気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

生きる(僕版)

2021-10-11 06:51:22 | 内奥への旅

覚園寺

 

 

 



すべてかりそめにすぎない。おぼえる者もおぼえられる者も。
遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう。

マルクス・アウレリウス

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=EPvBWdwEXZ8&t=334s

スーツ背広の動画

 

 

 例によってぼんやりとユーチューブを見ていたら、スーツ背広という人気ユーチューバーの面白い動画を見つけた。
この人は自分のツイッターに視聴者?から質問が届いたという。それは生きる意味が分からないから死にたい、というものだった。それにたいするスーツさんの返信動画が興味深くて載せてみた。

 本当に正直な人だと思った。それだけに好感を持った。世の中には自分はいい人だと思われたい、嫌われたくない、という気持ちが強いためにその裏にある本心を正直に言えず、本音の周りをオブラートに何重にも包んでしまい結局何が言いたいのかわからない、という人が多い。かくいう僕もそういう傾向から完全には逃れられずひそかにそんな自分に自己嫌悪を感じることがある。言いたい放題言っているではないかという向きもいるかもしれないが(笑)

 

 

 


日光東照宮

 

 

 

 それはともかく、この人の動画を見てたしかに真実の一面をついているなとは思った。人生の目的はコンビニで買い物をしたジュースを心から味わうため(つまりそのような日常の些事を楽しむため)……それ以上でもなければそれ以下でもない…。この考え方を否定する人は多いだろうと思う。いや違う、社会で出世栄達し将来長く人々に記憶される人になれれば、それは生きる立派な意味ではないかと。あるいは、人の役に立つことで生きる意味を見出すことができるという人もいるだろう。それもまたもっともだ。 
 

 だが、この質問者やスーツさんが言うように、どうせ自分も含めすべての人間が死んでいなくなるのであれば、それにどれほどの意味があるのだろう…という疑問はすぐに否定し去ってしまえないほどの力をもってはいる。しかしだ、永続しないということだけを理由に人生に生きる意味はないと思うのはいささか極論すぎはしまいか。

 

 

 



覚園寺

 

 

 

 たしかに、どれだけ出世栄達しても死ねば大方の人間は忘れ去られていくだろうし、どれだけ巨万の富を築いてもあの世には持っていけないし、自分の子孫がア〇であればあっという間に使い切ってしまうであろうし、相続の時は家族同士で骨肉の醜い争いが生じるかもしれない。
 どれだけの偉大な業績を残しても数百年を超えて記憶されるほどの偉大な人物になれるのはごくごくごく少数の者だけである。

 
 さらにいえば、仮にそのような偉大な人物だったとしても、この地球そのものにも寿命があるし、かりにその前に外の惑星に移住できたとしても、現在の物理学ではこの宇宙そのものにも寿命、終わりがあるといわれている。
 

 つまり、いずれはすべてが「無」になってしまうのに何のためにそんなに血のにじむような努力を……と思うのはよくわかる。

 ただ、出世栄達や偉業達成などについてはそのような虚無感がついて回るが、「誰かのために」という想いでしたことが実際に誰かのために役に立てた場合は少し違うと思う。
 たとえその人が寿命を迎えて存在しなくなったとしても、その人のために役に立てたときの、その人が感じた幸福感、喜びは「その時、その瞬間」確かに存在していたのであり、それは決して幻ではない。

 

 

 


日光東照宮境内

 

 


 その一瞬、一時、自分が行った行為、言動で誰か他者がわずかでも幸福を感じた、という事実があるならば、たとえそれがやがては「無」に帰っていくものだとしても、そこに「意味」が存在すると思える、これこそが利他的行為の最大の特色であり、最大の報酬であると思う。僕はそれを意味がないとは思わない。

 
 大きな時の流れの中では最終的には「無」になっていくとしても、僕は時間がただ単純に直線的に存在しているとは思わない。いうなら、一瞬一瞬が薄いスライスした面のように存在しているととらえている。

 いや、百歩譲ってすべてが「無」に帰結していくとしても、他者をなにがしかの形で幸せにした、あるいは、楽にしてあげられた、ということは、それ(無)さえも越えるほどの「意味」を感じさせる、としか言いようがない。


 だから、そのようなことができる意志、可能性がある間は、生きることに意味がないとは僕には思えない。
生きようという意志は、それ自体が最大の善意である、というような言葉を残したのはたしかベートーヴェンだったと思うが、音楽家としては致命的といわれる極度の難聴になり、一時は死をも考えた彼を支えたのは、このような想いであったのは、彼が遺した手記(ハイリゲンシュタットの遺書、遺書となずけられているが実際には彼の弟に送った手紙といったほうがいい)にもはっきりと現れている。


 現在手元に全文がないので載せられないのが残念だが、弟に残したこの手記の中で、彼に死を思いとどまらせたのは芸術と共に、このような他者への善意、愛である、人を幸福にするのは金銭ではない、というような言葉を彼はこの手記の中に残している。(彼の文章はもっと感動的な表現で書き表されている)

 

 


東照宮境内

 

 

 

 

 ただ、俺にはそんなことが生きる意欲につながらない、と思う人もいるかもしれない。そういう人には僕もスーツさんのようにじゃぁ……とは冗談である。
 個人的なことなのでここには詳しく書かないが、僕が「自分の」生きる意味を見つけ出せたのは、人生も後半になってからつい最近のことである。ここまで生きてこなければ見つけられなかったということである。


 それを見つけるにはそれまでの一見無意味に見える全体験が必要だった。途中で死んでいたらそれを見つけることはできなかっただろう。
それは思ってもいないところから、思ってもいない形で現れた。限りある人間の知恵では絶対に予測のできないことだった。

 

 

 

 

 

家康公の墓

 

 

 

 少々きつい表現になることはわかっているが、生きることに意味が見いだせないというだけの理由で死ぬ人というのは、人生の奥深さ、神秘性というものに対する謙虚さが足りないと思う。自分が見ている、或いは、わかっている世界がすべてではない、ということは知っておいた方がいいと思う。この世は普通の人間が思っているよりももっとはるかに多元的な世界である。

