気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

もうもどらないからこそ

2016-12-25 14:14:28 | 日記
「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」プロモ映像


 最近結構いい映画を見た。
題名から不思議系の映画でなおかつ恋愛映画ということが予想できたので、これを選んだ。

 世間で人気のある映画とか、そういうまわりの評判を全く気にせずに自分でよさそうな映画を直感で選ぶと、結構いい映画にあたることが多い。
これもあまりヒットしているという話は聞かないので、たぶんそういうカテゴリーに入る映画だと思う。

 ストーリーはあまり詳しく書くと営業に差し支えるので、簡単にしか書かない。
要は男女が出合ってから「別れ」までを描くものなのだが、男が普通に過去から未来にわたって流れる時間の中を生きているのに対して、
女の方は未来から過去に向かって流れる時間の中を生きている。

 その二人が5年おきに二人の時間が交差する30日間だけ、時を共有できるという設定になっている。
男にとっては普通なのだが、女にとっては最初にクライマックスがあって、徐々に距離感が離れていく、ということになる。

 そのため、男にとっては初めての経験が、女にとってはなにもかもが「最後」の経験になる。
男が交際を申し込んだとき、女はそれを受け入れるのだがなぜかそのとき涙を流す。その理由は今述べたものだ。

 それ以外にも女は事あるごとに涙を見せる。すべての出来事は女にとっては最後の出来事だからだ。男が交際を申し込んだとき、「私は相当涙もろいよ」と女が言ったわけにはそういう背景があった。
 不審に思いはじめた男を見て、女はすべてを告白する。

 そういう定めにおかれた二人のため、当然結婚はできない。一緒に過ごせるのは5年おきの30日間だけ。
男は二人をめぐる悲劇的な運命を知り、絶望する。
 でもそんな男を見て女は素晴らしいことを言う。

 わたしたちは輪の端と端が結ばれている(5年おきに再会するため)一つの命なのよ。

 悲劇的にみえて、実は二人はむしろ幸運だったのではないか。
なぜならそれだけこの二人の共有する時間は、貴重で濃密なものであり、普通のカップルがすごす30年、いやその質の純度の高さではそれをはるかにしのぐものだろう。

 この映画でははっきりとはかたられていないが、ひとつの生を越えた輪廻のようなものさえ暗示されているような気が僕にはした。それなら愛の永遠性までが暗示されていることになる。
これはむしろ至高の幸福を表現した映画ではないか。
 
 これも明確には表現されていないが、いまニューエイジ系の人々の間ではひろくしれわたっている「パラレルワールド」の影響さえ受けているのではないかと思わせるストーリーである。
3次元的な時空(過去から未来にのみ流れる『一つだけの』次元世界)の制約を受けていることは、たしかにそれゆえの悲劇性がある。だが、その制約があることでかえって人間の経験、体験を濃密で、場合によっては、これ以上にないほど貴重なものにもする。
 僕らははたして大切な人々と過ごす時間を、ほんとうに真剣に「体験」しつくしているのだろうか。

 見終わって、しばらく心地いい余韻が続いた。
なかなかおすすめの映画だ。

 



 
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小食健康法 その後2

2016-12-15 10:23:39 | 日記
 小食健康法を実践してからそろそろ1年近い期間がたとうとしている。
成果はというと、実際に数字としてはっきり表れた。

 前に、今年の初め1月ごろ、身体検査で上と下の血圧が狭かったと云う事を書いた。
上が116で下が96だったのだが、今は上はほぼ同じで下が70ぐらいまで下がった。
今度はちょっと開きすぎ?じゃないかと思うぐらいだが、とにかくはっきりと目に見えてこの健康法の成果が出たのでうれしい。

 血圧が上がった理由はだいたい見当はつけている。
去年ぐらいから白湯のつけ麺にはまっていて、ほぼ週に2~3回は食べていた。このスープがまさに塩スープと言っていもいいほどの塩分が濃厚なもので、
これが主な原因ではないかと僕は睨んでいる。

 それと、この健康法を始める前までは、量を減らすようにはしていたものの肉も時々食べていた。
だが今健康法を始めてから、全くやめたわけではないが、ほぼ肉は食べなくなった。揚げ物なども同様である。
これも血液をきれいにするので、当然血管が詰まりにくくなり、そうなれば血液を体の隅々に届けるために血圧をあげる必要がなくなるので、自然に血圧は下がっていく。
もちろん、この健康法のメインである野菜ジュースを毎朝たくさん飲んでいることがよかったのは言うまでもない。

