気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

陰翳礼賛から

2021-06-07 20:32:34 | 文学

 われわれは、それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。
そして室内へは、庭からの反射が障子を透かしてほの明るく忍び込むようにする。われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。
われわれは、この力のない、わびしい、果敢ない光線が、しんみりと落ち着いて座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。土蔵とか、厨とか、廊下のようなところへ塗るには明かりをつけるが、座敷の壁は殆ど砂壁で、めったに光らせない。もし光らせたら、その乏しい光線の、柔らかい弱い味が消える。

 われ等は何処までも、見るからにおぼつかなげな外光が、黄昏色の壁の面に取り付いて辛くも余命を保っている、あの繊細な明るさを楽しむ。我等に取ってはこの壁の上の明るさ或いはほのぐらさが何物の装飾にも優るものであり、しみじみと見飽きがしないのである。

 さればそれらの砂壁がその明るさを乱さないようにとただ一と色の無地に塗ってあるのも当然であって、座敷毎に少しずつ地色は違うけれども、なんとその違いの微かであることよ。それは色の違いと云うよりもほんの僅かの濃淡の差異、見る人の気分の相違というほどのものでしかない。しかもその壁の色のほのかな違いに依って、また幾らかずつ各々の部屋の陰翳が異なった色調を帯びるのである。

 ~中略~

 われらは一つの軸を掛けるにも、その軸物とその床の間の壁との調和、即ち「床うつり」を第一に貴ぶ。われらが掛け軸の内容を成す書や絵の巧拙と同様の重要さを表具に置くのも、実にそのためであって、床うつりが悪かったら如何なる名書画も掛け軸としての価値がなくなる。

 それと反対に一つの独立した作品としては大した傑作でもないような書画が、茶の間の床にかけてみると、非常にその部屋との調和がよく、軸も座敷も俄かに引き立つ場合がある。そしてそういう書画、それ自身としては格別のものでもない軸物の何処が調和するのかといえば、それは常にその地紙や、墨色や、表具の裂(きれ)がもっている古色にあるのだ。その古色がその床の間や座敷の暗さと適宜な釣り合いを保つのだ。

~中略~

 つまりこの場合、その絵は覚束ない弱い光を受け留めるための一つの奥床しい「面」にすぎないのであって、全く砂壁と同じ作用をしかしていないのである。われらが掛け軸を択ぶのに時代や「さび」を珍重する理由はここにあるので、新画は水墨や淡彩のものでも、よほど注意しないと床の間の陰翳を打ち壊すのである。

 

 谷崎潤一郎の陰影礼賛から。

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地味ながら芥川的な名文章

2021-05-12 01:05:26 | 文学

 

 

 

 

 先日、サイクリング中に偶然あの夏目漱石の晩年の邸宅があった場所、別名漱石山房にでくわした。
それと知らせる立て看板を見たときは驚きとうれしさのあまりおもわず声が出た。なにしろ、漱石がここに住んでいたのはもうずいぶんと昔の話である。木造の家だし、もうその場所はわからなくなっていて実際に行くことは絶対ないと思っていたからだ。

 僕がこれほどの喜びに満たされたのは、勿論漱石が住んでいた場所であるからというのもあるが、それ以上に昔心酔していた芥川が学生時代(まだ作家になる前)にここに足しげく通っていた場所であり、彼がこの家での出来事について書いていた文章を知っていたからでもある。
 昔のことを思い出す時は、何かこう夢の中の出来事のように思うことが多いが、僕の中でもこの場所というのはそのような場所になっていた。そこに偶然出くわしたのである。

 東京をぶらぶらしていると結構こういう歴史的に重要な場所に立て看板が立っていて、僕が見た中ではあの西郷隆盛が官軍を率いて江戸に攻め込もうとするときに、勝海舟と会談をした場所や、森鴎外の住んでいた場所、滝沢馬琴だったろうか、名前は忘れてしまったが江戸時代の戯作者ゆかりの場所などがある。
 日本では家の素材が木造であるのと、そもそも古い家を大事にして100年以上の長期にわたって住むという文化習慣がないので、そんなに古い建物で、しかも今でも人が住んでいる家というのは残っていない。これがイギリスだと数百年前の家がいまだに残っていて、しかもそこに今でも人が住んでいるという場所が数多くある。

