気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

永遠の星野さん

2016-09-05 22:35:58 | 写真


 銀座の松坂屋で開かれている写真家、星野道夫さんの写真展を見てきた。
この人は僕の心からどうしても離れない写真家だ。

 同じように北アメリカの自然を愛していると云う事もある。
でもそれだけではないだろう、そこには純粋なものへの憧憬というものを、怖れさえ抱きながらもっていることもあるかもしれない。

 ただ僕と星野さんの違いは、彼はその前でひるまなかったことだろう。
屹然とその前に立ち、畏れと敬意を懐きながらもそれをこよなく愛し、ついにはその中に入っていった・・・それだけの強さと魂の透明さが彼にはあった。




 正直、僕はありがたかった。
あまりのありがたさに、写真集などかつての自分の先生の写真集さえ買ったことのない僕が、思わず買ってしまった。
星野さんの気持ちを一生大事にとっておきたかったからだ。



 
 星野さんはだれも責めない、ただあの大原野のかなたに立ってふりかえり、僕をほほ笑みながら見つめている。
「おい、こっちはいいよ」

 



 「そこはにぎやかだが、実は周りには数えるほどしかいない。
  こっちは人間はほとんど誰もいないけど、永遠に失われないもの、変わらないものがある。
  君が永久の昔からその一部であるところのものだ」




 
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早起きをして

2016-08-12 06:27:18 | 写真
 僕のブログのアクセス記録を見ていると、2年ほど前に書いたルノワールに関する記事を見ている人が多いことに気づいた。

 今読んでみてあれはもう2年も前の事だったのかと思う。
実は今開かれているはずのルノワール展にも行ったのだが、そこでもこの作品は来ていた。
 「あぁ、また会ったね」
まるで旧友にでもあったかのような気持ちだった。

 やはりいいものはいい。
ルノワールというとどうしてもあの上流階級の人々のパーティーを描いた絵が有名すぎてすぐに思い浮かぶのだが、今回もやはりこのひとの本領は人物画ではなく、風景画にあるという印象を持った。

 彼の作品はもう問題なく素晴らしいのだが、それよりもやはり今回も僕の気を引いたのは彼が残したといわれる言葉だった。
正確な引用はできないが、たしか、【この世には悲惨な事や残酷なことが多すぎる、もうそんなものはたくさんだ、だから私は美しいものを描きたいのだ】とかいうものである。

 これをよんで、日本が生んだ世界のアニメーター宮崎駿氏の言葉と反響してくるのを感じた。
ユーチューブにアップされていた外国人の映像に出ていた言葉なので、英語であり日本語の原文はわからないのだが、たしか、【私がアニメーションを作るのは、人々がこの世のSharp reality峻厳な現実?を、たとえひとときでも忘れて夢を見てほしいからである】とかなんとかいう言葉だ。

 おもえば漱石の草枕のあの有名な冒頭の言葉も同じようなことを述べている。
確かにこれは芸術作品の重要な役目であることは間違いない。

 昔の人々が中国や日本の高名な画家が描いた水墨画を掛け軸にして床の間に飾り、ときおり夢の中に入っていったのも、芸術作品にその役目を果たしてもらいたかったからだろう。
それはもちろん音楽でも同じで、ゴールドベルグ変奏曲のあのアリアの部分も、とりわけグールドの弾いたアリアは、『その世界』に聴くものをいざなってくれる。

 たとえ物理的時間にしてみれば、どんなに短い時間でも、『あの世界』は、この世(Sharp reality)に生きるものにとってたとえようもない桃源郷であり、たとえようもなく純Pureであり、たとえようもなく透き通っていて、それはもうたとえようもなく美しい。よくクラシック音楽の演奏家が、演奏中に恍惚、感極まった表情を浮かべているのを見るが、それはまさに『あの世界』にリアルタイムで入っている人の表情そのものである。(例えばこの映像の4分50秒あたりでグールドが浮かべている表情、4分30秒あたりから聞いてほしい https://www.youtube.com/watch?v=U0VsTnuipEE これなどを聴いていると、ベートーベンという人がいかにすぐれた芸術、美の紡ぎ手、創造主であったかということが感じ取れる。)
 それはすぐれた芸術によってのみ表現可能なものであり、この世的な、つまり、濁った、作為的な人造物では絶対に表現、到達不可能な世界である。

 僕には残念ながらそういうものを創造する力はなさそうだが、もし『仮に可能ならば』写真でそういうものを撮ってみたい、という思いはある。
だがそれは、あまりにも遠い、はるかかなたにのぞむ、まさに夢のような望みである。

 

 

 
 
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日本洋画界が生んだ二人の天才

2015-08-23 01:50:07 | 写真



 都立美術館で開催されている「日本の洋画家たち・二科100年展」を見てきた。
正直言ってあまり期待はしてなかった。というのも、僕は本当に食わず嫌いで、音楽にしてもなんにしても自分の好きなジャンルや作家の作品だけを集中して楽しむという悪い癖がある。
 大変失礼にあたるかもしれないが、日本にはそれほどの洋画家はいないだろうと勝手に思っていた。