 血圧が上がっていくにはそれだけの理由があって、まずはそれを解決しなくてはならない。
それなしに血圧を下げる薬だけを飲むのは、絶対に良くない。自分で自分の健康をむしばんでいるようなものである。

 以前、同僚と尿酸値が高いときはどうするのかとい話をしていた時、その人はいい薬があるからそれを飲めばいい、と言った。
僕はそれを聞いて、あぁ、これが普通の現代人の思考だなと思った。
 それでは抜本的な解決にはならない。

 ならないどころか、それをやると体の健康を維持しているメカニズムのバランスが崩れて、その影響が必ずどこかに現れる、というのが東洋医学的な考え方だし、
東洋医学に関心がなかった時から僕はなぜかそのことに気づいていた。

 尿酸が高くなるにはそれだけの「理由、原因」があり、そこを治さない限り、絶対に根本的な治癒とはならない。
あまりいいたとえではないが、薬だけで解決しようとするのは、たとえば英語の成績の良くない生徒がいたとして、成績を上げるために次の試験の範囲の部分に出てくる単語と、選択問題の答えを教えるのと似ている。

 これで確かに成績は上がるかもしれない、でも、成績が上がるのはこの試験だけであり、次からはまた元の実力通りの成績に戻るだろう。
そればかりか、その生徒は次も同じことをしてくれることを期待して、普段の勉強をしなくなる(体の健康維持メカニズムが本来の働きを放棄し始める)から、さらに成績は下がっていく。

 表に出ている症状は重篤な病気にならないように体がきづいてくれと言って出しているサインであり、それを抑えるのはあるいみ自滅行為である。
そのサインがなぜ出ているのか、そしてその原因を改善するにはどうしたらいいのか、という道をたどるのが病気治療の王道、正道であると思う。
英語の成績を上げるためには、基本的な文法の把握と、単語を覚える不断の努力、そしてある程度の量の英文をとりあえず辞書を引かずにひたすら読んでいくという努力が欠かせないのと同じである。

 健康というといまとてもいいものに出会った。
それは「玄米の黒焼き茶」というものだ。
玄米を何時間も土鍋でいり続けて作ったもので、それを家庭で煎じて飲む。

 僕がこれを知ったのは、若杉さんという食養を実践している方のことを知ってからである。
この方の旦那さんがあるとき肺のがんになり、彼女に泣きついてきたときに、彼女が教えたのが次のような食事療法だった。
 まず、玄米と菜食中心の食事、まこも茶、梅干しの黒焼き、そして玄米の黒焼き茶である。

 この旦那さんはこれを忠実に守った結果、わずか半月(半年ではない)でがんが縮小し始め、たしか6年くらいはかかったのかな、それでも完治したという。
しかもこのがんは進行性のもので、診断が出たらほぼ間違いなくそれから短い時間しか残されていないというがんらしい。

 僕はこの話を聞いてたぶん真実だろうとは思った。
思ったけど、やはり人間なのでどこかに信じきれてない部分もあった。
 ところが、自分でも最近気になることがあって、このお茶を試してみたら、非常に体にいい影響をもたらしているのを感じている。

 信じてくれるかどうかわからないが、初めてこのお茶を口に含んだ時からこの薬効を感じた。
前にもこう云う事があって、それは鹿児島のある会社が作った健康茶を飲んだ時に、なんとリアルタイムで口内炎の痛みが引いていくのを感じたことがあった。
口の中で少し回すようにして飲んでいると、ゆっくりとだが痛みが和らいで行ったのだ。

 それと同じ感覚を今回この玄米の黒焼き茶で感じた。
体というのは実に繊細微妙なもので、何か体にいいものや悪いものを食べると、ほぼリアルタイムで反応してくる。
神経を集中していればそれを感じ取れると思う。

 話が長くなったが、ぼくがこの若杉さんの話がまず間違いない真実だと感じとったのは、この黒焼き茶を飲んだ時の体の反応を感じ取った時である。
あぁ、あの話はやはり事実だ、とその瞬間思った。
 疑い深い人はこれでも信じないと思う。

