気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

生きる(僕版)

2021-10-11 06:51:22 | 内奥への旅

覚園寺

 

 

 



すべてかりそめにすぎない。おぼえる者もおぼえられる者も。
遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう。

マルクス・アウレリウス

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=EPvBWdwEXZ8&t=334s

スーツ背広の動画

 

 

 例によってぼんやりとユーチューブを見ていたら、スーツ背広という人気ユーチューバーの面白い動画を見つけた。
この人は自分のツイッターに視聴者?から質問が届いたという。それは生きる意味が分からないから死にたい、というものだった。それにたいするスーツさんの返信動画が興味深くて載せてみた。

 本当に正直な人だと思った。それだけに好感を持った。世の中には自分はいい人だと思われたい、嫌われたくない、という気持ちが強いためにその裏にある本心を正直に言えず、本音の周りをオブラートに何重にも包んでしまい結局何が言いたいのかわからない、という人が多い。かくいう僕もそういう傾向から完全には逃れられずひそかにそんな自分に自己嫌悪を感じることがある。言いたい放題言っているではないかという向きもいるかもしれないが(笑)

 

 

 


日光東照宮

 

 

 

 それはともかく、この人の動画を見てたしかに真実の一面をついているなとは思った。人生の目的はコンビニで買い物をしたジュースを心から味わうため(つまりそのような日常の些事を楽しむため)……それ以上でもなければそれ以下でもない…。この考え方を否定する人は多いだろうと思う。いや違う、社会で出世栄達し将来長く人々に記憶される人になれれば、それは生きる立派な意味ではないかと。あるいは、人の役に立つことで生きる意味を見出すことができるという人もいるだろう。それもまたもっともだ。 
 

 だが、この質問者やスーツさんが言うように、どうせ自分も含めすべての人間が死んでいなくなるのであれば、それにどれほどの意味があるのだろう…という疑問はすぐに否定し去ってしまえないほどの力をもってはいる。しかしだ、永続しないということだけを理由に人生に生きる意味はないと思うのはいささか極論すぎはしまいか。

 

 

 



覚園寺

 

 

 

 たしかに、どれだけ出世栄達しても死ねば大方の人間は忘れ去られていくだろうし、どれだけ巨万の富を築いてもあの世には持っていけないし、自分の子孫がア〇であればあっという間に使い切ってしまうであろうし、相続の時は家族同士で骨肉の醜い争いが生じるかもしれない。
 どれだけの偉大な業績を残しても数百年を超えて記憶されるほどの偉大な人物になれるのはごくごくごく少数の者だけである。

 
 さらにいえば、仮にそのような偉大な人物だったとしても、この地球そのものにも寿命があるし、かりにその前に外の惑星に移住できたとしても、現在の物理学ではこの宇宙そのものにも寿命、終わりがあるといわれている。
 

 つまり、いずれはすべてが「無」になってしまうのに何のためにそんなに血のにじむような努力を……と思うのはよくわかる。

 ただ、出世栄達や偉業達成などについてはそのような虚無感がついて回るが、「誰かのために」という想いでしたことが実際に誰かのために役に立てた場合は少し違うと思う。
 たとえその人が寿命を迎えて存在しなくなったとしても、その人のために役に立てたときの、その人が感じた幸福感、喜びは「その時、その瞬間」確かに存在していたのであり、それは決して幻ではない。

 

 

 


日光東照宮境内

 

 


 その一瞬、一時、自分が行った行為、言動で誰か他者がわずかでも幸福を感じた、という事実があるならば、たとえそれがやがては「無」に帰っていくものだとしても、そこに「意味」が存在すると思える、これこそが利他的行為の最大の特色であり、最大の報酬であると思う。僕はそれを意味がないとは思わない。

 
 大きな時の流れの中では最終的には「無」になっていくとしても、僕は時間がただ単純に直線的に存在しているとは思わない。いうなら、一瞬一瞬が薄いスライスした面のように存在しているととらえている。

 いや、百歩譲ってすべてが「無」に帰結していくとしても、他者をなにがしかの形で幸せにした、あるいは、楽にしてあげられた、ということは、それ(無)さえも越えるほどの「意味」を感じさせる、としか言いようがない。


 だから、そのようなことができる意志、可能性がある間は、生きることに意味がないとは僕には思えない。
生きようという意志は、それ自体が最大の善意である、というような言葉を残したのはたしかベートーヴェンだったと思うが、音楽家としては致命的といわれる極度の難聴になり、一時は死をも考えた彼を支えたのは、このような想いであったのは、彼が遺した手記(ハイリゲンシュタットの遺書、遺書となずけられているが実際には彼の弟に送った手紙といったほうがいい)にもはっきりと現れている。


 現在手元に全文がないので載せられないのが残念だが、弟に残したこの手記の中で、彼に死を思いとどまらせたのは芸術と共に、このような他者への善意、愛である、人を幸福にするのは金銭ではない、というような言葉を彼はこの手記の中に残している。(彼の文章はもっと感動的な表現で書き表されている)

 

 


東照宮境内

 

 

 

 

 ただ、俺にはそんなことが生きる意欲につながらない、と思う人もいるかもしれない。そういう人には僕もスーツさんのようにじゃぁ……とは冗談である。
 個人的なことなのでここには詳しく書かないが、僕が「自分の」生きる意味を見つけ出せたのは、人生も後半になってからつい最近のことである。ここまで生きてこなければ見つけられなかったということである。


