので、どちらの写真も極限までアップしてみたら、
これがシルバーの分厚いリングでお揃いなのよ。

これも「ブラックホーク・ダウン」で、血液型を書いたテープをブーツに貼って

出撃する兵士がいたように、認識票以外の血液型リングだったり?



軽装甲機動車も到着。



99式自走155mm榴弾砲

自走榴弾砲の中では最も最新型であるこの装備、
ところでお値段はおいくらかご存知ですか?

9億6千万。

そう言われても他の装備と比べて高いのか安いのか、シロートには
まったくわかりませんが、この手の装備の中では高い方だそうです。 



それが、なんと2台も、貨物船沈没事故で海の藻屑となったことがあります。
2001年の船舶事故で調べると、えひめ丸の事故しか出てきませんし、
災害史辞典にも貨物船沈没、と書かれているにすぎないので、
どこの船がどういう状況で沈んだのかまったくわからなかったのですが、
それにしても9億6千万が2台・・・・。



準備をしている間に、視察官である防衛政務官が退場しました。
この人(創価大学卒官僚出身公明党の議員)が常に浮かべている、
貼り付いたようなスマイルの不自然さが、この角度から見るとよくわかりますね。



M110 203mm自走榴弾砲。

アメリカではもうこれも引退している装備ですが、
自衛隊の場合はそういう発表はまったくされていません。

先日コメント欄で「戦車が実際に戦うときには日本はもう終わり」
みたいな話がありましたが、そういう、いわば実現性の薄い想定のために
最新式を備えるよりも、優先することがいくらでもあるってことなんでしょうか。

例の「GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり」においても、わざわざ
銀座の土中から敵が出て来たという設定にしたわけは、そうでもしないと
陸上自衛隊が地上戦を行うシチュエーションにならないからに違いありません。



これも隊員が顔を出して操縦していたのでアップ。



155mm榴弾砲、FH-70が到着。
ここまでは自走ではなく、牽引されてきたようです。



牽引から外して、最大仰角に砲身を向けて準備。



NCB偵察車

NCはヌクレア・ケミカルつまり核と化学、Bは「バイオ」つまり生物。
これらを用いた兵器、NCB兵器に対応する偵察車であり、
放射線保護もされている偵察車ですが、偵察ではなく化学防護戦を想定する
「化学科」に配備されています。

化学科部隊は、あの地下鉄サリン事件にも出動しました。

そろそろ戦車が入ってくる頃ですが、長くなったので次回に譲ります。




ところで「ブラックホーク・ダウン」で、ソマリアのアイディード将軍に近い人間が、
交渉しようとしたアメリカ軍のガリクソン将軍に、

「This is our war. Not yours.」

と言います。
確かにこの戦闘は平和維持を目的にしていましたが、客観的には
他国の内戦にたった一国、アメリカが介入しただけで、その結果ブラックホーク2機と、
貴重な精鋭部隊の19名の命を失うことになりました。

失われたといえば、この戦闘で死傷したソマリア民兵の命は、350名と推定されます。 

しかも、墜落したヘリの乗員と、彼らを救うために危険の中降下した二人の兵士の遺体が、
ソマリア市民によって市中を引きずり回される映像が世界中に公開され、

このことが、介入を決めたクリントン大統領に撤退を決意させることになります。

映画の最後に、戦いから生きて帰ってきた兵士が、また再び戦場に戻る前に、

「国を出る前に言われた。
”なぜ他国の戦争を戦いに行く?戦争ジャンキーなのか?”
奴らにはわからない。なぜ俺たちが戦うか。
俺たちは仲間のために戦うのさ。それだけだ」

と言います。
戦争に正義も悪もありませんが、アメリカの戦争の多くが少なくとも
「道義のない戦争」であったことは確かで、このソマリア介入なども
その一つと言えましょう。

安倍政権が決めた、日本が武力を行使するための三要件の1にあたる、

「我が国に対する武力攻撃が発生したこと、
又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、
これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、
自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」

という条件でいうと、全くアウトです。
戦争で兵士はそれに命を賭けることが使命ですが、この映画でも、
ベトナム戦争を描いた「We were the soldiers」でも、
彼らは「仲間を守るために戦った」と言うのです。


彼らが命を賭けるのが「自国への武力攻撃」「自国存立の危機」
や「自国民の生命自由(略)の危機」から国を守るためではないことを、
戦う当人たちがよく知っていたからです。

