気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

ただ淡々と

2017-03-06 14:03:08 | 日記
 2月には職場で初めて全体的な懇親会があった。
 最初、多忙から来る疲労から出席しないつもりだったが、2度ほど重ねて誘われたことから行くことにした。
今の責任者は基本的にこういうことが好きなタイプではないと云う事はわかっていて、そういう人がこういう会を主宰すると云う事は、やはり行かなければこの人の気持ちを無にすることになると思った。

 また、誰だかわからないが、この会を知らせるチラシをわざわざパソコンか何かで凝ったデザインで作った人もいて、そういうことをした人の気持ちも僕には響いていた。
 以前の僕なら自分の体調を考えて行かなかっただろう。ただ、人の気持ちというものを考えることを以前よりも大切に考えるようになった今は、やはり行かなければならないと思った。出るだけでも意味があると思った。

 実際この会に欠席した人はかなりいて、昔の僕ならやはり彼らと同じことをしたろうなと思った。
別に自慢話をするつもりは全くないが、僕はこの自分の心の動きを客観的に見て、自分の内的な変化を感じた。

 これと関連することだが、現在の人間関係もとても良好で、それはとりもなおさず自分の成長と深いかかわりがあることに気づいてはいた。
以前、僕が信仰する神のお言葉として、奇跡とは不治の病が治ったり、歩けない人が歩けるようになるような目に見えるものばかりではなく、ほんとうの奇跡とはそのひとの「ものの見方、考え方、つまり、魂の質、在り方が変わることだ」とおっしゃっていたことを思い出す。

 僕はここ数年の自分の変化を見て、これは奇跡が僕自身の中で生じたなと思わずにはいられない。
物の見方考え方(僕の心のあり方)が変わることによって、人間関係の状態が変わり、そのことがひいては僕の人生の質の変化につながっているからだ。
今の僕の日常は、以前と比べれば比較にならないほど安定している。もっというと、同僚たちと一緒に働くことが楽しいとさえ思うようになった。以前の僕なら、感情的に反発を感じるような苦手な人に接しても、あまり揺れなくなった。人を否定しなくなった。

 いいたとえかどうかわからないが、ビルの耐震設計で建物全体を支える基盤の部分を固定せずにわざとある程度揺れる構造にして、地震の揺れを吸収し倒壊を防ぐようにするものがあるというが、僕の心に起こった変化はこれとある意味似ているかもしれない。

 こうやって書くとありきたりのように見えるかもしれないが、これは一人の人間にとってモノクロ写真がカラー写真になるほどの変化である。
もっというと、僕は生まれ変わることなく、全く別の人生を生きるようになったと言い換えてもいい。それほどまでに、人間の自我の強さ、そこから来る独善性、自己中心さ、というものが、その人の成長の大きな障害になる。それがあるために、何度も何度もこの世に生まれ変わってこなければならないといわれる。
これを奇跡を言わずして何というか、だろう。

 今は自分を成長させてくれた神や人々に対して、感謝という言葉では表現しきれないほどのありがたさを感じている。
コメント
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