 たとえば事件などを解決する刑事や探偵などが、ある一つの証拠を見つけた時に、一気に全体の謎が解けてくると云う事があると思う。
僕の個人的なたとえで言うと、僕がイギリスで勉強していた時、ある一つの統計的なデータ、証言や手紙の文面(特に第一次史料)、をみつけたときに「あ!解けてきた、これで全体が見えてきた」と思う瞬間が何度かあった。
 今までそれぞれバラバラに見えていた事実や事件、情報が、その一つの鍵となるものを見つけたことで、論理的な整合性を持ってつながり始める瞬間だ。

 これと同じ感覚である。

 「食養」というものの存在を知ったのは、随分前の事だが、なんか面倒くさくて実際に実行するのは大変だなと思って、それ以降はあまり関心がなかった。
だが、こういう話を聞くと、実は健康維持のために大変有効なものだろうと云う事を今は感じている。

 こういう事を書くと、医療関係者は気を悪くするとは思うが、西洋医学の療法というのは、次の試験の範囲と答えだけを教えることと似ている。
対するに食養などの東洋的な医療をその根底に持っている療法は、とにかく基本的な文法を抑え、単語を毎日地道に覚え、文章をひたすら読んでいく、そういう方法に似ている。

 いうまでもなく、前者の方が楽で即効性があるし、後者は苦しく、しかも、次の試験の成績がすぐに上がるなどの即効性などない。
ただ、後者の方が長い目で見れば確実に成績が上がっていくし、数年後にはとてつもない差がついていく。

 僕は西洋医学全体を否定してはいない。
もちろん、大量に出血した時とか、骨折した時とか、緊急に手術を必要とする内蔵の病にかかった時、または、伝染病の治療などには大変な威力を発揮する。
とくにその診断技術に関しては、目を見張るものがある。

 しかし、こと慢性病の治療ということになると、東洋的な医学をベースにする治療法にはるかに及ばない、というのが今の僕の実感である。
この差を簡潔に言えば、「根治」と表面的な症状を消す(治すではない)「表象治」(僕の造語)の違いではないかと思う。

 まぁ、それもむりはない、西洋医学というのは眼に見えるデータ、つまり、「外側」から本質に迫ろうとするものであり、東洋医学というのは「内側」のメカニズムというものをどういうわけかあらかじめ想定して、そこに働きかけるものだからだろう。
 この「内側のメカニズム」に今のような優れた診断技術がなかった大昔に『どうやって』気づいたのか?というのは、ぼくは人類のとても興味深い謎の一つだと思う。


 一生かかってでも研究できるテーマになるのではないかとさえ思っている。

 

 
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年末をむかえて

2016-12-06 02:59:02 | 日記



 昨日は日ごろたまった疲れた体をいやすために温泉に行った。
ネットで調べてみると東京にも温泉が結構湧いているんですね。驚きました。

 東京で湧いている温泉というのは、数百万年前に地殻変動があった際に閉じ込められた古代の海水だという説明書きがあった。
と云う事は昨日僕が浸かったのは数百万年前の海水なのか…
 数百万年…想像だにつかない。

 僕が毎日通勤している地下鉄のある部分にある大理石には、アンモナイトがはっきりと残っている、それもたくさん。
アンモナイトというと数百万年どころか、3億5000万年前だという・・そんなものを痕跡とはいえはっきりとリアルタイムで目の前で見ていると云う事に、感動を覚える。

 それを思うと人間の一生なんて短いどころの話ではない、一瞬でさえない、あったかなかったわからないぐらいのものである。
その短い人生の中で僕らは喜怒哀楽を経験していく。なんてはかなく貴重なものだろう。

 季節がらクリスマスプレゼントの下見もしてきた。
いつもは服とかマフラーのような平凡なものばかりをあげていたので、今年は少し奮発してジュエリーを買おうと思っている。

 ジュエリーショップというと、男が一人で入っていくと店員は若い女性が多いので「引かれる」場合がある、スゥーッと離れていってしまうのだ(笑)特に日本では文化的にその傾向が結構ある。
 今日もそれを心配していたのだが、幸い1軒をのぞいてみんな店員が話しかけてくれた。まぁ、時期が時期だけに明確にクリスマスプレゼントだと云う事がわかっているからでもあるだろう。もっともそれがありがたかったり、うざかったりもするのだが。