ましてやこのときの名目である「圧政の下貧困にあえぐ可哀想なソマリア人の解放」

のためになど、アメリカ国民である彼らのうち誰が、
好き好んで一つしかない命を捧げたいなどと思ったでしょうか。



日米安保だけで日本はこれからも守られるはず(だから日本は武装する必要なし)、
と本気で思っている人は、ぜひこの「ブラック・ホークダウン」で
意義のない戦争を戦わねばならない軍人たちの内心の苦悩を観ていただくとともに、
アメリカが日本のためにこの頃のように命を落とすことを今後良しとするか、

ぜひ彼らアメリカ人の気持ちになって考えていただくことをお勧めしたいと思います。


このときの戦闘を以って、アメリカは「地上軍の派遣」を実質やめ、

これ以降戦争はドローンミサイルや衛星通信を使ったハイテク化へと変貌していくのです。





続く。

 


平成27年富士総合火力演習 後段演習

2015-09-03 | 自衛隊

少し他の話題をお送りしていましたが、本年度の総火演において、
15分の休憩を挟んで行われた後段演習の様子をお話ししておきましょう。

本来ならここで音楽演奏が行われることになっていたのですが、
このときも、開始までの間も、雨脚が強くなったため音楽隊は出演しませんでした。
この日の音楽隊は、すべて演習が終了し、展示装備の準備ができるまでの間、
雨がこのころは上がっていたのでようやく出番となったしだいです。

履帯外れ事故のときのように、いつ出演が要請されるとも限らないので、とにかく
何があっても現場に待機していなくてはいけないというのが彼らの宿命なのです。



予行演習ではありますが、観閲式の時のように「総理大臣」と大きなプラカードを下げた
偽物を使うのではなく、
ちゃんと防衛政務官を招待しておりました。

これらの演習は、政府の視察の元に行われるという建前があるからです。


で、周りのお嬢さん方が「誰?」「あれ誰?」とひそひそやっていたこの人物、
どこかで見たことがあるなあと思ったら石川博崇防衛政務官じゃありませんか。

このいつも張り付いたような笑いを浮かべている創価大学出身の公明党議員が、
よりによって防衛大臣政務官であるというのはなんだか微妙な気がしますが、
ご本人のモットーも「備えあれば憂いなし」だそうなので(笑)良しとしましょう。



本番は知りませんが、こういう政府関係者がだらだら挨拶をして
陸自隊員たちの士気を削ぐということは総火演ではやらないので助かります。
到着したら、司令官である陸将補が演習の準備ができたことを報告し、
これをもって総火演の始まりとなします。



ところで、休憩はわずか15分しかないのですが、その間に席を離れ、
帰ってきたのはいいけれど、自分の居た場所がわからなくなって立ち往生する人が
結構な割合で(わたしの横の通路では3組、延べ人数6名)いたのでした。

演習が始まってから人々の視界を遮る夾雑物と仮す前に、なんとか席に
戻ってもらおうと、案内の係の自衛官は必死の誘導を続けます。

中には故意犯?なのか、「どこにいたのかわからなくなった」といいながら
始まる寸前まで通路に立って話をしていた三人組もいましたが、

「始まりますので早くお戻りください」

と注意されて渋々?後ろの方に戻っていきました。
ぜんぜん前に座っていたんじゃないじゃん。



後段演習が始まる少し前から、フィールドにはすでにいくつかの装備が配置されていました。



中距離多目的誘導弾のうちの「発射装置」がこれ。



12式地対艦誘導弾システム。
SSMと呼ばれる昼夜兼用の対艦ミサイルを搭載しています。



こうやって集めた情報がSSMに送られると、



SSMから放たれたミサイルは、山や谷などを迂回し、それらを越えながら進み、

 


低高度で進入して目標艦艇を撃破するというわけです。

うーん、今どき艦隊戦なんて行われるわけないというのがよくわかる。 




中距離地対空ミサイル。(中SAM)

想定においては航空機を射撃し、撃破するために配備されています。
中SAMの実射はもちろん行われません。
スクリーンでこれも射撃の様子を見せてくれるのですが、高く打ち上げたミサイルは、
飛来している航空機を、上部背面からまるで豆腐のように楽々と打ち抜きます。

というかあの映像でぶち抜かれる飛行機は、どうやって操縦されていたのか。



演習に先立ち、もう何度も見ているような気がするこのような
島嶼防衛における我が国自衛隊の統合及び機動についての説明があります。

シナリオはもちろん、畑岡地区が我が国固有の島であり、そこに敵部隊が
海上から侵攻してくるということを想定しております。

前もって配備されていた装備は、それを迎え討ち撃破するということですね。

その後、侵攻し島嶼部を占領した敵軍を、本土から出撃した我が軍が、
空中、海上から輸送手段を駆使して機動展開をし、最後にその部隊が
敵を攻撃してこれを撃滅、めでたしめでたしという筋書きです。

状況開始に際しては、なんという名前か知りませんが(進軍ラッパ?)