 僕がこの目で見た中では進化論の提唱者であるチャールズ・ダーウィンの住んでいた家や、たまたま僕が住んでいた家の近く(ほんの数十メートル先)にあの「威風堂々」の作曲者であるエドワード・エルガーの家などがあったのをおぼえている。ああ、そうそう、漱石のイギリス留学当時の家もまだ残っていて、そこに行ったこともある。そこは今は漱石の記念館のようなものになっている。

 そんな偶然があったので、今回は芥川がのこした漱石山房についての文章を載せてみたい。長いので全文は紹介できないと思うがなるべくその雰囲気を伝えられるようにしたい。

 

 『夜寒の細い往来を爪先上がりに上がっていくと、古ぼけた板屋根の門の前へ出る。門には電灯がともっているが、柱に掲げた標札の如きは、殆ど有無さへも判然としない。門をくぐると砂利が敷いてあって、その又砂利の上には庭樹の落葉が紛々として乱れている。

~中略~

 硝子戸から客間を覗いてみると、雨漏りの痕と鼠の食った穴とが、白い紙張りの天井に班々とまだ残っている。が、十畳の座敷には、赤い五羽鶴の毯(たん)が敷いてあるから、畳の古ぼけだけは分明ではない。この客間の西側(玄関より)には、更紗の唐紙が二枚あって、その一枚の上に古色を帯びた壁掛けが一つ下がっている。

 麻の地に黄色い百合のような花を縫いとったのは、津田清風氏か何かの図案らしい。この唐紙の左右の壁際には、あまり上等でない硝子戸の木箱があって、その何段かの棚の上にはぎっしり洋書がつまっている。それから廊下に接した南側には、殺風景な鉄格子の西洋窓の前に大きな紫檀の机を据えて、その上に硯や筆立てが、紙絹(しけん)の類や法帖といっしょに、存外行儀よく並べてある。

 その窓を剰(あま)した南側の壁と向こうの北側の壁とには、殆ど軸の佳(か)かっていなかったことがない。蔵沢(ぞうたく)の墨竹が黄興(こうこう)の「文章千古事」と挨拶をしている事もある。木庵の「花開万国春」が呉昌蹟(ごしょうせき)の木蓮と鉢合わせをしている事もある。が、客間を飾っている書画はひとりこれらの軸ばかりではない。

 西側の壁には安井曽太郎の油絵と風景画が、東側の壁には斎藤与里氏の油絵の艸花(くさばな)が、さうして又北側の壁には明月禅師の無弦琴と云う艸書(そうしょ)の横物が、いずれも額になって佳(か)かっている。その額の下や軸の前に、或いは銅瓶(どうへい)に梅もどきが、或いは青磁に菊の花がその時々で投げ込んであるのは、無論奥さんの風流に相違あるまい。

 

 もし先客がなかったなら、この客間を覗いた眼を更に次の間へ転じなければならぬ。次の間といっても客間の東側には、唐紙も何もないのだから、実は一つ座敷も同じことである。唯此処は板敷で、中央に拡げた方一間(ほういっけん)あまりの古絨毯の外には、一枚の畳も敷いてはない。
 さうして東と北の二方の壁には、新古和漢洋の書物を詰めた、無暗に大きな書棚が並んでいる。書物はそれでも詰まりきらないのかぢかに下の床の上へ積んである数も少なくない。

 その上やはり南側の窓際に置いた机の上にも、軸だの法帖だの画集だのが雑然と、うづたかく盛り上がっている。だから中央に敷いた古絨毯も、四方に並べてある書物のおかげで、派手なるべき赤い色が僅かばかりしか見えていない。しかもそのまん中には小さい紫檀の机があって、その又机の向こうには座布団が二枚重ねてある。
 
 銅印が一つ、石印が二つ三つ、ペン皿に代えた竹の茶箕(ちゃき)、その中の万年筆、それから玉の文鎮を置いた一綴りの原稿用紙 ── 机の上にはこの外に老眼鏡が載せてある事も珍しくない。その真上には電灯が煌々(こうこう)と光を放っている。傍らには瀬戸火鉢の鉄瓶が虫の啼くように沸(たぎ)っている。もし夜寒が甚だしければ、少し離れた瓦斯暖炉にも赤々と火が動いている。

 さうしてその机の後(うしろ)、二枚重ねた座布団の上には、何処(どこ)か獅子を想わせる、背の低い半白(はんばく)の老人が、或いは手紙の筆を走らせたり、或いは唐本の詩集を翻したりしながら、端然と独り坐っている。......