 最後に寄った店で面白い会話になった。
店員が「この時期は男性にとっては頭が痛いですよね」
というので、僕は逆にこうやって選ぶのが楽しいんですよ、と答えたら、「あぁ、そういう考え方はいいですね」と言った。

 考え方も何も、事実こうやってプレゼントを選んでいるその時間は大きな喜びである。
どれをプレゼントすれば相手は喜ぶか、喜んでいる顔などを想像しながら選ぶのは喜び以外のなにものでもない。

 ところがその女性店員にはその心理がどうにも理解できなかったみたいだった。
確かに財布は痛い、痛いがそれ以上に相手を喜ばせたいという思いがずっとまさっている。
 
 自分がどれだけ相手のことを大切に思っているか表現できる、そのことで相手に喜んでもらえる、そのことの大切さに比べればわずか数万円の出費などなんだろうと思う。頭が痛いどころか、そういう喜びを与えられたことを感謝さえしている。

 先日もほぼ同年代の女性(こちらは同僚)数人と食事をした後、結婚の話になった。
その人は離婚した人で、結婚なんてもうこりごり、茶飲み友達がいたら十分と何度も強調していた。

 僕はそれに対して、いやぁ、僕は結婚してみたいですね、と言ったら、彼女は結婚したら大変ですよ、いろいろ縛られることが多くて、と答えた。
今の女性って自分は贅沢なものを食べて、夫にはマックで食事をさせるんだから、と。
 僕は、そんな女性と結婚しなければいいだけだし、仮にマックで食事をさせられたとしても、心のやさしい妻の幸せそうな笑顔を毎日見て生きていかれさえしたらそれで幸せです、と答えた。(本気でそう思っている)

 それを聞いたその女性は、そんな人がいるわけないじゃないですか、というものだった。
先のジュエリーショップの店員と言い、この同僚と言い、なんで「いるわけない」と決めつけるのか、僕にはよくわからない。
なぜ自分の体験だけが絶対的な基準になるのかがわからないのだ。
なぜ、男(女)はこういうものだと思ったら、金太郎飴のようにすべての男(女)がそうなってしまうのかが僕にはわからない。

 ただ、たしかにそういう事を云う女性がどうも多いことを見ると、『そう云う男性(女性)』のほうが多いのかなとは思う。
あるいは、じぶんがそうでない男性と出会えなかったことから生まれる悲哀、絶望、怒りやわらげるために、そう無理やり自分を納得させている(意識的せよ無意識的にせよ)のかもしれない。

 それにしても、そうやって他人を自分の世界に引き込むのではなく、どうして夢(仮に夢だったとしても)を見ようとしないのだろうか。
そのほうが、仮に一生夢見るだけで終わったとしても、ずっと幸福ではないか、とぼくは思う。
 もっとも僕がこう思うのは、僕の貧しい人生体験の中でもほんの数名だが、男女どちらも含めて、とても心のきれいな、純度の高い、穢れの非常に少ない人がいたこともあるのかもしれない。

 芥川龍之介の非常に短い、原稿用紙にしたらたぶん10枚ぐらいの短編がある。確か題は「尾生の信」だったと思う。
それは、ある青年だったろうか、理想の女性像を胸に抱いた男がある女性と会う約束をして、その女性が現れるのをずっとただひたすら橋のたもとで待っているという話である。
結局その理想の女性はまてどもまてども現れず、何年も何年もその橋のたもとで待ち続けたその青年は、だんだん衰弱していき、その橋の下に流れている川で溺死してしまう、というストーリーだったかと思う。

 僕は最初それを読んだときは、悲哀に満ちた物語だと思った。
今でもたしかにそれは悲しい物語だと思う。でも、実はこの青年は幸福だったのではないか、圧倒的多数のあきらめている人々、あるいはそもそもなに(何人)も待っていない人々にに比べれば、とも思うのだ。

 人生はどれだけリアルに見えようと、どうせ幻想であるともいえるし、本当に短い、一瞬のきらめきのようなものであろう。
ならばそれをできるだけ美しいものとして捉え、体験したもののほうが、幸福、と言えないだろうか…
 僕はといえばもちろん、あの短編の主人公のようにただひたすら、毎年クリスマスを迎えるとジュエリーショップに現れ、相手の喜ぶ顔を思いうかべながらジュエリーを選び、生を終えたいと思う…
 

 
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