 

 生きようという意志を生み出すものはいろいろあるだろう。人間の様々な欲望の充足などはそのもっともよく言われるものだ。ただ、スーツさんにメッセージを送った人は、もうちょっと高尚な人であるらしく、すべてに終わりがあるのにそんなものはむなしいという。
 それではスーツさんの単純ではあるが真理の一面を見事についた結構鋭いアドバイスに素直に耳を傾けるか、もしくはそれすらも彼に生きる意味を与えないとすれば……

 

 

 

 

 


東照宮境内

 

 

 

 僕にはスーツさんのように厳しい言葉を投げかける勇気はない、ないが、甘い言葉も与えられない。
ある意味では死ぬより苦しいと思えるような言葉、つまり苦しくとも、むなしくとも、靴が擦り切れてはだしになりそこから血が噴き出してきてもこの世の道を歩いていきなさい、というよりほかはないかもしれない。

 

 というのも、生きる意味は、生き続けることによってしか見いだせないと僕は思うからだ。
僕はそうやって今まで歩いてきたし、これからもそうやって歩いていくほかはないと思っている。僕は僕の経験からしかものをいうことができない。
 ただ一つだけ確固としたことが言えるとすれば、それはベートヴェンがあの手記の中で述べているように、人間を最も強い力で支え、生かそうとする力は、「金銭」やそれに付随する名誉や栄達ではなく、善、善への意志であるということである。それは彼の作品、交響曲5番、7番や9番などに音楽として凝縮、顕現している。我々人類はどれだけこれらの作品に勇気づけられてきたか……そしてそのことをベートヴェン自身が知ったらどれだけ喜んだか。(もちろん知っているはずである)
 僕らは毎年末、何も考えることもなく交響曲9番を聴き流してはいけない。あの曲とハイリゲンシュタットの手記は、ベートーヴェンからわれわれ一人一人に与えられた非常に非常に大切なメッセージである。

 

 それと、生きる意味を考えるうえでどうしても我々が忘れてはならないのは、「永遠」という観点から俯瞰的に自分自身を見るということであろう。
僕が「霊的な俯瞰から」という記事にも書いたように、僕らは現世だけに生きているのではないということを忘れてはならない。
 とまたこのようなことを書くと、眉に唾を塗り始める人もいるかもしれないが、僕も単に書物から得た知識だけであれば、ここまで自信を持っては言えない。


 書けば長くなるので書かないが、ぼくも30代前半ぐらいまでは唯物論者だった。神や仏など本当にいるのか、と思っていた節がある。
しかし、そういう世界、存在が存在することを信じざるを得ない神秘的な体験を30代半ばからいくつかすることによって、これは信じざるを得ないなと思うようになった。


 それと、それをまるで傍証するように様々な世界の宗教書やサイキック(いわゆる超能力者)たちの著作を読んでいくうちに、時代も(数十年から数千年の違いがある)、文化的、歴史的な背景も、国籍も異なる人々が説いていることにまるで事前に示し合わせような『共通項』があるのを知るにつけ、これは信じる以外にない、論理的に考えれば考えるほど信じざるを得ないと考えるようになった。


 なので、スーツさんや彼に質問を寄せてきた人が思っているように、死んだらすべておしまいなのではなく、死んだ後も、生まれる前も、ずーっと永続する(してきた)存在であるということは、どうも間違いない。僕自身の実体験からも、世界的に名を遺す先達の言葉から推し量っても、そう考えなければすべてのつじつまが合わないのだ。


 つまり、狭い現世だけを見て自分の人生に意味があるかないか、などということを考えるのはナンセンスであるということである。
僕らが知り、そして、目指さなければならないのは、僕らの魂が存在する意味、目的なのである

ベートーヴェン交響曲第9番

 

 ハイリゲンシュタットの遺書の全文をようやくネット上で見つけた。
https://kazuhisakurumada.com/youtube/heilgenstadt-testament/
 この中で僕が最も大切だと思う部分を抜粋したい。

そして私が自分の人生を終わらせるまであとほんの少しであった。芸術だけ、芸術だけが私を引き止めてくれたのだ。』

『神よ!あなたには私の心の中が見えている。分かっておられる。そこには人類への愛と善行への愛着がある事をご存じのはずだ。』

『カールよ、お前には特に、ここ最近私に対して示してくれた態度に感謝したい。私の望みはお前たちが私よりも良く、心配のない人生を送る事だ。子供たちには美徳を教えるのだ。美徳だけが幸せにさせてくれる。決してお金ではないよ。これは私の経験から言っているものだ。私を惨めな生活から救ってくれたのがまさにそれだからだ。私の人生が自殺によって終わらなかったのは芸術と美徳のおかげなのだ。さようなら。互いに愛を忘れずに!』


 
 

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霊的な俯瞰から

2020-09-29 08:39:11 | 内奥への旅

 

 

 

 まず近況から書き込むと、先週中華街に行ってきた。
当初は鎌倉に行く予定だったのだが、出かけたのが遅くなったので急遽横浜の西洋建築の建物をとってみたいと思い、あのあたりをぶらぶらしているうちに中華街にたどり着いたので寄ってみることにした。

 結果的にみるとこれが大正解だった。
昼間に見るとそうでもないものでも、暗くなってからイルミネーションに照らし出された建物や街の風景はまた独特の美しさを生み出していた。
特に横浜は古くからの港町で洋館なども多い。残念ながら山手のほうまではいけなかったが、それでも数枚はいい写真が取れた。

 
 さて、今回もエドガー・ケイシーのリーディングの中の一例を紹介したい。
今回のケースはカルマのシステムというものが実に微に入り細に入り巧妙にわれわれ人間の人生を形づくっているということについての好例である。

 ある夫婦の非常に興味深い、数世紀に及ぶ転生の物語(とはいえこれは実話であるが)である。
この本(転生の秘密)の文面を読む限りでは、まず妻のほうから健康上の相談をケイシーに持ち掛けたらしく見える。