「ドッドドドッド ミッミミミッミ ドッドドソッソソドミドソドー」(固定ド)

というラッパが吹き鳴らされます。
これたしか、下総基地でお昼が終わった時に鳴ってたな(笑)

下総基地といえば、状況は海自P-3C部隊の情報収集から始まります。
でね。
たしか去年はいきなりここでP-3Cから情報を得たF-2が飛来した記憶があるんですが、
本日は雨が降っていたためF-2は飛来しなかったのです。



モニターの映像でお茶を濁されました。



96式多目的誘導弾が海岸に接近する敵舟艇を撃破します。
この後中距離式多目的弾が、奥の赤い凸を撃ちぬきました。

さて、それにもかかわらず(そりゃそうだろう)生き残った敵勢力が我が国に上陸をしてきました。
そこで、我が軍斥候による偵察活動が行われます。



そこで本来次に出てくるのが忍者。じゃなくてOH1ニンジャです。
国産の偵察ヘリとしてはぴったりのこのネーミング。

ただし、この時にはやはり雨のせいかOH-1の出演もありませんでした。

これは、終わってから装備展示のためにやっとこ出てきたOH-1のお姿。
他の日の演習では張り切って倒立とかしていたそうなのに、見られなくて残念です。

それに、多目的ヘリから降りてくるオート(バイク)隊もなかったし、
何と言ってもCHー47からのリペリング降下も無しだよまったく。

というか、私の行った日ってつくづくついてない日だったのね。 



この歩兵車もね・・・本来CHで運ばれて、そこから降りてくるはずだったのに

このとき、モニターではオスプレイを導入予定であること、そして
航続距離がCHの2倍で静謐性もあり、島嶼部の配置も期待されていると放送しました。

なるほど、兵站への物質輸送という点において、Cの国にはこのような装備はないはずで、
そりゃこんなもの日本に導入されれば困るのは必至だから、共産社民を中心とした
反日日本人たちに指令してオスプレイに限定して反対運動させるでしょうねえ。(説明っぽいな)



あとモニター映像で驚いた、LCAC(えるきゃっく)による戦車の運搬。
観艦式でこれ見ましたけど、うるさかったですよー(笑)



で、なぜか後段演習に対人狙撃が行われたのですが、
これっていつもそうなんですか?



やっぱりこういうので実際に撃つ人は常日頃から成績のいい、
「ゴルゴ」とかいうあだ名のついている隊員に違いない。



遠くからなのに、銃弾が赤く発光しているのでこんなによく見えます。



ただの銃かと思ったら、当たった後人が燃えてます。



大大大大アップしてみた対人狙撃銃のターゲット。
ほとんど穴だらけで、向こうがほとんど透けて見えてるんですけど・・・。



なぜか向こうに向かって撤退~。



先導班が87式偵察警戒車で侵入してきました。
敵の警戒線を突破するため、急襲射撃を行います。



87式は全部で4台、同時に発砲しました。
これをもって敵の警戒線は突破されたという設定。




警戒線を突破して侵入してきた(という設定の)87式。
偵察によって、敵は2段山と3段山に潜伏中と判断されました。


まず、敵の戦力をあらかじめ低下させるための攻撃。
海自が海上から艦砲射撃を行うこともあります。





そこで、攻撃を射撃支援するために74式戦車部隊投入。
味方の攻撃を「射撃支援」が目標です。




そして92式地雷原処理車が処理ブロックを発射。





こんな風に飛んで行って・・・、




地雷を処理。
本日は演習用に4分の1の規模のブロックを使用しているそうですが、それでこれ。
周りにいた人(女性)が

「そんなこと言わずに全部使ってやってくれたらいいのに」

と文句を言っていました。



そうやってみんなで発煙弾を撃ったり、前進射撃をして、いわば
「お膳立てが整った」ので、いよいよ10式戦車が攻撃を開始します。



まるで軽やかにステップを踏むように、バックでスラロームしながら砲を撃つその姿は
優美ですらあります。
こんなことを言ったらなんですが、戦車というのは、特にこの10式の動きは
美しいものだなあと妙な感動にふけってしまいました。



