気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

また「命なりけり」

2018-10-22 07:38:11 | 文学




 年たけてまた越ゆべしと思ひきや 
           命なりけりさやの中山              


 この歌は西行が東大寺再建の砂金を勧進する目的で東北へと旅立った時、難所で有名な掛川の小夜の中山を通過するときに読んだものだ。
このとき西行は69歳。彼は30代の時も同じ場所を通っている。
 40年近い年月が流れて、また難所といわれるこの場所に来た、あぁ、俺は生きているんだ…と思い、その年月の間に体験したことが走馬灯のように彼の心中で駆け巡っている、そういう刹那に詠んだ歌だろうと思う。

 この「命なりけり」という言葉に彼の全感慨がこもっている。
生きてきたんだなぁ、という思いと同時に、そう思っていられるのは今だけであり、明日もこの世にとどまっているという保証はない世界、そういう世界に彼は、そして僕らも生きている、そして、目の前に広がっている山河、これらも含めて全体が「命なり」という感慨。

 しかし、この「命なりけり」はうまい。

 当時の東北への旅といえば、今に喩えれば、さしずめアフリカかアマゾンの奥地へいくぐらいのものだったのではないか。
ようは生きて帰ってこれるという保証はない旅であった。
 そこへ寿命がこの当時なら40~50歳ぐらいといわれていたころ、69歳でそういうところに入っていったのだ……

 「死」というものが観念ではなく、それこそオブラート1枚先には存在している、そういう覚悟で旅を続けていたことだろう。
そのことはこの時代から数百年を経た芭蕉の時代でもほぼ変わりなく、彼のかいたものを読んでいると、明らかに死の覚悟というものが根底にあるのがわかる。


 昨日は恒例の湯河原へ行き、先祖に思いを伝えてきた。
ここからの相模湾の眺めが素晴らしく、僕は例年晴れの日を選んでいっている。
 そして丘の上からの眺めを見ながら、また年を越せた、とおもう。

 それにしても西行や芭蕉をあのような旅に突き動かしていたものは何だったのだろう。
西行の公的な動機の一つは勧進のため、芭蕉は…創作のためか…
 でも僕はおもう、彼らの旅は「死」にかぎりなく近づいていく旅ではあっても、まさにそれだからにこそ「生」に再び出会う旅だったのではないか。
 そのためには死に限りなく近づいていく必要があったのではないだろうか。
死に極限まで近づいて初めて見えてくるもの、そう、芥川の云った「末期の眼」でものを見るために。

 そうして見えてくるものは、生への執着か、それともそれを超えた世界か、現世への諦念か、それとも、現世全体への愛か
しかし、芥川は自裁することでかえって死から逃げた…ともいえる、それに対して、西行や芭蕉は死に向かって一歩一歩歩いていき、死の中に入っていった、いや、生死が織りなすえもいわれぬ綾の中に入っていきそれを見きっていった


 
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贅沢すぎる時間

2018-10-17 07:11:33 | 

 

真珠の首飾りの女






 

手紙を書く女






 

リュートを調弦する女




 上野ではフェルメール展が開催されている。
まずは今回来日した作品の中で僕が一番気に入っている3枚を載せてみた。

 この展示会はまず同時代のオランダ絵画を何点か展示して、そのあとフェルメールルームといわれるフェルメールの作品だけを納めた部屋を作りそこに全8点(もう一点は1月9日から展示)おかれていた。
 
 フェルメールルームに入って彼の作品を見始めると、やはり、その前に見た同時代のオランダ絵画とどうしても比較せざるを得なくなる。そうして感じるのはやはりいかにフェルメールの作品が傑出しているかということ。違いは否が応でも分かる。
 彼の死後約100年、フェルメールはほぼ忘れ去られていた。18世紀になってふたたび再評価され歴史の暗幕の中から浮かび上がってくるのだが、そうなるのはやはり必然だろうと思った。それほどまでに彼と他の画家たちの画家としての力量には歴然としすぎるほどの差がある。

 そうして不遜ながら正直に書かせていただくと、フェルメール自身の作品にも質の優劣が結構はっきりしていると感じた。
これは今回これだけの作品が一堂に並べられているのを見てこそ感じられたのだと思う。