 漱石山房の秋の夜は、かう云う蕭条(しょうじょう)たるものであった。』

 

 この文章は一種のルポルタージュのようになっていて、現在形で書かれた文章によって実際に読者が芥川といっしょに漱石山房を訪れているような感覚に引き込まれていく。淡々と目に映ったものを描写しただけの文章だが、明治の文人の書斎というものがまるで映像を見るような感覚で目の前に見えてくる。最後の「さうしてその机の」から最後までの文章は、おそらく芥川が実際に見たものではなく彼の想像から描かれたものだと思うが、この辺がやはり作家らしいとおもう、客観記述からすでに「物語」の世界へ入り始めている。

 冒頭部分に、天井に鼠の食った穴とか雨漏りの痕とかがたくさんあるという描写や、末尾の「端然と独り坐っている」「蕭条たるものであった」という描写にも顕れているように、どことなくわびさびしい、枯れた、寂漠としたイメージがこの文章全体をおおっていてそれがひとつの通奏低音のようなものになっている。そしてそれが芥川の眼を通してみた漱石であり、もっといえばそれが芥川自身が抱く芸術家一般の「創作」というものを著しているような気がする。

 僕はこの文章全体にただようこの厳粛な寂寥感が好きで、単純な客観描写のように見えながら、ある種の風格の高さ、抑制された威厳のようなものが全体を統一していて、あたかも古美術の名品を見ているかのようである。
 結局自分が実際漱石山房の跡地に立った時の感動はすべてここから来ているといっていい。ここは現在記念館になっていることもわかり、このコロナ騒動が終われば開館するそうなのでぜひ後日再訪してみたい。

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ふたたび鴎外

2019-09-30 06:21:33 | 文学

湯島聖堂

 

 大昔だが鴎外のある文章が目に留まりそれについてその当時メールで交流していた人に送ったことがある。
それからしばらくはそのこと自体を忘れていたのだが、よほどふかく自分に刻まれたのだろう、あれからたぶん20年近い歳月がたつというのに、昨今ふたたび深い水底からゆっくりと浮かび上がるように思い出されてきている。

 

 『近頃井上通泰、熊沢蕃山の伝を校正上本せしを見るに、蕃山の詞(ことば)に、敬義を以てする時は髪を梳(くしけづ)り手を洗うも善をなす也。
 然らざる時は九たび諸侯を合すとも徒為のみと有之候。
  蕃山ほどの大事業ある人にして此言始めて加味なるべしと雖(いえども)、即是先日申上候道の論を一言にて申候者と存候。
 朝より暮れまで為す事一々大事業と心得るは、即一廉(ひとかど)の人物といふものと存候。遇々(たまたま)感じ候故序に申上候。』
                                               (小金井きみ子宛書簡 森鴎外 永遠の希求 佐々木雄爾 p335)


 敬義ということばを僕なりに捉えると「尊敬、敬意あるいはまごころ」とでもなるだろうか、そういう感じの意味だろう。
敬意、まごころをもってするときはたとえそれが髪を梳るとき、手を洗うときのような日常の些事であっても、善をなしていることになる、もしそのような心なしに大事をなしても何の意味もない、というようなことを蕃山は言っている。

 鴎外はこの手紙の中で、これは「道」というものを一言で語っている言葉だと述べている。朝から晩までなすことすべてを大事業と思いながらするという者は、「一廉(ひとかど)の人物」だと。
 僕は蕃山の原文はもちろん読んだことはないが、鴎外はその原文に接しこの蕃山の言葉に深い感銘を受けたのだろうと思う。一廉の人物というのは鴎外にとって最高度の褒め言葉だろう。

 それにしても、もう20年近くも前に読んだことばをたとえその時感じるものがあったとはいえ、なぜいまごろ思い出されてくるのか正直わからない。
僕などは言葉という者の持つ影響力を普段かなり過小評価してきたように思う。この鴎外の手紙の一文はこの長い歳月の間僕の中の深くまで沈んでいき、その間ずっとそこで生きていた…としか言いようがない。

 ようやくこの言葉の本当の価値というものをあじわえる状況になり、それがふたたび目に見えるところに浮かび上がってきたように思える。
「即是先日申上候道の論を一言にて申候者と存候」先日申上げました『道』についての私の考えを一言で述べたものと存じます、という鴎外のこの表現からは蕃山に対する並々ならぬ敬意が浮き出ている。