続いて装甲戦闘車科小隊も戦闘に加わりました。



ドウンドウンドウン!の装甲戦闘車ですね。



この攻撃によって、前進を阻む敵は制圧されたそうです。
装甲戦闘車科小隊が陣地変換の間、10戦車小隊らが援護を行います。




そこに敵のヘリコプターがやってきたので撃ち落とす非情の87式高射機関砲。



もうこの辺になると皆が入れ替わり立ち替わり砲撃しまくっています。
もちろん実射しませんが、MLRSなんかも撃ってしまうという設定。
まあ、実戦なら向こうからも当然撃ってくるわけですが(笑)、演習なので

「もうやめて!敵のライフは0よ!」

というまでこちらからだけ一方的に攻撃できるわけですね。
一度、敵のものすごい反撃に遭い部隊がほぼ壊滅状態から巻き返して勝利、
みたいなシナリオでやってくれないかなあ。


ここで中隊長は、これまでの戦況から「突撃可能」と判断し、
一気に畳み掛けて勝敗を決する攻撃に出ることを決意しました。







この頃には会場左手上空にヘリ部隊がホバリングして様子を伺っております。
本日初めて見るような気がするCH-47も・・。



もちろんアパッチもねっ。
突撃部隊の突撃成功の報を受け、ヘリ部隊と一体となって、残存する敵を殲滅するのです。
これを「戦果拡張」といいます。



そこにくさんのナイアガラが・・・。



たまやー。

やはりムービーのキャプチャは画質がいまいちです。



ヘリ部隊は何をしたのだろう・・・・。
と去年も思ったけど、これ、みんなでただ通過しているだけなのでわ。




さすがクライマックスだけあってスモークが派手。



というわけで、本日もつつがなく後段演習は終了しました。
終了してからは展示装備の準備が始まります。


続く。


空母「ホーネット」艦橋ツァー カタパルトとウィル中尉

2015-09-02 | 軍艦

2年前に続き、見損なった艦橋ツァーの残りを見るため
サンフランシスコの対岸にあるアラメダに繋留している
空母「ホーネット」を訪ねたときのご報告をしています。 

補助操舵室(AUX CONN)の説明をした後、ボランティアの元海軍中尉、
通称「Sさん」(海軍兵学校元生徒のSさんに激似していたため)は、
ツァーに参加した10人余りの一団を率いて、甲板レベルまで降りてきました。

「みなさん、アイランドツァーはこれで終わりです。
でも、今日は特別に甲板の飛行機について解説しますので、
お時間と興味のある方は残ってください」

そして「Sさん」ことウィル元海軍中尉は、これは「informal」です、と付け加えました。

歩くのを見ていると、右足を引きずっており、狭い艦橋の階段を
登ったり降りたりを繰り返すのはさぞかし難儀であると思われましたが、
おそらく彼は海軍に奉職した人生を誇りにしており、
空母艦載機のパイロットであった自分の経歴を、ボランティアを通じて
人々に少しずつでも伝えていくのを人生の最後の生きがいにしているのでしょう。

見学の途中で鳴り出した携帯の着メロが「錨を上げて」という、海軍の実質上の
(公式ではない)公式歌であったことで、わたしは一層その確信を深めたのですが、
こうして決して体力が有り余っているわけでもないのに、エキストラのツァーを
行ってくれるというのです。

ほとんどの客はそこで解散してしまい、「Sさん」の呼びかけに応じたのは
どうやら日系アメリカ人らしい高齢の男女3人組と、わたしの計4人となりました。



そのエキストラツァーとやらがなかなか始まりそうにないので、
甲板の艦載機エレベーターの工事を見に行きました。
前回来た時にはここは完璧に閉じられていたと記憶しますが、
1.5mほど降下させた状態で、甲板とエレベーターを接続する面を修復しています。

昇降機の向こうに見えているのは多分S-2B「バイキング」。哨戒機です。




ふと、艦橋ツァースタート地点に、新しいグループが集まっているのに気付きました。
解説員を見ると・・・・、お、これは2年前のツァーの人じゃないか?

