気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

永遠の地平へ

2021-11-23 00:29:09 | 音楽

Bruce (Xiaoyu) Liu - Tchaikovsky Competition 2019 Round 1

 

 

 ショパンコンクールの動画を見ていると、次から次へと右側のおすすめの動画欄にこのコンクールに参加していたピアニストの動画が出てくるので見ていると、あるひとりの演奏家の演奏が目に留まった。
 そう、かれはこのショパンコンクールで優勝したBruce Xiaoyu Liuである。

 優勝した彼だが、別にそうなったから言うのではなく、彼のショパンコンクールの動画を1本見てこれはすごい大器が出て来たもんだと思った。2位になった反田さんが10年に一人の逸材といわれているらしいが、このひとはたぶん3~40年に一人の逸材ではないかと僕は感じる。
 ショパンの演奏に関して言えば前回の記事で取り上げた小林愛美さんの解釈、演奏が僕は一番好きだ。

 でも、ピアニストとしての総合的、全体的な力量という点から言えば、僕はこの人はショパンコンクールの他の参加者と比較してもずば抜けていると感じる。
 音楽に関して専門的な勉強をしたことがない素人の僕でさえ感じるのだから、玄人中の玄人であるあのコンクールの審査員たちならたちどころにそれを見抜いたはずである。

 その彼がこの動画では冒頭にバッハを弾いている。
僕の好きなバッハを弾いているというので俄然注目して聴いた。

 まず思うのは、やはりこれはバッハの音楽である、ということ。
平均律クラヴィーア曲集の中の一曲だが、3分20秒から奏でられる音は、たとえば今まで聴いてきたショパンの音楽が外側に向かって拡がっていく音楽とすれば、このバッハの音楽は内側に向かって果てしなく拡がっていく。あらゆるきらびやかな音や装飾はほぼない。「原音」というのは僕の造語だが、あらゆる余計なものをそぎ落とした人間の魂の奥底から生まれたばかりの、たとえるなら山の奥深い源泉から湧き出たばかりの純度の極めて高い水のような音である。

 バッハの作品の中でもこの平均律クラヴィーア曲集はとりわけそうなのだが、1音1音が独特のしぶい、黒光りのするような「荘厳なつや」を持っていて、その音の醸し出す余韻の先がこの物質界をはるかに越えて、肉眼では見えない、なにか永遠の世界につながっているような……そんな感慨を催させる。

 この演奏に限らず、クラシック音楽の演奏を聴いていると、あぁ、この演奏家はたぶん今俺と同じものを(世界を)感じ、見ているんだろうなぁ…とおもう刹那がある。
 この曲を弾き終わった後、彼がしばらく音の余韻にひたる数秒間がある。どこか遠い目で何かを見ているようなまなざしをしている。あれはもちろん物理的な何かを見ているのではない。

 現世を超えた、その向こう側に拡がっている世界、あえて言葉にするなら永遠・Eternityを見ている…といっていい。
あぁ、この人も同じ世界を見ている……というこの感興、共感はちょっと言葉にできないほどの喜びをもたらしてくれる。
 この種の喜び、幸福感は、芸術の表現形態に様々なものがあるが、おそらくクラシック音楽(その中でもとくにバッハの音楽)の演奏からしか感じ取れないものではないかと思う。

 永遠というとほんとうに手あかのついた言葉のようになっていて、また、概念としては理解できても、とうぜん有限の世界に生きている僕らには体験することはできない。しかし、バッハの音楽だけはそれを体験させてくれる。有限の世界に居ながらにして、無限を感覚として体感させてくれる、その世界に誘ってくれる。

 それはやはり、この人の音楽が本質的に内側に、内的宇宙に向かっていく、内省的な音楽だからではないかと思う。
バッハの音楽を絵に喩えれば、それはもう他にはないといっていいぐらいふさわしい絵がある。それはレンブラントの絵である。
 自分の内側の宇宙に深く、深く、どこまでも入り込んでいく……

 音楽の本当の価値はその余韻が作り出す世界にあるといったのは芥川龍之介だが、バッハの音楽、そしてベートーベンのいくつかの作品はそのような聴き方、感じ方ができる数少ない音楽だろう。

 いま一度想像してもらいたい、感得してもらいたい、Bruce Liuさんのまなざしが見ている先の世界を…… 

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ショパンの宿りし人

2021-11-09 19:54:27 | 音楽

AIMI KOBAYASHI – third round (18th Chopin Competition, Warsaw)

 

 

 ちょうどポーランドでは5年に一度開かれるショパンコンクールが終わったばかりだ。
僕は音楽でも絵でも食わず嫌いで自分の好きな作曲家、演奏家、画家以外のものはあまり気に留めない悪癖がある。
ショパンも同じで、その醸し出す音が美しいのはある程度知ってはいたが、その美しさがあまりにも甘すぎて…たとえるなら砂糖を4杯ぐらい入れたコーヒーのような感じで…実はこの作曲家の音楽を聴くのを避けてきたところがある。


 ところがこのショパンコンクールではじめて集中して彼の音楽を聴き込んでみて、その考えがあまりにも表層的なものであったことを思い知らされた。
ショパンはもっと激しい、もっと暗い、もっと哀愁に満ちている、そして感情が奔放にほとばしる...ほとんど手が付けられないぐらいに。
ベートーベンも激しいが、ベートーベンは男性的な激しさである。それに対してショパンの激しさは...女性的といっていいのだろうか、とにかく切り裂くような激しさである。