 そして20年近い画家としてのキャリアがあるにもかかわらず、生涯わずか40点弱という寡作……
彼のあまりにも傑出した作品を見て「謎」といったのは、たしかプルーストだったと思ったが、今上にあげたことなどもまさに「謎」である。

 そしてプルーストではないが、彼の作品に表れているその際立った技量、同時代のみならず、西洋絵画の全歴史を通じてみても、比肩できるものが極めて極めて少数を除いてほぼいない、傑出して高いその作品の質。
 このどれをとってもまさにエニグマ、謎という言葉がこれほど当てはまる画家もないだろう。

 でも、たぶんそんなことはどうでもいいのかもしれない、このプルーストでさえ表現する言葉を持てなかったほど畏敬の念を抱いた作品群、あの光、それとあいまって絵画そのものが醸し出す「ある超越した精神的領域、世界」…それに心深くひたることに比べれば、「知識」などはどうでもいいことになる。
 だから、ぼくはフェルメールの作品を見るときだけでなく、ほかのどの美術展に行っても音声ガイドは聞かない。もしそういうものを聞くと、それに気を取られて「感じとる」ことができなくなるからだ。

 最後に一つだけ思ったのは、名画というのはいっぺんにたくさん見ないほうがいいということだ。
少なくとも僕はそう思った。それはもしかしたら僕の感受力に限界があるからかもしれない。あるいは、僕だけではなく人間一般の普遍的なものなのかもしれない、あるいはその時の僕の精神状態にもよるのかもしれない。
 いずれにしても、はるか海の向こうからくる大傑作を何か月も前から楽しみにして、ほかのそれと比べれば「平凡な」作品群をかいくぐるようにしてようやくあこがれの傑作1~2点をみつけてみるほうがいいような気がする。

 まぁ、これは蛇足かもしれない。
感謝、感謝、このような体験ができる環境に自分がいたことに、ただただ感謝である。



 

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休日を過ごしながら

2018-10-08 20:17:42 | 日記



 休日を過ごしながら、今後の自分の写真の方向性を探っている。
いろいろ外国の写真家のユーチューバーの映像を見ているのだが、そのどれも海外の風景らしく雄大で人間の手がほぼほぼ入ってなく、とにかくあのような景色は日本では北海道と東北の一部にしかないだろう。

 今までは神社仏閣の写真を撮ってきたが、そろそろそれもマンネリ化してきたことも確か。
それで東京の建物の写真を撮ってみたのだが、やはり僕には無機物の写真はどうにもとっていて満足感がない。
じゃぁ、町の人々の写真を撮ってみようかと一瞬思うのだが、人間の写真は難しい。

 それじゃ、何があるのか?いまだに答えを探っている…
雄大な風景を撮るのが環境的に無理なら、では反対に極小の風景を撮るのもいいかな、というか、それしかないのかなと思い始めている。

 ただ、いずれにしても楽しむということが一番大事なので、僕にとってのプライオリティー(優先度)はつねに「それをやっていて楽しいかどうか」である。






 というわけで、昨日は鎌倉の東慶寺の墓地を訪れ、今日は谷中の墓地を訪れた。
東慶寺の墓地はさすがに歴史が古いだけあって、数百年の時の流れが堆積した蒼古とした森の中にあり、一言素晴らしいに尽きた。
少なくともその美しさでは関東一の墓地ではないかと思う。

 写真を撮っているとその地を管理している植木職人だろう人に話しかけられた。
人間性の良さはすぐに感じ取れた。最近ちょっとストレスがたまっていたので、この人との会話には救われた。
人に傷つけられ人に救われる、まさに人生である。

 その人のおかげでもともと気分がよかったのがさらに良くなり、この日は本当に楽しく撮影をすることができた。
この経験から墓場をとるのもいいな、と思い、今日、谷中霊園に出かけてみた。

 この近辺は東京暮らしが長い僕も、つい最近通い始めた場所である。
漱石の小説にも頻繁に出てくる地域で、東京では「明治・大正」の香りを濃厚に残している数少ない地域である。

 この墓地を歩いていてよく目についたのは、明治大正期に亡くなった人々の墓が多いせいか「従二位なんとか」とか「勲何等」とか大仰に大きな墓石に掘った墓だ。
 こういうのを見ていると、鴎外が遺言状に自分の墓には官位、勲等、生前の官職等いかなるものも彫るべからず、ただ森林太郎(鴎外の本名)だけにしてくれ、と言い残した気持ちがよくわかる。