その時は髪を長くしていてまるでお茶の水博士みたいだったのですが、
今年はイメージチェンジしておられます。
この人も元海軍軍人だということは解説の端々でわかりましたが、
このツァーに参加した時には、この時の倍くらい参加者がいたため
わたしは最初の彼の自己紹介を聞き逃してしまい、彼が海軍でどんなことをしていたのか
結局分からないまま終わってしまったのでした。 


さて、甲板を撮っていたら「Sさん」が三人の参加者とともに歩き出すのが見え、
慌てて彼らのところに走って行きました。
「Sさん」はどうやらカタパルトの説明をしてくれるようです。

歩いていて、ふと「Sさん」がわたしの横を並んで歩いている状態になったので、
思い切って声をかけてみました。

「わたし、日本から来たんです」

「おお、そうですか。それはようこそ」

ボノム・リシャールにも乗っておられたんですか?」

「はい、乗ってました」

これは、「Sさん」の着ていたボマージャケットの背中に、強襲揚陸艦でなく
空母「ボノム・リシャール」の ワッペンがあったので聞いてみたのです。

「ボノム・リシャールは日本にもいたことがありますよね?」

 朝鮮戦争の時には北朝鮮の空爆に参加したという記憶があったので聞いてみました。
「Sさん」は確か自分の軍歴について最初の自己紹介で

「ベトナム戦争に参加している」

と言っており、80歳くらいと仮定しても朝鮮戦争の頃は
まだ軍隊に入ってもいなかったはずですが、それを聞くと、

「わたしは『ボノム・リシャール』乗組のときに横須賀に行きましたよ」

と話を合わせてくれました。
ベトナム戦争の時、日本政府(佐藤栄作政権)は、後方支援のために
沖縄、佐世保、横須賀、横田などの軍事基地を提供していますから、
「ボノム・リシャール」が横須賀に補給のため寄港していたということは十分考えられます。



どうですか元パイロットの海軍中尉、かっこいいでしょ?
8月も半ばというのに皮ジャンパー着用しておりますが、
これはこの辺りの気候の特異性を考えると全く不思議ではありません。

この日は燦々と陽の高いいつも通りの天気で、車から降りたら
帽子なしではとても歩けないくらい強烈な暑さだったのですが、
そんな日中でも日陰に入ればひやっとするくらい。
空気が乾燥していて(今年は雨不足で一層)、寒暖の差が激しいので、
皮ジャンパーの人とタンクトップの人がどちらもいるような、
それがベイエリアの夏の気候というものなのです。 

右腕には「LSO pacific fleet」 というパッチがありますが、
この「LSO」は、「Landing Signal Officer」、甲板の信号員のことのようです。
「Sさん」は信号員ではなかったと思うのですがこれは一体?

とにかくこのジャンパー、長年着込んでいるらしく、
裾のゴム部分が伸びきって破れているのが印象的でした。
わたしが奥さんだったら、これくらい直して差し上げるのに・・・・。


もしかしたら、夫や父が海軍にいたことなどあまり関心を払わない家族に囲まれていて、
このジャケットも、
ボランティアの解説に出かけるときだけ出してきて着込んで行くだけの
「仕事用ユニフォーム」となっているのかもしれませんし、そもそも
連れ合いがいたとしても、まだご健在かどうかと訝られるほどのご高齢ではありますが。


さて、それはともかく、このフェンスのようなものは、
「ブラスト・スクリーン」という説明だったので、つまりこれはカタパルトの後方、

航空機がジェット噴射を受ける部分にあり、狭い甲板上で甲板員が
発進の際のブラストを受けないようにするための防御壁だと思います。


今のカタパルトは、これが発進に際して立ち上がるようになっていますが、
このころのは垂直に突き出してくるようになっているように見えます。

いずれにしても航空機の射出のたびに出したり引っ込めたりできないと、

タキシングの邪魔になってしまいますね。



カタパルトの上にセッティングされているのはF-4でした。
塗装の塗り替え中のようで、全身真っ白のファントムIIです。
ファントムIIは「ホーネット」では運用されたことがないようですが
そんなことはどうでもよろしい。

床部分から伸びてきた「ブライドル」といわれる牽引具が、

黄色い接続具によって機体にジョイントしています。


カタパルトで航空機に推進力を与える動力は二種類あります。

スチームの圧力を送り込む「スチームカタパルト」、そして第二次大戦時、
アメリカが採用していたのが「油圧式カタパルト」です。
エセックス級空母から、改良型の油圧式カタパルトが採用されるようになったので、
ここにあるカタパルトは油圧式の初期の形ということになります。


圧搾空気でオイルをシリンダーに高圧の作動油として送り込み、
滑車やケーブルでその動きを拡大し、甲板の溝にはめこまれたシャトルを引っ張る 


というのが油圧式カタパルトの仕組みですが、これは

 