 「敬義を以てする時は髪を梳り手をあらふも善をなす也」  

 鴎外とは関係ないのだが、禅僧の道元が留学のため中国に入港した船の中で待機している時、中国のあるお寺で修行している老僧がたまたま日本から積んできた椎茸を買いに入船してきた。道元はその老僧が修行中のお寺で炊事係をしていると知って驚き、なぜあなたのようなご住職の経験もある年長の僧侶がそのようなことをしているのですかと聞いたという。するとその僧は大きく笑い、あなたはまだ仏道修行というものがわかっていない、それが禅というものだ、と答えたという話をどこかで読んだことがある。
 道元がこの話をずっと覚えていて後年どこかに書いたかあるいは誰かに話したということは、そうとうこの出来事に感じるものがあったのだろう。彼は後年「修行」というものの本質をこの名もない老僧から教えてもらったと述懐している。このはなしなども、鴎外の云う「道」と一脈通じるものがあるように思う。

 まぁ、いずれにしても、最近とみに頭から離れないことなので書いてみることにした。

 じつはこの鴎外の文章を探すためほかにも彼の文章をいろいろと読んでいる間に、鴎外の文章の持つ独特の味わいというものにたまたま触れることになった。そうしているうちに実はこれに関して昔読んだ三島由紀夫の鴎外の文章に対する評論というか感想というか、そういうものが浮かんできて、あぁ、あのとき三島が言っていたことはこういうことを言っていたのかといまさらながら感じた。
 この文章の引用元である佐々木氏の序文の冒頭に次のようなものがある。

 『鴎外の文章を読んでいると、簡素でしかも風格のある座敷に一人安座している時のような、閑雅な気分に誘われる』

というものがあり、まさにこの感覚、ここにすべてが尽くされているといってもいいとさえおもった。三島はもとより、永井荷風などの文人たちがまるで神のようにあがめた鴎外の文章。まるで骨董品屋の倉庫の奥のほうで塵をかぶっていた貴重な宝を見せてもらったような、そんな気持ちでいま読んでいる。

 

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また「命なりけり」

2018-10-22 07:38:11 | 文学




 年たけてまた越ゆべしと思ひきや 
           命なりけりさやの中山              


 この歌は西行が東大寺再建の砂金を勧進する目的で東北へと旅立った時、難所で有名な掛川の小夜の中山を通過するときに読んだものだ。
このとき西行は69歳。彼は30代の時も同じ場所を通っている。
 40年近い年月が流れて、また難所といわれるこの場所に来た、あぁ、俺は生きているんだ…と思い、その年月の間に体験したことが走馬灯のように彼の心中で駆け巡っている、そういう刹那に詠んだ歌だろうと思う。

 この「命なりけり」という言葉に彼の全感慨がこもっている。
生きてきたんだなぁ、という思いと同時に、そう思っていられるのは今だけであり、明日もこの世にとどまっているという保証はない世界、そういう世界に彼は、そして僕らも生きている、そして、目の前に広がっている山河、これらも含めて全体が「命なり」という感慨。

 しかし、この「命なりけり」はうまい。

 当時の東北への旅といえば、今に喩えれば、さしずめアフリカかアマゾンの奥地へいくぐらいのものだったのではないか。
ようは生きて帰ってこれるという保証はない旅であった。
 そこへ寿命がこの当時なら40~50歳ぐらいといわれていたころ、69歳でそういうところに入っていったのだ……

 「死」というものが観念ではなく、それこそオブラート1枚先には存在している、そういう覚悟で旅を続けていたことだろう。
そのことはこの時代から数百年を経た芭蕉の時代でもほぼ変わりなく、彼のかいたものを読んでいると、明らかに死の覚悟というものが根底にあるのがわかる。


 昨日は恒例の湯河原へ行き、先祖に思いを伝えてきた。
ここからの相模湾の眺めが素晴らしく、僕は例年晴れの日を選んでいっている。
 そして丘の上からの眺めを見ながら、また年を越せた、とおもう。