 この夫の妻は夫と結婚した時は23歳の美しい女性であった。
著者の言葉を引用すれば

 

 『美しい茶色の眼、顔のまわりにゆったり波打っている美しい濃褐色の髪、すらっとした美しい容姿など──これらは彼女に女優のような外貌を与えていた。ケイシーからリーディングを受けたときは41歳だったが、そのときでさえレストランで人に振りかえられるほどの魅惑的な美を持っていた。』

 

 ということである。そしてこの美しさがこの二人の悲劇性を余計に増しているのだった。というのも驚くべきことに彼女はこの夫と結婚して以来18年間ずっと夫の性的不能に悩んできたのだった。

 ではなぜ彼女は18年の間離婚に踏み切らなかったのかということがまず頭に浮かぶが、それは著者によれば「彼女は夫を愛していたから」ということである。もちろんそれだけではなく、そもそもこの二人は数世紀に及ぶ輪廻を共に繰り返してきた間柄であり、そのこと自体からくる理性的には理解しがたいある種の特別な「絆」があったからだと考えるのが自然だろう。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのような二人の結婚生活は18年の長きにわたって続くのだが、あるときこの夫婦に決定的な危機が訪れる。
彼女の幼馴染で子供の時から彼女に思いを寄せてきた男性が突如再び彼女の前に姿を現したのだ。この時のことをつづった彼女のケイシー宛の手紙がとても興味深く、また、美しいと僕は感じたので載せてみたい。

 

 『私たちが再会した瞬間、彼の心に猛烈な勢いで情炎がもどってきました。そして私も反応しました。私たちはそのまま別れようとしました。けれど私は自分の健康が神秘学の研究を始める前のように衰えてゆくのを発見しました。
  私は彼が結婚していなかったら、彼と関係を結ぶことを躊躇しなかったでしょう。私は、あなたもご想像になると思いますが、いろいろな理由で夫と別れるつもりはありませんでした。それに彼(夫)は非常に立派な人格者になっていましたので……

 この男(幼馴染の男)に対する私の感情は多分愛情ではなくて、私の結婚生活の特殊な事情によるものです。でもこの人も立派な人物なのです。
彼は子供のころから私を好きだったのです。私のほうは知りませんでしたが、彼の母から聞いたのです。彼は妻を養うことができるようになるまで、私に知らせませんでした。

 しかし、その時はすでに遅かったのです。というのは、現在の夫との婚約を知らせに私がちょうど家に帰ったところでしたから。この特殊な事情が私にカルマを招き、三回にわたる私たちの前世につきまとっているのです。

 私は時折彼と密会しました。それは、一つには彼が身も心も八つ裂きになっていたからです。また他の理由は、そうすれば彼の欲望がいやされるだろうと思ったからです。彼は心理的に浄化されたいという欲望を持っていましたから……
 しかし、私はそれも途中でやめてしまいました。彼の妻を裏切りたくなかったからです。私は彼の妻を知っていましたし、彼女が好きでした。私は彼女の邪魔をしたくありませんでした。

 社会は私の行動を非難するでしょうし、彼女がそれを知ったらとがめることはわかっているのですから、私はだれも傷つけたくありませんでした。
~中略~
 私の夫は、私があなたに健康上の助けを求めていることは知っているのです。しかし、彼はこの事情は知りません。』

 


 この問題はこれだけを読むとどこにでもある不倫(未遂)のように見えるが、実は実は、この手紙の中で彼女自身も言及しているように、その遠因は二回前の前世にさかのぼるのである。

 時代は中世のヨーロッパで、その時の彼女の名前はシュザンヌ・メルシュリュー。その時の夫も現在の夫だった。(もちろん前世なので現在の夫と同じ魂の人ということ)時代は十字軍全盛であり、その時の彼女の夫も情熱的にその運動に打ち込んでいた。
 さて、十字軍というと遠くヨーロッパから中東までの遠征軍である。当時その遠征軍に参加する男たちの唯一の心配事は彼らの妻の貞操であった。

 そのため、彼らは貞操帯という道具を妻に装着して遠征の旅に出た。貞操帯というのは女性の体に装着する道具で、それをつけている間はほかの男と肉体関係を持つことができないというものだった。

 リーディングの言葉をそのまま引用すれば、『この人は伴侶から疑われ、他の男との関係を防ぐためにベルトを無理やりにつけさせられた妻たちの一人である。』そのため、メルリシュー夫人は『いつかそれを取り外して姦通をも…』と考えたという。リーディングによれば『貞操を強制されるような状態に置かれたために、この人はためにならぬ決意をするに至ったのである。したがって、このことがこの人の現在の経験の一部になったというのはひとえに身から出た錆というものである。』

 あいかわらずケイシーのリーディングの言葉は痛烈である。(リーディング中に話しているのはケイシーその人ではなく、催眠中のケイシーの口を使って話している存在のことである)

 

 

 

 

 

 

 

 ここまで読んで察しのいい人であればわかると思うが、妻を疑い無理やり貞操帯をつけさせたその夫の行為が、現在の人生の彼の状態(性的不能)を招いているのである。
 
 ただ一つ腑に落ちないのは、この女性はあくまで身勝手な夫の犠牲になっただけであり、[すくなくともこの二回の人生に関する限り、あるいは表面的にあらわれる彼女の行動に関する限りは]、なにも悪いことはしていないようにみえる。それなのに二回の人生にわたって性的欲求不満の人生を送るようになったのは、あまりにも過酷ではないかと思える。

 ところがサーミナラ博士の叙述を読むにつれて、その彼女自身も夫からされたことに非常に強い怨恨と復讐の念を持ったということがわかってくる。ここがカルマのメカニズムのおそろしいところなのだが、かりに実際に復讐をしていなくても、心の中でつよい恨み、怨恨の念、憎悪を抱いただけで数回の人生に及ぶカルマとして自分の人生に深く影響を与えていくということをこのリーディングは明示している。