肝心のカタパルトトラックとどうつながっているのか、写真のポイントが甘くて(−_−;)
写っておりません。 すみません。
とにかく、これは「Holdback Pendant」ということですので、
誤作動による航空機の射出を防ぐために接続しておくもののようです。

まあ、誰も乗っていないのにいきなりシャトルが走り出したら、
機体を海にぶん投げることになりますから・・。 



U字型に見えているロープは、その先が「シャトル」と呼ばれる
溝にはめ込まれた牽引具に連結されています。



シャトル拡大図。
航空機が空中に射出すると自然にロープは外れる仕組みですが、このとき
ロープが海に飛んでいかないように(多分)、ロープは金具と紐で固定されています。



シャトルが引っ張るブライドルは、航空機の下に付いているフックに掛かっているだけ。
実際に見ると、よくこんなのが射出時にうまいこと外れてくれるものだと思いましたが、
シャトルがレールの端まで走行して到達すると、航空機にはすでに慣性の法則で勢いがつき、
必ずこのフックからロープは外れるようにできているようです。

何かのはずみでロープがかかったまま離陸してしまい、次の瞬間甲板に機体が叩きつけられ、
という事故が一度もなかったらしいのはさすがアメリカの技術力といえましょう。



そういえばここに転勤する士官のブーツを乗せて「射出」している
お茶目な写真があったなあ、と思いながら、わたしはこのことを
説明している「Sさん」に聞いてみたくて仕方がなかったのですが、
あまりにもくだらなくて理解してもらえないかもしれないと思い、
すんでのところで堪えました。

カタパルトの説明が終わった後、「Sさん」はわたしたち4人を
艦橋の前方に置かれているF-8、クルセイダーの前に連れて行きました。



いくつかある甲板の航空機の中で、わざわざこの前に来たわけは、
彼が

「わたしは、現役時代この飛行機に乗っていたんです」

といったことでわかりました。
気のせいかもしれませんが、「Sさん」はこのことを言うとき、
他の三人ではなく、明らかにわたしの方を振り向きました。
日本からわざわざ(っていうわけでもないけどまあ一応)、アメリカ海軍の
史跡を見に来て、しかも「ボノム・リシャール」の読み方も間違えなかった
(何も知らないアメリカ人ならおそらく『ボンオム・リチャード』と読む)女性、
しかもエキストラツァーにまで参加しているとなると、

「よほど海軍について関心があるのだろう」

彼がこの時点で思ったとしても不思議はありません。
まあその通りなんですけどね。


その後は、まあ当たり障りのない航空機の説明があり、同行の男性が
何やら少し分かっている風の質問をしていましたが(よく聞き取れなかった)、
すぐにそれも終わってしまい、皆で艦橋に向かいました。

わたしはここでせっかくのクルセイダードライバー、ベトナム戦争のベテランという
海軍史の生き証人を目の前にしているのだからと、引っ込み思案に鞭打って(笑)
思い切って話しかけてみました。

「クルセイダーもやはりMiGと戦うために開発されたのですってね」

「そうですよ」

「もしかしたら、クルセイダーでMiGを撃墜したナージ中尉をご存知ですか?」

2年前にこの甲板で見たチャンス・ヴォートの「救世主」であるクルセイダーについて
書いたことがあり、しかも、サンダウナーズという日本人にとっては
微妙な感慨を抱かせる飛行隊にいたMiG撃墜のエース、アンソニー・ナージの名前を
記憶していたわたしは、なんとなく尋ねてみました。

すると、「Sさん」の表情が大きく動き、

「ナージ・・・・わたしは彼を知っていますよ」

こんどはわたしが驚く番です。

「実際にお会いになったことがあったのですか!」

アンソニー・ジョン・ナージ中尉は1940年生まれ。
1963年に海軍兵学校卒業です。
ベトナム戦争であげた功績、

「空中戦における卓越した飛行技術、模範的な勇気とその決断力に対し」

シルバースター勲章、十字勲章二回を授与されている海軍軍人は、
もしかしたら「Sさん」と同じくらいの歳かあるいは少し下でしょうか。

「彼は・・・いい人(good man)でした」

わたしの知らない海軍基地の名前をいい、そこで会った、といいます。

驚いたな(exciting)、どうして彼の名前を」

「先月ニューヨークの『イントレピッド』に行ってきたのです」

正確には、その少し前、「イントレピッド」とナージ中尉について調べ、
ブログのためのエントリを書いたばかりだったんです、 なんですが(笑)