 それを見つけるにはそれまでの一見無意味に見える全体験が必要だった。途中で死んでいたらそれを見つけることはできなかっただろう。
それは思ってもいないところから、思ってもいない形で現れた。限りある人間の知恵では絶対に予測のできないことだった。

 

 

 

 

 

家康公の墓

 

 

 

 少々きつい表現になることはわかっているが、生きることに意味が見いだせないというだけの理由で死ぬ人というのは、人生の奥深さ、神秘性というものに対する謙虚さが足りないと思う。自分が見ている、或いは、わかっている世界がすべてではない、ということは知っておいた方がいいと思う。この世は普通の人間が思っているよりももっとはるかに多元的な世界である。

 

 生きようという意志を生み出すものはいろいろあるだろう。人間の様々な欲望の充足などはそのもっともよく言われるものだ。ただ、スーツさんにメッセージを送った人は、もうちょっと高尚な人であるらしく、すべてに終わりがあるのにそんなものはむなしいという。
 それではスーツさんの単純ではあるが真理の一面を見事についた結構鋭いアドバイスに素直に耳を傾けるか、もしくはそれすらも彼に生きる意味を与えないとすれば……

 

 

 

 

 


東照宮境内

 

 

 

 僕にはスーツさんのように厳しい言葉を投げかける勇気はない、ないが、甘い言葉も与えられない。
ある意味では死ぬより苦しいと思えるような言葉、つまり苦しくとも、むなしくとも、靴が擦り切れてはだしになりそこから血が噴き出してきてもこの世の道を歩いていきなさい、というよりほかはないかもしれない。

 

 というのも、生きる意味は、生き続けることによってしか見いだせないと僕は思うからだ。
僕はそうやって今まで歩いてきたし、これからもそうやって歩いていくほかはないと思っている。僕は僕の経験からしかものをいうことができない。
 ただ一つだけ確固としたことが言えるとすれば、それはベートヴェンがあの手記の中で述べているように、人間を最も強い力で支え、生かそうとする力は、「金銭」やそれに付随する名誉や栄達ではなく、善、善への意志であるということである。それは彼の作品、交響曲5番、7番や9番などに音楽として凝縮、顕現している。我々人類はどれだけこれらの作品に勇気づけられてきたか……そしてそのことをベートヴェン自身が知ったらどれだけ喜んだか。(もちろん知っているはずである)
 僕らは毎年末、何も考えることもなく交響曲9番を聴き流してはいけない。あの曲とハイリゲンシュタットの手記は、ベートーヴェンからわれわれ一人一人に与えられた非常に非常に大切なメッセージである。

 

 それと、生きる意味を考えるうえでどうしても我々が忘れてはならないのは、「永遠」という観点から俯瞰的に自分自身を見るということであろう。
僕が「霊的な俯瞰から」という記事にも書いたように、僕らは現世だけに生きているのではないということを忘れてはならない。
 とまたこのようなことを書くと、眉に唾を塗り始める人もいるかもしれないが、僕も単に書物から得た知識だけであれば、ここまで自信を持っては言えない。


 書けば長くなるので書かないが、ぼくも30代前半ぐらいまでは唯物論者だった。神や仏など本当にいるのか、と思っていた節がある。
しかし、そういう世界、存在が存在することを信じざるを得ない神秘的な体験を30代半ばからいくつかすることによって、これは信じざるを得ないなと思うようになった。


 それと、それをまるで傍証するように様々な世界の宗教書やサイキック(いわゆる超能力者)たちの著作を読んでいくうちに、時代も(数十年から数千年の違いがある)、文化的、歴史的な背景も、国籍も異なる人々が説いていることにまるで事前に示し合わせような『共通項』があるのを知るにつけ、これは信じる以外にない、論理的に考えれば考えるほど信じざるを得ないと考えるようになった。


 なので、スーツさんや彼に質問を寄せてきた人が思っているように、死んだらすべておしまいなのではなく、死んだ後も、生まれる前も、ずーっと永続する(してきた)存在であるということは、どうも間違いない。僕自身の実体験からも、世界的に名を遺す先達の言葉から推し量っても、そう考えなければすべてのつじつまが合わないのだ。


 つまり、狭い現世だけを見て自分の人生に意味があるかないか、などということを考えるのはナンセンスであるということである。
僕らが知り、そして、目指さなければならないのは、僕らの魂が存在する意味、目的なのである

ベートーヴェン交響曲第9番

 

 ハイリゲンシュタットの遺書の全文をようやくネット上で見つけた。
https://kazuhisakurumada.com/youtube/heilgenstadt-testament/
 この中で僕が最も大切だと思う部分を抜粋したい。

そして私が自分の人生を終わらせるまであとほんの少しであった。芸術だけ、芸術だけが私を引き止めてくれたのだ。』

『神よ!あなたには私の心の中が見えている。分かっておられる。そこには人類への愛と善行への愛着がある事をご存じのはずだ。』

『カールよ、お前には特に、ここ最近私に対して示してくれた態度に感謝したい。私の望みはお前たちが私よりも良く、心配のない人生を送る事だ。子供たちには美徳を教えるのだ。美徳だけが幸せにさせてくれる。決してお金ではないよ。これは私の経験から言っているものだ。私を惨めな生活から救ってくれたのがまさにそれだからだ。私の人生が自殺によって終わらなかったのは芸術と美徳のおかげなのだ。さようなら。互いに愛を忘れずに!』


 
 

コメント
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