「分別をわきまえた人」
と言ったら、道理の分かる人と理解するするが、
辞書には
心が外界を思いはかること。
理性で物事の善悪・道理を区別してわきまえること。
とある。
仏教では「分別」は良い意味では使われない。
物事をわきまえようとしても、
自分の視点でしか見られない自分がおり、
煩悩の色眼鏡で物事を見た分別であります。
「無分別」が真実なる姿を示していると言われる。
こんな問答もある。
文殊菩薩「(無分別である)空を分別することが出来るでしょうか」
維摩居士「分別だって空ですよ」
文殊菩薩「空という真実は分別できないものだ」
…しかし「分別できない」ということも「分別」の一つに過ぎません」
維摩居士「分別も、無分別も、いずれも空なのだ」
ある人は三回さとったと言う。
でも、「悟る」と言うこと自体すでに「分別の世界」ですから…