 ところが今回、この展覧会を見てそれがいかに間違っていたかを思い知らされた。
上の絵を描いた岸田劉生がまずその一人。
 いままで彼の代表作といわれている「麗子」をみただけであり、正直に打ち明けさせてもらうと…う~んという感想しかもっていなかった。

 今回この展覧会でこの「静物」をみて、考えが180度変えられた。
剣術で言えば相当の手練れである。
 この絵に描かれている陶器を見て、すぐに想起するのはフェルメールの絵に描かれている陶器である。
残念ながら僕の表現力では、この神秘を表現するすべを持たない。ただただ見て感じてもらうしかない。

 
 そしてもう一人



 この絵を描いた佐伯祐三である。
残念ながらこの写真からは、本物の絵を目の前にした時の感動の100分の1も伝わってこない。まるで別の絵を見ているかのようだ。
 こればかりは百万言を費やすよりも、この本物を見て味わっていただく以外にない。

 すぐれた作品を美術展で見るときはいつもそうなのだが、その絵だけが浮き上がって見えてくる。
一瞬彼自身が影響を受けたといわれるユトリロの絵を思わせるのだが、ユトリロの絵のような静けさがない。
 激しい、さまざまな情念が渦のようにぐるぐると渦巻いているのが絵から伝わってくる。ユトリロを装ったゴッホ、とでも言えようか。

 しかしながら、そこにはユトリロにもある寂しさがやはり漂っている。絶望…も。
彼は結核が悪化してパリで自殺未遂をはかり、最後は衰弱死したそうだが、やはりこの絵を見ていると、そのような運命をたどった人の筆から生み出された作品だなと感じた。

 とにかく、第1級品である、この絵は、芸術作品として。
上の岸田の作品とこれは、世界のどこに出しても恥ずかしくない。
 西洋の超一流の巨匠の絵と比較しても、いささかの遜色もない。ほぼ同等か、ある意味ではそれ以上の域に達している。

 三島由紀夫が芥川龍之介の作品を評して、「この精巧なカメラは、本場のライカをさえしのいでいる」という言葉を残しているが、それをそのままこの二人に捧げてもいいと思う。
この二人だけは世界レベルの画家といっていい。

 友達に連れて行かれなかったら、日本が生み出したこの二人の巨匠の作品に出会えなかっただろう。ありがとう。
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何か夢中になれるものを

2014-06-05 23:52:52 | 写真
レンブラントの妻、サスキア
 

パステル画教室というのをときどき受講している。
僕は絵を見るのは好きだが、かくほうは苦手である。

 この教室も絵が好きな友達がいなければたぶん受講していなかったに違いない。
それは僕の人生にとって大変な損失だっただろう。

 以前、やはり同じ友達とピアノを習ったことがあるのだが、才能のなさはいかんともしがたく、途中で挫折(自主的な退校)を余儀なくされた。
その時は、もうどうにもこうにもならない、という感じだった。右手と左手がどうしても一緒に動いてしまうのだ。
 大人になってから楽器を習っても弾けるようになれるなんて嘘だとわかった(笑)

 もちろん、個人差はあるだろう。
実際、僕よりも後に入った未経験(本人いわく、僕は信用してない)だったひとが、みるみる上達してあっという間にぺらぺらと弾けるようになっていくのを目の当たりにしたときは、
モーツァルトを羨望と嫉妬の眼で見たサリエリの心境がよくわかった(笑)

 このパステル画教室もそうなるのかな、という不安がずっとあった。
でも、今回はピアノの時と違って、うまくなれるかどうかは知らないが、少なくとも「楽しめる」という実感を得ている。
うまくなれるかどうかなんて関係ない、楽しいのだから、とさえ思っている。




 描いている間はあらゆる不安や恐怖が消え去るのだ。
よく精神療法の一つとして昔から絵をかくといいといわれている理由がよくわかった。

 描いている間は心が真っ白になる。
様々な色、とくに、突拍子もない色を混ぜるように先生に言われて、やってみると実際狙った微妙な色が出来上がるのを目の当たりにした時の驚きと喜びはなんとも言えない。
これはほんとうに精妙かつ熟練のクラフトマンシップ(職人気質)が要求される世界だなということも理解できた。

 そして、一番目から鱗だったのは、絵は「線」で描くのではなく「色」で描くのだということだろうか。
学校で習ったのはまず線で輪郭を描いて、その中に色を塗るということだった。
 しかし、僕が今回きづいた描き方は、ものを自分の目に見えるように「正確に」描くということ。

 考えてみれば当然かもしれない。
幾何学的な物質ならともかく、自然物や人間の顔に「線」などあるはずはない。あるのは陰影と色の違いだけである。
それを大雑把にとらえて「線」と認識しているにすぎないのだから。

 僕の先生は印象派的な絵をかくので余計そう思うのかもしれない。
いずれにしても、今はさまざまな「色」の織り成す世界に完全に魅了されている。

 
 


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