 それにしても西行や芭蕉をあのような旅に突き動かしていたものは何だったのだろう。
西行の公的な動機の一つは勧進のため、芭蕉は…創作のためか…
 でも僕はおもう、彼らの旅は「死」にかぎりなく近づいていく旅ではあっても、まさにそれだからにこそ「生」に再び出会う旅だったのではないか。
 そのためには死に限りなく近づいていく必要があったのではないだろうか。
死に極限まで近づいて初めて見えてくるもの、そう、芥川の云った「末期の眼」でものを見るために。

 そうして見えてくるものは、生への執着か、それともそれを超えた世界か、現世への諦念か、それとも、現世全体への愛か
しかし、芥川は自裁することでかえって死から逃げた…ともいえる、それに対して、西行や芭蕉は死に向かって一歩一歩歩いていき、死の中に入っていった、いや、生死が織りなすえもいわれぬ綾の中に入っていきそれを見きっていった


 
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「陰翳礼賛」読み終えて

2018-09-10 20:56:43 | 文学
 





 東京のお茶の水にある東京復活大聖堂(通称 ニコライ堂)に行ってきた。
この聖堂は昔から知っていていつかはいきたいと思っていたのだが、念願かなって何日か前に行く機会を得た。

 なぜ行きたかったかというと、この教会は正教会(ギリシャ正教ともいわれる)の教会だからだ。
キリスト教系の教会ではいろんな教会を訪れたことがあるぼくも、正教会の教会にはいまだ行ったことがなかったから。

 入り口を入ろうとすると、ちょうどお葬式が終わったばかりの日本人の信者さんたちが何人か集団で出てきた。お葬式だというのはそのいでたちでわかった。
ぼくはそれをみてちょっと新鮮な感じがした。というのも、正教会というのはギリシャや主に東欧のキリスト教というイメージが強くて、その信者に日本人がいること自体が僕の頭の中にはなかった。

 でもここに立派に正教会の聖堂があり、その布教の歴史が明治にまでさかのぼるのだから、日本人の信者がいても全然不思議ではないのだ。
それにしても、あなたの信仰する宗教は何ですか?と問われて、日本人が正教会です、と答えるのはかっこいい!と思う僕はミーハーなのだろうか(笑)

 さてそれはともかく、今日ようやく谷崎の「陰翳礼賛」を読み終えた。
読んだ今感じることは、谷崎のものの感じ方の繊細さとその美意識の高さ(深さ)である。そして、これがいわゆる日本で昔から言われている「数寄者」「風流人」とか言われる人なのだろうなと思った。

 早速、その一部を載せてみたい。

 (前略)「わらんじゃ」(谷崎が食事をした京都の料理屋)の座敷と云うのは四畳半ぐらいの子じんまりした茶席であって、床柱や天井なども黒光りに光っているから、行燈式の電灯でも勿論暗い感じがする。が、それを一層暗い燭台に改めて、その穂のゆらゆらとまたたく蔭にある膳や椀を見詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出してくるのを発見する。
 そして我々の祖先が漆という塗料を見出し、それを塗った器物の色沢に愛着を覚えたことの偶然ではないのを知るのである。

中略~茶事とか、儀式とかの場合でなければ、膳と吸い物椀の外は殆ど陶器ばかりを用い、漆器というと、野暮くさい、雅味のないものにされてしまっているが、それは一つには、採光や照明の設備がもたらした「明るさ」のせいではないであろうか。事実、「闇」を条件に入れなければ漆器の美しさは考えられないと云っていい。

 今日では白漆と云うようなものも出来たけれども、昔からある漆器の肌は、黒か、茶か、赤であって、それは幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を包む暗黒の中から必然的に生れ出たもののように思える。
 派手な蒔絵などを施したピカピカ光る蝋塗りの手箱とか、文台とか、棚とかを見ると、いかにもけばけばしくて落ち着きがなく、俗悪にさえ思えることがあるけれども、もしそれらの器物を取り囲む空白を真っ黒な闇で塗り潰し、太陽や電灯の光線に代えるに一点の燈明か蝋燭のあかりにして見給え、、忽ちそのけばけばしいものが底深く沈んで、渋い、重々しいものになるであろう。

 古(いにしえ)の工芸家がそれらの器に漆を塗り、蒔絵を画く時は、必ずそう云う暗い部屋を頭に置き、乏しい光の中における効果を狙ったのに違いなく、金色を贅沢に使ったりしたのも、それが闇に浮かび出る具合や、燈火を反射する加減を考慮したものと察せられる。
 つまり金蒔絵は明るいところで一度にぱっとその全体を見るものではなく、暗いところでいろいろの部分がときどき少しずつ底光りするのを見るように出来ているのであって、豪華絢爛な模様の大半を闇に隠してしまっているのが、云い知れぬ余情を催すのである。