 それに関してサーミナラ博士は次のように述べている。

 

なぜなら罪は外的行為のみから成り立っているのではないからである。それは、意図、動機、心的状態、霊魂の態度から成り立っている。この夫人は不当に拘束された。彼女への不信に対するこの女性の反応や、それが意図した獣的計画は執念深さと憎悪から生まれたものである。この憎悪と復讐心はわれわれの知る限り何ら具体的行動へとは表現されなかった。
 しかし、だからといって復讐への決意がそれだけ弱まったわけではない。

 われわれはさきに、霊魂によってなされた決意はどんなものでも何世紀も持続することを見てきた。この女性の〈姦通をも〉の決意はそうする十分な機会を与えられたのである。
 彼女はこの上もなく美しく限りなく好ましい女性に生まれついた。

 彼女は前世で彼女を虐待した男と結婚している自分を発見した。嫉妬で彼をきちがいにし、友人たちの面前で彼を辱め、離婚によって彼を叩きのめしてやることのできる充分な機会を持っていた。~中略~ほこりやかな意気揚々たる復讐をかちうるのに、これ以上おあつらえ向きの環境があるだろうか。この環境は、激怒と怨恨の絶頂にあった彼女がかつて心に描いた、念入りな悪意ある復讐の成就のように見えるではないか。

 しかし、彼女はそれまでの間に、霊的に成長していた。

 彼女はもはや人に不親切をする気になれなくなっていた。彼女の手紙には彼女の思いやりが一貫して現れている。彼女は戻ってきたかつての愛人を関係を持つことができたかもしれない。それは夫に秘密にしておくことのたやすい関係であった。
 しかし彼女はその男の妻を傷つけたくなかった。彼女のほうはたやすくそれにきずいてしまうであろう。彼女は控えた。彼女の肉体と感情の健康さは何らかの形で性的表現を要求していた。

 しかし彼女は夫を愛していた。彼女は彼を離婚しなかった。彼女は自分の性欲と美と若さを忠誠と献身の情にささげたのである。
リーディングの言うようにそれは正しく身から出た錆であった。つまり彼女はそのような環境に置かれることによって自己のカルマの償いをしているのである。
そして6世紀前に自分自身に課したテストをパスしたのである。』                       
                                                             太字は筆者


 


 

 

 

 ここまでよんできてどうだろう…ある種の戦慄に近い感覚をおぼえないだろうか。
僕らが普通理解しているカルマの法則とかいうものは、自分のやったことは自分に返ってくる、という非常に漠然としたものでしかないはずだ。

 ところが、この事例(ケイシーのリーディングとして今でも実際に記録されている実話)にみられるように、自分の犯した行為というものがこれほどまでに、実際に実行に移したものは言うまでもなく、実行しなくても心の中でつよく抱いた感情までがこれほどまでに微に入り細に入り、カルマとして実に数回の人生にわたって、英語で言えばまさにUnfold、展開、現実の人生として現象化(物質化)するものであるというのは……正直ぼくもこの本を今回読み返してみるまでは知りえなかった。

 僕ら普通の人間は普段、何かを考えるときや何かを行う時、それが誰も見ていないときや心の中でひそかに思うときは、文字通り誰も知りえないこととして行っているだろう。しかしこの事例は、文字通りどのような行動も、どのような思考も、神という言葉が適切でなければ、より高い次元の存在たちにはすべて知られているということをはっきりと示している。

 あらためてぞくぞくっとするほどの戦慄をおぼえないではいられない。

 この事例の中でもう一つ僕が注目するのは、サーミナラ博士の文章の中にある「彼女はそれまでの間に霊的に成長していた」という言葉だ。
夫の不能に悩みそれを乗り越えるのに、様々な「神秘学の研究や、瞑想の行」を行ったことが彼女の霊的な成長に大きく寄与したであろうことは想像に難くない。

 それゆえ、彼女は自己の中にある数世紀にも及ぶ怨恨と復讐心を乗り越えることができた。つまり、自己のカルマを乗り越えたのである。
僕らはそれぞれさまざまな文字通り数世紀あるいは数千年に及んでつづくカルマを持ちながら生きているのだろう。その過程でおそらく何回も落第し、落第してはまた生まれ変わり、また落第して……それを何度か繰り返したのち、この女性のように苦悩の中で自己の霊的成長を十分に成し遂げて、己に課された霊的課題を乗り越えていくのであろう。

 そう、霊的成長、そのために僕らはなんどもなんども輪廻転生という本当に長い長い旅をしているのである。
ぼくはそれをおもうとき、すこしためらいをおぼえるが、しかし決して委縮はしない、何度転んでも上を向きまた立ち上がり歩いていこうという気になる。なぜかというと、僕はこの事例を読んで、恐怖よりもむしろ鼓舞、励ましをおぼえるからだ。

 今自分が直面している人生がどれほど困難であろうとも、それには霊的な意味があるのであり、それを乗り越えることによってさらなる霊的な高みに達することができるということがわかるからである。一度それに目覚めると、希望、勇気というものが自分のなかに生まれてくるのを感じる。
 しかも見えない世界からの支援、ガイド、導き、というものが様々な形で(たとえそれが僕らの眼には偶然に映ったとしても)僕らを導いているのである。それがこの女性の場合であれば、苦悩の中で出会った神秘学の研究や瞑想であり、そのような体験やきっかけに僕ら一人一人も注意深く生きていれば、気づくことができるはずである。

 それらのことを知った時、僕らの目の前にある苦悩、悲劇、挫折、絶望といったものが、全く別の相貌、意味を持ち始める。

 

 

 

 

 

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困難の意味ということ

2020-09-01 07:18:28 | 内奥への旅

 

 

 

 

 職場で険悪な関係になっている同僚たちがいる。
最近そのはざまに立ってつらい立場にいる人とそのメールのやり取りをした。

 僕がやがて自分の経験からお互いに分かるときが来るでしょうと書いたら、その二人はもう50~60代なのでその人はもうそんな時間は残ってないよといった。僕はこの一生で間に合わなければ、来世かそれでも気づかなければその次の来世で気づかされるでしょうと書いた。
 そのひとはそういうことをまんざら否定する人ではないので、そのメカニズム(カルマのメカニズム)について僕の知っている限りのことを説明した。

