懐かしのバレエ

バレエ、パフォーミングアーツ等の感想、及び、日々雑感。バレエは、少し以前の回顧も。他、政治、社会、競馬、少女マンガ。

ラ・バヤデール

2011-04-04 17:54:17 | バレエ
※先日書いた、バレエ「ラ・バヤデール」のこと。補記。
やっぱり、あのマカロワ版の舞台は、マカロワの設定もあるけど、主役二人や周りの演技・作品の解釈で、ほにゃららな話に見えたのかも。

2幕1場で、コールド達が、振られて失意のニキヤに、やけに同情的なのも、話の水準を下げた気がする。本来ニキヤは、この場では、この集団から疎外された存在のはず。
めでたいはずの祝宴に、凶兆を運んでくる、周りから見れば、まがまがしい存在。
だからこそ、孤独なニキヤの悲劇が、いっそう観客の胸に迫るのだけど。

新国立劇場版{ラ。バヤデール」の美術:カザレット氏が、2幕の装置について、「あの伽藍は、ニキヤを閉じ込める檻ともなる」と言い、この場面の本質を言い当てている。

今回のTv放送の舞台は、そういう、ドラマの構造への理解が、欠けていると感じた。
2幕1場の最後のソロルのアップは、映さない方がましだった位。

元カノが、毒蛇にかまれて瀕死なのに、優柔不断に困った顔をしながら、気の強そうなガムザッティに引っ張られていってしまう。ニキヤへの思いがどの程度だろうと、死にそうなのに見捨てていくか?・・・と思うと萎えた。

ロホもアコスタも「お芝居を演じる」事に、悪い意味で慣れすぎているから、こういう平板な演技、発見の無い演技になってるのだと思う。全部が作り事っぽい。
口当たりのいい、予定調和的な「お芝居」としてみれば見れるんだけど、片手間でなくもう1回見ると、ソロルがますます、どうでもいい優柔不断男に見えてくるのでした。

ロホのニキヤは、1幕から、巫女の神聖さより、普通の女性を感じさせる。
うわべの演技の巧拙でなく、ニキヤが悲しんでいる事は伝わっても、ニキヤが何をどう思っているのかは、伝わりにくい。たぶん役の解釈、ほり下げが弱いのだと思う。

ニキヤが、ソロルは裏切ったと思ってるのか、ソロルを愛してると思ってるのか。
そういう事一つ一つの積み上げが、演技としては雑に感じた。

例えば、ザハロワのニキヤは、ソロルへの恨みが感じられなかった。意識的な演技ではないかもしれないが、観てて自分は面白かった。ソロルへの愛だけの、きれいな心のニキヤで、個人的には、そういう傾向は好きで、逆に男に恨みがましい系の女性像は、あまり好みでない。

グラチョーワのニキヤは、よく見てると、他者を糾弾する心が見えて、正直、リアルで考えると、こういう女性はちょっと怖いと思う時もある。

花かごに潜む蛇とは、誰かの悪意の表象だ。でも、恋して、聖なる乙女から人間の女性の心に戻ってるニキヤの心の世界にも、きっと蛇は居るのだ。グラチョーワのニキヤの心にも。
(グラチョーワ自身の意識的なニキヤ解釈とは違うかもしれないが、私はそう思ってる。)
彼女のニキヤは、ガムザッティを毅然と糾弾する。「私を殺そうとしたのは、あなたね!」と指をさす。ロホのニキヤは普通の女性だが、グラチョーワのニキヤは誇り高き神聖な乙女。

色々と、好みはともかく、バヤデールという作品が分りやすい演じ方をするプリマだった。
ロホは、グラチョーワのより、もう少し優しそうな情のあるニキヤなのだけど、なんっか、・・・。
別に、ソロルを許すなとは言わないが、なんか、舞台で起こってる事が、リアルに感じられない。胸に刺さるものがない。
全部がお芝居っぽい。所詮は、今だけのお芝居だから、男に乗り換えられても、怒らないんじゃないか、あっさり許せるんじゃないか、なんて思ってしまう。真剣な恋は、そうではない。

1幕から3幕へ向かって、ヒロインもソロルも、心の世界が成長するのだ、なんて高級な事は、及びもつかない。
2006年に見た、ボリショイの「バヤデルカ」では、ちょっと頼りなさげな心情と逞しい体躯を持ったネポロジニーのソロルは、ふらふらと金持ちの娘と結婚し、元カノを捨ててしまうが、その後後悔し、3幕で、きっちり「改心」したシーンが見えた。

そういう、心の変容や成長が語られたから、当時のボリショイの来日公演の舞台は、観てて面白かった。娯楽だけど内容が深い。
そんなネポロジニーのソロルに対し、グラチョーワのニキヤもまた、2幕では、愛を失った失意を全身で踊り、3幕の最初はしおれたお花のようだったけど、ソロルの心に、ニキヤへの愛が戻るのに呼応するように、しおれた花を花瓶にさすと、また水を吸って蘇るように、だんだんその輝きを取り戻していった。

あの、名舞台と言われた2006年の彼らの「バヤデルカ」は、その意味で、愛の喪失と再生のドラマとなっていた。
同じグラチョーワでも、ビデオになった若い時の舞台は、相手が別のダンサーで、そういう趣とは、また異なっていた。

(一方、ロイヤルは、お衣装も見所が多い。王役の人の王冠やエメラルドの指輪とか、芸が細かい。
黄金の仏像役の人は、この役にしてはハンサムで、金粉塗たくりの皮膚呼吸が困難になる踊りを、かんばって踊ってた。

どのバレエ団で誰が演じても、きもい「大僧正」。生臭坊主役。
今回、1幕で、ロホが肉体性、地上性がまさってるタイプなせいか、ニキヤに大僧正が横恋慕して、「私は神に仕える巫女です」と断ってるのに、その直後、愛人のソロルとの道ならぬ恋の逢瀬を見て、大僧正が激怒するのは、当然に見えた。ロホは、こういう所の演技の一つ一つの積み上げが、今一つなのだと思う。つまり、ニキヤにあまり共感できない。普通は、神聖な巫女の面を見せ、次に初々しい乙女の恋を、巫女の意外な一面をみせなければいけないのに。
なんとなく、ソロルとのアダージョが、肉体的な関係を匂わせすぎるせいもあるかもしれない。この作品の、このシーンで初めて、大僧正役に同情した。キモいのは不変。)

今回の舞台、2009年のコヴェントガーデン公演の方は、最後に、あんなにも優柔不断なアコスタのソロルが、結局許されて、天国で、ニキヤとめでたしめでたし(?)みたいな結末に、何か釈然としないものを感じるのは、アコスタだけの問題でもなく、ロホのニキヤの作品解釈の問題も、含まれてるように思う、って。ファンの人に怒られそうだけど、私が最初、マカロワ版の問題、と思った点は、ダンサーと振付家、両方の責任分担なのかもしれない、と思いなおした。


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