 そして、あのピカピカに光る肌のつやも、暗いところに置いてみると、それがともし火の穂のゆらめきを映し、静かな部屋にもおりおり風のおとずれのあることを教えて、そぞろに人を瞑想に誘い込む。
 もしあの陰鬱な室内に漆器と云うものがなかったなら、蝋燭や燈明の醸し出す怪しい光の夢の世界が、その灯のはためきが打っている夜の脈搏が、どんなに魅力を減殺されることであろう。

 まことにそれは、畳の上に幾すじもの小川が流れ、池水が湛(たた)えられている如く、一つの灯影を此処彼処(ここかしこ)に捉えて、細く、かそけく、ちらちらと伝えながら、夜そのものに蒔絵をしたような綾を織りだす。
 ~中略~私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたたかい温味(ぬくみ)とをなにより好む。それは生まれたての赤ん坊のぷよぷよした肉体を支えたような感じでもある。

 ~中略~漆器の椀のいいことは、まずその蓋を取って、、口に持っていくまでの間、暗い奥深い底のほうに、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱(よど)んでいるのを眺めた瞬間の気持ちである。

 人は、その椀の中の闇に何があるかを見分けることはできないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁がほんのり汗を掻(か)いているので、そこから湯気が立ち昇りつつあるのを知り、その湯気が運ぶ匂(におい)によって口にふくむ前にぼんやり味わいを予覚する。その瞬間の心持、スープを浅い白ちゃけた皿に入れて出す西洋流に比べて何という相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。



 ここまで写してきて本当に疲れた(笑)
だが、どうしても谷崎の見出したこの稀有な、そしてもう今ではほぼ失われてしまった、世界を共有してもらいたい一途で書いた。
 今こうして読み返してみて感じるのは、非常に貧弱な表現で申し訳ないが、非常にいい文章だなということである。
いいという言葉には、ちょっと言葉にはできないぐらいの思いが込められている。

 巧緻、繊細、匠、名工の技、技巧の極致……とでもいおうか……
とくに「古(いにしえ)の工芸家がそれらの器に漆を塗り…」からはじまり「細く、かそけく、ちらちらと伝えながら、夜そのものに蒔絵をしたような綾を織り出す。」までに至る一文は、絶品といっていい。

 今この文章を読みながら、自分は日本人でよかったと思った。
もし日本語を母国語としない人間だったら、絶対この文章の味わいを堪能することはできないだろうからだ。

 むかし、たしかドナルド・キーンだったと思うが、彼がシェイクスピアの文章を読んだとき、しみじみ自分は英語を母国語とする人間でよかったと思ったとおっしゃった。
 要は、どれほど英語に堪能な人であったとしても、そのひとが英語を母国語としない人であれば、絶対にあの名文の『本当の味わい』を感じとることはできないからだ、ということを言いたかったのだろう。

 たしかに僕はシェイクスピアの作品の偉大さは理解できても、僕の英語力が『仮に』どれ程優れていたとしても、その文章そのものが持つ「真のあじわい」をネイティブと同じほどには感じ取れないだろう。
 しかし、逆もまた然りであり、幸いにも日本にも優れた作家、名文家は存在している。そして、ドナルド・キーンがどれ程優れた日本語能力を持っていたとしても、僕と同じほどにはそれらの味わいを感じ取れないだろう、ということもまた事実であろうと思う。

 そのことは川端康成もノーベル賞受賞時のインタビューで、『こと文学作品に関する限り』人間がどうしてもこえられない言語というもののもつ壁であり、厳密にいえば、文学作品の翻訳というものは不可能である、というようなことをおっしゃっていた。かほどさように繊細かつ微妙なものである。

 話は少しそれてしまったが、もう一つ書き添えるとすると、谷崎の文章というのはなにか視覚的な感じがする。
彼の文章を読んでいると、その文章の展開にそってまるで映画の映像がスクリーンの中で流れるように動的に見えるような気がするのだ。
これはひとえに彼の優れた描写力によるものだろうか、それとも彼の文章そのものが持つ独特の味わいなのだろうか……


 



 

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