 そのトラブっている二人はたぶんこの人生で初めてトラブっているのではなく、前世かその前の何回かの前世で同じようにトラブっているはずであり、彼女たちはそれでも自我強く、自分の非に気づかず相手を責めるばかりだったので、何度も何度も同じシチュエーションを生まれ変わるたびに繰り返しているのですよ、しかも同じ相手(肉体は異なるのでわからないが魂は同じ相手)とと書いた。

 そのはざまにたっている人は、いまも言ったようにあながちそういうことを頭から否定する人ではないため、そのことをそのトラブっている人に説明したらしい。だが…その後のその二人を見ていると、その僕が言ったことは彼女には何の影響も与えていないようだった…

 



 



 

 

 


 もちろん普通の人がいきなりそんな話をされても、?なんか宗教にでもはまってんの?となるだけであり、そんなことよりも悔しい、自分は被害者だ、という想いにだけ支配されてしまい現状は何も変わらないだろう。
 普通の人々のために少し説明すると、カルマや輪廻転生というのは今ではもはや特定のカルト、特定の宗教、特定の文化、国とはかかわりなく、精神世界系の世界では普遍的なもの、常識的なものとして世界的に受け入れられている。

 このことがあって僕はやはり近世になってカルマや転生というものに関する知識を広く世界に普及させることに貢献した偉大な人物について書かれた本を思い出しもう一度読んでみた。それはジナ・サーミナラというアメリカの哲学博士がエドガー・ケイシーの様々なリーディング(彼がクライアントを診たときなどに残した言葉)を分析した「転生の秘密」(Many Mansions)という本である。

 これはとても興味深い本で、もうずいぶん前に読んだ本だが今回また読んでみてまた新たな感銘を受けた。その事例を一つ紹介したい。

 それはケーシーが、ある得体のしれない(病名のわからない)病気にかかっていた34歳の電気技師の相談を受けたときに残したリーディングである。
その病気はかなり深刻で、彼は3年間働けず、目がかすんで読むことも書くこともできなくなり、時々歩行も困難になるほどだった。
 彼のリーディングにはまず医学的用語で病理学上の説明がなされ(ここで注目すべきはエドガー・ケーシーその人には医学的な教育を受けた経験は全くないということ。そのひとが非常に正確に医学の専門用語を使って話しているということだ)、その病気がカルマからのものであるから、心の持ち方を変えて憎しみや敵意を意識から完全に取り除くように、との勧告がなされ、最後に治療法に関する入念な指示を以て終わっている。

 それから1年後、彼から再びリーディングを受けたいとの手紙をもらい、それには指示通りの治療を行ったところ、すぐに回復の兆候が表れたのだが、4か月ぐらいするとまた症状が逆戻りして体力の衰えが現れたということが書いてあった。それに対するケーシーのリーディングの内容が興味深い。

 

『そうだ、この体は前にも見た体だ、なるほど体の中の肉体的な面はだんだん回復してきた。しかし、まだまだしなければならないことがある。前にも言ったようにこれはカルマから来たものである。隣人や物事に対する本人の心の態度を変えなくてはだめだ。
 機械的な手段(医学的な治療)を肉体面の匡正に用いた限りでは、回復は表れている。

 しかし本人があまりに自己満足し、あまりに自己中心的で、霊的なことを拒否してその態度を改めないならば──また憎しみや敵意や不正や嫉妬がある限り──また忍耐や長期の苦しみや隣人愛や親切ややさしさと矛盾する何かが心の中にあるかぎり肉体の治癒は望めない。

 この人は何のために病気を治したいのか、自分の肉欲を満足させるためか、ますます利己主義になるためか、もしそうなら今のまま治らぬほうがよいのだ。

 もし心の持ち方や目的が変わり、口にも行いにも変化を表すならば、そしてそのうえで指示したような物的療法を行うならば本当によくなるであろう。
 
 
だが、まず心情と精神と目的と意図を変えなくてはならない。あなたの目的とあなたの霊魂が聖霊の洗礼(比ゆ的な表現で良心に目覚めるという意味であろう)を受けないならば、あらゆる機械的療法(医学療法)を用いても完全な回復は望めないであろう。この勧告を受け入れるか拒絶するか、それはあなたの心しだいだ。

 あなたが償いをしないならばリーディングをしても無意味である。もうこれで終わる。』

 

 ズバッと一刀両断という感じである。特に最後の厳しい言葉を読むと、僕の眼からはこの人物はかなり品行の悪い人であることが想像できる。
次に、サーミナラ博士の言葉を載せたい。


 『ここで注目されるのは、意識の内容や人生における霊的目的を変えるならば治る見込みはあるといっていることである
~中略~このあからさまな叱責の言葉には、名医の総合的人間観が現れている。~中略~しかしこの例のように、彼がいかに憐れみを持っていても、その病気がその人の道徳的矯正という目的を持っており、その病気の原因である道徳的欠陥を治さなければならぬことを指摘せざるを得ない場合も多くあるのである。

 病気に悩むものは、できえる限りの方法を用いて、それを治すことに努めなければならないが、同時に彼の霊魂の内的欠陥を矯正するために人生が彼に与えてくれたきっかけをしっかりつかまなければならない。
 自然の宝庫や現代医学の生み出した妙薬によって一時的な病気の回復は得られるかもしれないが、カルマという道徳的な力の前には、これらも結局は無力なのである。

 つまるところ、治療は内部から霊的にもたらされなくてはならない。でなければ長くは続かないのである。』

 

 僕の個人的見解ではすべての病気にカルマ的な要因があるとは思わないが、そういう要因から生まれる病気もあるということは十分想像できる。前々から思ってきていることではあるが、僕らが病気に限らずこの世で経験する困難には「なんらかの遠因」があるということである。僕らが目覚めなければいけない何かがあってそれらを経験している可能性が高いということである。