 そして、今回ここまで聞き込んできていちばん思うのは、小さな作品一つにさえもなにがしかの「物語」が込められているということだ。非常に優れた劇作家のような、とにかくドラマがある。いうなら、作家的な作曲家というべきか。


 そしてそして、やはり彼の音楽をもっとも特徴づけるあの「高音域の美しさ」
それはこのビデオの33分16秒あたりから始まるPrelude D flat Major Op28 No15 通称「雨だれ」と呼ばれる曲に如実に表れている。
まるで白いレースか絹の布地が風に揺られているかのような、そしてそれがあまりにもこの世離れしていて人の手に触れるや否や粉々になってしまうかのような...
 
 そのような繊細さは彼女の弾くショパンの作品すべてにわたってみられるが、とくにこの曲での彼女の音の扱い方の繊細さが比類なく、他のどのピアニストもまねができない。なぜならこれは単なる技術的な問題ではないからだ。
 コメント欄でもそれを指摘する人が多くて、絶賛といってもいいほどの賛辞が散見され、ほかのだれでもなく彼女の弾くショパンをこれからもずっと聴いていきたいというものもあった。

 彼女は「1音1音をたいせつに弾いていきたい」と語っていたが、このことだろうと僕は感じた。彼女はこれらの作品(音)からショパンの魂の奥深くにある澄みきったなにかを感じ取り、それと彼女自身のもっとも深いところにある極めて純度の高いなにかが共鳴し、それがそのままショパンの音楽に誘われるようにして表出し、このような演奏へと結実したのであろう。

 Breathtaking and exquisite in every way. Aimi has already won this competition for me. As I mentioned on another performer’s video, while every major composer has a great range of expressive purposes, often one major over-arching idea or thread running through all their music (in Beethoven’s case, ‘struggle - personal and cosmic, and the relation between the two - leading to redemption’), and for Chopin, it’s a kind of unique synthesis of joy and sadness running through all his music, a wistful nostalgia and quest of salvation in a Poland of his dreams, that of his childhood, and the hope of a homeland restored, all of this, but emotionally this fusion or synthesis of sadness and joy permeating everything.
 
 While probably many or most of the musicians in this competition are onto all of this (this understanding of Chopin is mostly kind of obvious, verging on cliche), it’s what one does with all of this and how it’s processed that makes a Chopin interpretation, the pianist’s specific connection with such a journey and ability to convey it to the audience. To me, Aimi simply rises above all the rest in these respects. She’s the one I want guiding me through Chopin’s journey through joy and sorrow and hope. And it’s her playing that I can rely in when I need to hear Chopin’s message. There are many wonderful, stellar, performers in this competition, but ultimately I will choose, from among these, the musician that I feel speaking to me beyond the music, way beyond it. Aimi Kobayashi!!

Anon Ymousのコメント

 
 そしてショパンの天才はこの小さな作品の中にも、幸福から絶望、そしてふたたび光へと再帰していく物語を内包させていて、彼女はそれをしっかりと読み取り演奏として再現している。
 
 最後に圧巻なのはこの動画の最後に演奏した曲、53分ぐらいからながれるPrelude in D minor Op28 No.24である。
僕は今回初めてこの曲を聴いたのだが、素晴らしい傑作だと思った。このはげしさ、情念、そこに込められた劇的なドラマ...ある種の高貴な気品、気高さ、悲劇性...あたかも一人の人間の変転流生の一生をこの数分に閉じ込めたような作品。
 これを聴いてショパンに対するぼくの想いが大きく変わった。

 いまさらかよと思われるかもしれないが、この作曲家は決して軽く見られてはいけない。それどころかこれほどの優れたストーリテラーをほかに見つけるのは難しい。人類が存続する限り記憶され続けるだろう作曲家、芸術家だろうと感じる。


 この稀代の劇作家の作品を見事に上演して見せたこの稀代の女優、小林愛美さんの演奏は鬼気迫るほど迫真的で、僕はこの人ほど魂レベルでショパンを理解し感受している人はいないのではないかとさえ思った。感動などという月並みな言葉ではとても表現できないほど心が動かされた、今これを書いている間にも鳥肌が立ち、僕の中で何かがぐらぐらと揺れ動いている、正直、クラシック音楽を聴き始めてもう長いが、クラシックの演奏でこれほどの感銘を受けたのはこれが初めてである


 これも誰かがコメントの中に書いていたが、彼女こそ本物の正真正銘のショパン弾きである、そう感じた。
ショパンインスティテュートが出す一連の動画で、第三次予選までの動画に限って言えば、彼女の演奏がずば抜けて再生回数が多い。

これは協奏曲での演奏以外の独奏では、彼女の評価が最も高いことの表れであろうと僕は思っている。おもえば、ショパンコンクールともなれば、世界中の巨匠、歴史に残るような名演奏家、音楽教育家たちほぼすべて見ているといっていいだろう。
 
 とんでもない晴れ舞台である。そこで真価をいかんなく発揮しきった参加者たちすべてに拍手を送りたい!! 

 

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