しかし、この「Sさん」、解説員としてもあまり立て板に水というタイプでもなく、
訥々と喋ってはすぐに

「何か質問は」

と見学者に丸投げしてしまう傾向があり(笑)、おそらくはもともと
無口な人らしく、エキサイティングとかいうわりに話はそれ以上にもならず、
わたしはさらに無口な人と会話を弾ませるほど英語が堪能なわけでもないんで、
話はそこで終わってしまいました。

同行の3人が、Sさんにお礼を言って、ハンガーデッキへの行き方を
尋ねたため、会話が中断されてしまったこともあります。

しかし、この短い会話は、どうも「Sさん」にはそれなりに印象的だったようです。

わたしが同行の三人に押される形で狭い艦橋の入り口を入り、
ハンガーデッキに降りるためのエスカレーター(今は動いていない)の前で
最後に後ろを振り返ってみたら、三人の頭越しに背の高い「Sさん」は、
しっかりわたしの目を見て、明らかにわたしに向かって手を振っていました。

「Thank you.」

わたしも手を降り返し、心の中で、どうぞいつまでもお元気で、とつぶやきました。
 

 



 

 


空母「ホーネット」艦橋ツァー 「錨を上げて」

2015-09-01 | 軍艦

空母「ホーネット」に2年前に続きもう一度アイランドツァーのために
訪れ、前回とは少し、どころか全く雰囲気の異なるボランティアの解説員、
ウィル元中尉、通称「Sさん」の解説を聞くことになりました。

前回も書きましたが、このたびの解説員は80歳を超えており、歳格好といい、
長身の痩身で髭を生やしたイケメンぶりといい、日本に残してきた(笑)
元兵学校生徒の「Sさん」にわりと瓜二つ(日米の人種が違うだけ)なので、
わたしが勝手に心の中で「Sさん」呼ばわりをしております。



さて、プライマリー・デッキに続き、前回見損なった航法室を見学したあと、
その一階上の管制室を見た後は、操舵室へ。
ここは、メインの操舵室となります。



さて、このときわたしはたまたま「Sさん」の次の次に部屋に入ったのですが、「Sさん」は

わたしの前の男性とわたしに、

「皆に説明するからあなた(男性)はこれを(金色の輪っか)を持ってください。
あなた(エリス中尉)はこちらの前に」



ドラムの右と左に手前に引くためのレバーがついてる動力装置の前に立たせました。
え、もしかしたら何か皆の前でやらされるの?
と一瞬キョドってしまったのですが、「Sさん」、それを見て

「怖がらなくていいですよ。立ってもらうだけだから(笑)」

見ると、レバーは赤い金具で動かないようにガッツリと固定してあります。
もしかしたらこんな状態でも動かしたら何かが起こるってことでしょうか。
装置の下部にあるウィンドウには

「エンジン・レボリューション・インジケーター」

と書かれ、これによって変速していくことがわかります。





解説が始まりましたが、本当に立っているだけでした(笑)
だって、舵輪とちがって何も動かないんだもーん。

水平に置かれた黒い計器には水が入っていて、文字盤が動いていました。

これは推測するに水平に対する艦の角度を知るものでしょう。
どこかが浸水してフネが沈没しそうになったとき、傾いているのがわかって便利です。


その上にある計器が「 Rudder Angle Indicater」
「舵角計」とか「舵角方向指示器」と訳せばいいのでしょうか。

しかし、「舵角指示器」を逆翻訳すると「ラダーセンサー」、
「舵角計」は「ラダーメーター」となって、どちらも一致しませんorz



操舵室はここと「secondary conn」があります。
connというのは海事用語で、操舵ですが、これは動詞でもあり、三人称単数現在形だと
「conns」となります。

うしろに「Helmusman」(ヘルムスマン)という聞きなれない言葉があるので調べてみたら、
これが「操舵する人」(ヨット用語)のことでした。
ヨットをする人、そうですよね?