 仏陀ご自身もおっしゃっているように、「私がこれほどまで長きにわたって輪廻を繰り返してきた」理由(仏教用語でいえば因縁)があるということであろう。
 
 このリーディングを普通に読んでしまうと気づかないかもしれないが、自分の内面の過ちに気づきそれを変えることで病気の症状までが癒されてしまうということ。つまり、「カルマから来ている病気の場合」そのひとの肉体的な疾患と人格的、霊的な状態とこれほどまでの強い相関があるということだ。いうまでもなく現代医学ではこれらの相関の存在は認められていないが、ケーシーのリーディングではそれがはっきりあると述べられている。

 僕がこの本を読んで一番強く感じたことは、自分でやったことの責任は『いつかは』自分でとらなければならない、ということである。それが今世であるか来世であるか、そのまた先の来世であるかはわからない、だが、『いつかは必ず』自分でとらなけらばならない、ということである。

 このことを思う時「復讐するは我(神)にあり」という聖書の言葉があるが、わざわざ自分が復讐しなくても、やがてはその人自身が自分自身を罰するときがやってくるということであり(自分ほど厳しい裁き人はいない、といったドロレス・キャノンの言葉を思い出す)、そういう意味ではバランスはとれているのかなと思うし、表面的に見えるこの世の理不尽さもある程度は飲み込めるような気になる。

 ケーシーのリーディングを読んでいて思うのは、僕らは自分の行為にたいして非常に重い責任を負っているということだ。旅の恥は掻き捨て的な生き方は絶対に出来ない、許されない、ということである。そう思うと毎日、毎瞬の自分の行いに対してもっと注意深くなる。そして、これが重要な副産物なのだが、上に述べた「復讐するは我にあり」的な霊的法則というものが存在するということを知ることで、他者に対して寛容になれるということであろう。

 このほかにもう一つ気づいたことがあり、そのことは機会があれば書きたいと思う。

 

 




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叡智

2019-12-17 05:29:47 | 内奥への旅

 紅炎 

 

 上の写真はスマートフォンでとったものだが、これではカメラが売れなくなるわけだと思う。(ChromeではなくMicrosoft Edgeでみるとよりきめ細かく見えます)スマホでこれだけの精密な写真が取れるなら、初心者や中級者でさえ、わざわざ何十万円もする高級カメラを買う人はすくなくなっていくだろう。確かにスマホではしっかりとホールドしずらいので手振れの危険はある、でも、それもこれからの技術の発展しだいでは非常に高精度の手振れ補正機能が付いたスマホカメラが登場してくるのもそう遠くないと思う。
 そういうスマホが出てきたら…さらに高級カメラの売れ行きは落ちていくだろう。

 いまカメラメーカーの売り上げはかなり落ちているみたいだが、これからどうするのだろうと心配になる。
僕はもう数十年前になるが、初めてガラケーにカメラが付いたときから、これはいわゆるコンパクトデジカメといわれる大衆向けのカメラは売れなくなっていくなと思っていた。(同時に時計や書籍も携帯で代用されるようになるだろうと思っていて、当時それを人に伝えたら即座に否定されたのを覚えているが、今果たしてその通りになっている)だが、当時の大手カメラメーカーはほとんど何もせずそれまでの路線を歩いてきた。あたかも性能のいいカメラを作れば当然の結果として売れていくとでも言わんばかりに。

 メーカーがいわゆる高級カメラを作れるのも、そのすそ野にある大衆がエントリーカメラを買ってくれるからこそである。その上の高級カメラを買う層はあくまでユーザーの中では少数派の層にすぎない。その少数にのみ目を向け続けてきたことの失敗だろうと思う。
 今まで通りのことが続いていくはずだ、続いていってほしい、という人間心理の陥穽に完全にはまってしまった。

 やはりあの時点で、カメラメーカーは畑違いではあるが勇気をもって携帯機器製造にふみだすべきだった。
僕はこう云う時いつもアップル創業者のスティーブ・ジョブスを思う。千里先を見通す先見の明を持ち、常識を覆す革新的なことを勇気をもって果断に実行できるかれならばやっただろうと。

 これからは少数の既存のハイエンドデジカメユーザーを各メーカーが取り合う熾烈な戦いになるだろうが、非常に少数の椅子を取り合う椅子取りゲームになるだろうから生き残りは本当に大変だろうと思う。ただし、すでに高級カメラも作りスマートフォンもつくっているソニーやパナソニックが圧倒的に有利であるのは動かしがたい。
 

 さて、話題は変わって今読んでいる本のことを書きたい。
それは五木寛之の「迷いながら生きていく」と題された本で、そのなかで心に触れるものがあった。

 彼は終戦を朝鮮半島の平壌で迎えた。この本の中の「自分なりの『生きて死ぬ』物語を持つ」と題されたところに以下のような文章がある。

 『そんなある日、大雨で増水した大同江(テドンガン)を向こう岸まで泳いで渡ってみようと思い立ちました。無謀としか言いようがありませんが、当時の私は、無鉄砲な冒険にかけてみたいという衝動を抑えることができなかったのです。
 黄色く渦巻く川の流れに、私は飛び込みました。見た目以上の急流で、途端に下流まで流されそうになりましたが、どうにか岸に這い上がりました。そして日が暮れるまで、その濁った川の流れを、唖然と眺めていました。すると、自分がその大きな流れに吸い込まれるような、そしてどこまでもともに流れていくような、異様な感覚を覚えたのです。

 あの時、私が感じたのは恐怖だけではなかった。自分という存在が、目に見えない大きなリズムの中に溶け込み、無限に延長していくかのようで、奇妙ですが、決していやではない感覚でした。思い返すと「大いなるもの」「運命の力」といった大きな流れを自覚したのは、この時が初めてだったような気がします。

 その時の実感からか、大いなるものに還ることについて、不思議な安堵感を覚えるのです。大いなるものに溶け込んで、「私」が消滅することには、恐怖感はありません。
むしろ、母なるものに還っていくという仄かな喜びがあります。

