の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

プラタート・パノムの舞踊奉納祭(イサーン・私たちの郷土)

2015年10月25日 | ナコーン・パノム
最後は踊り手全員が登場し「イサーン・私たちの郷土」と銘したイサーンの人たちの郷土愛を表現した踊りです。























午前11時3分、奉納舞踊が終わり、踊り手全員がプラタート・パノムに拝礼です。



さらに、振り返って参列者に合掌して奉納舞踊は幕です。



山門前は参列者も混じった踊りに変わります。



この一角は「ラム・シー・コタブーム」を踊ったプー・タイ族の衣装をまとうグループです。





女性たちに集まってもらい記念撮影です。








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レーヌ・ナコーンの衣装をまとった女性たちです。









以前にも書きましたが、レーヌ・ナコーンはタイ北部のチェンマイ、チェンライと並んだタイ3大美人の出生地です。遠い昔にベトナム北部からラオスに移り、近世にメコン川を渡ったプー・タイ族には中国系の血も混じり、タイ人の美の基準である色白で鼻筋が通って、うりざね顔の女性が多いようです。



仏塔に参拝してから出発です。

110kgの金が用いられた塔頂の装飾です。

扉に彫刻された菩薩像です。



プラタート・パノム近くのレストランで昼食です。ホテルも併設しているようで、一泊350バーツの表示です。次回の宿泊候補にします。


プラタート・パノムの舞踊奉納祭(ラム・カン・マーク・ベン)

2015年10月24日 | ナコーン・パノム
「マーク・ベン」はイサーンの人々の寺院へのお供え物の一種で、花やバナナの葉、農産物を用いて念入りに作られます。古代から拘留孫(くるそん)、拘那含牟尼(くなごんむに)、迦葉(かしょう)、コーダーモー(ゴーダマ=釈迦)、アリヤメートライヨー(弥勒菩薩のことか?)の五仏に供えるものでした。
パセーンティコーソン国王は古代インドの仏教時代の仏陀を信仰していました。
現在の「マーク・ベン」は三宝、すなわち「仏」、仏の教えを説いた「法」、「僧」(サンガ=僧、出家集団)に捧げるために作られます。イサーンの少数民族からは「カ・ラルーン」と呼ばれています。
踊りはシー・コタブーンの5人の王が「カン・マーク・ベン」と共にプラタート・パノムに参拝する様子が表現されています。


















































プラタート・パノムの舞踊奉納祭(ラム・タイ・ヨー)

2015年10月23日 | ナコーン・パノム
次は「ラム・タイ・ヨー」(タイ・ヨー族の踊り)です。
タイ・ヨー族はナコーン・パノム北部のター・ウ-テーン、ナーワー、ポーン・サワンに住む少数民族です。
ラム・タイ・ヨーは主にソンクラーン期間中や特別な仏教の祝祭日に踊られます。
男女がペアになって踊りますが、男性は別の女性にちょっかいを出しに行きます。しばらくは男女がコミカルに踊っていますが、女性から袖にあしらわれた男性は、また別の女性へと回っていきます。
「ラム・プー・タイ」と共通した踊りです。これは浮気性なタイ人男性の気質を十分に表現した踊りだともいえます。


























プラタート・パノムの舞踊奉納祭(ラム・ハン・ノック・ユーン)

2015年10月22日 | ナコーン・パノム

4番目の奉納舞踊は「ラム・ハン・ノック・ユーン」(孔雀の羽根の舞い)です。
ナコーン・パノムの踊りで雨安居の終わりに人々の幸福と町の安寧に感謝して踊られます。
およそ100年前、戦の出陣に舞われた剣の舞を優しい踊りに改良して、踊り続けられています。
































プラタート・パノムの舞踊奉納祭(ラム・プー・タイ)

2015年10月21日 | ナコーン・パノム

プラタート・パノムはメコン川畔のワット・プラタート・パノムに建つタイ、ラオスの人々にとっての神聖な仏教施設(仏塔)です。
仏陀が涅槃に入られた後8年目頃に、高弟プラ・マハー・カッサパによって仏陀の肋骨がプラタート・パノムに安置されました。最初の仏塔は煉瓦造りで高さ8mから12mの四方に開口部がある覆鉢型であっただろうといわれています。
何度か修復を重ねた仏塔ですが、何世紀もの経年劣化で1975年の数日間続いた激しい降雨の後で、仏舎利を納めた箱の上にある塔部が倒壊します。崩壊によって仏舎利と貴重な遺物が発見されました。
仏塔は1977年から再建が始まり、1979年に完成します。57mの威容の塔で、仏舎利と貴重な遺物は再び塔に安置されました。
プラタート・パノム奉納舞踊の始まりは、1979年の仏塔落慶を祝って舞われました。1987年からは灯明船流しの日に奉納されるようになりました。


「ラム・プー・タイ」(プー・タイ・ダンス)です。
プー・タイ族はラオスからだんだんとメコン川に沿ったナコーン・パノム、カーラシン、ムクダ―ハーン、サコン・ナコーンへ移動してきました。ナコーン・パノム南部のナーケー、レーヌ・ナコーンは最大の居住地で、青無地に赤い縁取りの服装は伝統的な儀礼用の衣装です。女性は純白のパー・サバイ(肩掛け布)を着けます。
「ラム・プー・タイ」は雨乞い儀式のバン・ファイで雨をつかさどる神「パヤー・テーン」に捧げられるほか、重要な仏教式典でも舞われます。



空は雲に覆われて、残念ながら青空を背景に仏塔を入れることができませんでした。









舞踊奉納祭は午前8時から催されていたようですが、プラタート・パノムに到着したのは午前9時50分でした。2時間も遅れてしまいました。そのため、メコン川に面したゲートから山門までの踊りながらの行進、山門前で1番目に舞われた「プラタート・パノム伝説の踊り」2番目の「ラム・シー・コタブーン」を観ることができず、「ラム・プー・タイ」の終了間際の到着になってしまいました。

「シー・コタブーン」は5世紀から6世紀にメコン川左岸からイサーン中部にかけて栄えたという王国です。