ついでに知ったのですが、これに対してヨット用語で「艇長」を「スキッパー」というそうです。




天井の赤いレバーは警笛。
なぜ二本あるのかはわかりません。

写っている見学客が二人とも東洋系なのですが、野球帽の人は白髪の女性を交えた
三人組で、もしかしたら日系アメリカ人ではないかと思われました。

こちらを向いている人は、男性二人連れで、こちらは何系かわかりませんが
彼らもアメリカ人であることが喋り方でわかりました。



こちらの緑のレバーは・・・・・何だか忘れましたorz

パイロットハウスに繋がっている警報機で、何かあればこれで
総員出動体制を知らせるというものだったかもしれません。



この操舵室の横には「キャプテンズ・シー・キャビン」が備えてあります。

艦長が四六時中ここにいるのかどうかまでは聞き逃しましたが、
ここでずっと待機できるように寝台はもちろん、シャワートイレまであります。
シャワー室の中に机が見えますが、これはたまたまこのときに、
床のペンキを塗り替えたばかりだったようです。

空母は艦内が広大なので、仮に毎日あちこちをこまめに手入れしていっても、
一巡するのに何年もかかりそうですね。




そこを出てすぐ岸壁側に接した小さな部屋には、高い椅子があり、「Sさん」は
一人で参加していた女性にそこに座るように促しました。

「キャプテンになってください」

「ふーん、キャプテンの椅子って眺めが良くてなかなかいい気分だわ」

などと、なかなかノリのいい女性です。
ところでここの説明に書いてありましたが、艦長というものは一旦航海に出たら

1日18時間から20時間

艦橋にいるものだそうです。
航海中ずっと4時間〜6時間しか寝られないって言う意味ですかこれは。
それとも先ほどの仮眠室で寝ている時間も含めてでしょうか。

いずれにしても艦橋でのほとんどの時間を、艦長はこの椅子で過ごし、
航空機発着や離着岸についての指示を出します。




さて、ここは、

「Auxiliary Conn Station」(補助操舵室)略称AUX CONN

名前は補助ですが、補給のために岸壁にアプローチするとき、ここには
キャプテンを必ず含む士官が全員集まるのだそうです。
他の操舵室、メインとセカンダリーには一人だけが残ります。

なぜ着岸のときここが使用されるのかというと、おそらくですが、
岸壁に面した窓があるからではないかと思われます。



このボードは「マニューバリング・ボード」というそうです。

艦隊行動を監視し観察する操舵手、レーダーマン、ジュニアオフィサーのために
機動部隊の配置が書かれていました。

ちなみに「ホーネット」は旗艦でしたから、いつもこの中央に位置して書かれていました。



この透明ボードは、操舵室の計器と、補助操舵室の壁の間にあり、
外からだけ読むことができるようになっていて、

ブリッジ 057 レンジ 15900 タイム 1709 CRS 

わかる人にはわかるであろうこんなことが書かれております。
CPAはわかるとして、SKUNKってなんなのかしら・・。

ところで、メインの操舵室で説明を聞いていたとき、いきなり大音響で誰かの携帯がなりました。

♪フンバラパッパフンバラフンバラフンバラパッパッパー
♪フンバラパッパフンバラフンバラパーパーパーパー

おお、この曲には聴き覚えが・・いや、それどころではありません。


これだ!

Anchors Aweigh、「錨を上げて」。

1906年にアメリカ海軍中尉であったチャールズ・ツィマーマンが作曲し、
アメリカ海軍の事実上の公式歌(行進曲)となっているこの曲。 
やはり元海軍軍人さんは、着メロにもこだわっておるのう。 
見つけてきたこのYouTube、とにかくかっこいいのでご存知の方も観てみてください。

なぜか1:20に、海上自衛隊からオライオンの友情出演があります(笑)
面白いので元YouTubeでどんなコメントがあるのか探してみたところ、

●「グレイトビデオ!だけど1:20は日本のP-3で、翼にレッドライジングサンが見えるよ」

→「これはロッキードマーチンのP-3Cオライオンで、カワサキがライセンス生産してるんだよ」


●「
I found your video  Japanese Navy (JMSDF) aircraft P-3! Thanks :)」(日本人のコメント)


●「日本の飛行機がチラッと見えた(spy)ぞ」


→「ほんまや」

「墜とせ!そいつはspy planeだ!」 

 

 

というわけで、「錨を上げて」が朗々と鳴り渡った操舵室。

「あ、私の携帯です」

そういってポケットから電話を出し、皆を待たせて悠々と会話を始める「Sさん」。
まあ、ボランティアだからそれもよしとしましょう。
この曲が鳴り響いたとき(Sさんは耳が遠いので大音響だった)、
皆は何も気に留めないように振舞っていましたが、思わずわたしは小さな声で

「Nice.」

とつぶやきました(笑)

実はこのあと、ツァーは終了してしまい、前のもこんな短かったっけ、
と拍子抜けしたのですが、解説員の「Sさん」とのご縁はここで終わらず、
わたしはほんの少しだけですがこの元母艦乗りパイロットと話をする機会があったのでした。


続く。