 もちろんこの物語は、真理に近いのか遠いのかもわからない。私の空想にすぎません。
しかし、「どう生きればいいんだろう」──道を見失い、立ち止まってしまう時、私はこの物語の最中(さなか)にいる自分に思いを馳せます。
すると、少しだけ我に返る。そして、自分が見失って、わからなくなっているだけで、道は確かにあるのだということを思い出すのです。


 そして最終章の「わが計らいにあらず」と題された文章へと続く。


 『~前略~40代から50代にかけては、いつもぎりぎりで生きていました。体のどこかしらに問題を抱え、ともすると絶望の淵に漂ってしまう弱いこころをどうにか保ちながら、生き延びたのです。
 「他力」という言葉が、しきりに身近に感じられるようになったのは、その頃だったと思います。歩かなくてはならないのに、腰痛で一歩も歩けなくなった時も、頭痛で何日も眠れずに、苦しみのあまり絶望した時も、何かそういうものがあるような気がして、思いとどまるものがあった。
 どんなに願ってもどうにもならないことが、まるでふっと軛(くびき)を外されたように動き出す時に、私はどうしても大いなるもの、つまり、「他力」を感じずにいられなかったのです。

~中略~

 この「本眼力」、つまり「他力」は、自分の力ではどうにもならないような時、船の帆を揺らしてくれる風のように、さっと吹いてくれるもの、いつ吹いてくれるかもわからない。しかし吹くべき時に吹いてくれる、大いなるもの。そうしたある種のエネルギーとして私はとらえているのです。

~中略~

 「わが計らいにあらず」。浄土真宗の宗祖、親鸞の言葉ですが、いつも私の頭に響いて、消えません。この言葉には「向こうからやってくる力」の気配がある。「新しい世界」(五木のいうこれからやってくるの世界のこと)にも、他力の気配を感じます。この新しい世界で、私は何が正解なのかと悩みつつも、必死に生きて、その時を迎えるのでしょう。
 なるようにしかならない。しかし、自(おの)ずとなるべきようになるだろうと思います。』
                                                                                太字への変更は私 


  この最後の一文、「なるようにしかならない。しかし、自ずとなるべきようになるだろうと思います。」という一文に強い力が込められているのを僕は感じる。
彼は自分で言っているが浄土真宗を信仰しているわけではないそうだ。それなのになぜ、このような確信に近い言い切り方をするのか…それは部分的には上に書いた終戦の時、中学一年の時に体験した「不思議な」体験と、その後の彼がたどった幾多の苦難を乗り越えてきた折々に体験的に感じ取ってきた経験から生まれるのだろうとおもう。しかしそれだけではおそらく説明できない。

 思うに彼は、特定の宗教を信仰しているわけではない(と思う)が、なぜかこのような「自然な信仰心」のようなものを持っている。それがなぜなのかはぼくにはわからない、ただ、その理由の一つは明らかに彼が生来持っている叡智のたまものであろう。特定の権威を持った教団や人物の教唆ではなく、自然にかれはここにあるようなことに気づいたのであろう。

 僕はここにこの人の偉大さを見る。
 

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洋の東西、国家、人種、宗教を超える普遍的真理

2015-05-31 21:54:09 | 内奥への旅



 僕の教会で発行されている新聞の過去のものを読んでいたら、とても興味深いものを見つけた。


 『神、直使にすがっていれば、まずはかなしい運命実体が出ないように、偉光のなかで抑えていただけます。
 そして、自分自身の心得違いをざんげし、わびながら、神の教えを守って暮らす努力をしてゆくところに、浅いものから少しづつ悪い因縁が断ち切れ、よい運命が引き出されていくのです。

 悪い因縁を断ち切るには、何か月、何年と時がかかるものです。
子孫に残さないように、生涯を通して祈願し続けなくてはならない。代々流れる深い因縁もあります。

 しかし、いかに悲しい運命実体であっても運命の神にすがり続けていれば、必ず開運していただけるのです。』



 まず、「運命実体」とは教会の言葉で、仏教的な言葉に直せば因縁(カルマ)とでもいえるだろうか。「偉光」とは神の力のこと。
この文章の中で僕の気を引くのは、「浅いものから少しづつ悪い因縁が断ち切れ」という部分である。

 霊的真実・法則に興味のない人、知らない人が読むとなにがなんだかわからないと思う。
僕らは普通、自分の人生は自分の完全な自由意思で生きていると思っている。
ところが、霊的真実の観点から言うと、それはそう思わせられているだけで、じつはその人その人固有の過去世から今世にまで至る因縁・カルマによってその人が今世でどんな人生を歩むかが、大まかには決められている。

 よくスピリチャルな世界の人がこの世に偶然はない、すべては必然、というがそれである。
職業を選ぶときも、結婚相手を選ぶときも、友達を選ぶときも、自分の自由意思で選んでいるように見えて、実は運命の意図に操られた結果「選ばされている」というのが、霊的世界の観点から言うと真実に近い。

 ここでいう「悪い因縁」とは、たとえば、どんな仕事を選んでもなぜか人間関係で悩み長続きをしないとか、選ぶ仕事がすべて劣悪な環境な職場だったりとか、結婚相手であれば、なぜか遊び人を選んでしまうとか、友達だと悪友ができてしまうとか、最も具現化しやすいのがやはり人間関係であろう。
 嫌な上司がいるから転職しても、なぜか新しい会社に行っても「同じような上司、同僚」が現れるとか。

 要はそういう人がいる会社を、自分で選んでいるように見えて実は運命(カルマ)の糸によって「選ばされている」のである。
この真理を知ってしまうと、ぶるぶるっと震えが来るほど僕などは恐ろしくなる。
しかし、どうもこれは真実らしいと云う事が、さまざまな書籍や古今東西のスピリチャルな分野にいる人々の云う事を聞いているとわかってくる。