 その中でひとつ印象に残った墓があった。
それは徳川慶喜公の墓だ。
 それは墓石がなく、墳墓のようなものだった。

 たまたまそこで説明をしていた人によれば、これは神道式の墓だそうだ。
僕はそれを見て、彼があれほど簡単に政権を朝廷に譲ったことの理由の一端を見せられたような気がした。
そのこと(理由)は、司馬遼太郎のエッセイで知ってはいたのだが、それを実際に視覚的に見せられるとあらためてなるほどと納得する思いになった。

 それと、墓所の前にあった説明書きを見ているとひとつ気になることが書いてあった。
それは残念ながら正確には覚えていないのだが、慶喜は明治になってから、徳川宗家とはべつにわかれて独立した、云々というものである。
それが正確に何を意味するのかわからないが、「僕の想像では」おそらく、慶喜はあまりにも簡単に政権を返上したために、他の徳川家の親戚縁者たちとある種の確執が生まれ、また(こちらのほうがよりありがちだが)、朝敵になったということで親類縁者たちが手のひらを返したように彼に背を向け始めたことに対する彼なりの意趣返しなのではないか…とふと感じた。





 というのも、そこで説明していた人の話では、何年か前に亡くなった慶喜の曾孫には後継者がおらず、もうじきほかの徳川家の仏教式の墓に遺骨が移される、とか何とか云っていた。
 あの時代の人にとって、徳川家歴代の将軍たちと別の墓に、しかも別の形式(神道式)で埋葬されるということは、ある意味異常なことである。

 僕はこれらのことから、慶喜の「意地」のようなものをわずかに感じた。
ただし、これは少ない情報から僕が感じ取った歴史好きの推理あそびのようなものであり、真実はもちろんわからない。

 その説明していた人の口調、声色から、慶喜が江戸城を無血開城したことが悔しくてたまらないという印象を受けた。
まぁ、気持ちはわからないでもないが、時代はああならざるを得なかったのであり、多数派であった交戦論を主張した家臣たちを退けて、勝海舟をとりたてて無血開城に踏み切ったのは史上まれにみる英断といっていいだろう。
 なによりも、必要のない戦争を避けたことで、多くの無辜の江戸市民たちの血が流れずに済んだのだから。

 それにしても血気盛んな主戦派を抑えきった勝の手腕の見事さには敬意さえ覚える。
いかに将軍のバックアップがあったとはいえ、それはほぼ不可能に近い仕事だっただろう。
彼が暗殺されずに明治を迎えたのは奇跡に近い。
 徳川慶喜、勝海舟、そして、西郷隆盛、この三人が、歴史上あの時代、あの立場に配置されていなければ絶対に出来なかったことだろうと思う。

 そして仮に、その説明していた人の望み通りに、幕府がフランスの軍事援助を受けて軍を近代化することに成功して、幕府が官軍に勝つことができたとしても、西欧諸国に対抗するために幕藩体制は終わらせなければならないことは、慶喜はもちろん勝や小栗などをはじめとした当時の一部の優秀な幕府中枢の人々もわかっていた。
 だから、明治維新が起こっていた場合と比べて、その近代化のスピードが少しスローになっただけで、時間は余計にかかったとしても、その後の日本は明治政府が目指した方向に進んでいったことだろう。

 そして、なによりもかによりも、幕府が終焉を迎えることで日本の近代化が成功したわけで、勝や慶喜の頭にあったのはもはや幕府の命運などではなく、「日本」の命運だった。そこが主戦派と開城派の本質的な違いだった。

 であるから、あの時、官軍と一戦交えることは、歴史を俯瞰的にみればまるっきり無駄、無益な戦いだった。
そういう意味では、西郷はわからないが、勝と勝を抜擢した慶喜の慧眼は、まさに時代の先を見通していたといえる。
慧眼の士という言葉があるが、この言葉がこれほどぴったりと当てはまる人々もそう多くはないだろう。

 ただし、慶喜にも勝にも、いや、その他のいかなる慧眼の士たちにも見通せないことがあった。
それは彼らが命を懸けて、あるいは文字通り命を投げ出して創りあげた国家を、その数十年後まさにその国民自身の手によって、世界中を相手に自殺的な戦争を仕掛けていき、滅ぼしてしまったことである。
 



 





 
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