 それらの人々は生きている時代背景も文化も異なるし、国も、宗教も異なる、特に現在では特定の宗教に属してない人も大勢いる。
それだけ多岐にわたる背景を持っている人々が言っていることに、ある種の共通性があって、ここにあげた因縁(カルマ、因果応報)の霊的真実もその際立った共通事項の一つである。

 時代も、文化も、宗教的背景もみんな異なる人々がいっていることに、これだけの共通性があると云う事は、それは「真実」であろうと類推するのが論理的な思考だと思う。

 僕がこの僕の教会の新聞に書かれた文章を読んで、ある種の畏れ(おそれ)に近いものを感じながら思うのは、「浅いものから」という言葉である。
ということは僕らにはもっと「深い」因縁(カルマ)というものを持っているということを示唆している。
 さらには「代々流れる因縁」という言葉まである。

 よくあの家系ではなぜか悲劇が続く、と思うような家系というものがある。逆にいい因縁というものもあり、なぜかあの家系の人々は幸運な人が多いという家系もある。
まぁ、そういうことを考えるとちょっと怖くて生きていられなくなるが、どうもその背景にはこういう真理があるらしい。

 そしてこの因縁があるために、それを断ち切るために僕らは何回も輪廻を繰り返さなければならない。
ではどうやってそれを断ち切れるのか、というと、「自分自身の心得違いをざんげし、わびながら、神の教えを守って暮らす努力をしてゆく」しかないと云う事が書いてある。

 この部分もまた、とりわけ仏教で説かれていることと全く一緒である。それが神であるか仏であるかの違いでしかない。
そして西洋でも20世紀最大のサイキック(超自然能力者)といわれているアメリカのエドガー・ケイシーも全く同じことを説いている。
彼はキリスト教徒であり、彼が催眠状態にいるときに降りてきた言葉の主も、僕はキリスト教的世界の存在だと思っている。
 そして、僕の信仰している神は日本の神であり、言うまでもなくブッダは2500年も前のインドの人である。

 そしてさらに興味深いのは、この霊的真理というのはなにもブッダが最初に発見したのではなく、彼が修行した古代インドの宗教、哲学界ではすでに広く説かれていた教えであると云う事である。

 つまり、洋の東西、時代の古い新しい、地理的な場所、の違いを問わず、そこには一貫して流れる共通した霊的真理が存在していると云う事。
この現実から、この教えにはなにか普遍的な霊的真理が存在するのではないかと考えるのが論理的である。

 話がそれたが、その「浅いものから」深いものまである我々の因縁・カルマを解消するにはどうするか、といえば、そこには近道などはなく、ただただ、誠実にまじめに、自分の心得違いに「客観的に」気づき、それを改めていくしかない、言い換えれば霊的人格の向上しかない、と云う事である。
 
 そしてこれは2500年前にブッダが何度も何度も弟子たちや、インドの大衆に解き続けてきたことでもある。

 この世を見ると時に悪が栄え、強い権力をもち、善人が虐げられて、一体全体神も仏も本当にいるのだろうか?と思う時がこんな僕でもある。だが、確かに「この世においては」そう見える。そう見えるが、それはあくまで断片的、一元的な現実に過ぎず、もっと(時間的空間的に)巨視的な視点から見れば、すべて善悪の帳尻はあっている、という事である。

 言い換えれば、霊的世界(この世も含む)を貫く最優先の真理、到達点は、つまるところは『善 Good』であるということである。
このことを思う時、なにかほっとしないだろうか。

 ブッダの最後の旅になった時のことを記録した大パリニッバーナ経というものがある。
この経典は仏教経典の中でももっとも正確にブッダの生前の言動を記録したものといわれている。
その中にとても興味深い部分がある。


 第4章、一生の回顧、バンダ村へ
 『修行僧たちよ。四つのことわりをさとらず、また通達しなかったから、私もお前たちも、このように、この長い時間の間、流転し、輪廻したのである。
 その四つはどれどれであるか?
 【1】修行僧たちよ、尊い戒律をさとらず、通達しなかったから、私もお前たちも、このように、この長い時間の間、流転し、輪廻したのである。
 【2】修行僧たちよ、尊い精神統一をさとらず、通達しなかったから、私もお前たちも、このように、この長い時間の間、流転し、輪廻したのである。
 【3】修行僧たちよ、尊い智慧をさとらず、通達しなかったから、私もお前たちも、このように、この長い時間の間、流転し、輪廻したのである。
 【4】修行僧たちよ。尊い解脱をさとらず、通達しなかったから、私もお前たちも、このように、この長い時間の間、流転し、輪廻したのである。

 修行僧たちよ。しかし(いまは)この尊い戒律がさとられ、通達され、尊い精神統一がさとられ、通達され、尊い智慧がさとられ、通達され、尊い解脱がさとられ、通達された。

 生存に対する妄執はすでに断たれた。生存に導く(妄執)はすでに滅びてしまった。もはや再び迷いの生存を受けると云う事はない。』

 ~中略~
 「戒めと精神統一と知恵と無常の解脱と、これらの(四つの)法を、誉れ高きゴータマは、覚った。
ブッダは、このように良く知って、修行僧たちに法を説かれた。
苦しみを滅した人、眼(まなこ)ある師は、すでに束縛をときほごされた。」と。』


                                                   ブッダ最後の旅 中村 元訳 岩波文庫



 ここでつかわれている「束縛」ということばは、上述した僕らは自分の自由意思で生きているように見えながら、実はなにをするにしても自分が過去世や今世で積み重ねてきた因縁・カルマによって「操られている」という霊的真理と符合する。
 ブッダは生涯を通じて、この考えようによっては恐ろしい「束縛」からどうやって離脱して、「真の自由=解脱」を得ることができるか、ということを人々に教え続けた。

 実は冒頭にあげた教会の新聞の記事が僕の目に留まった昨日から今日にかけて、偶然、家に帰って開いた大パリニッバーナ経のページに、上記の記述を見つけたのだ!
 偶然にしてはあまりにも…である。

 

 


 
 
 

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